001 星は揺り篭に眠る
歳月の彼方に開かれた、永遠の1ページ。
そこは、
ファイノンは静かに息を吸う。慣れたようで、不慣れな土の匂いがした。けれど踏みしめた足裏には確かな重みがあり、頬を撫でる風は柔らかい。見上げた空には、現の世界よりも静かな星明かりが満ちていた。紫紺の帳の奥で瞬く星々は、ただ夜を照らすための灯には見えない。どこか、遥かなる旅路を歩んだ者たちの記憶を映しているようだった。
ファイノンは、その光を見上げていた。
(――……こうして空を見上げるのは、何万年ぶりだろう)
ふと胸の内に浮かんだ思いに、小さく目を細める。
救世主として歩み続けた果てに、彼はあまりにも果ての見えぬ回帰を駆け抜けてきた。その中で空を見上げる余裕などなかったわけではない。黄金裔の仲間たちにも、たまには足を止めてみろと呆れ半分に言われたことがある。
だが、この瞳が追っていたのは常に迫り来る終末であり、守るべき人々であり、次に進むべき道だった。
いつかの回帰でヒアンシーやキャストリスが言ったように、ただ星の美しさのために足を止め、静かに夜空を見上げる――そんな当たり前の時間を、いつの間にか置き去りにしていたのかもしれない。
明日を生き延びるために剣を取り、誰かを守るために前へ進み続けるうちに、空を見上げる理由さえ忘れていた。星はいつだってそこにあったはずなのに、その輝きを美しいと思う余裕すら、知らぬ間に失っていたのだろう。
星は、いつだって遠かった。手を伸ばしても届かず、祈りを捧げても答えない。それでも進むべき方角だけは黙って示し続けるもの。
けれど、流星のように現れては旅立っていった開拓者たちと出会い、終末の先に残されたこの場所へ辿り着いた今、ファイノンの中で「星」という言葉の意味は少しずつ変わり始めていた。
それはもはや遥かな天に輝く光だけではない。幾度も絶望を越え、それでも歩みを止めなかった者たちの願いであり、記憶であり、未来へ託された希望そのものだった。
だから、この星空は、ファイノンがこれまで見上げてきた星々とは違っていた。数多の命が燃え尽きた果てに残る冷たさのようでもなければ、救世主の肩書きを背負いながら世界を救えなかった男を裁くようでもない。
ただ、長い旅路の果てに帰ってきた者へ、「ここまで歩いてきたのだ」と静かに告げるような光だった。あるいは――。
(ふふ、お疲れ様♪)
妖精がイタズラに奏でるメロディーのように跳ねる音符。そんな、よく知った
時折、どこからともなく柔らかな風が吹き抜ける。不思議な草花を揺らし、人々の頬を撫で、青い外套の裾をそっと持ち上げていく。
その気配は、ここが閉ざされた夢ではなく、確かな世界であることを告げていた。幻ならば、これほど優しい重みを持つはずがない。夢ならば、胸の奥に沈んでいた記憶を、これほど鮮やかに呼び起こすはずがない。
微睡みの庭には、眠りへ誘うような揺らぎがあった。陽だまりの園には、春の日に手をかざした時のような温もりが満ちていた。星の降るドームには、天外へ続く物語の残響が、音もなく降り積もっている。――ファイノンには、それがどこか懐かしく感じられた。
まるで世界そのものが、まだページを閉じることを拒んでいるかのようだった。
滅びを記した章の終わりに、誰かがそっと栞を挟んだのだろう。失われた歴史を抱きしめ、涙の跡が乾くまで待ち、やがて次なる章を開く者たちのために。
そう思うと、不思議と胸の奥が温かくなった。――なら、ここは、きっとそのために残された余白だ。終わりを越えた民が、もう一度始まりへ辿り着くまでの、静かな息継ぎ。
そこに流れていたのは、停止した時間ではない。終わりと始まりの狭間で息づく、希望のための猶予。神話の幕間。あるいは、長く歌われなかった者たちのために、ようやく奏でられた前奏。
ここは、そうして生まれた空間なのだろう。
――「この場所において、あなたが感じたことをレポートにして提出なさい」
ヒアンシーの診療所で診察を受けた後のことだ。問題なしと太鼓判をもらい、「少し辺りを見回ってくる」と出発する前に、アナイクスからそんな課題を言い渡されていたことを、ファイノンはふと思い出した。
正直なところ、最初は少し意外だった。アナイクスなら空間構造や記憶体の維持機構について考察を求めそうなものだと思っていたからだ。だが彼が求めたのは分析ではなく、「見て、聞いて、感じたこと」だった。
腕を組んで考えてみても、課題の意図はわからない。危険そうな場所の調査や、ファイノンの知る知識をもとにした現状の見解を求めているのかもしれない。あるいは、大地獣が心地よく過ごせる環境の再編や、生態の調査などが主目的なのだろうか。
(うーん……ありえそうではある?……けど、…………ありえそうだ?)
