拝殿の縁側に腰掛け、私はひとまず深呼吸をした。
みこは少し離れた場所に、膝を揃えてちょこんと座っている。その距離感が、彼女の警戒心と敬意の絶妙なバランスを物語っていた。
手元には、さっきの五百円玉。
茶葉はない。湯呑みもない。あるのは朽ちかけた神社と、腹を空かせた私だけ。
「あの……」
沈黙を破ったのは、みこの方だった。
彼女は私の顔と、その紅白の衣装を交互に見つめ、意を決したように口を開いた。
「霊夢さんって……何者、なんですか? その力……普通の人間じゃ、ないですよね? もしかして、この神社の……神様、とか?」
神様。
その響きに、私は内心で盛大に吹き出しそうになった。
(ぶっ! 神様だって! 受けるー! まあ確かに? さっきの無双っぷりは神懸かってたけどさ!)
(中身はただの東方オタクの社畜です、なんて口が裂けても言えないわ……!)
正体がバレたら、この「最強巫女」のメッキが剥がれ、ただのコスプレ不審者扱いされてしまう。
それは死活問題だ。
私は咳払いを一つして、居住まいを正した。
フッと前髪を払い、ミステリアスな微笑みを浮かべる。
「神様なんて、そんな大層なものじゃないわ」
「え……じゃあ……」
「ただの巫女よ。……まあ、ちょっとばかり『妖怪退治』が得意な、ね」
あえて言葉を濁す。
多くを語らず、想像の余地を残すのがカリスマの鉄則だ*1。
みこは「退治……」と呟き、さっきの光景を思い出したのか、ゴクリと唾を飲み込んだ。
「(あんな恐ろしい怪異を『ゴミ』みたいに退治するなんて……やっぱり、只者じゃない……)」
みこの心の声が聞こえてきそうなほど、彼女の瞳には尊敬と畏怖がにじんでいた。
よし、騙せた。チョロい。
私は満足げに頷くと、話を切り替えることにした。
「……で、貴方。一体どこから迷い込んだの?」
私はなるべく威厳のある声を出し、話を切り出した。
ここが何処なのか、それとなく探りを入れる必要がある。
みこはビクッと肩を震わせ、俯きがちに答えた。
「えっと……学校の帰り道で、いつも通らない路地に入ったら、急に霧が出てきて……気づいたらここに……」
「ふーん。神隠しみたいなものね」
適当に相槌を打ちながら、私は内心で首を傾げる。
路地裏から異界へ。ありがちな展開だけど、問題はこの場所の「住所」だ。
「スマホ、持ってるんでしょ? 圏外じゃなかったら地図でも見てみなさいよ」
私の言葉に、みこは「あ、はい!」と慌ててブレザーからスマホを取り出した。
その画面が光った瞬間、私は思わず身を乗り出して覗き込んでしまった。
(うわー! スマホだ! 文明の利器だ! なんだか久しぶりに見たわ液晶画面!)
(ていうか、電波入ってんの? マジ? じゃあUberEats頼めるんじゃね!?)
文明への渇望が爆発しそうになるのを必死に堪え、私はみこのスマホ画面を凝視する。
彼女がマップアプリを開く。
現在地を示す青い丸が表示される。
そこには──
「……え?」
みこの声が裏返った。
私もまた、言葉を失った。
画面に表示されていたのは、見慣れた東京の地図だった。
新宿、渋谷、池袋……山手線の路線図もしっかりと見える。
だが。
私たちのいる「現在地」だけが、ぽっかりと空白になっていた。
まるで、そこだけデータが欠落したように。あるいは、何者かが意図的に地図から消し去ったように。
周囲はビル街や住宅地で埋め尽くされているのに、この神社の敷地だけが、不自然な緑色──いや、何もない「グレーの領域」として表示されている。
「ここ……東京、ですよね? 新宿のすぐ近く……?」
みこが震える指で画面をタップするが、何度更新しても結果は変わらない。
この場所は、地図に存在しない。
(はぁぁぁ!? 嘘でしょ!? 東京のど真ん中!?)
(ていうか、ここ新宿区!? マジで言ってる!? 地価いくらよ! 固定資産税どうなってんの!?)
私の脳内で、そろばんを弾く音が高速で鳴り響いた。
田舎の廃神社だと思っていた場所が、まさかの一等地。
だが、同時に背筋が凍るような事実にも気づいてしまった。
(待って。東京のど真ん中に、こんな広大な森と廃神社があって、地図に載ってない?)
(……それってつまり、ここはガチの『結界』の中か、あるいは認識阻害の術式が張られてる『特級呪物』レベルの土地ってことじゃん!)
UberEatsが届かないどころの話ではない。
ここは、物理的にも霊的にも「隔離」された、現代社会のバグみたいな場所なのだ。
私が冷や汗をかいていると、みこがおずおずと顔を上げた。
「あの……霊夢さん、ここって……」
「……どうやら、ただの迷子じゃ済まないみたいね」
私は精一杯の虚勢を張り、腕を組んでみせた。
内心では「お母さーん! おうち帰りたいー!」と絶叫しているが、顔だけは歴戦の勇者のように険しく。
「ここは『境界』の隙間。地図に載るわけがないわ」
それっぽいことを言って煙に巻く。
みこは「境界……」と呟き、ゴクリと唾を飲み込んだ。
その反応を見て、私は確信した。
この子はチョロい。そして、この「勘違い」こそが、私がこのヤバい土地で生き残るための唯一の武器になると。
「ちなみに、詳しい住所は出ないの? タクシー呼ぶにしても必要でしょ」
私が尋ねると、みこは「あ、そうですね」と頷き、詳細情報をタップした。
しかし次の瞬間。
ザザッ……!
