制服姿の女子高生だ。
整った顔立ちだが、今は恐怖で歪み、脂汗が滲んでいる。涙目で周囲をキョロキョロと見回し、肩で大きく息をしながら、救いを求めるようにこちらへ駆け寄ってくる。
だが、私の目は彼女よりも、その背後にへばりついている『異物』に釘付けになった。
陽炎のようにゆらゆらと揺らめく、白くて細長い「ナニカ」。
それは物理法則を無視した動きで彼女を追尾していた。まるで空間そのものがバグを起こしたような、見てはいけない白さ。
直視しただけで脳が拒絶反応を起こし、吐き気を催すような禍々しい気配。
(うわ、女子高生だ。……って、待って。あの特徴的な制服!)
私の脳内データベースが高速検索を完了する。
落ち着いた色のブレザー、少し長めのスカート、そして涙目で引きつったあの表情。
間違いない。『見える子ちゃん』の主人公、四谷みこだ。
(嘘でしょ、ここ『見える子ちゃん』の世界線!? 難易度ルナティックなんだけど!)
(っていうか、後ろのアレ! 白くてクネクネしてるアレ! 絶対『くねくね』でしょ!? 直視したら精神崩壊するやつ! 解像度4Kでこっち見ないでよ!)
内心は阿鼻叫喚の嵐だった。
SAN値チェック失敗待ったなし。
だが、私の体は恐怖で硬直するどころか、スッと自然に右足を前に出していた。
表情筋も仕事をしすぎている。眉一つ動かさず、まるで「道端のゴミ」を見るような冷ややかな視線を、その白いナニカに向けているのだ。
「……ハァ」
深いため息が、唇からこぼれる。
それは恐怖からではなく、呆れを含んだ響きを持っていた。
「ちょっと。私の神聖な境内に、気色の悪いペットを持ち込まないでくれる?」
女子高生──みこが、ビクッと肩を震わせて顔を上げた。
その瞳には、絶望と、ほんの僅かな「期待」が揺れている。
「……み、え……?」
かすれ声で、彼女は呟いた。
私と目が合う。そして、彼女の背後にへばりついていた『くねくね』もまた、ゆらりと鎌首をもたげて私を見た。
『く、ね……く、ね……』
脳髄に直接響くような、不快なノイズ。
視界がぐにゃりと歪む感覚。
(ヒィィィ! 喋った! 認識した! こっち来たぁぁぁ! 無理無理無理、精神汚染される! 誰か助けて五条先生ー!)
心の中では、全盛期の土下座スピードで地面に額を擦り付け、ありとあらゆる神仏、そして五条先生に命乞いをしていた。
(無理無理無理! あんなの勝てるわけないじゃん! 精神汚染で廃人コース確定だってば!)
しかし、私の意思とは裏腹に、この体──「博麗霊夢」としての肉体は、恐怖を微塵も感じさせない流麗な動作で反応した。
脊髄反射レベルで染み付いた退魔の所作。小さな手は、まるで手品のように懐から唯一の武器であるお札を取り出し、シュッと風を切る音と共に構える。
「質問に答えなさいよ。……賽銭、持ってるの?」
私の口から紡がれたのは、状況にそぐわないほど冷徹で、そして強欲な言葉だった。
みこがポカンとして、思考停止したような顔をする。無理もない。背後に怪異がいる状況で、いきなり賽銭の催促だ。狂人に見えても仕方がない。
だが、空気の読めない怪異は待ってくれない。
『くねくね』が、ノイズ混じりの不快音を撒き散らしながら、私に向かって白く歪んだ触手のような腕を伸ばしてきた。
空間を侵食するように迫る白。その距離、あと数メートル。触れられただけで正気を削り取られそうな圧力が肌を焼く。
(あ、これ詰んだ。死ぬ。今の私、霊力たっぷりの美味しいおやつ枠でしょ……!)
走馬灯の準備を始めた、その瞬間だった。
私の腹の虫が、「グゥルルル……ッ!!」と、まるで地獄の猛獣のような、低くドスの利いた音を盛大に轟かせたのだ。
極限の空腹。
それは、生存本能という名の獣を目覚めさせ、恐怖という感情を物理的にねじ伏せる。
生物としての根源的な欲求が、脳内会議の議長席を奪い取った。
──ごはん食べたい。
コンビニのパリパリ海苔のおにぎりが食べたい。出汁の染みたおでんの大根にかぶりつきたい。温かい豚汁を胃袋に流し込みたい。
そのためには、こんなところで訳のわからない白いニョロニョロに食われている場合じゃない!
「邪魔なのよ!!」
狙いを定める必要すらなかった。私の殺意と食欲が、そのまま霊力という破壊エネルギーに変換され、お札に充填される。
放たれたのは、ただの紙切れではない。目の前の「食い扶持」を邪魔し、私の食事タイムを遅らせる白いゴミに対する、慈悲なき断罪の一撃。
パァンッ!!
