神社の石段を降り、閑静な住宅街を歩くこと十数分。
周囲の空気が、明らかに変わった。
湿度が急激に上がり、肌にまとわりつくような不快な重みが漂う。空は晴れているはずなのに、この一角だけ薄墨を流したように暗い。
カラスの鳴き声すら聞こえない、異様な静寂。
そして、目の前にそびえ立つ、その家。
鬱蒼と茂った雑草に覆われ、壁には蔦が血管のように絡まりつき、窓という窓が変色したガムテープで目張りされた、典型的な「幽霊屋敷」。
門柱には、掠れた文字で『佐伯』という表札がかかっている。
「ひっ……こ、ここですか……?」
みこが私の袖をギュッと掴み、ガタガタと震え出した。
彼女の視線の先──二階の窓の隙間から、ドス黒いヘドロのような何かがドロリと垂れているのが、私にも見えた気がした。
(うっわぁ……想像以上に『呪怨』してるわ。美術スタッフ仕事しすぎでしょ)
(これ絶対、中に入ったら二度と出られないやつじゃん。セーブポイントどこ?)
内心では「帰りたい」の大合唱だったが、背に腹は代えられない。
今の私に必要なのは、恐怖心よりも生活必需品だ。
ここにはきっと、前の住人が残していった使える家具や家電が眠っているはず!
私はお祓い棒*1を片手に、ズカズカと敷地内へ侵入した。
錆びついた鉄門を押すと、キィィィ……と鼓膜を逆撫でする音が響く。
玄関ドアは鍵がかかっていなかった。不用心極まりない。
ギギギ……と扉を開けると、そこには埃っぽい廊下が広がっていた。
意外にも、中はそこまで荒れていない。ただ、空気が澱みきっている。
「お邪魔しまーす。……あら、意外と立派な家具があるじゃない」
私は値踏みするような目で屋内を見渡す。
アンティーク調の鏡台、重厚なソファー、そして何より──掃除用具入れらしき戸棚を発見した。
と、その時だった。
──ニャァ。
足元の暗がりから、白い影が飛び出した。
猫? いや、違う。
パンツ一丁の、全身真っ白に塗られた男の子だ。
佐伯俊雄。
その黒目がちの大きな瞳は、どこまでも虚ろで、底知れぬ闇を映している。体育座りをして、こちらをじっと見上げているその姿は、生きた人間とは決定的に何かが違っていた。
「ひぃっ!!」
みこが悲鳴を上げて私の背中に隠れる。
だが、私は即座に反応した。
恐怖よりも先に、私の脳内で電卓が弾かれ、「使える」という直感が走ったからだ。
「……あら、手頃なサイズ」
私はしゃがみ込み、俊雄と視線を合わせた。
普通の人間なら目を逸らすだろう。だが、私は今「金欠の博麗霊夢」だ。怖いものなど*2ない。
「あんた、狭いところとか入るの得意でしょ? 縁の下の掃除とか、家具の隙間の埃取りとか」
俊雄が「ニャ?」と首を傾げる。
その口の中が、ありえないほど黒く深い。
「採用。今日からあんたは、博麗神社の『隙間産業部門』担当よ。給料は煮干し一本からスタートね」
私は懐からお札を取り出し、俊雄が逃げる隙を与えることなく、その額に「ペタリ」と貼り付けた。
カッ!
お札が淡く発光し、俊雄がビクッとして動けなくなる。
よし、まずは一人確保。小回りの利く人材(?)ゲットだぜ。
──あ、あ、あ、あ……。
その直後。
世界が歪むような感覚とともに、二階の階段の上から、あの耳障りな音が響いてきた。
喉の奥を潰したような、カエルの鳴き声にも似た不気味な怨嗟。
見上げれば、手すりを掴む青白い手。
関節を無視した動きで、蜘蛛のように這い降りてくる血まみれの女。
伽椰子だ。
圧倒的な怨念と殺意が、黒い奔流となって階段を雪崩れ落ちてくる。
そのプレッシャーは、先ほどの俊雄とは桁が違う。本物の「呪い」の具現化だ。
「…………ッ!!」
みこが腰を抜かしてへたり込む。
普通の人間なら心臓麻痺レベルの恐怖映像だ。実際、私の心臓も早鐘を打っている。
だが、今の私には「労働力不足」という切実な悩みと、「ここまで来たからには手ぶらでは帰れない」という貧乏根性があった。
(すごい。あの動き、人間業じゃない。スパイダーマンもびっくりだわ)
(……ってことは、あんな動きで雑巾がけしたら、手の届かない天井や梁もピカピカになるんじゃない?)
