俺は一度、普通になろうとした。
禪院を出てからの話だ。
「んじゃ、僕は世界一周でもしようかな」
「オマエ、金あんのか?」
「現金ならたっぷり。ほら、こうやって影にしまえるからさ。ちょっと重いけど筋トレになるし」
「……少し寄越せ」
「遠慮しないでよ。僕と甚爾兄ちゃんの仲でしょ? 半分あげる! こっちのケースに入れとくね!」
「……ありがとよ」
「いいよ! じゃあね〜」
こんな感じで歳の離れたクソ生意気な弟は、さっさとどっかに行っちまった。
当分働かなくてよくなった俺も適当に街をフラフラしてたんだ。
パチンコ打って、競馬やって、たまに喧嘩して。
俺の腕っぷしを買ったブローカーから仕事をもらうこともあった。
殺しの仕事だけはしなかった。
人探しとか、お尋ね者の捕獲とかをやった。
金に困っちゃいなかったし、簡単に殺すよりある程度制限を加えた方が面白かったからな。
闘也のせいか?
アイツのゲーム脳が移っちまったのかもしれねえ。
あの家を出て、あの名前を捨てて、血と呪いとクソみたいな序列から距離を置いて。
俺は自由だった。
あまりにも退屈で、だが何にも縛られない人生。
そのうちに金が無くなってきて。
ついでに人生の退屈さに少し飽きてきた頃に。
一人の女と出会った。
特別な女じゃない。
呪術の世界とも関係のない、ただの一般人だ。
だが俺にはそれで良かった。
いや……それが良かったのかもしれねえ。
それからは生活が変わった。
昼間に街をフラフラするのは変わらねえが、夜はアイツがいる家に帰る。
それだけの生活が妙に落ち着いた。
そんで気が付いたら結婚した。
笑えるだろ。
俺がだ。
それなりに真面目にもなった。
街でやる喧嘩は減った。
金が無くなっても、それでも割りの良い殺しの仕事は選ばなかった。
守るもんができたからな。
それに、殺しはアイツが嫌がるだろう。
子供が生まれた。
男の子だ。
理由は特にない。
ただ、俺がそう呼びたかった。
腕の中のそいつは小さくて、温かくて……妙に重かった。
重さってのは嫌いじゃない。
生きてる感じがする。
それからしばらくは穏やかだった。
人生ってのは悪いもんじゃねえと、柄にも無く思っちまってた。
だが長くは続かなかった。
突然妻が倒れた。
病院に運ばれて、検査をして。
医者が難しい顔をした。
脳腫瘍だと言われた。
即入院した。
詳しい説明はよく覚えていない。
助かる可能性は低い。
そういう話だった。
なけなしの金を積んだ。
色んなやつに頭を下げた。
できることは全部やった。
だが、医者は首を振るだけだった。
ブローカーには話せなかった。
一応味方だが、無闇に弱みは見せられねえ。
呪術のせいじゃない。
呪霊憑きでもない。
ただの病気だ。
だから、俺の力は役に立たない。
何億もする呪具だって無駄だ。
……クソったれ。
何度も思った。
あの時、あの家を完全に焼き払っておけばよかった。
そうすりゃこういう理不尽を憎む場所が残らなかった。
恵はまだ一歳にもなっていない。
妻は日に日に痩せていった。
眠っている時間が増えて目を開ける時間が減った。
ある夜。
妻が手探りで俺の手を握った。
「恵をお願いね」
微笑んだ。
綺麗だった。
初めて、涙を流した。
それ以上何も言わせなかった。
言わせたくなかった。
……俺は強い。
だが、こういう時だけは何もできない。
妻を簡単に寝かしつけてから、俺は一人で外に出た。
情けねえことに逃げたんだ。
酔えねえのに酒を買って飲んだ。
そうしていたら……救いの手が差し伸べられたんだ。
「あれ? 甚爾兄ちゃんじゃん。なにしてんの?」
「は? 闘也か? オマエ、なんでここに……!」
そうだ。
