現代怪異社会の博麗霊夢(偽)   作:拓拓

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第18話

 博麗神社に、つかの間の平和が訪れていた。

 夕暮れ時。

 私は縁側で、みこが淹れてくれたお茶をすすりながら、スマホの画面をチェックしていた。

 

「再生数、順調に伸びてるわね。アンチコメントも減らないけど、それも養分よ」

「霊夢さん、メンタル強すぎです……。私、掲示板見るだけで胃が痛いのに……」

 

 みこがげっそりしている。

 彼女は私の「広報担当」として、日夜エゴサとアンチ対策に励んでくれているのだ。感謝しかない。

 

 庭では、夜宵が美々子と俊雄を並べて「悪霊のポージング指導」を行っている。

 伽椰子は洗濯物を取り込み、貞子はテレビの中でニュースを見ている。

 完全に、異常な日常が完成していた。

 

 その時だった。

 境内の空気が、ふわりと変わった気がした。

 夕暮れの風に乗って、今までこの場所にはなかった「整然とした」気配が漂ってきたのだ。

 

 カツ、カツ、カツ。

 

 神社の長い石段を、規則正しい足音で登ってくる者がいた。

 コンクリートやアスファルトを歩くのに慣れた、革靴の硬質な音。

 これまでの来訪者とは違う、迷いも乱れもない、大人の足音。

 それも、ただの大人じゃない。「仕事」の空気を纏った、プロフェッショナルの足音だ。

 

 私はスマホを置き、身構えた。

 鳥居の下に現れたのは、長身の男だった。

 夕日を背に受けて伸びる影が、私の方へと長く落ちる。

 

 仕立ての良いベージュのスーツに、きっちりと分けた七三分けの金髪。

 目元を隠すような、特徴的な形状のゴーグル。

 その手には、呪具らしきナタ……ではなく、高そうなベーカリーのロゴが入った紙袋が提げられている。

 

「……おや。先客……というより、住人ですか」

 

 男は足を止め、無感情に近い声で呟いた。

 その声を聞いた瞬間、私の心臓が早鐘を打ち、思考回路がショートした。

 

(…………ッッ!!?)

 

 私は口に含んだお茶を、危うく盛大に噴き出しそうになった。

 知ってる。知ってるどころの話じゃない。

 あの洗練された立ち姿、あのクールで厭世的な佇まい、そして全身から滲み出る「脱サラ」のオーラ。

 週刊少年ジャンプが生んだ至高のサラリーマン呪術師、『呪術廻戦』の一級呪術師、七海建人(ななみ けんと)だ!

 

(ナナミンンンンンン!! 本物だ! ガチのナナミンだ!)

(え、待って、声! 脳内で勝手に津田健次郎ボイスが再生されてると思ったら、ご本人様の声帯から発せられてるんですけど! イケボすぎて鼓膜が妊娠する!)

 

 私の限界オタクとしての血が沸騰し、脳内で黄色い悲鳴がこだまする。

 サイン欲しい。握手したい。なんなら「労働はクソです」って生で言われたい。

 だが、同時に背筋が凍るような、ピリリとした緊張感も走った。

 

 彼がここにいる理由。それは一つしかない。

 私の動画がバズりすぎた結果、『呪術高専』の「窓」に目をつけられたのだ。

 つまり、彼は私を「未登録の呪術師」か、あるいは人間社会に害をなす「特級呪霊」として、査定又は祓いに来たのだ。

 

 七海はゴーグルの奥の瞳で、境内を冷静に、かつ迅速にスキャンしている。

 事務的に、しかし油断なく。

 その視線が、私の「従業員」たちを捉える。

 

 縁側で洗濯物を畳む、血まみれの伽椰子。

 庭で包丁を研いでいる、赤い着物の美々子。

 テレビ画面から半身を乗り出し、天気予報を見ている貞子。

 そして、それらを統率するように縁側に座る、小学生。

 

