数日後。
草木も眠る丑三つ時……とまではいかないが、良い子は寝る時間の深夜。
神社の湿った布団で丸まっていた私の枕元で、スマホ*1が不穏なバイブレーションを響かせた。
ブブブッ、ブブブッ。
ただの着信ではない。画面が明滅し、ノイズ交じりの電子音が鼓膜を逆撫でする。
画面を見ると、みこからのメッセージだった。
『霊夢さん、起きてますか……? 助けてください』
『……家の周りに、アレの大きいのがウロウロしてて……怖くて眠れません』
文面からも滲み出る切迫感。
添付されていた写真をタップすると、画質粗めの画像が表示された。
みこの自宅マンションの窓――その磨りガラスの向こうに、ぼんやりとだが確実に「ヤバいもの」がへばりついていた。
全身から黒いタールのような瘴気を垂れ流し、爬虫類のような眼球をガラスに押し付けている。
『見える子ちゃん』原作でも屈指のトラウマ回、「さん」と呼ばれる山の神の眷属か、あるいはそれに匹敵する特級クラスの悪霊か。
画面越しでも伝わってくる、ねっとりとした粘着質な視線と殺意。
これ、ガラス一枚隔てて目が合ってる状態じゃん。
(うわ、ガチじゃん。これ、みこちゃんの涙目が見えるようだわ)
(放置したらSAN値ゼロコース確定ね。……いや、物理的に窓割って入ってくる可能性もあるか)
私は即座に返信を打った。
『了解。出張除霊に行くわ。……準備*2して待ってなさい』
送信ボタンを押すと同時に、私はガバッと布団を跳ね除けた。
これはビジネスだ。顧客の安全を守るのは、事業主としての義務であり責任だ。
……決して、女子高生の部屋にお泊まりできるという下心や、文明的な全自動お風呂とふかふかのベッドへの渇望があるわけではない。
断じてない。
いや、9割くらいあるかもしれない。神社の風呂は五右衛門風呂*3だし、布団は煎餅布団だ。背中が痛いのだ。
私は手早く着替えを済ませ、唐草模様の風呂敷に替えの下着、歯ブラシ、お守りの在庫を詰め込んだ。
縁側に出ると、伽椰子が夜空を見上げて体育座りしていた。
私が「出稼ぎに行ってくる」と告げると、彼女は無言で「グッ」と親指を立てた。
頼もしいような、不気味なような。
「留守は任せたわよ。不審者*4が来たら、屋根裏に引きずり込んでおきなさい」と言い残し、私は夜の参道を駆け下りた。
みこの家は、神社から徒歩圏内の閑静な住宅街にある、小綺麗な2階建ての一軒家だった。
外壁はクリーム色で、庭には手入れされた植木がある。いかにも「幸せな家庭」を絵に描いたような家だ。
だが、今の私の目には、その家全体を覆うどす黒い靄が見えていた。
私は門扉を音もなく開け、アプローチを抜けて玄関へ。
インターホンの前で深呼吸を一つ。
ボタンを押すと、ピンポーンという軽快な音が鳴るのとほぼ同時に、ガチャリと鍵が開く音がした。
待ち構えていたらしい。
ドアが勢いよく開く。
「霊夢さん……! よかった、来てくれて……!」
そこには、パステルカラーのパジャマ姿のみこが立っていた。
目元は赤く腫れ、顔色は紙のように白い。
彼女は私を見るなり、安堵で力が抜けたようにへたり込み――そして、すがりつくように私の小さな体にギュッと抱きついてきた。
ドサッ。
柔らかい衝撃。
その体は小刻みに震えており、恐怖で芯まで冷え切っているのが伝わってくる。
守ってあげなきゃ、と私の正義感が燃え上がる――はずだったが。
私の脳内を占拠したのは、別の衝撃だった。
(ぐふっ……! やわらかっ! 温かッ! 何この包容力!)
(そして何より……いい匂い! これがJKの香りか! お風呂上がりのフローラルとミルクが混ざったような、サンクチュアリの香りがする!)