闘也だ。
こいつなら、何かできるかもしれない。
俺の想像の範囲外にいるこいつなら。
藁にも縋るってのはこういうことだ。
「闘也! 頼む! 俺の妻を助けてくれ!!」
一層逞しくなりやがった俺の弟は、昔と変わらねえまん丸な目をぱちくりとさせた後、表情を引き締めた。
「わかった。話聞かせて!」
闘也が眠る妻の前で唱えた『ケアルガ』と『エスナ』。
どっちもよくわからねえが、体力を回復させて身体の異常を治すらしい。
確かに顔色は一気に良くなって、呼吸も安定した。
神に感謝するってのはこういうことかもしれねえ。
俺は初めて人の目があるところで涙を流した。
「闘也。ありがとう。恩に着る」
「いいよ。甚爾兄ちゃんの役に立てたなら嬉しい。でも……」
「なんだ?」
「僕は医者じゃないからわからないけど、まだ安心できないと思う」
闘也の懸念通りだった。
翌朝の検査で、妻の脳腫瘍は消えていないことがわかった。
医者は検査ができるほどに回復した妻の体力を褒め称えたが、終わらない悪夢に俺は絶望していた。
闘也と妻の初対面は和やかだった。
巨大な手に軽く驚きつつ、俺にこんな穏やかな弟がいることを妻は喜んだ。
その理由は明らかだった。
どうせ『私がいなくなったあとも甚爾をよろしく』とでも言うつもりなんだろう。
やめてくれ。
だが、妻が言いたがったことを闘也はさりげなく遮っていた。
こういう卒が無いところが生意気なんだが、今は参っちまってるから助かった。
病院の休憩室で闘也と二人きりになる。
「もっと根本的な治療ができる可能性はある」
「言え」
「僕の術式の奥の手……『セフィロス』を調伏する」
闘也の言葉を聞いた瞬間、
背骨に冷たいものが走った。
セフィロスなんて名前に心当たりはねえ。
だが、あの闘也がマジな目をしてやがる。
それだけで楽なもんじゃねえってことがわかる。
「調伏、か。確かに俺ならオマエの調伏の儀に参加しても大丈夫だったな」
あのクソみたいな家にいた頃に一度手伝ったことがあった。
本来なら一人で調伏しなければ無効となる調伏の儀も、呪力ゼロの俺だけは例外だった。
一回試した後は『やれることはやるのがゲーマーの性だけど、簡単すぎるのもつまらないよね』とか闘也が言って、二度と援軍に呼ばれることはなかったが。
「うん。でもこれは本当に危険だ。そもそも本当に『セフィロス』なのかも確定はしていない。そして調伏できたとして、その上で奥さんが元気になる可能性があるかもって話だよ」
「その可能性ってのを聞かせろ」
「成功すれば……"命を元の形に戻す"ことができる呪文が使えるはずだ」
闘也は一人の式神を影から呼び出した。
「彼は『クラウド』。さっきの呪文の本来の使い手だ。『セフィロス』もまた同じ系統の呪文の使い手なんだけど、格が高いからより多くの呪文が使えるはずなんだ」
闘也は式神を消して一度言葉を切って、また話し始める。
「僕の見立てでは……今の奥さんは、体力の最大値が極限まで下がっていて、病気っていう"状態異常"を治そうとしても効果が無い状態だ」
「だからセフィロスの使える呪文『アレイズ』で体力を完全に回復させる。これで病気もいっぺんに治るかもしれないし、治らなくてもその状態でなら、『エスナ』が効くと僕は思ってる」
それだけ聞けりゃ十分だ。
失敗したらどうなるかは聞かなかった。
死ぬことは明らかだからだ。
「やる」
闘也は、少しだけ困った顔をした。
「……僕が奥さんに定期的に『ケアルガ』をかけ続ければ、多分これ以上悪化はしないよ?」
「オマエも一緒に一生ベッドの上ってか? そんなもんアイツが首を縦に振らねえよ」
「時間を稼いでる間に他の安全な方法が見つかるかもしれない」