 普通の人間なら発狂して逃げ出す光景だ。ぬ~べ~先生ですら絶句した地獄絵図だ。

 しかし、七海は眉一つ動かさず、ただ静かに事実を確認していく。

 

「……報告以上ですね。これほどの数の特級仮想怨霊が、現界して生活を営んでいるとは」

 

 七海はそこまで言うと、懐からスマートフォンを取り出し、地図アプリを確認しながら怪訝そうに眉をひそめた。

 

「それに、この場所……」

 

 彼は視線をスマホから外し、広大な神社の境内と、その向こうに広がる森を見渡した。

 

「新宿区のど真ん中、地価にして数十億は下らないこの一等地に、これほどの『空白地帯』が存在している。地図にも載らず、衛星写真にも映らない」

 

 七海の声に、警戒の色が混じる。

 

「GPSの信号も途絶えている。……ただの結界による認識阻害ではありませんね。空間そのものが世界からズレている、あるいは『隔離』されている。……現代社会において、これほどの特異点が放置されていたとは」

 

 七海が小さくため息をつき、左腕の腕時計を確認した。

 彼は心底嫌そうに、眉間に深いシワを寄せた。

 仕事をしたくないオーラが凄い。

 世界の危機よりも自分の定時退社を優先したいという、労働者の鑑のような精神。

 親近感が湧くと同時に、この男が「仕事」と割り切った時の冷徹な強さを知っているだけに、恐怖が増す。

 

「あの……どちら様でしょうか?」

 

 みこが恐る恐る、震える声で尋ねる。

 彼女には見えているはずだ。この男から立ち昇る、青黒く静謐な呪力の揺らぎが。

 七海は視線を私とみこに戻し、淡々と、事務的に名乗った。

 

「所属は東京都立呪術高等専門学校。……名前は、そうですね。ここではただ『七海』と名乗っておきましょう。名刺を渡すほどの関係になるとも思えませんし」

 

 冷たい。だが、それがいい。

 大人としての線引き。プロとしての距離感。

 

「呪術……高専……?」

 

 みこが首を傾げる。

 私の心臓はさらに跳ねた。「高専」というワードが、この世界における彼らの組織の実在を確定させたからだ。

 つまり、私がここでヘマをすれば、五条悟が飛んでくる可能性すらあるということだ。

 

「単刀直入に伺います。そこの少女。……君は、何者ですか?」

 

 七海が中指でゴーグルの位置を直し、その奥の鋭い双眸で私を射抜いた。

 言葉の端々に、「術師か、呪詛師か、あるいは理性を獲得した呪霊か」と品定めする響きが含まれている。

 

 重力が増したかのようなプレッシャー。

 一級呪術師の放つ呪力による威圧感だ。

 並の術師なら腰を抜かし、一般人なら泡を吹いて失神するレベルの圧が、物理的な風圧となって肌を叩く。

 私の「クリティカルヒットが出る弱点」を、視線だけで探られているような不快感。

 

 だが、私には通じない。

 足が震えることも、言葉に詰まることもない。

 なぜなら。

 今の私の全神経は、彼の呪力でも、その整ったルックスでもなく

 

 ――彼が左手に提げている「紙袋」に一点集中で注がれているからだ。

 

 あの細長いバゲットの形状。

 クラフト紙の隙間から漂ってくる、香ばしく焼き上がった小麦の芳醇な香り。

 そして、その奥に潜む、上質なハムのスモーキーな匂いと、濃厚なチーズ、そしてたっぷりのバターの香り。

 

 間違いない。

 彼の大好物であり、行きつけのパン屋でしか買えない至高の逸品、カスクートだ。

 しかも、あのロゴは……行列必須の有名店『VIRON(ヴィロン)』のお高いやつだ!

 

(……美味そう)

(嘘でしょ、この神社の近くに『VIRON』のカスクートが降臨したっていうの!?)

