『どうでもいい』が、救済に見えた 〜因習村のTS少女は、死に向かう余暇を愛でる〜   作:つるぺたは正義

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第一話

 視界のすべては、白かった。

 

 ひび割れた天井の染み。鼻を突く消毒液の匂い。

 呼吸をするたびに、肺の奥を錆びたナイフでなぞられるような痛みが走る。

 生きることはその痛みを維持する作業であり、俺にとっての世界は白いカーテンに囲まれた数メートルの空間ですべてだった。

 

 だから肺が動かなくなり、意識が白濁していく最中で、ようやく訪れた静寂を俺は受け入れた。

 もう、あの染みを数える必要はない。痛みにのたうち回る義務もない。

 それは、二十年間の強制労働の果てに、ようやく手にした解放だった。

 

 

 ──はずだった。

 

「……あ、あぁ……。よかった、起きた、んだね……っ」

 

 湿った声が聞こえた。

 不快な機械音ではない。もっと生々しく、熱を持った震える声。

 ゆっくりと瞼を持ち上げると、視界に飛び込んできたのはあの忌々しい白ではなかった。

 重厚な太い梁が通る、木造の天井だ。

 

(……死んだんじゃ、なかったのか。ここは、どこだ?)

 

 肺が焼けていない。

 空気を吸い込むだけで、体中が心地よい熱に満たされる。

 指先を動かしても、あの不快なチューブの抵抗感がない。

 

 傍らには、一人の子供が座り込んでいた。

 白い小袖に鮮やかな緋色の袴を纏った彼女は、俺の手を必死に握りしめていた。

 見たところ、まだ十歳にも満たない幼い少女だ。

 

 上体を起こそうとして、指先の小ささに違和感を覚える。

 寝台の脇に置かれた水盆を覗き込むと、そこには雪のように白い髪と、血を思わせる紅い双眸を持つ幼子の姿があった。

 すべてを諦めきったような、酷く冷めたジト目。

 手で自分の顔をむにむにと触り、俺はこの可愛らしい少女が今の自分そのものなのだと悟る。

 

(……ぐっ、ああ……。なんだ、今の……)

 

 同時に、意識の底からひどく冷たい泥のような記憶がせり上がってきた。

 焼け付くような頭痛とともに、視界がチカチカと明滅する。

 

「ここは、貴女のお屋敷だよ。ごめんね、あんなにひどい修行、耐えさせて。三日も、三日も眠ったままだったから、私……っ」

 

 ︎︎修行──少女が口にしたその言葉に呼応するように、記憶の残滓が痛みとして形を成す。

 暗い場所。暴力的なまでの魔力の奔流。焼き切れるような神経の痛み。それらのあまりの恐怖と激痛に、この身体の本来の持ち主は、耐えかねて自分から精神を切り離したのだ。

 

(……心が、折れたのか。耐えきれなくなって、逃げ出したんだな)

 

 そうして空っぽになった器に、俺が滑り込んだ。

 そんな奇妙な納得感が、熱を持った少女の手からも伝わってくる。

 

「あなた、は?」

「依代様……? ︎︎私だよ、サチだよ。無理しないで、まだ、頭がぼんやりしてるんだよね」

 

 少女はサチと名乗った。

 依代──涙で顔を濡らした少女の口から、不穏な単語が零れ落ちる。

 

 蘇るは身体の持ち主の断片的な記憶。

 どうやら俺は、あと数年でバケモノに喰われて死ぬらしい。

 今はそのための修行の真っ最中というわけだ。

 

 

(……なんだ。それだけか)

 

 サチに抱きしめられながら、俺は彼女の髪から漂う陽だまりのような匂いを吸い込んだ。

 

 こちとら、いつ終わるとも知れぬ激痛に二十年も耐え続けてきたのだ。

 まともに呼吸ができて、あろうことか外を出歩ける。

 それだけでこの環境は、俺にとってまさしく天国と言えた。

 

 

「泣かないで、サチ」

 

 小さな白い手を、彼女の背中に回した。

 

「私は、大丈夫。……別に、どうでもいいよ」

 

 サチは、ひっと息を呑んで俺を引き剥がした。

 潤んだ瞳が、俺の顔を覗き込む。

 

「……どうでもよく、なんてないよ。ごめんね、ごめんね……っ。貴女が、こんな目に。私がもっと、しっかりしていれば……っ」

 

 サチの口からこぼれ出る謝罪の先は、きっと俺じゃないんだろう。

 この身体の本来の持ち主──過酷な修行に心を閉ざした少女に対するものだろう。

 

(たしかに、小さい女の子にとっては大変な痛みだったよな……)

 

 修行の記憶にある身体の痛みは、前世の俺にとってはすこぶる体調が良い日のそれでしかなかったけれど。

 それでも不快には違いないし、慣れたい痛みでないのは確かだ。

 

(こんな楽しい死後をプレゼントしてもらったんだ)

(まずはこの子の憂い、取り除いてあげないとな)

 

 俺は、内心でそう決意する。

 これほどの幸福を享受している自分が、彼女の悲しむ顔を見続けるのは居心地が悪かった。

 

「私は、大丈夫。なにも、気にする必要なんて、ないんだよ?」

 

 ︎︎安心させるように、俺はそう微笑んだ。

 ︎︎その言葉を聞いてサチは、その端正な顔をくしゃりと歪める。

 

 ふと窓の外を見れば、前世で一度も触れることのできなかった眩しいほどの青空が、どこまでも広がっていた。

 肺の奥まで吸い込んだ何の混じり気もない空気は、それだけで穏やかな生を実感させる。

 俺は満たされた心地のまま、静かに目を閉じた。

 

 

 

 ︎︎彼にとっての最大の誤算。

 ︎︎それは転生先の少女が、あまりに儚げな空気を纏っていたことだろう。

 ︎︎どこか幻想的で、それでいて健気に微笑む姿は、意図とは真逆の印象を与えていた。

 

 さらに最大の不幸は二十年間という闘病生活の末、彼がコミュニケーション能力という概念を投げ捨ててしまったことであり。

 ──決して二人の会話は交わらぬまま、静かに運命の歯車は回り出すのであった。

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