スマホの画面に、不気味なノイズが走った。
住所が表示されるはずの欄が、まるで生き物のように蠢き、真っ黒な文字列で埋め尽くされる。
『■■区■■■■■ 呪呪呪呪呪呪死死死死死■■■ ミテルゾ』
血のような赤文字が、一瞬だけ浮かび上がっては消えた。
まるで、私たちが「見てはいけない場所」を覗き込んでしまったことを警告するかのように。
「ひっ!!」
みこが短い悲鳴を上げ、スマホを取り落としそうになるのを、私が慌ててキャッチする。
液晶画面はすでに元の地図アプリに戻っていたが、私の手のひらに残る嫌な冷たさは消えなかった。
(ギャァァァァ! 出た! Jホラー特有の電子機器バグ演出! やめて! そういうの心臓に悪いから!)
(絶対ウイルスだよ! 呪いのウイルス! 私の時代にはなかった恐怖!)
内面ではガクガク震え、なんならスマホを放り投げて逃げ出したかったが、ここでビビったら「最強の巫女」のメッキが剥がれる。
私は震える指先を必死に抑え込み、努めて冷淡に言い放った。
「……ふん。文明の利器じゃ、ここの座標は測れないってことね」
スマホをみこに放るように返却する*2。
みこは涙目でスマホを受け取り、ブレザーのポケットにねじ込んだ。もう二度と見たくないという顔だ。
しかし、住所がわからないというのは由々しき事態だ。
何が困るって、出前が取れない。宅配便も届かない。
そして何より──
『グゥ〜〜〜……』
私の腹の虫が、三度目の正直とばかりに咆哮した。
限界だ。思考よりも先に、胃袋が生存戦略を決定した。
住所なんてどうでもいい。霊的な結界とか呪いとか、今は知ったことじゃない。
私が欲しいのは、情報ではなくカロリーだ。
「……地図がダメなら、検索ワードを変えなさい」
私は低い声で命じた。
みこがビクッとして顔を上げる。
「え、あ、はい……何を調べれば……?」
「『コンビニ』よ」
私の瞳は、猛禽類のように鋭く輝いていた*3。
みこは戸惑いながらも、恐る恐るスマホを取り出し、震える指で検索窓に入力する。
『現在地周辺 コンビニ』
検索ボタンを押す。
グルグルとロード中のアイコンが回り──
ピン、という軽快な音と共に、結果が表示された。
『セブンイレブン ■■店 距離:300m』
(あったぁぁぁぁ!! 文明! オアシス! 角煮まん! ナナチキ!)
(300m!? 近っ! 結界とか言いつつめっちゃ近所じゃん! よかった、まだ日本だった!)
内心で歓喜のダンスを踊り狂う。
300mなら、子供の足でも5分もあれば着く。
救われた。これで餓死エンドは回避できる。
私はニヤリと口角を上げ、目の前の「
この子なら、一人でコンビニに行けるはずだ。
だってもう怪異は退治したし*4、300mだし。
私はこの神社を守らなきゃいけないし*5、何より巫女姿でコンビニに行くのはちょっと恥ずかしい。
完璧な作戦だ。
「……みこ」
私は彼女の名前を、あえて優しく呼んだ。
みこが「は、はい!」と背筋を伸ばす。
「貴方、喉乾いたでしょ? お腹も空いたんじゃない?」
「え、あ、いえ、私は……」
「遠慮しなくていいのよ。ほら、そこにお金もあるし」
私は自分の懐から、さっき巻き上げた五百円玉を取り出し、みこの目の前でヒラヒラとさせた。
元は彼女の金だが、今は私の所有物だ。
それを「貸してあげる」という
我ながら悪魔的発想だ。
「行ってきなさい。私の分も、適当に見繕ってきていいから」
「えっ!?」
みこの顔が絶望に染まった。
無理もない。ついさっき死にかけた場所から、一人で外に出ろと言われているのだ。
「む、無理です! 絶対無理です! 一人でなんて歩けません!」
「なによ、たかだか300mじゃない。子供のお使いだってできる距離よ」
「距離の問題じゃなくて! さっきの白いのも怖かったけど、この周り、もっとヤバいのがウジャウジャいる気がして……!」
みこが半泣きで首を振る。
彼女の「見える目」には、私には見えていない(見たくない)何かが映っているらしい。
チッ、使えない。
いや、ここで無理強いして、途中で彼女が食われたり、あるいは逃げ帰ったりしたら元も子もない。
五百円玉という貴重な財源と、今後スポンサーになり得る人材を失うリスクは避けるべきだ。
私は盛大に舌打ちをしそうになるのを堪え、深い溜息をついた。
仕方ない。ここは「最強の巫女」としてのアフターケアも含めて、同行してやるしかないか。
それに、よく考えたら私も自分で商品を選びたい。
肉まんか、ピザまんか。おにぎりならツナマヨか、それとも鮭か。
その選択権を他人に委ねるのは、グルメとして許されない。
「……はぁ。仕方ないわね」
私は立ち上がり、パンパンと袴の埃を払った。
そして、まだ怯えているみこに手を差し伸べる。
「特別に、私が護衛してあげるわ。……その代わり」
私はニヤリと笑った。今度は、隠しきれない欲望が顔に出ていたかもしれない。
「お釣りは全部、賽銭としていただくからね」
みこは私の差し出した手を、まるで救いの糸のように両手で握りしめた。
その手は温かく、そして小刻みに震えていた。
「はいっ……! お願いします、霊夢さん……!」
こうして、最強の巫女(偽)と最強の霊感少女による、「はじめてのおつかい(ハードモード)」が始まった。
目指すは聖地セブンイレブン。