 

 私の胃袋が、キュウッと悲鳴を上げる。

 夕飯前でお腹はペコペコだ。ここ数日、まともな「焼きたてのパン」なんて口にしていない。

 そのバゲットの硬い皮をバリッとかじりたい。

 ジュワッと広がる上質な脂を、舌の上で転がしたい。

 食欲という名の原初的な本能が、恐怖という理性を完全に凌駕した。

 

(祓われるかもしれない? 知ったことか! 今、目の前に、世界一美味そうなパンがあるのよ!)

 

 私はスッと立ち上がった。

 その動作は、歴戦の武人が刀の柄に手をかけるように滑らかで、そして迷いがなかった。

 私はお祓い棒を構えるフリをして、ビシッとその紙袋を指差した。

 

「……博麗神社の巫女、霊夢よ。用件は?」

 

 口元から垂れそうになる涎を必死に飲み込み、私は最大限にクールな声を装った。

 

「調査です。君が登録すべき術師なのか、それとも祓うべき対象なのか。……そして、この異常な空間が一般社会に及ぼす危険性を査定しに来ました」

 

 七海が左手でネクタイを緩め、右手をだらりと下げる。

 臨戦態勢だ。十劃呪法(とおかくじゅほう)が来る。

 7:3の弱点を作り出し、強制的にクリティカルヒットを叩き込む必殺の術式。

 ヤバい。ガチでやり合ったら、私の神社が更地になる。瓦礫の山になる。

 

「待ちなさい。……話せばわかるわ」

 

 私は一歩踏み出し、彼の帰路を塞ぐように立ちはだかった。

 ここで逃がしてなるものか。相手は一級呪術師だが、今の私には背に腹は代えられない切実な事情がある。

 

「ここは私の家よ。彼らは私の従業員よ。誰にも迷惑はかけてないわ。健全なシェアハウスよ」

「迷惑? ……近隣から『夜な夜な絶叫が聞こえる』『爆発音がする』『異臭騒ぎがする』との通報が、窓口に殺到しています」

 

 七海は淡々と、しかし逃げ場のない事実を突きつけてきた。

 

「それに、付近の地下街で壁が破壊されたという報告もあります。監視カメラには、紅白の服を着た少女が映っていたそうですが?」

 

 うっ。心当たりがありすぎる。

 主に8番出口の壁を破壊した時の爆音とか、貞子をしばいた時の悲鳴とか、夜宵ちゃんが持ち込んだ悪霊の腐臭とか。

 全部バレてる。さすが「窓」、仕事が早い。

 

「それは……リフォームの騒音よ。あと、ちょっとしたアロマテラピーの一種」

「嘘ですね。……まあいいでしょう」

 

 七海は私の言い訳を聞き流し、再び腕時計を見た。

 針は17時20分を回っている。

 彼は深く、それはもう深いため息をついた。その疲労感は、数多の修羅場をくぐり抜けてきたサラリーマンのものだ。

 

「今日はあくまで『調査』です。これ以上の介入は、労働時間の規定に反しますし、残業代の申請も面倒だ。上層部への報告書作成もありますしね。……私は残業は嫌いなのでね」

 

 彼はきっぱりと言い切り、踵を返そうとした。

 帰る気だ。

 見逃してくれるなら、それに越したことはない。本来なら、胸を撫で下ろして見送るべき場面だ。

 

 だが。

 

(……待って。あのパン、持って帰る気?)

(まさか、家に帰って一人で優雅にワイン片手に楽しむつもり?)

 

 私の脳内で、強欲な悪魔が囁いた。

 

『あのカスクート、間違いなく当たりね。見ただけでわかるわ、あのバリッとした焼き加減……。今食べなきゃ、小麦のいい香りも鼻に抜ける感覚も、全部よその誰かのものよ?』

 

『ここで見逃したら、一生あの味を知らないまま。死ぬまで『あの時食べておけば』って、湿気た煎餅みたいな後悔を引きずることになるわよ。それでいいの?』

 

『いいから引き止めなさい。そして、さっさと奪う。賽銭のためなら悪霊だってカツアゲするでしょ? パンの一つくらい、悪霊退治の『正当な報酬』として請求したところで、バチなんて当たりゃしないわよ』