「そりゃそうだ。だが、ある日いきなり急変する可能性だってある。悠長なことは言ってられねえ」
「……奥さんと心中したら、息子さんが悲しむよ」
「……成功すりゃいいんだ。そうだろ?」
俺は肩を回した。
「それともなんだ。禪院の麒麟児と言われた天才児サマが、自信がないからできませんってか?」
虚勢だった。
だが、俺は口角を無理やりに上げて獰猛に笑った。
闘也もまた笑った。
「下手な挑発だね。でも、わかった。やろう」
話はまとまった。
「セフィロスとやら相手の時間稼ぎでも囮でも何でもやる……オマエもすぐに準備しろ。時間がねえんだ」
闘也は小さく息を吐いて、笑った。
「いやあ、相変わらずだね。甚爾兄ちゃん」
「悪いか」
「ううん。嫌いじゃない」
その夜。
山奥に二人で集まった。
闘也が帳を降ろす。
「これで僕たちは調伏の儀が終わるまで出られない。退路を断つことで、少しだけど僕たちにバフがかかるよ」
いいじゃねえか。
誰も出入りできないリングの完成ってやつだ。
邪魔だけはされたくねえからな。
闘也が影に手を沈める。
「来てくれ」
地面が鳴いた。
影から這い出てきたのは、あのふざけた格好でデタラメな強さをした式神たち。
だが、やつらはいつものハッキリとした形を失っている。
「『ガノンドロフ』、『ドンキーコング』、『アイク』、『キャプテン・ファルコン』。僕が使役する式神の中で一撃に特化した人たちだ」
「そして君たちを……融合させる。もう元には戻れない。ごめんよ」
闘也の声が低くなる。
不定形の式神たちが溶けて混ざっていく。
何かが変質する音を出しながら、確固たる姿を取り戻していく。
そうして現れたのは見上げるほどの巨漢。
様々な種族が混ざり合った強者が誕生していた。
「短期決戦しかない。そして放つのは究極の一撃」
「これで『セフィロス』を確実に"落とす"」
「当然、溜めに時間がかかる。僕も動けない。隙だらけだ。だから――」
「分かってる」
俺は前に出た。
「それまで俺が相手をする」
「任せたよ。じゃあ、呼ぶ」
その瞬間だった。
世界が切れた。
音もなく空間が縦に裂ける。
そこから"それ"は現れた。
長い銀髪。
異様に細い身体。
背中に生えた一本の黒い翼。
長すぎる刀は、殺意が具現化したみてえだ。
「セフィロスだ!! 間違いないよ!!」
闘也の声には歓喜と恐怖が入り混じっている。
……冗談じゃねえ。
呪力の圧なんてもんじゃねえ。
存在しているだけでこちらの生を否定してくる。
これが、セフィロスか。
「ッ!?」
次の瞬間、俺は横に跳んだ。
遅れてさっきまで俺が立っていた場所が"消えた"。
切られた?
最初から無かったことにされたみてえに抉れてる。
刀でどうやってあの形に地面を抉るんだよ!!
「はは……!」
久しぶりに心臓がちゃんと仕事をしてやがる。
俺は呪具を構え直した。
背後で闘也と式神の莫大な呪力が迸る。
にも関わらず、セフィロスは俺に注目したままだ。
そんなにこれが怖えかよ。
天逆鉾。
あらゆる術式を打ち消す呪具が、セフィロスの視線を釘付けにしていた。
作戦通りだ。
うまくいっている。
相手は化け物。
だが関係ない。
殴れるなら殴る。
殺せるなら殺す。
時間稼ぎじゃねえ。
殺す気でいかねえと殺される!
俺は地を蹴った。
セフィロスの剣が動く。
視認した瞬間には、もう首があった場所を薙いでいた。
剣筋はまるで見えちゃいねえ。
勘だ。
考えたら死ぬ。
死なないために動き続けろ。
「行くぜ化け物……!」
不思議と俺は笑った。
ああ、そうだ。
久しく思い出していなかったな。
この世界で俺が一番得意なのは――
化け物相手に戦うことなんだよ。