どちらなのだろう、と少しだけ首を傾げる。書き方も変わってきそうなものだが、これも先生なりの意図があるのだろう。ファイノンは深く考えずにそう結論づけた。
「アナイクス先生にも言われたし、どんな場所かレポートを書きまとめなくちゃな」
そう思いながら、ファイノンは改めてこの揺り籃を見渡した。
しばらく考えた末に、ひとまず課題の文面をそのまま受け取ることにした。「この場所において、あなたが感じたことをレポートにして提出なさい」。ならば、自分が見聞きしたものと、そこから得た所感を書けばいいのだろう。
外套と同じ色の羽ペンをそっとインク瓶に浸す。黒い雫が穂先に満ちるのを見つめ、その静かな重みとともに、まずは観察結果から整理しようと紙へ向き直った。
――避難所。違う気がする。
――保管施設。もっと違う。
――休息所。近いけれど、それだけじゃない。
ファイノンはしばらくペン先を止めたまま考え込み、書いては消し、消してはまた書き直した。頭の中では理解しているのに、いざ言葉にしようとすると妙に難しい。紙の端には言い換えの候補がいくつも並んでいる。
(……もういいや、下書きにしよう)
そうして少し肩の力を抜き、深く考えすぎずに筆を走らせる。思いついたことを、そのまま紙の上へ落としていくように。
オンパロスの人々が、いち生命として新たな器を得るその日まで、記憶体として身を寄せるために編まれた、ひとつの揺り籃。
(出だしは……これでいいか。レポートなんて
この空間は、終末を迎えたオンパロスの民を一時的に収容するための施設ではなく、記憶体として存続する魂を保護し、新たな生命として再び歩み出すまで維持することを目的として構築された領域である。肉体を離れた魂は、ここで記憶そのものを器として存在を保ち、次なる生へ至るまでの時間を過ごしている。
その性質は、天外に存在するメモキーパーの在り方と一定の類似性を持つ。
(相棒やヘルタさんから話を聞いててよかった……!)
メモキーパーとは、記憶を媒体として存在を維持する者たちの総称であり、肉体を失った後も記憶を拠り所として活動を続ける存在である。
僕がこの概念を知ったのは、開拓者やマダム・ヘルタから説明を受けたことがきっかけだった。僕らオンパロス人にとっては依然として実感を伴うものではなかったが、揺り籃の仕組みを理解するうえでは有効な比較対象となった。
もっとも、両者は完全に同一ではない。僕がそう感じた理由は、単純に僕らの状態にある。メモキーパーは自らの意志によって記憶の海を渡る旅人であるのに対し、ここに留まるオンパロスの民は、新たな器を得るまでの過程にある存在であるとするなら。前者が能動的な活動を前提とするのに対し、後者は再生へ向けた待機状態にあると言える。
しかし、星穹列車の乗客のひとりを参考に、メモキーパーの在り方をそうであると定義するならば。肉体のみを生命の本質と見なさず、積み重ねられた記憶こそが個人の連続性を保証するという点においては、両者の根底に共通する思想が認められると言えるだろう。誰かを愛したこと、誰かに叱られたこと。土を耕し、火を灯し、食卓を囲み、祭りの日に歌ったこと。そうした無数の経験の集積が、その人をその人たらしめる要素として保存されているのである。
この揺り籃は、そうした記憶を失わせないための場所だった。終末を越えた民が、新たな生へ辿り着くまでの静かな停泊地であり、記憶と存在の連続性を維持するための緩衝領域でもある。そこには、失われたものを保管するというよりも、未来へ受け渡すという性格が強く見て取れた。
(……うん、上出来なんじゃないか?)
