翌朝。
チュンチュン、という小鳥のさえずりが、鼓膜を優しく撫でる。
佐伯邸から略奪してきた高級羽毛布団は、まるで雲の上にいるかのような寝心地だった。
適度な弾力、滑らかな肌触り、そしてほのかな柔軟剤の香り*1。
ああ、幸せだ。これが文明だ。これが人権だ。
私はまどろみの中で、二度寝の誘惑に身を委ねようとした。
「……んぅ……重い……」
だが、何かがおかしい。
胸が苦しい。息がしにくい。
金縛りか? いや、金縛りにしては温かいし、何より「物理的な質量」を感じる。
新手の怪異かと思って恐る恐る目を開けると、そこにはドクロのようなハイライトを宿した大きな瞳が、至近距離で私を見下ろしていた。
「……おはよ」
「うわぁぁぁぁ!! ギャァァァァァ!!」
私は魂が口から飛び出るごとき悲鳴を上げて飛び起きた。
心拍数が一瞬でレッドゾーンに突入する。
寶月夜宵だ。この最恐小学生、あろうことか私の聖域の中に潜り込んで寝てやがった。
しかも、その手にはあのボロボロで不気味なぬいぐるみが抱かれている。朝から見るもんじゃない!
(心臓止まるかと思った! これ寝起きドッキリなら放送コード引っかかってるよ!)
(ていうか、ここ押し入れの中*2なんだけど! いつ入ってきたの!? セキュリティ*3は何してたのよ!)
私がゼェゼェと息を切らしてパニックに陥っていると、襖がスッと上品に開いた。
そこには、割烹着姿のみこが、湯気の立つお盆を持って立っていた。
後光が差して見える。
「あ、霊夢さん、夜宵ちゃん、おはようございます。朝ごはん、できましたよ」
みこちゃん、順応早すぎない?
まだ出会ってまだそんなに経ってないよね? 完全にこのシェアハウスの「オカン」ポジションに収まっている。
彼女の背後では、俊雄が配膳を手伝い*4、伽椰子が四つん這いで廊下の雑巾がけをしている。
……平和だ。
絵面は完全に地獄絵図だけど、漂う空気感だけは日曜夕方の『サザエさん』の磯野家みたいだ。
私たちはちゃぶ台を囲み、朝食を食べ始めた。
メニューは、みこが買ってきてくれたコンビニおにぎりと、インスタントの味噌汁。
質素だが、今の私には三ツ星レストランのフルコースよりも輝いて見える。
夜宵は無表情でもぐもぐと鮭おにぎりを頬張り、リスのように頬を膨らませている。
可愛い。食べている時だけは、ただの小学生に見える。
しかし、食べ終わると同時にお茶をズズッと啜り、その空気が一変した。
彼女は湯呑みを置き、まるで今日の天気を話すような軽さで言った。
「霊夢。……食後の運動、しよう」
「は? ラジオ体操? それとも伽椰子とヨガ?」
「ううん。……『実験』」
夜宵がランドセルから取り出したのは、縄で雁字搦めにされた、赤黒いシミだらけの小さな木箱だった。
見た瞬間に分かる。これはヤバいやつだ。
箱の隙間から、どす黒い瘴気がゆらゆらと漏れ出し、周囲の空間を歪ませている。
味噌汁の湯気が、不自然な形にねじ曲がった。
(ヒッ……! 出た、特級危険物!)
(それ絶対開けちゃダメなやつでしょ! パンドラの箱よりタチが悪いって! 封印の札、半分剥がれかけてない!?)