 

 欲望が理性を粉砕した。

 食欲が生存本能を上書き保存した。

 

「待ちなさいよ!!」

 

 私は大声で呼び止めた。

 七海が怪訝そうに振り返る。その顔には「まだ何か?」という苛立ちが浮かんでいる。

 

「……何ですか? 命拾いしたと思って、大人しくしているのが賢明ですよ」

「帰るなんて許さないわよ! ここに来たからには、通行料を払ってもらうわ!」

 

 私はビシッと、彼の手元の紙袋を指差した。

 その指先は、祓い棒よりも鋭く、真っ直ぐに標的を捉えていた。

 

「そのパン! カスクート! それを置いていきなさい!」

 

 七海の目が点になった。

 その常に冷静沈着なクールな表情が、一瞬だけ「は?」という間の抜けた呆け顔に崩れる。

 みこも「えっ、そこ!?」と盛大にズッコケている。後ろで伽椰子も首を傾げている。

 

「……は? これですか? 私の夕食ですが」

「知ったことじゃないわ! こっちは育ち盛りなのよ! お腹ペコペコなの! 成長期に必要な栄養素が不足してるの!」

「だから?」

「大人が子供の前で、そんな美味しそうなもの見せびらかして帰るなんて、呪術師の風上にも置けないわ! 児童福祉法違反よ! 教育的配慮が足りない!」

 

 完全に言いがかりだ。ヤカラだ。チンピラですらもう少しマシな因縁をつけるだろう。

 だが、今の私はパンの亡者だ。倫理観など犬に食わせた。

 七海は深いため息をつき、冷徹に告げた。呆れと軽蔑が入り混じった声で。

 

「お断りします。これは私が贔屓にしている店の、最後の一個でした。譲る理由がありません。……子供なら、家でお母さんのご飯を食べなさい」

 

 地雷を踏んだ。

 私の設定上の琴線に触れた。

 

「ここが家よ! そしてお母さんはいないわ! ……だから、そのパンを寄越しなさい! それが私の『お母さんの味』になるかもしれないじゃない!」

 

 私は地団駄を踏んだ。

 パンへの執着が、私をモンスターへと変貌させていく。

 

「なら、力ずくでも奪い取るまでよ! 巫女の権限を行使する!」

 

 私は懐からお札を取り出し、戦闘態勢に入った。

 本気だ。私はいつだって、食い物のためなら本気だ。

 私の殺気に呼応して、社務所の障子がガタガタと震え出す。

 

 七海もまた、やれやれといった様子で、懐から呪符の巻かれたナタを取り出す。

 その瞳から「呆れ」が消え、「仕事」の光が宿る。

 

「……はぁ。仕方ありませんね。ここから先は『時間外労働』です」

 

 空気が張り詰める。

 一触即発。

 一級呪術師・七海建人 vs 博麗の巫女・霊夢(偽)。

 高級パンを巡る、仁義なき戦いが始まろうとしていた。

 

「うちは24時間営業よ! 残業手当なんて概念、この神社には存在しないわ!」

 

 私が叫ぶと同時に、背後から伽椰子と貞子と美々子が、ゆらりと殺気を放って立ち上がった。

 私の「飯を食わせろ」という強い意志に共鳴し、最恐の布陣が完成する。

 俊雄が「パン! パン!」と手拍子を始め、夜宵が「……勝ったら少しちょうだい」と便乗してくる。

 

「……君、本当に教育が必要なようですね」

 

 七海が眼鏡の位置を直し、静かに、しかし濃密な呪力を練り上げた。

 美味しいパンのためなら、一級呪術師とも喧嘩する。

 それが、博麗霊夢の流儀なのだ。

 

 ダンッ!

 

 踏み込みの音と共に、七海の姿がブレた。

 速い。

 人間離れしているとか、そういう次元じゃない。俊雄の四つん這いダッシュや、伽椰子のスパイダーウォークとは、洗練さのレベルが違う。

 無駄のない、研ぎ澄まされた「武」の速度。

 これが一級呪術師のフィジカルか!