閃いてしまった。
恐怖よりも
私は立ち上がり、這い寄ってくる伽椰子に向かってお祓い棒を突きつけた。
「おい、そこの不法占拠者!」
私のドスの利いた声に、伽椰子の動きが一瞬止まる。
血走った目が、私を凝視する。
「家賃も払わずに人を呪って遊んでる暇があったら、働きなさい! そのスパイダーウォーク能力、高く買ってあげるわ。神社の高い天井の梁を、その髪の毛で拭き清めるのよ!」
「……あ、あ……?」
伽椰子が困惑したように声を漏らす。
まさか、呪いに来て「就職の勧誘」をされるとは思っていなかったのだろう。
だが、私は畳み掛ける。
「嫌とは言わせないわよ。断るなら、この家ごと『夢想封印』で更地にして、あんたらの居場所を無くしてやるわ!」
私は懐から、ありったけのお札*3を取り出し、扇のように広げて見せた。
ハッタリだ。でも、霊力マシマシの、特大のハッタリだ。
私の背後には、空腹と生活苦による「鬼」のようなオーラが立ち昇っているはずだ。
伽椰子が怯む。その一瞬の隙を見逃さず、私はお札の一枚をシュッと投げつけ、彼女の動きを封じた。
「はい、採用! あんたは『高所清掃部門』のチーフね! 異論は認めない!」
お札が伽椰子の額に張り付き、彼女の動きがピタリと止まる。
こうして、日本ホラー界最強の怨霊親子は、あっけなく*4私の軍門に下った。
「……さあ、行くわよ。道具と人員は確保したわ」
私は右手に俊雄の首根っこを、左手で伽椰子の長い髪の毛を掴んで引きずりながら、唖然としているみこに振り返った。
その顔は、勝利者の凱旋のように晴れやかだった。
「帰って大掃除の続きよ。……これぞ、博麗神社復興のためのドリームチームね! さあ、働くわよあんたたち!」
みこの「……どこがですか。これじゃ百鬼夜行じゃないですか」というツッコミは、廃屋の闇に虚しく吸い込まれていった。
こうして、私の神社には「最強の戦力*5」が加わることになったのだった。
♢
――そして、現在。
博麗神社は、異様な熱気……もとい、異様な妖気に包まれていた。
「あ、そこ! 伽椰子さん、梁の裏側に埃が残ってるわよ! ちゃんと関節外して奥まで拭きなさい!」
「……あ、あ、あ……」
天井を見上げれば、四つん這いになった伽椰子が、重力を完全に無視した動きで天井の梁を這い回り、その長い黒髪をモップ代わりにして高速拭き掃除を行っていた。
カサカサ、ズリズリという音と共に、長年蓄積された埃が物理的に削ぎ落とされていく。
時折、関節が「ゴキッ」と鳴る嫌な音が響くが、本人は無表情で作業を続けているので良しとする。
「俊雄くん、縁の下のシロアリ駆除は終わった? 終わったら次は雑草抜きよ。根っこから引き抜かないとダメだからね」
「ニャァ……」
庭を見れば、パンツ一丁の俊雄が、驚異的なスピードで地面を這い回り、雑草をむしり取っている。
全身白塗りだった肌は、すでに泥と土で茶色く汚れ、もはや「呪いの化身」というより「泥んこ遊びに夢中な野生児」にしか見えない。
その姿はさながら、自動草むしり機能付きの白いルンバだ。
(ふっふっふ……壮観ね)
(人件費ゼロ! 労災なし! 24時間稼働可能! これぞ、私が求めていた理想の職場環境*6だわ!)