私のオタクセンサーが「死」を感知して最大音量で警報を鳴らす。
だが、夜宵は楽しそうに箱を撫でた。愛おしそうに、まるでペットを撫でるように。
「この子の強さは確認済み。……でも、霊夢の強さはまだ測りきれてない」
彼女の瞳孔が開き、ドクロのハイライトが妖しく揺らめく。
「見せて。あなたの『本気』」
「はぁ? 嫌よ。断固拒否するわ」
私は即答で拒否した。
当たり前だ。
せっかく綺麗に掃除したばかりの神社を、怪獣大決戦のリングにされてたまるか。
壁が壊れたら? 床が抜けたら? 修繕費は誰が出すんだ。保険なんて効かないぞ。
しかし、夜宵は懐から「茶封筒」を取り出し、テーブルの上にドンと置いた。
分厚い。
その口から、福沢諭吉の肖像画がチラリと覗いている。
「……勝ったら、これあげる。追加報酬」
チラリと見えた諭吉の束。
(……ごくり)
私の喉が、下品な音を立てて鳴った。
あれがあれば、エアコンが買える。冷蔵庫が買える。最新のゲーミングPCとVRヘッドセットだって夢じゃない。
課金も天井まで回せる。
私の脳内で、天使の私と悪魔の私が会議を始め──0.5秒で悪魔が全会一致で勝利した。
資本主義の犬である私は、プライドとリスクを天秤にかけ、
「いいわ。やってやろうじゃないの」
夜宵がニヤリと笑う。
その笑顔は、純粋な好奇心と、底知れぬ狂気に満ちていた。
みこが「ちょ、ちょっと二人とも!? 本気ですか!? ここ神社ですよ!?」と真っ青になって止めに入るが、もう遅い。
私の目には、諭吉の肖像画しか映っていなかった。
「でもね、管理職が現場に出るなんてナンセンスよ。伽椰子! 美々子! 休憩終わり! お客様の相手をしてあげなさい!」
指名された二大怨霊が、嫌々ながらも私の前に整列する。
対する夜宵は、少し不満そうに唇を尖らせたが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。
「……ふーん。じゃあ、まずは『前座』から壊すね」
夜宵が箱の封印を解き放つ。
箱が開いた瞬間、爆発的な瘴気が境内に溢れ出した。
現れたのは、首のない武者鎧の霊。
錆びついた日本刀を引きずり、その身体からは血のような黒い霧が噴き出している。
(うわ、ガチだ。これガチのやつだ)
(Jホラーvsダークギャザリング……! 夢のドリームマッチ開幕ってか!? 私の神社が聖地になっちゃう!)
私の興奮と恐怖がないまぜになる中、戦いの火蓋が切られた。
「──殺れ」
夜宵が短く、そして無機質に命じる。
それは少女の声とは思えないほど冷たく、まるで実験動物の処分を決める研究者の響きだった。
瞬間、空気が爆ぜた。
武者霊が獣のような咆哮を上げ、重戦車のごとき質量で突っ込んでくる。
ドォォォンッ!
踏み込み一発で境内の石畳がクモの巣状にひび割れる。
速いなんてもんじゃない。鎧の重さを微塵も感じさせない、砲弾のような突進だ。
「ッ……! ア゛ア゛ア゛ア゛ッ!!」
迎え撃つ伽椰子が、喉の奥から威嚇音を鳴らし、無数の黒髪を槍のように変形させて突き出す。
物理法則を無視した全方位攻撃。普通の悪霊ならこれで串刺しになって終わりだ。
だが──。
ズバンッ!!
武者霊は止まらない。
錆びついた刀を一閃させただけで、伽椰子の髪の毛が紙屑のように斬り裂かれ、宙を舞う。
怨念そのものを断ち切る一撃。
その余波だけで衝撃波が発生し、美々子が悲鳴を上げて吹き飛ばされた。
「なっ……!?」
嘘でしょ? うちのツートップだぞ?
美々子が慌てて懐から包丁を取り出し、特有の甲高い着信音と共に呪いを飛ばそうとするが、武者霊は意にも介さない。
呪いが届くより速く、間合いを詰められている。
ガギィィィン!!