 呪符の巻かれたナタの刃先が、鋭い軌道を描いて私の急所――いや、正確には「お札を持つ手」を無力化するために迫る。

 

(ヒィッ! ガチだ! ナナミンが本気で私を狩りに来てる!)

(走馬灯が見える! 過去に引いたガチャの爆死履歴がフラッシュバックする!)

(でも負けない! あのパンの芳醇な小麦の香りが私を呼んでいるもの! 食欲は恐怖も常識も全てを凌駕する!)

 

 私は反射的にバックステップを踏み、懐から取り出したお札を空中にバラ撒いた。

 霊力を注ぎ込む。ただの紙切れが硬化し、意思を持った弾丸と化す。

 

「散!!」

 

 数枚のお札が空中で静止し、そこから紅白の光弾がマシンガンのように発射される。

 物理法則を無視したホーミングレーザーが、七海を包囲し、逃げ場を塞ぐ。

 

「……チッ」

 

 七海が小さく舌打ちし、呪符を巻いたナタを振るう。

 

 キィン、キィン、キィン!

 

 正確無比な剣戟。光弾が次々と切り払われ、花火のように弾け飛ぶ。

 十劃呪法。強制的に弱点を作り出す術式だが、私の弾幕には「弱点」以前に「実体」が怪しい。だが、彼はそれを技術と呪力でねじ伏せている。

 

「伽椰子! 貞子! 挟み撃ちよ! 働け! 私のために! パンは福利厚生よ!」

 

 私の号令に、左右からJホラーのツートップが襲いかかる。

 伽椰子が長い髪を触手のように伸ばして七海の足元を狙い、貞子が念動力で境内の石灯籠を浮かせて砲弾のように投げつける。

 普通なら詰みだ。地獄絵図だ。

 

「……邪魔です」

 

 しかし、七海は視線すら向けなかった。

 左手で伽椰子の髪を掴んでいなし、右手で飛来した石灯籠をナタの背で叩き割った。

 強すぎる。

 博麗神社が誇るツートップの攻撃を、まるでまとわりつく羽虫を払うかのように、淡々と、事務的に処理している。

 これが「時間外労働」の縛りによる呪力底上げか! 定時退社への執念が、彼を修羅に変えているのか!

 

(うっそでしょ!? 伽椰子が雑巾みたいに扱われてる!)

(これが一級術師……! ジャンプ漫画の戦闘力インフレを肌で感じるわ! バランス調整ミスってるって!)

 

 だが、その完璧な動きが一瞬止まった。

 彼の意識が、私の攻撃でも怨霊たちの妨害でもなく、彼自身の手元――「カスクートの入った紙袋」に向けられた瞬間だ。

 戦闘の衝撃波と風圧で、紙袋が大きく揺れ、バゲットの端が飛び出しそうになったのだ。

 彼は無意識に、それを庇おうとした。パンを守るために、ナタを振る手がわずかに遅れた。

 

「あ」

 

 七海の声に、焦りが混じる。

 私はその隙を見逃さなかった。

 オタク特有の「コミケで限定グッズを確保する時の火事場の瞬発力」が、私の身体能力を限界突破させる。

 

「隙ありぃぃぃぃ!!」

 

 私は地面を蹴り、低い姿勢で滑り込んだ。

 砂利で膝が擦りむけるのも構わず、獣のように距離を詰める。

 狙うは首でも心臓でもない。

 彼が持つ、その紙袋だ。

 

 パシッ!