私は縁側で、みこが淹れてくれたお茶をすすりながら、満足げに頷いた。
自分は指一本動かさず、最強の怨霊たちをこき使って家を綺麗にする。
これ以上の贅沢があるだろうか。
みこは私の隣で、引きつった笑顔のまま固まっている。彼女の目には、この光景が「地獄絵図」にしか見えていないのかもしれない。
「れ、霊夢さん……これ、本当に大丈夫なんですか? 呪われたりしませんか?」
「平気よ。こいつらも、久しぶりに人に構ってもらえて嬉しそうじゃない。ほら、目が輝いてるわよ」
嘘である。
伽椰子の目は完全に死んでいるし、俊雄は疲労で少し透け始めている。
だが、大家の命令は絶対だ。この世界は、力が強いものがルールを作る。
と、その時。
廊下の奥、社務所の方から、新たな気配が漂ってきた。
湿った、冷たい空気。そして、ブラウン管テレビ特有の「キィィィン」という高周波音。
ザッ、ザッ、ザッ。
砂嵐の音と共に、佐伯邸から持ち出した古いテレビが勝手についたのだ。
画面には、見覚えのある古井戸。
そして、そこから這い出してくる、長い髪の女。
「……あ」
みこが息を呑む。
貞子だ。
まさか、テレビごと憑いてきてしまったらしい。
貞子は画面からぬらりと上半身を出し、今まさに、拭き掃除が終わったばかりの綺麗な床に手をかけようとしていた。
(うわ、マジか。貞子さんまで参戦? オールスター感謝祭かな?)
(でも待って、今ちょうど床のワックスがけが終わったところなんですけど!)
私は湯呑みをドンと置き、眉間に深いシワを寄せた。
画面の向こうは井戸だ。ということは、貞子の足元は泥だらけのはずだ。
そんな汚い足で、私のピカピカのフローリングを歩かれてたまるか。
「ちょ、ちょっと待ちなさい!」
私は叫んだ。除霊のためではない。清掃責任者としての、魂からの怒号だ。
「あんた、足! 足拭いてないでしょ! 土足厳禁って学校で習わなかったの!?」
貞子の動きがピタリと止まる。
長い髪の隙間から、「え、そこ?」という困惑の波動がビシビシ伝わってくる。
「入るなら足を拭く! 拭けないなら、その長い髪で床を磨きながら進みなさい! それがここのルールよ!」
私は近くにあった雑巾を丸めて、貞子の顔面にシュートした。
ボフッ、といい音がして命中し、濡れた髪に張り付く。
(……やった。日本のホラー界の頂点に雑巾ぶつけたった)
一瞬の静寂。
次の瞬間、テレビ画面が激しく明滅し、部屋中の空気がビリビリと震え出した。
貞子がキレた。
念動力の嵐が吹き荒れ、障子がガタガタと揺れ、畳がめくれ上がる。
「……ッ!!」
みこが悲鳴を上げて私にしがみつく。
天井で掃除していた伽椰子も、ビビって動きを止めて縮こまっている。
だが、私は一歩も引かない。
今の私は、空腹と労働のストレスで、ある意味「最強」の状態にある。
「あぁん? 逆ギレ? いい度胸ね」
私はお祓い棒を構え、画面から半分飛び出している貞子に向かってメンチを切った。
「あんたのその呪いのビデオ、ダビングしてメルカリで売り捌いてやろうか? それとも、そのテレビごと粗大ゴミ回収日に出してやろうか?」
ドスの利いた脅し。
そして、全身から放たれる「めんどくさい女」のオーラ。
数秒の睨み合いの末、貞子の念動力が霧散した。
彼女は大人しく雑巾を手に取り、念動力で器用に床を拭き始めた。
その動きは精密機械のように正確で、人間の手では不可能な速度で床を磨き上げていく。
「……よし。採用」
私はニッコリと笑い、みこに親指を立てて見せた。
「これで『床拭きルンバ部門』も確保ね。完璧な布陣だわ。コンセントいらずのエコ家電よ」
しかし、カオスはまだ終わらない。
直後、部屋の隅に転がっていた、誰のとも知れない赤いガラケーから、あの不快なメロディが響き渡ったのだ。
――ピロリロリン、ピロリロリン……♪
『着信アリ』の死の予告。
「……もしもし……美々子だよ……」
「……三日後の夜……雨が降るよ……お姉ちゃん、死んじゃうよ……」
勝手にスピーカーから流れる、幼い少女の声。
本来なら恐怖で震え上がる場面だ。
だが、私は天を仰ぎ、そして盛大に舌打ちをした。
(三日後? はぁ?)
