博麗神社の上空には、突き抜けるような青空が広がっていた。
絶好の洗濯日和だ。
伽椰子が「あ、あ、あ……」と歌いながら(?)シーツを干し、俊雄が布団叩きでパンパンと埃を払っている。
私は縁側で、みこが差し入れてくれた高級羊羹「夜の梅」を切り分け、熱いお茶をすすっていた。
「……ふぅ。平和ね」
羊羹の濃厚な甘さが、脳髄に染み渡る。
昨夜のコタツ騒動も、みこの足の温もりで無事に解決した。
今日も今日とて、平和な一日が始まる……はずだった。
ザッ、ザッ、ザッ。
石段を登ってくる、重々しくも律儀な足音が聞こえてきた。
私は羊羹を咀嚼する手を止め、眉をひそめた。
この足音、聞き覚えがある。
霊的なプレッシャーを隠そうともしない、正義感の塊のような気配。
「……お邪魔するよ」
鳥居の下に現れたのは、黒いシャツに白いネクタイ、そして左手に黒い皮手袋をした男。
鵺野鳴介――通称、ぬ~べ~先生だ。
その顔は、授業参観の時よりも少しだけ疲れが滲んでいるが、瞳には変わらぬ熱い光が宿っている。
「あら、先生。今日は家庭訪問? 夜宵ならまだ来てないわよ」
私は羊羹を飲み込み、努めて愛想よく営業用スマイルで応対した。
この人は「イイ人」だ。敵に回すと厄介だが、味方にすればこれほど頼もしい存在はいない。
ぬ~べ~先生は、境内を掃除する伽椰子たちを一瞥し、複雑そうな顔で頭を下げた。
「……いや、今日は君に話があって来たんだ。博麗霊夢さん」
「私に?」
「ああ。……少し、真面目な話だ」
先生は縁側に腰掛け、出されたお茶を一口すすった。
そして、単刀直入に切り出した。
「君のその力……そして、寶月夜宵についてだ」
空気が少しだけ張り詰める。
私は羊羹の皿を置き、居住まいを正した。
「……君がただの子供ではないことは、薄々気づいている。あの『力』……あれは霊能力というより、もっと根源的な『気』の操作に近い。それに、あの数の強力な悪霊を従えるカリスマ性……」
先生の眼光が鋭くなる。
「君は、こちらの世界の住人ではないな? ……いや、言い方が悪いか。『常識の外側』にいる人間だ」
(ドキッ!)
(鋭い! さすが霊能力教師! 中身がアラサーの転生者だってことまでバレてるんじゃ!?)
冷や汗が背中を伝うが、私はポーカーフェイスを貫いた。
先生はふぅ、と息を吐き、柔らかな表情に戻った。
「まあ、君の素性を詮索するつもりはない。君が悪人ではないことは、あの悪霊たちの『顔』を見ればわかるからな」
先生の視線の先では、俊雄が日向ぼっこをしてあくびをしている。
完全に野生を失った飼い猫の顔だ。
「私が懸念しているのは、夜宵さんのことだ。……あの子は、あまりにも危うい」
先生の声が、地の底から響くように沈んだ。
彼は懐から一枚の写真――夜宵が遠目に見えるスナップ写真を取り出し、悲痛な面持ちで見つめた。
「霊夢さん、あの子の瞳を、じっくりと覗き込んだことはあるかい?」
「瞳? ああ、あの特徴的な……」
「そう。あのドクロの形をしたハイライトだ。……あれは単なる光の反射じゃない。冥府の深淵を覗き込みすぎた者が、逆に向こう側から『覗き返されている』証……『死』の刻印だ」
先生の言葉に、背筋がゾクリとする。
言われてみれば、夜宵の瞳には常に死の気配が張り付いている。それは彼女がこれまでに屠ってきた悪霊たちの残滓なのか、それとも彼女自身の魂が変質し始めている予兆なのか。
「彼女は、ランドセルを背負うような年齢の子供が、決して足を踏み入れてはいけない領域にいる。『復讐』という名の業火の中を、火傷だらけになりながら、それでも歩みを止めずに進んでいるんだ」