そうなればいいなとは思ったけれど、そうでなくったって良い世界。誰も死なずに済む世界ではない。誰も傷つかない未来でもない。
それでも、とファイノンは思う。失われることそのものを止めることはできなくても、失われたものがそこで途切れてしまわないなら。手から零れ落ちたものが、誰にも知られぬまま闇へ沈むのではなく、誰かの記憶に抱かれ、いつかまた新しい朝へ辿り着けるのなら。
終わりは終わりのままでいい。別れは別れのままでいい。けれど、その先に続く道まで閉ざされてしまわなくていい。――ここはきっと、そのための余白なのだろう。
涙を流しきれなかった者が立ち止まり、名残を抱えたままでも次の一歩を選べるように。終わりと始まりのあわいにそっと置かれた、小さな灯火のような場所。
(まるで、船の停泊地みたいだ)
荒れ狂う海を越えた船が、ようやく帆を畳み、軋む船体を波間に預けるための港。夜明けを待つ旅人が、濡れた外套を乾かし、冷えた指先を火にかざすための宿。終末を越えた民が、新たな生へ辿り着くまでの、静かな幕間。
長い旅路の果てに必要なのは、次の目的地ではないこともある。
ファイノンは、そのことをまだ知らない。いや、知らないというより、自分には関係のないことだと思っているのかもしれなかった。
立ち止まることはできる。眠ることもできる。傷を癒やすために剣を置くことだってできる。けれどそれは、再び歩き出すための準備でしかない。彼の中で休息とはいつだってそういうものだった。だから、本当に必要なのが何なのかを、彼はまだ自分に向けて考えたことがない。
アナイクスやトリスビアスのように失ったものを抱えたまま息をする時間。アグライアやヒアンシーのように涙を流し終えるまで待ってくれる場所。モーディスやサフェル、ケリュドラのようにもう戦わなくていいと誰かに告げられることではなく、キャストリスやセイレンスのように自分の心がようやくそれを信じられるようになるまでの時間。
そうした優しさを必要としているのは、自分以外の誰かだと思っている。けれど、この場所に吹く風は、そんな彼の思い込みさえ責めることなく受け止めていた。
胸の奥に溜まっていたものが、静かにほどけていくような感覚だった。けれど、それが安堵なのか、疲労なのか、あるいはもっと別の何かなのか、ファイノン自身にもうまく分からない。
休んでいなかったつもりはない。眠っていなかったつもりもない。幾度もの回帰の中にも、座り込んだ夜はあった。瞼を閉じた時間もあった。傷が塞がるまで剣を置いたこともある。ときには、フレイムスティーラーとして敵対するばかりの回帰の中でさえ、仲間を保護し、剣ではなく言葉を交わし、背中を預けたことだってあった。
それでも、そのたびに心のどこかは目を覚ましたままだったのだろう。遠くで誰かが助けを求めてはいないか。見落としている悲鳴はないか。次に失われるものは何か。守りきれなかったものの数を数えながら、守らなければならないものの名を探し続けていた。
耳はいつも世界の軋みに澄まされていた。指先は無意識に剣の柄を探していた。胸の奥では、終わらない夜番の灯が消えることなく燃え続けていた。
だからファイノンは、今の状態を休息だと思っていたのである。少し立ち止まること。少し眠ること。少し肩の力を抜くこと。それで充分なのだと、ずっと信じてきた。いや、きっと今もそう思っているのだろう。
こうして星を見上げているだけで。風に外套を揺らされながら、誰かの無事を確かめられているだけで。それだけで、自分はちゃんと休めているのだと。
実際、それは嘘ではないのだ。胸を締めつける痛みはない。今すぐ剣を取らねばならない危機もない。こうして風に吹かれ、静かな景色を眺めている時間を、ファイノンは確かに穏やかだと感じている。
それは長い旅の癖だったのかもしれない。立ち止まれば失われるものがあった。振り返れば間に合わなくなることがあった。だからファイノンは歩き続けた。歩きながら考え、考えながら守り、守りながら次の朝を探した。――試行錯誤で世界を救える道を探しているうちに、そうして休息とは何かを少しずつ忘れてしまったのだろう。
ファイノンは、自分がどれほど疲れているのかを測る術を持たない。誰かの傷にはすぐ気づくのに、自分の傷だけは見落としてしまう。誰かが無理をしていれば休むように言えるのに、自分のこととなると、もう少しだけ大丈夫だと思ってしまう。
吟遊詩人がその横顔を歌にするなら、きっと優しい旋律になるのだろう。
誰よりも多くの命を抱えながら、自分のことだけは後回しにしてしまう青年の歌。すべての民に眠りを許しながら、自分だけはまだ夜番の灯を手放せずにいる、青い外套の番人の歌だ。
ここには、そういう優しさがあった。
ロマンチックを愛したひとりの少女が、世界へ遺した祈りのかたち。世界に忘れられたものを忘れぬため。失われた名を、失われたままにしないため。まだ名を持たぬ未来へ差し出された、柔らかな手のひら。
すべてを抱きしめようとする者の優しさがあった。滅びたものを美化するためではなく、滅びてもなお続いていくものを信じるために。泣き疲れた者には眠りを、歩き疲れた者には椅子を、帰る場所を失った者には「おかえり」と言える灯を。
そしてたぶん、彼女は知っていたのだろう。この揺り籃が必要なのは、オンパロスの民だけではないということを。
この揺り籃が必要なのは、オンパロスの民だけではない。誰よりも長く世界を背負い、誰よりも休むことを知らない青年にもまた、いつかこの柔らかな手のひらが届くようにと。
すべてが終わったのだから、もう休んでいいのだと誰かが告げたところで、彼はきっと穏やかに笑って頷くだけで、自分から立ち止まろうとはしないだろう。頑張ることがあまりにも当たり前になってしまった彼にも、いつか安らぎが届くようにとも。
――「だって、あたしたちは一緒に駆け抜けた仲だもの」
ファイノンは、まだそれに気づいていない。
ただ、風に揺れる草花を見つめながら、ここは良い場所だと思った。皆が安心して眠れるなら、それでいい。新しい器を得る日まで、彼らが怖がらずにいられるなら、それで充分だと。
その願いはどこまでも彼らしく、どこまでも優しかった。だからこそ、この場所もまた、そんな彼を静かに包み込んでいる。
彼がまだ知らないだけで。
彼自身もまた、守られていていいのだと。