石段を降りると、そこは予想以上に普通の住宅街……に見える場所だった。
アスファルトの道、立ち並ぶ電柱、ガードレール。
だが、決定的に何かがおかしい。
色彩が彩度を落としたように薄暗く、空気がネットリと肌にまとわりつく。そして何より、音がしない。車の走行音も、生活音も、一切聞こえてこないのだ。
「ひっ……うぅ……」
みこが私の袖をギュッと掴み、震えている。
彼女の視線の先──電柱の陰には、何かがいるらしい。
私には見えない。見えないが、オタクとしての勘が告げている。「アレは絶対に見ちゃいけないヤツだ」と。
(ちょ、みこちゃん? 握力強すぎない? 袖ちぎれる! ちぎれるってば!)
(ていうか、何が見えてんの? 実況しないでね! 「そこにいる」とか言わないでね!)
内心で絶叫しつつ、私は平静を装って前を歩く。
すると、前方の電柱から、ぬらりとした長い黒髪の女が顔を出した。
マスクをしている。ベージュのトレンチコート。
……ベタすぎる。あまりにもベタな昭和の怪異だ。
「……ワタシ、キレイ?」
しゃがれた声が響く。
みこが「ヒィッ!」と悲鳴を上げ、私の背中に隠れた。
私は足を止め、深いため息をついた。
恐怖よりも先に、呆れが勝ったからだ。
(うっわ、口裂け女じゃん! 平成初期かよ! 今どきその格好は逆に浮くって!)
(ていうか、マスクのサイズ合ってなくない? 顎はみ出てるよ?)
私は腕組みをして、その怪異を見下した(身長差で物理的には見上げているが)。
「マスクが安っぽいわね。不織布くらい買いなさいよ」
私の言葉に、女がピクリと反応した。
マスクの下で、口が耳元まで裂ける気配がする。
「……これでも、キレイ?」
マスクを剥ぎ取ろうとするその手。
みこがガタガタと震え出す。
めんどくさい。非常にお腹が空いているのに、こんな古典的な問答に付き合っている暇はない。
「整形外科紹介しようか? 高須クリニックなら知り合い(嘘)がいるけど」
私が冷たく言い放つと、口裂け女はポカンとしたように動きを止めた。
その隙を見逃さず、私はみこの手を引いて早足で脇をすり抜ける。
「行くわよ、みこ。あんな古臭いのに構ってたら日が暮れるわ」
「えっ、ええぇぇ……!?」
みこは涙目で振り返りながらも、私に引きずられていく。
背後で「ポマード……ポマード……」とブツブツ呟く声が聞こえた気がしたが、無視だ。
今の私にとって最大の敵は怪異ではない。
空腹という名の生理現象なのだから。
♢
数分後。
暗い道の先に、見慣れた三色の看板がぼんやりと光っているのが見えた。
オレンジ、緑、赤。
それは、この灰色の世界における唯一の希望の光。
「あ、あった……! セブンイレブンよ!」
私は声を弾ませ、小走りで駆け寄った。
みこも「よかった……お店だ……」と安堵の息を漏らす。
ガラス越しに見える店内は明るく、雑誌コーナーで立ち読みするサラリーマンや、レジに並ぶ主婦らしき姿も見える。
なんだ、普通じゃん。
警戒して損した。
私は拍子抜けしながら、自動ドアの前に立った。
ウィーン、と軽快な電子音を立ててドアが開く。
中から漂ってくるのは、空調の効いた少し冷たい空気。
「……ん?」
一歩足を踏み入れた瞬間、違和感が肌を刺した。
静かすぎる。
BGMが流れていない。レジ打ちの音もしない。コピー機の稼働音もしない。
そして何より、「いらっしゃいませ」の声がない。
まるで、ここだけ時間が凍りついたような、絶対的な静寂。
私が足を止めた、その時だった。
ザッ。
示し合わせたように、店内にいた「全員」が動いた。
立ち読みしていたサラリーマンが。
お弁当を選んでいたOLが。
レジカウンターの中にいた店員が。
全員が一斉に、機械的な動作で首だけを回し、入り口に立つ私たちの方を振り向いたのだ。
そして、その顔を見た瞬間。
私の背筋を、氷のような戦慄が駆け抜けた。
「…………」
ない。
目がない。鼻がない。口がない。
そこにあるのは、ただの肌色の曲面。
のっぺらぼう。
十数人の「顔のない人間」たちが、無言で、無表情(顔がないから当たり前だが)で、じっと私たちを「凝視」している。
「ヒッ……!!」
背後でみこが息を呑み、私の帯を強く握りしめた。
無理もない。これはキツい。
動物の化け物とかならまだ愛嬌があるが、これは純粋に生理的嫌悪感を煽るタイプの怪異だ。
(ギャァァァァ! 無理無理無理! 集合体恐怖症の逆バージョン!? ツルツルすぎて怖いってば!)