 

 乾いた音が響く。

 私の左手の指先が、反射的に振り下ろされたナタの刃を、紙一重で挟んで止めていた。

 いわゆる、真剣白刃取りだ。

 そして、空いている右手は──しっかりと紙袋の取っ手を握りしめていた。

 少しでも動けば、袋が破れる。パンが地面に落ちる。泥にまみれる。

 

「……動くな」

 

 七海が低い声で言った。額に汗が滲んでいる。

 

「動かないわよ。……でも、このままじゃパンが潰れるわよ? せっかくのクラスト*1が台無しね。中身も飛び出しちゃうかも」

 

 私はニヤリと不敵に笑った。

 人質*2作戦だ。

 ここで彼が暴れれば、繊細なバゲットは粉々になり、中の具材は悲惨なことになるだろう。

 食通の彼に、そんな悲劇が許容できるはずがない。私は詳しいんだ。

 

 数秒の沈黙。

 七海と私、至近距離での睨み合い。

 ゴーグルの奥の瞳が、葛藤に揺れているのがわかる。

 「クソガキを叩き斬るか」それとも「最高の夕食を守るか」。

 彼にとって、美味しい食事は何物にも代えがたい「労働の報酬」であり、明日への活力なのだ。

 

 やがて、七海は深く、長く、ため息をついた。

 全身から力が抜ける。張り詰めていた呪力が霧散する。

 ナタを下ろし、彼は茜色の空を仰いだ。

 

「……はぁ。やってられませんね」

 

 完全に「仕事モード」が解除された瞬間だった。

 彼は私の手から紙袋を離し、ぽん、と私の頭に大きな手を置いた。

 

「……あげますよ。持って行きなさい」

「えっ、いいの!?」

「これ以上、時間外労働を続けるくらいなら、夕食を抜いた方がマシです。パン一つで君が大人しくなるなら安いものです」

 

 七海は、私の後ろでボロボロになりながらも立ち上がろうとしている伽椰子たちを一瞥した。

 

「それに……君のその『執着心』。……呪いとしては、特級品だ。食い意地だけでここまでやるとは、ある意味才能ですよ。祓うには惜しい」

 

 褒められた? いや、呆れられたのか。

 とにもかくにも、勝利だ。私の粘り勝ちだ。

 

「やったぁぁぁぁ!! カスクートゲットォォォ!!」

 

 私は紙袋を抱きしめ、歓喜の舞*3を踊った。

 みこが「霊夢さん、信じられない……」と口元を押さえ、夜宵が「……肉じゃない」と少し残念そうにしている。

 

 七海はスーツの埃を払い、ネクタイを締め直すと、踵を返した。

 その背中は少し丸まっている気がする。

 

「報告書には『特級過呪怨霊に遭遇するも、対話により和解』とでも書いておきます。……二度と関わりたくありませんが」

「あら、また美味しいパン持ってくるなら歓迎するわよ! 次はクロワッサンがいいな! バターたっぷりのやつ!」

「遠慮します。二度と来ません。パン屋を変えます」

 

 七海は一度も振り返らず、カツカツと足音を響かせて石段を降りていった。

 その背中は、現代社会の荒波に揉まれるサラリーマンの哀愁そのものだった。

 ……明日、有給取るといいよ、ナナミン。

 

「さあ、実食よ!」

 

 私は縁側に座り直し、おもむろにカスクートを取り出した。

 まだほんのり温かい。

 バリッ。

 豪快にかぶりつく。

 硬質なクラストが砕ける音。中のモチモチしたクラムの弾力。

 塩気のある上質なハムの旨味、濃厚なブルーチーズのコクが口の中で三重奏を奏でる。

 バターの芳醇な香りが鼻腔を突き抜ける。

 

「……んん〜〜っ!! 文明開化の音がするぅぅ!!」

 

(美味い! マジで美味い! これ一個で800円くらいする味だわ! コンビニパンとは次元が違う!)

(ありがとうナナミン! あんたの犠牲は無駄にしない! 私の血となり肉となるのよ! 明日も仕事頑張ってね!)

 

 私が至福の表情でパンを貪り食う横で、みこがそっとお茶を淹れ直してくれた。

 伽椰子たちは、七海の残した強烈な呪力の残滓に当てられたのか、部屋の隅で小さくなっている。

 

 こうして、博麗神社にまた一つ、伝説*4が刻まれたのだった。

*1

*2
パン質

*3
阿波踊り風

*4
黒歴史ともいう

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