(こちとら今日中にリフォーム終わらせたいのに、そんな悠長なこと言ってられるか!)
私はガラケーをひっ掴み、画面に向かって怒鳴りつけた。
「三日後? 遅いのよ! 殺る気があるなら今すぐ来なさい! 順番待ちなんてさせてんじゃないわよ!」
「……え?」
「三秒以内に来ないなら、この携帯ごとへし折って着信拒否にするわよ! カウントダウン開始! 3、2、1……!」
――ギャアアアア!!
理不尽な挑発にブチ切れた美々子が、赤い霧と共に包丁を持って飛び出してくる。
速い。即日納品だ。素晴らしい。
私は冷静にその額へお札を「バァン!」と叩きつけ、動きを封じた。
「はい、採用! あんたは『草むしり部門』担当! その包丁で庭の頑固な雑草を根こそぎ刈り取りなさい! 根絶やしにするまで休憩なしよ!」
美々子は涙目でコクコクと頷き、庭へと走っていった。
……こうして。
天井には伽椰子。床下には俊雄。床には貞子。庭には美々子。
Jホラーオールスターズによる、涙ぐましい強制労働環境が完成した。
これぞ、博麗神社復興のためのドリームチーム。
みこが遠い目をして呟く。
「……ここ、本当にお祓いが必要な場所なんじゃ……」
その言葉は、掃除機の音*7にかき消されていった。
「ふぅ……。ちょっと休憩にしましょうか」
私はパンパンと手を払い、縁側に腰掛けた。
目の前では美々子が、まるで親の仇のように雑草をザクザクと切り刻んでいる。俊雄がその横で、抜けた草をせっせと集めている。
なんという連携プレー。
私はリュック*8から、とっておきのアイテムを取り出した。
みこが持ってきてくれた、冷えたオレンジジュース。
そして、さっき美々子が落とした赤い飴玉。
「……ん?」
美々子が手を止めて、恨めしそうにこちらを見ている。
自分の飴だと言いたいらしい。
「あげるわけないでしょ。これは労働契約の手付金代わりよ」
私は飴の包み紙を剥き、口に放り込んだ。
甘い。ちょっと鉄の味がする気もするけど、糖分は正義だ。
「……あの、霊夢さん」
みこが、遠慮がちに私の隣に座る。
その視線は、庭で働く怨霊たちと、私を交互に行き来している。
「本当に、このまま神社に住むんですか? ……こんな、お化け屋敷みたいなところで」
「失礼ね。今はリフォーム中よ。完成したら、きっと素敵なパワースポットになるわ」
私は強がって見せたが、本音を言えば不安がないわけではない。
夜になれば、こいつらが反乱を起こすかもしれない。
食料だって、いつまで持つか分からない。
でも。
「……みこが来てくれるなら、まあ、悪くないかもね」
ボソリと呟く。
みこが目を見開き、パァッと顔を輝かせた。
「はい! 毎日来ます! お弁当持って、また来ます!」
「……お弁当は大歓迎よ」
照れ隠しにジュースを啜る。
ストローがズズッと音を立てた。