美々子の包丁が、武者霊の籠手に弾かれた。
刃こぼれどころか、包丁そのものがひしゃげ、火花が散る。
純粋な「暴力」の格が違うのだ。
『ゴォォォォォ……!』
武者霊が空っぽの兜の奥から唸り声を上げ、二の太刀を振り上げる。
伽椰子が咄嗟に空間を歪めて回避しようとするが、遅い。
武者霊の膂力は、異空間への逃げ道すらねじ伏せるほど圧倒的だった。
ドゴォォッ!!
鈍い音が響き、伽椰子の体がサッカーボールのように蹴り飛ばされた。
賽銭箱に激突し、木っ端微塵に粉砕する。
美々子に至っては、腰を抜かしてガタガタと震え、涙目で私の方を見ている。
(えっ、強すぎない!? なにこれバグ!?)
うちのスタッフも、そこら辺の除霊師なら裸足で逃げ出すクラスの怨霊のはずだ。
それが、赤子の手を捻るようにあしらわれている。
単純な霊力の総量が桁違いだ。あれは「怨念」の塊というより、数百年分の戦場で練り上げられた「殺意」の結晶。災害そのものだ。
伽椰子がピクピクと痙攣し、再生しようとしているが、斬られた箇所から黒い霧が侵食し、回復を阻害している。
完敗だ。ぐうの音も出ないほどに。
「……弱い」
夜宵がつまらなそうに呟いた。
その声には、嘲笑も侮蔑もない。ただ事実を述べるだけの、残酷なまでの淡白さがあった。
彼女は冷めた目で、まず敗北した伽椰子たちを一瞥し、そしてゆっくりと視線を私に移した。
ドクロの瞳孔が、値踏みするように私を射抜く。
「手持ちがこの程度なら、主人もたかが知れてる。……期待外れ」
彼女は興味を失ったように、ランドセルに手をかけた。
もう用はない、と言わんばかりに。
──ピキッ。
私のこめかみで、何かが切れる音がした。
血管ではない。もっと大事な、私の精神的支柱を支える何かが。
期待外れ?
たかが知れてる?
この私が?
……いや、違う。「私」じゃない。
彼女は、この姿「博麗霊夢」を見て、「たいしたことない」と言ったのだ。
中身の私が馬鹿にされるのは慣れっこだ。社畜時代に散々味わった。
だが、私の最推し「博麗霊夢」が、私の不甲斐なさのせいで「弱い」と断じられることだけは──オタクの魂にかけて、絶対に許容できない。
たとえ紛い物だろうと、最強の巫女のガワを被っている以上、ナメられることは許されないのだ。
(……上等じゃないの)
体温が一気に下がるのを感じた。怒りで頭が熱くなるどころか、逆に冷え切っていく。
私は飲み干した湯呑みを、カツンと音を立ててちゃぶ台に置いた。
深いため息が漏れる。ああ、面倒くさい。本当に面倒くさい。
こんな朝っぱらから、汗をかくのも、服を汚すのも嫌だ。
でも──ナメられたまま終わるほど、私は落ちぶれちゃいないし、枯れてもいない。
私のプライドは、賽銭箱よりも安くはないのだ。
「……みこ。そこ退いてなさい」
「えっ!? あ、はいっ!」
私の声のトーンが、極めて静かなものへと変わったのを察したのだろうか。
みこが弾かれたように後退り、柱の陰に隠れる。顔が青ざめている。
賢明な判断だ。彼女の「見える目」には映ってしまったのかもしれない。これから私が振るう力が、巻き込まれたら塵も残らない種類の理不尽さであることが。
私はゆっくりと立ち上がり、埃を払うように巫女装束の袖をまくり上げた。
シュッ、と布が擦れる音が、静寂の中に響く。
お札は取り出さない。道具に頼るまでもない。
私は丹田に力を込め、体内の霊力を循環させ──そして、それを皮膚の表面に「膜」として纏わせた。
その瞬間、境内の空気がビリビリと振動した。
視界がクリアになる。聴覚が研ぎ澄まされる。
物理的な身体能力が、霊力によるブーストで限界突破する感覚。
私の身体から立ち上る、不可視の、しかし強烈なプレッシャーが、空間を支配していく。
あれほど暴れ回っていた武者霊が、ピタリと動きを止めた。
空っぽの兜が、小刻みに震えているのが分かる。錆びついた鎧が、カチカチと恐怖を奏でている。
怨念に支配された亡者であろうと、生物としての根源的な本能が告げているのだ。
──逃げろ。逃げなければ、砕かれる、と。
「……調子に乗るんじゃないわよ、三流悪霊」
私が吐き捨てた言葉は、重い質量を持って武者霊を打ち据えた。
それだけで、巨大な霊体が一歩、後ずさる。
「『夢想封印』? そんな高級な技、あんたにはもったいないわ」
私は右の拳を軽く握りしめた。
パチッ、と霊力のスパークが指の間で弾ける。
「私のストレス解消に付き合いなさい」
ドンッ!!