鼻腔をくすぐる甘いシャンプーの香りに、私の脳内麻薬がドバドバと分泌される。
神社のカビ臭さで死にかけていた鼻の粘膜が、一瞬で浄化されていくようだ。寿命が三年、いや五年は延びた気がする。
内心では「ありがとうございます! ご褒美です!」とガッツポーズを決めつつ、表面上はあくまで冷静沈着な「頼れる最強の巫女」を演じなければならない。
私は「よしよし、怖かったわね」と、震える彼女の背中をポンポンとぎこちなく撫でた。
「お姉ちゃん、その子……誰?」
奥から、弟の恭介くんが顔を出した。
怪訝そうな、というより、明らかに不審者を見る目で私を見ている。
無理もない。夜分遅くに、ボロボロの巫女装束を着た小学生が訪ねてきたのだから。
そして、その恭介くんの背後。
ダイニングテーブルの方から、もう一人、ひょっこりと顔を出した人物――いや、「霊」がいた。
優しそうな目をした、眼鏡のおじさん。
みこのお父さんだ。
(あ、いた。お父さん)
半透明の体で、ニコニコと恭介の肩越しにこちらを興味津々に見ている。
その手には、これまた霊体のプリンが握られている。自分のお供え物を食べているのだろうか。
(うわぁ、原作通り。成仏せずに家族団欒に参加してるわ。アットホームかよ)
(ていうか、みこちゃん。これ毎日スルーしてるの? メンタル強すぎでしょ)
私はチラリとみこを見た。
彼女は父親の霊が視界に入っているはずなのに、完璧に「見えていない」演技を貫いている。
顔色は悪いが、視線は頑として恭介と私に固定されている。プロの技だ。
私も空気を読んで、お父さんには気づかないフリをする。ここで「あら、こんにちは」なんて挨拶したら、みこの努力が水の泡だ。
「あ、恭介。この子は……その、私の友達で……」
「はじめまして。博麗霊夢よ。……お姉さんの『守護神』みたいなものね」
私は恭介くんに向かって、ニヤリと不敵に笑ってみせた。
背後のお父さんも、うんうんと頷きながら「守護神かぁ、頼もしいなぁ」みたいな顔をしている。あんたも守護霊になりなさいよ。
恭介は「はぁ……?」と困惑していたが、みこが安心しきった顔をしているのを見て、とりあえず引き下がってくれた。シスコンの鑑だ。
「……ふーん。まあ、姉ちゃんがいいならいいけど。……変なことすんなよ?」
「変なことなんてしないわよ。……たぶんね」
私は肩をすくめた。
とりあえず、第一関門の弟は突破したようだ。
♢
通されたみこの部屋は、二階にあるまさに女子高生の部屋だった。
パステルピンクと白で統一されたインテリア。整理整頓された学習机。棚に並んだ可愛い小物たち。
そして何より――部屋の空気が、澄んでいる。
神社のカビと埃と線香の臭いとは、雲泥の差だ。ここは天国か。エデンか。
「……あの、霊夢さん。本当に大丈夫なんでしょうか? さっきから窓の外で、爪で引っ掻くような音が……」
みこがカーテンの端を握りしめ、青ざめた顔で振り返る。
確かに聞こえる。
キィィィ……カリカリ……キィィィ……。
ガラスを爪でなぞるような、神経を逆撫でする不快な金属音。
そして、窓ガラスの向こうに、巨大な影が張り付いているのが気配でわかる。カーテン越しでも、そのねっとりとした視線を感じる。
「平気よ。私が来たからには、ここは結界の中と同じだわ」
私は安心させるように力強く言い放ち、懐をごそごそと探った。
取り出したのは、一つの「物体」。
それは、コピー用紙を丁寧に切り抜き、YouTubeの『プロが教える最強護符の書き方』動画を見様見真似でトレースし、赤と黒の筆ペンでそれっぽく仕上げた代物だった。
「……ほら、これ」
私はぶっきらぼうに、その紙切れをみこに差し出した。
「え? これ……お守りですか? すごい、本格的……」
「そうよ。私の手作り。……素材はただのコピー用紙だけど、効果は保証するわ」
みこがまじまじと紙切れを見つめる。
梵字や複雑な文様が描かれたそれは、パッと見だけなら由緒ある寺社のお札に見えなくもない力作だ。
これを作るために昨晩徹夜して、動画を一時停止しながら筆を走らせた。あまりに集中し、指先に霊力を込めすぎたせいで、筆を持つ人差し指の皮が裂け、じわりと血が滲んだのだ。その血がインクと混ざり合い、禍々しくも神聖なオーラを放っている。
対・特級呪霊用の最終兵器。私の持てる力の全てを注ぎ込んだ、正真正銘の最高傑作。