「……母親の魂を取り戻すため、でしょ? 動機は純粋よ」
私が茶をすすりながらフォローを入れると、先生は首を横に振った。
「動機が純粋であればあるほど、手段の凶悪さが際立つんだ。悪霊を捕獲して喰らわせる『共食い』、壺の中で霊魂を殺し合わせる『蠱毒』……。彼女がやっていることは、ただの除霊じゃない」
先生の語気が強まる。
「あれは、呪術だ。人の道を外れ、修羅の道……いや、餓鬼道へと堕ちていく行為だ。強力な悪霊を使役することの代償は、肉体の死だけでは済まない。一歩間違えば、魂ごと乗っ取られ、永遠に終わらない無間地獄に囚われることになる……」
ぬ~べ~先生が、黒い皮手袋をした左手を、ギリギリと音が鳴るほど強く握りしめた。
その手袋の下にある『鬼の手』。
かつて地獄の鬼をその身に封じ、生徒を守るために使い続け、その代償として過酷な運命を背負った彼だからこそ、その言葉には血の味がするほどの重みがあった。
「私は教師だ。子供たちには、太陽の下で笑っていてほしい。友達と喧嘩したり、恋をしたり、将来の夢に悩んだり……そんな『当たり前の日常』を送ってほしいんだ。だから、あの子を止めたい。命がけで止めるべきだと思っている」
先生の苦悩が、重圧となって周囲の空気を軋ませる。
「だが……同時に私は一人の霊能力者だ。あの子の覚悟が、生半可なものではないことも理解できてしまう。母親への愛、奪われた理不尽への怒り……その執念があれほどの力を生んでいるのなら、それを否定することは、あの子の存在そのものを否定することになるんじゃないかと……そう思うと、足がすくむんだ」
教師としての慈愛と、霊能者としての共感。
相反する二つの感情の板挟みになり、この歴戦の英雄は苦しんでいた。
先生が顔を覆う。
熱い。熱すぎるよ、ぬ~べ~先生。
でも、その泥臭いまでの人間臭さと葛藤こそが、鵺野鳴介という男の最大の魅力であり、最強の武器なのだろう。
重苦しい沈黙が、縁側を支配する。
普通なら、ここで一緒になって悩み、深刻な顔をするのが正解なのかもしれない。
だが、私は博麗霊夢*1。
シリアスな空気は、胃もたれするのよ。
私は残っていた羊羹の一切れをフォークで突き刺し、パクリと口に放り込んだ。
上品な甘さが広がるのを楽しみ、わざとらしく音を立てて熱いお茶をすする。
「……んぐ、んぐ。ぷはー」
間の抜けた音が、張り詰めた空気を霧散させた。
先生が驚いて顔を上げる。
「……止めても無駄よ、先生。あの子のブレーキはとっくの昔に壊れてるわ」
「霊夢さん……」
「今の夜宵に『普通の幸せ』なんて説いたところで、馬耳東風よ。あの子が見てるのは、母親が囚われている地獄の底だけなんだから」
私は空になった湯呑みをトン、と置いた。
「だから、私たちがすべきことは、邪魔することじゃないわ」
「では、見殺しにしろと?」
「違うわよ。……あの子が道を踏み外して、戻れない領域まで真っ逆さまに落ちそうになった時に、首根っこ掴んで物理的に引っ張り上げてやることよ。セーフティーネットってやつね」
私はニッと不敵に笑い、親指と人差指で輪っかを作ってみせた。
「……まあ、そのための救助費用は、きっちり請求させてもらうけどね。命の値段は高いわよ?」
私の即物的な、しかし核心を突いた提案に、先生は一瞬呆気にとられたような顔をした。
数秒の沈黙の後。
先生の強張っていた肩から力が抜け、やがて「ふっ」と、憑き物が落ちたような爽やかな笑みをこぼした。
「……そうか。君らしいな」
その時だった。
神社の石段の下から、この場のシリアスな空気を木っ端微塵に粉砕するような、悲鳴に近い絶叫が響いてきたのは。