踏み込み一発。
それだけで、私が立っていた場所の石畳が爆ぜた。
残像すら残さない加速。音速を超えた突進。
武者霊が反応する暇などない。
錆びついた刀を振り上げるよりも速く、私は奴の懐に潜り込んでいた。
「せいっ!!」
ドォォォォォンッ!!!!
私の掌底が、武者霊の土手っ腹に突き刺さる。
衝撃が背中へと突き抜け、背後の空間がドーナツ状に歪んだ。
鎧が、飴細工のように砕け散る。
数百年の怨念で強化されたはずの霊体が、くの字に折れ曲がり、砲弾のように吹き飛んだ。
ズザザザザザッ!!
武者霊は地面を削りながら数メートル滑り、鳥居の柱に激突してようやく止まった。
鎧はボロボロに砕け、手放した刀は遠くへ弾き飛ばされている。
黒い霧のような体液を撒き散らし、ピクピクと痙攣しているが──消滅はしていない。
「……あー、すっきりした」
私はパンパンと手を払い、袖を元に戻しながら、虫の息になっている武者霊を見下ろした。
霊力を精密にコントロールし、あえて「核」を避けて衝撃だけを叩き込んだのだ。
消すのは簡単だが、それでは夜宵の「コレクション」が減ってしまう。
あくまで、躾の範囲内だ。
私は固まっている夜宵に向かって、営業用ではない、捕食者の笑みをニッコリと向ける。
「手加減してあげたわよ」
私はドヤ顔で言い放ち、テーブルの上の封筒を光の速さで回収した。
私がホクホク顔で懐に封筒をねじ込む一方、夜宵は微動だにしていなかった。
彼女は目を限界まで見開き、ボロ雑巾のように地面に転がり痙攣している武者霊と、涼しい顔で立っている私を、まるでバグった機械のように交互に見ていた。
「……ありえない」
夜宵がうわごとのように漏らす。
「霊媒体質でもない。憑依でもない。……純粋なエネルギーの奔流。私の『卒業生』たちですら、物理干渉でここまで一方的に蹂躙することはできない……」
ブツブツと早口で何かを呟きながら、彼女の瞳がキラキラと、狂気的な輝きを帯びていく。
それは恐怖ではない。純粋で、無垢で、そして底なしの沼のような「渇望」。
「……すごい」
彼女は弾丸のように駆け寄ってくると、私の手を両手でギュッと握りしめた。
その手は熱く、震えていた。
「霊夢、欲しい。……あなた、私の『最高傑作』になる。最強の神殺しの武器になる。絶対になる」
「ならないわよ! 人を素材扱いするな!」
私の渾身のツッコミが、朝の澄んだ神社に響き渡る。
だが、夜宵は聞く耳持たずといった様子で、うっとりと私を見つめ続けている。まるでショーケースの中の非売品を見つけたコレクターのように。
まったく、とんでもない子供に懐かれてしまったものだ。
私はやれやれと深い溜息を吐き、これ以上の「実験」を阻止するため、散らかった境内の掃除を早急に指示するのだった*5。