「ずっと持ってなさい。お風呂に入る時も、トイレに行く時も、寝る時も。……そうすれば、どんな化け物もあんたには指一本触れられないから」
本当は「私がずっと守ってあげる」と言いたいところだが、キャラじゃないし、恥ずかしいのでやめておく。
みこはハッとして、その紙切れを宝物のように両手で包み込んだ。
少し潤んだ瞳で、私を真っ直ぐに見つめる。
「ありがとうございます……! 大切にします、一生!」
「一生は重いっての。……ほら、もう寝るわよ。明日は学校でしょ」
私は照れ隠しに、一番の目当てであるベッドへダイブした。
バフッ。
柔らかい! スプリングの弾力が、神社の床板でバキバキになった私の背骨を優しく包み込む。
シーツからは、みこと同じ甘い香りがした。
(あぁ〜……生き返るわぁ……)
(もうここから一ミリたりとも動きたくない……)
(何この包容力。人をダメにするベッドってレベルじゃないわ。これが女子高生のベッド……いや、聖なる揺り籠か。神社の煎餅布団がアスファルトに思えてくる……)
私は枕に顔を埋め、深呼吸した。
日向の匂いと、フローラルの香り。
脳みそがとろけそうだ。このまま土着の神として、この部屋の地縛霊になりたい。
「あ、はい! ……えっと、霊夢さん、そこ私のベッド……」
みこが困ったように声をかける。
当然だ。シングルベッドだ。客人が占領していい場所ではない。
普通なら「床で寝ます」と言うべき場面だ。常識人ならそうする。
だが、一度知ってしまったこの快楽を手放すなんて、私にはできない。
私はゴロンと寝返りを打ち、頬杖をついてみこを見上げた。
「いいじゃない、今日はダブルベッドよ。詰めれば二人いけるわ」
私はベッドの端に寄って、みこが入るスペースを強引に空けた。
布団をめくり、空いたスペースをポンポンと手で叩いて誘う。
その動作は、我ながら手慣れたおっさんのようだったかもしれないが、中身のアラサー乙女心は心臓バクバクだ。
「えっ、ええっ!? 一緒に、ですか!?」
「何よ、嫌なの? 外のアレ、まだウロウロしてるわよ? 一人で寝てて、窓ガラス割られたらどうすんの」
窓の外を顎でしゃくる。
脅し文句としては最低だが、効果はてきめんだった。
みこはビクッと肩を震わせ、窓の方をチラリと見てから、再び私を見た。
恐怖と、憧れの霊夢さんと同衾するという緊張感。その二つがせめぎ合っている顔だ。
そして、顔を林檎みたいに赤くして、もじもじとし始める。
「い、嫌じゃないです! むしろ光栄ですけど……その、狭くないですか? 私、寝相悪いかもしれないですし……」
「私が小さいから大丈夫よ。それに、くっついてた方が結界の効果も高まるしね。ほら、早く来なさい。冷えるわよ」
もっともらしい理由をつけて、再度ポンポンとシーツを叩く。
みこは意を決したように頷き、そそくさと布団に入ってきた。
……近い。
背中に感じる、柔らかな感触と、高い体温。
トクン、トクン、と早鐘を打つ彼女の心臓の音が、背中越しに伝わってくるようだ。
髪から漂うシャンプーの残り香が、布団の中に充満する。
(あかん。これアカンやつや)
(理性! 私の理性仕事しろ! 相手は女子高生、こっちは中身アラサーの不審者! 犯罪スレスレどころかアウトよ!)
(でも……柔らかい……!)
私は目を固く閉じ、必死に般若心経*5と円周率を交互に唱えた。
色即是空、空即是色。3.141592……。
しかし、みこが無意識に、助けを求めるように私のパジャマの裾をギュッと掴んでくるので、煩悩がマッハで加速する。
その時。
ガガガガガッ!!
窓ガラスが激しく振動した。
外の化け物が、しびれを切らして強硬手段に出たらしい。
カーテンの隙間から、巨大な充血した眼球がギョロリと覗き込み、ガラスにヒビが入る音がした。
ズズズ……と、何かが侵入しようとする気配。
「ひっ……!」
みこが息を呑み、さらに強く私に密着してくる。震えが止まらない。
せっかくの安眠を邪魔された怒りと、みこを怖がらせたことへの殺意が、私の中で冷たく燃え上がった。
(……チッ。空気読めないわね、三流悪霊が)
私は薄目を開け、窓の方へ鋭い視線を送った。
同時に、みこが握りしめていた「お守り」が反応する。
YouTubeを見て書いた真っ赤な文字が、カッと一瞬だけ強烈に発光した。
バヂィィィンッ!!