(なんで全員こっち見てんの!? 見えないでしょ目がないんだから! 視線を感じるのが一番怖いんですけど!)
内心では悲鳴を上げてダンスを踊りたい気分だったが、ここでも「最強巫女」のプライド(と空腹)が私をその場に踏みとどまらせた。
震える膝に力を入れ、私は眉間にシワを寄せた(顔があることのマウントをとるように)。
「……なによ。人の顔をジロジロ見て」
精一杯の虚勢。
しかし、のっぺらぼうたちは答えない。
ただ、ゆらりとその体を揺らし、一歩、また一歩と、私たちを取り囲むように距離を詰め始めた。
そして、その手元にある「商品」が見えた瞬間、私の怒りは恐怖を凌駕した。
サラリーマンが読んでいる雑誌は、ただの「泥の塊」。
OLが持っている弁当は、腐った「落ち葉の山」。
そしてレジカウンターに並んでいるのは──小石で作られた「おにぎり」と、泥水が入ったペットボトル。
「…………」
頭の中で、何かがプツンと切れる音がした。
(ふざけんなよ……)
(私の……私の純情を返せ! 空きっ腹に響かせた期待を! 脳内で再生した鮭ハラミの塩加減を! 全部返せよオラァァァァ!!)
絶望は怒りへ。怒りは殺意へ。
そして殺意は、純粋な破壊衝動へと昇華される。
私は懐から、大事に取っておいた一枚のお札(ただの紙切れ)を取り出した。
その瞳には、怪異すらも戦慄するほどの、ドス黒い炎が宿っていた。
「……おい」
地を這うような低い声。
のっぺらぼうたちが、ピタリと足を止める。
「人を騙すのは百歩譲って許すわ。顔がないのも個性の範囲内として認めてあげる」
私は一歩踏み出し、お札を頭上に掲げた。
カッ、と指先から紅白の霊力が迸(ほとばし)り、薄暗い店内を照らし出す。
「でもね……私の
みこが驚愕に目を見開く中、私は叫んだ。
「この……インチキ空間がぁぁぁ!! 私の食欲を舐めるなぁぁぁ!!」
私はお札を振りかざし、ありったけの霊力を叩きつけた。
それは破壊のためのスペルカードではない。
このふざけた幻覚を、理不尽な偽物を、根こそぎ「正常」に戻すための、純度100%の浄化の光だ。
「現実に! 戻れぇぇぇぇッ!!」
カッッッ!!
視界が白一色に染まる。
紅白の衝撃波が店内を駆け巡り、のっぺらぼうたちを、腐った商品を、そして澱んだ空気を、次々と洗い流していく。
ガラスが割れる音はしない。壁が崩れる音もしない。
ただ、世界が「あるべき姿」へと上書きされていく音だけが響いた。
……数秒後。
光が収まると、そこには静寂があった。
私は恐る恐る目を開ける。
目の前には、レジカウンター。
その向こうに立っているのは、狐耳の化け物でも、のっぺらぼうでもない。
少し眠そうな、名札をつけた人間のアルバイト店員さんだった。
「……あ、あの、お客様? 大丈夫ですか? 急に大声出して……」
店員が不思議そうに私を見ている。
周囲を見渡せば、サラリーマンが普通に雑誌を読み、OLがスマホをいじりながら弁当を選んでいる。
BGMには、聞き慣れたセブンイレブンの入店音が軽やかに流れていた。
(か、勝った……!)
(狐の化かしを、霊力ゴリ押しで解除してやったわ!)
私は震える手で、自分の握りしめていたものを見た。
そこにあるのは、茶色い枯れ葉ではない。
パリパリのフィルムに包まれた、愛しの「大きな具の鮭ハラミ」だった。
「……本物……」
じわり、と涙が滲む。
泥団子は幕の内弁当に。小石はツナマヨに。
ここは正真正銘、現代日本のオアシス、セブンイレブンだ。
そして、私の鼻腔をくすぐる、たまらない香り。
スパイシーで、ジャンキーで、暴力的なまでに食欲をそそる油の匂い。
視線をレジ横に向ければ、そこには
(ああ……! 後光が差して見える……!)