「ひぃぃぃぃぃッ!! 無理無理無理! ここ、空気がおかしいって! 酸素じゃなくて『怨念』吸ってるみたいで息ができないぃぃ!! 濃度が! 死の濃度が違うってぇぇぇ!!」
「うふふ、大丈夫だよ螢多朗くん♡ 私がついてるから♡ それに見て、この素晴らしい淀み……ゾクゾクするわね」
「……うるさい。早く登って。置いていくよ」
断末魔のような悲鳴と、それに重なる甘ったるくも不穏な囁き、そして氷点下の如く冷徹な少女の声。
カオスだ。まだ姿も見えないのに、既に厄介ごとの匂いがプンプンする。
やがて、鳥居の下に三つの影が現れた。
先頭を歩くのは、ランドセルを背負った小さな少女――寶月夜宵。
彼女は私の顔を見るなり、ペコリと無表情に会釈をし、まるで自宅の庭に入るかのような気軽さで境内へと足を踏み入れた。
問題は、その後ろの二人だ。
一人は、大学生くらいの青年。
小柄で可愛らしい顔立ちをしているが、今はその顔色が白紙のように蒼白で、生まれたての子鹿のようにガクガクと震えている。
幻燈河螢多朗。
彼からは、遠目に見てもわかるほど濃厚な霊媒体質のオーラ……というより、「霊に好かれすぎて困っちゃうフェロモン」が垂れ流されていた。歩く霊ホイホイとは彼のことか。
そしてもう一人は、モデルのようにスタイルの良い眼鏡の美女。
寶月詠子。
彼女は螢多朗くんの腕に絡みつき、甲斐甲斐しく支えているように見えるが――その片手にはハンディカメラが握られ、しっかりと録画ランプが点滅している。
何より、彼女の眼鏡の奥の瞳。
恐怖に怯える螢多朗くんを見つめるその目が、あろうことか『うっとり』と潤み、瞳孔がわずかに開いているのだ。
(……うわぁ。別の意味でヤバいのが来たわね)
私がドン引きしている間に、夜宵はずかずかと進み、振り返って二人を促した。
「……早く。あれ? ぬ~べ~がどうしてここに……? まあ、都合がいいか。」
「待って夜宵ちゃん! あそこ! あれ見て! あそこで洗濯物干してる人……関節の曲がる方向がおかしいよぉぉぉ!!」
螢多朗くんが指差した先では、佐伯伽椰子がブリッジの体勢で物干し竿にぶら下がりながら、「あ、あ、あ……」と器用にシーツを広げていた。
日常と異常の悪魔合体。
その光景を見た螢多朗くんは、ヒュッと息を呑んで硬直した。
「す、すごい……! 伽椰子さんね! 生で見ると迫力が違うわぁ♡ ねえ螢多朗くん、もっと近くで撮りたいから寄ってくれない?」
「嫌だよ!? なんで自分から死にに行くの!? 詠子ちゃん正気!?」
「あら〜♡ 噂通りの『怪異のテーマパーク』ね〜♡ あっちではテレビから貞子さんが出入りしてるし、縁側では美々子ちゃんが包丁研いでる……! 最高!」
詠子さんが頬を紅潮させ、興奮気味にカメラを振り回す。
彼女にとってここは地獄ではなく、ディズニーランドらしい。
対照的に、螢多朗くんのSAN値は既にマイナス域に突入していた。
「あ、あ、あ……あわわわわ……!! 帰りたい……おうちに帰りたい……」
彼は涙目で救いを求めるように周囲を見回し――そして、私の横に立っていた鵺野鳴介先生の姿を認め、パァッと表情を輝かせた。
「せ、先生……! 良かった、まともな大人が……!」
彼はふらふらと先生の方へ駆け寄ろうとした。
だが、その視線が先生の左手――黒い皮手袋に包まれた、禍々しい霊気を放つ『鬼の手』に釘付けになった瞬間。
彼の希望は、絶望へと叩き落とされた。
「ギャァァァァァ!! 先生の手もヤバいぃぃぃぃ!! 中になんか凄いの入ってるぅぅぅ!!」
腰を抜かし、その場にへたり込む螢多朗くん。
ああ、可哀想に。逃げ場なんてどこにもないのに。
「……紹介する。私の協力者たち」