閃光と共に、窓の外で何かが弾けるような轟音が響いた。
「ギャアアアア!!」という獣のような悲鳴。
そして、重量物が地面に叩きつけられるドサッという音。
お守りの結界に触れて、霊的に感電し、物理的に弾き飛ばされたのだ。
「……あ」
みこが顔を上げる。
窓の外の気配は消え失せ、静寂が取り戻されていた。
虫の声だけが聞こえる、平和な夜。
「……言ったでしょ。大丈夫だって」
私はみこの頭に手を置き、不器用ながらも優しくポンポンと撫でた。
本当は抱きしめて「怖かったね」と言ってあげたいところだが、それはキャラじゃない。
これくらいが精一杯だ。
みこは私の手に頭を擦り付けるようにして、猫みたいに目を細めた。
「私の守りは鉄壁よ。泥船に乗ったつもりで……じゃなくて、大船に乗ったつもりでいなさい」
「ふふっ……はい。霊夢さんとなら、地獄でも行けそうです」
「地獄は勘弁してよ。……ほら、もうおやすみ」
私は布団を肩まで引き上げた。
そして、目を閉じながら、大事なことを思い出したように付け加えた。
「明日の朝ごはんは、ふわふわのフレンチトーストがいいわ」
「……ふふっ。はい、わかりました。たっぷり蜂蜜かけますね」
みこは安心したように微笑み、私の背中に額を押し付けて、やがて深い寝息を立て始めた。
その寝顔と温もりを感じながら、私もまた、心地よい疲労感と共に幸福な眠りに落ちていった。
……夢の中で、なぜかお巡りさんに「君、ちょっと署まで」と職務質問される夢を見た気がするけれど、それはまた別の話だ。
♢
翌朝。
チュンチュンという小鳥のさえずりと、階下から漂ってくる甘い香りで目が覚めた。
バターと卵、そしてメイプルシロップの焦げる匂い。
最高だ。神社の湿った布団で目覚める朝とは、世界の解像度が違う。
「おはようございます、霊夢さん。フレンチトースト、焼けましたよ」
エプロン姿のみこが、天使のような笑顔で呼びに来た。
食卓には、分厚いフレンチトースト、新鮮なサラダ、そして温かいコーンスープ。
私は無言で手を合わせた。
(アーメン……じゃなくて、いただきます!)
ナイフを入れると、じゅわっとシロップが溢れ出す。
口に入れると、パンが溶けて消えた。
美味い。美味すぎる。
こんな幸せな空間にずっといたい。一生ここでヒモとして暮らしたい。
だが、現実は非情だ。
時計の針は残酷に進み、みこの登校時間がやってきた。
「……じゃあ、行ってきます。霊夢さん、また放課後、神社に行きますね」
「ええ。気をつけて行ってらっしゃい。……ほどほどに頑張りなさい」
みこは朝日のように眩しい笑顔で手を振り、軽やかな足取りで学校へと駆けていった。
その背中には「青春」とか「希望」とか「真っ当な市民権」といった、今の私には最も縁遠いオーラがキラキラと輝いている。
私はその姿が見えなくなるまで見送り、そして深く、地殻変動が起きそうなほど深くため息をついた。
背後のドアがカチャリと閉まる音。それは、楽園からの追放を告げる無慈悲な合図だった。
私は仕方なく、本当に、断腸の思いで、重い腰を上げて神社への帰路についた。
一歩歩くごとに、足が鉛のように重くなる。
全自動の湯張り機能付きお風呂。温かい便座とウォシュレット完備のトイレ。そして、フレンチトーストの甘い余韻。
それら文明の利器全てを背にし、私が向かう先は――雨漏り、隙間風、カビの臭い、そしてJホラーオールスターズが待ち受ける、築年数不明のボロ神社。
夢のようなハイテク一軒家から、リアルな廃墟への転落。
生活水準というグラフがあったら、ナイアガラの滝も真っ青の急降下だ。
ストップ安どころか上場廃止レベルである。
あまりの落差に平衡感覚がおかしくなりそうになりながらも、私はゾンビのような足取りで神社の石段を登りきった。
鳥居をくぐると、そこにはいつもの日常が広がっていた。
「……あ、あ、あ」
「ニャー」
伽椰子が縁側で洗濯物を干し、俊雄が庭でダンゴムシを突っついている。
貞子はテレビ画面から半身を乗り出し、ワイドショーの星占いをチェックしていた。
「……ただいま」
私が小さく呟くと、伽椰子がぺこりと頭を下げた。
相変わらずのカオス。相変わらずの貧乏臭さ。
みこの家の天国のような環境には程遠いけれど、ここが私の城であり、職場だ。
私は口の中に残るフレンチトーストの味を反芻し、パンと両頬を叩いて気合を入れ直した。
「さあ、今日も稼ぐわよ! 働くわよあんたたち!」
私の号令に、Jホラーオールスターズがそれぞれの持ち場へと散っていく。
博麗神社の日常は、今日も通常運転だ。