(お久しぶりです、ナナチキ様……! 会いたかった、揚げ鶏様……! 貴方たちに会うために、私は異世界転生してきたのかもしれない……!)
私はポロポロと涙を流しながら、ケースの中の
店員が「えっ、泣いてる……?」とドン引きしているが、知ったことではない。
これは祈りだ。聖なる儀式だ。
レジカウンターに、ドン! とカゴを置く。
おにぎり、パン、そして──
「……ナナチキ、二つ」
私は厳かに注文を告げた。
震える声で。しかし、確固たる意志を込めて。
「……あ、はい。ナナチキお二つですね。……全部で800円になります」
店員がトングで、神々しいキツネ色の塊を掴み上げる。
その瞬間、私の腹の虫が「グゥオオオオン!」と歓喜のファンファーレを鳴らした。
「みこ。……支払いを」
私は感動を噛み殺し*1、背後で腰を抜かしているみこに振り返って告げた。
その声は、勝利者の凱旋のように力強かった。
「……え、あ、はいっ!」
みこは慌てて立ち上がり、財布を取り出す。
こうして、最強の巫女(偽)による「異界コンビニ強行浄化作戦」は、無事に大勝利(お買い上げ)で幕を閉じたのだった。
店の前の縁石に二人並んで座り、熱々のチキンにかぶりつく。
ジュワリと溢れる肉汁。スパイシーな衣の刺激。
それは、私の枯渇した身体に染み渡る、生命の味だった。
「……んまぁぁぁぁ……!!」
思わず声が出る。
生きててよかった。転生してよかった。
隣のみこも、おにぎりを頬張りながら、安堵の涙を流して笑っていた。
食後の余韻に浸りながら、みこがコンビニの袋にゴミをまとめる。
私は最後の一滴まで肉汁を舐め取り、油で汚れた指をティッシュで拭いた。
「あの……霊夢さん」
ゴミをまとめたみこが、もじもじしながら私を見上げている。
その頬は、夕焼けのせいか少し赤らんで見えた。
「その……霊夢さんのこと、もっと知りたい、です」
蚊の鳴くような声。しかし、まっすぐな瞳。
その言葉の意味を理解するのに、私は数秒を要した。
(えっ、なにその告白!? もっと知りたいって、私のこと!?)
(待って待って、みこちゃんってそっちの気がある子だったっけ? 確かに私はガチ百合勢だけど、リアルで来られると心の準備が!)
内心で大パニックを起こし、顔から火が出るかと思った。
しかし、すぐに冷静な自分が「違うだろ」とツッコミを入れる。
彼女が見ているのは「私」ではなく、私の持つ「最強の結界(安全地帯)」だ。
要するに、「またここに来て、守ってもらってもいいですか?」という婉曲的な契約交渉に過ぎない。
……ちぇっ、なんだ。
少しだけガッカリした*2が、これはチャンスだ。
スポンサーの囲い込み。リピーターの確保。
ビジネスチャンスを逃す手はない。
「……ふん、物好きね」
私は照れ隠しにそっぽを向き、腕を組んでみせた。
「別に、来るなとは言わないわよ。……ただし」
チラリとみこを見る。
「タダでとは言わないわよ? 賽銭箱にお布施を入れてくれるなら、歓迎してあげる」
その言葉を聞いた瞬間、みこの表情がパァッと明るくなった。
まるで、捨て犬が飼い主を見つけたときのような、全幅の信頼を寄せた笑顔。
「はいっ! ありがとうございます! また来ます、絶対に来ます!」
「う、うん。……ほどほどにしなさいよ」
そんなに嬉しそうにされると、こっちまで調子が狂う。
私は咳払いをし、彼女に背を向けた。
「じゃあね。暗くならないうちに帰りなさい。……帰り道、気をつけて」
「はい! 霊夢さんも!」
みこは何度も振り返りながら、手を振って去っていった。
その背中が見えなくなるまで、私はなんとなくその場に立ち尽くしていた。
(……はぁ。行っちゃった)
一人になると、急に周囲の音が静かになった気がした。
お腹はいっぱいになったけれど、心には少しだけ隙間風が吹く。
寂しい? 私が? まさか。
私はボロボロの草履を踏みしめ、神社の石段を登り始めた。
これからどうする。
もっと強くならなきゃ。もっと稼がなきゃ。
そして、いつか絶対に──
「……おや。お戻りかな?」
決意を新たに鳥居をくぐった、その瞬間だった。
拝殿の前。
そこには、一人の男が待ち構えていた。