大気を震わせるような乾いた破裂音が、廃神社に響き渡る。
お札が『くねくね』の顔面らしき部位に直撃した瞬間、視界を白く染め上げるほどの紅白の閃光が炸裂した。
それは浄化などという生易しいものではない。圧倒的な熱量と霊圧による、一方的な蹂躙。
『ア……』
断末魔すら上げる暇もなかった。
都市伝説として恐れられる怪異は、その存在を構成する霊子レベルで分解され、光の奔流に飲み込まれて瞬く間に蒸発していく。
後に残ったのは、キラキラと舞い散る火の粉のような光の粒子と、腰を抜かしてへたり込む女子高生だけ。
(……え、ワンパン? 嘘、マジで? くねくねって一応、検索してはいけない言葉筆頭の強キャラじゃなかったっけ?)
(いや違う、相手が弱いんじゃない。私が……博麗霊夢という存在が、理不尽なまでに強すぎるんだ。さすが幻想郷のバランスブレイカー、インチキ巫女の名は伊達じゃない……!)
内心では信じられない光景にガッツポーズを連打しつつ、表面上は平静を装う。
私は努めてクールに、武道の達人の如く残心を示し、手に持ったお祓い棒*1をシュッと払った。
カツン、と草履の音を響かせ、呆然と口を開けているみこに向かって、ゆっくりと歩み寄る。
「……あ、あの……」
みこが震える声で何かを紡ごうとする。涙で潤んだ瞳は、私を命の恩人として見ているのか、それとも新たな怪異として恐れているのか。
だが、今の私にそんな情緒を解する余裕はない。
私は彼女の言葉を遮るように、空いている左手を無言で突き出した。
白く小さな掌を上に向け、眼前に差し出す。
そして、クイクイ、と人差し指と中指を曲げてみせた。世界共通の「よこせ」のジェスチャーだ。
「助けてあげたんだから、わかるわよね?」
ニッコリと、最大限の愛想を振りまいた営業スマイル*2を浮かべる。
(お願いしまう! 小銭でいいの! 10円でも50円でもいいから! いやむしろ現物支給がベスト! カバンの中に食べかけのパンとか入ってない!? なんかカロリーのあるもの持ってて、お願いだから……!)
私の魂からの切実すぎる叫びは、悲しいかな、言葉足らずとシチュエーションのせいで「守銭奴巫女による無慈悲な対価の請求」として伝わったらしい。
みこは「ヒッ」と短く息を呑むと、慌ててブレザーのポケットをまさぐり、震える手つきで可愛らしいパステルカラーの財布を取り出した。
パカッ、とがま口が開かれる。
その中から彼女がつまみ出し、私の掌に乗せたのは──ずっしりと重みのある、銀色に輝く円盤。
五・百・円。
(ふぁ!? 待って、500円玉!? 銀色に輝く最強硬貨キタコレ!!)
(え、ヤバいヤバい、尊い! みこちゃんマジ女神かよ! 10円チョコ50個分じゃん! いやむしろ激安スーパーの特売おにぎりなら5個はいける! SSR確定演出!!)
私の内心で、何かが盛大にスパークした。
脳内でファンファーレが鳴り響き、目の前の怯えた女子高生が、後光の射す菩薩のように見えてくる。
スパチャだ。これは命のスパチャだ。
「ありがとうございます!」とジャンピング土下座をかましたい衝動が全身を駆け巡るが、かろうじて理性がそれにストップをかける。
ダメだ、思い出せ。私は博麗霊夢。
500円ごときで喜ぶ安い女じゃない*3。
「……ふん、まあいいわ」
私は硬貨を握りしめ、あえてつまらなそうに鼻を鳴らした。
演技だ。これは高度な駆け引きだ。
本当は握りしめた手の中で手汗がすごいことになっているが、表情は鉄仮面を貫く。
「一応、受け取っておいてあげる。……賽銭箱、壊れてるしね」
言い訳がましいことを口走りつつ、私は五百円玉を懐の奥深く、絶対に落とさない場所にねじ込んだ。
みこは、私のそんな態度を見て、逆に安心したようにホッと息を吐いた。
「あ、ありがとう……ございます……。あの、私、四谷みこと言います……」
「霊夢。博麗霊夢よ」
短く名乗り、私は顎で本殿の方をしゃくってみせた。
「立ち話もなんだし、上がりなさいよ。……お茶くらい出してあげるわ*4」
本当は、この金で今すぐコンビニにダッシュしたい。
だが、この女子高生──四谷みこは、使える。
私の「霊感商法」における、最初の
逃がすわけにはいかないのだ。
(さあ来い、みこちゃん! 沼にハマれ! 私という名の課金ゲーにな! ついでに何か食べ物を持ってると信じてるからな!!)
私の邪な期待を知る由もなく、みこはおずおずと頷き、私の背中についてきた。
彼女の目には、私が放つ*5浄化の光が、この世で唯一の安全地帯に見えているに違いない。