かつてヒアンシーは、開拓者に尋ねた。銀河は、どんな空模様なのかと。閉ざされたオンパロスで育った少女にとって、それは遠い天外への憧れであり、まだ形を持たない願いでもあった。
終末を越え、星明かりの下に身を置いた今、かつての問いは静かに彼女のもとへ戻ってくる。空は轟音で答えず、神託も告げない。ただ無数の星々が、傷ついた世界を急かすことなく見守っていた。ヒアンシーはその静けさの中で、救われたオンパロスがこれから歩む未来を思う。
星降る祝祭で声を落としたのは、かつて神悟の樹庭にて教鞭を揮った教師だった。その言葉は、星明かりの下に置かれた錬金器具の縁を、そっと爪で弾いたように鳴る。
「なんとも感慨深いものですね。」
どうやらアナイクスは、星空を見上げているうちに新しい組成式でも思いついたらしい。観察会のために整えられた会場の片隅には、いつの間にか小ぶりな器具箱が開かれていた。磨かれた玻璃管、細い金属匙、封をされた小瓶。星を眺めるための夜には少々場違いで、けれど彼の傍らに置かれていると、不思議と最初からそこにあったようにも見える。
「…………。」
アグライアは、しばし沈黙した。
薄布と花飾り、寝転んで空を仰ぐために残された余白。主催者として整えた景観の中で、錬金器具の冷たい輪郭だけが、ちか、と別種の光を返している。
浪漫を愛する半神である彼女は、
「先生にも、
ふと、ファイノンが言った。
それは問いというより、星明かりの下に零れた小さな気づきだった。責める響きも、からかう響きもない。白銀の青年は、どう言えばよいのかを考えるように首を傾げたまま、続ける。
「胸の奥に、言葉にならないものが込み上げてくる時が」
「ふぁ、ファイノン様……!」
ヒアンシーが小さく肩を跳ねさせた。イカルンも膝の上で、ふす、と鼻を鳴らす。まるで、今の一言が繊細な玻璃器具に触れてしまったのではないかと心配するように。
だが、ファイノンの声はやはり穏やかだった。これまで幾度となく理屈の刃を研いできた教師の横顔に、今夜だけは別の光が宿っている。それを見つけてしまった者が、ただ、そのまま名を与えようとしただけである。
白銀の髪が夜風に揺れ、きょとりとして幼く見える青い瞳には、紫の銀河とアナクサゴラスの横顔が同じ静けさで映っていた。
「えっと……言い方、まずかったかな?」
アナイクスはすぐには答えなかった。
薄緑を帯びた髪が、夜風にかすかに揺れる。黒い眼帯の金装飾が星明かりを拾い、ちかりと瞬いた。彼は手袋をはめた指先で顎に触れかけ、しかし途中で止める。
いつものように訂正を挟むべきか。あるいは、感傷という曖昧な語を切り捨てるべきか。ほんの短い沈黙の中で、いくつもの判断が片方の瞳の奥を過ぎていく。だが、ファイノンの青い瞳は、どこか丸く、ぼんやりとしていた。失言を恐れる子供のようでもあり、見つけた光の名前を知りたがる旅人のようでもある。
これは……。
「いえ。問題ありません。あなたの言葉は、少なくとも今この場では、訂正を要するほど不正確ではありませんから。」
彼の喉から放たれた音色は、いつもより、少しだけ柔らかな声だった。
そのわずかな変化に、ヒアンシーがまばたきをする。アナイクス自身もそれを自覚したのか、わずかに眉を寄せた。だが、取り消しはしなかった。
「感傷と呼ぶには、いささか構造が複雑ですが。ええ、似たようなものはあるのでしょう。」
彼は空を見上げる。
神悟の樹庭とは異なる紫の銀河は、相変わらず遠い。星々は何かを語りかけるでもなく、ただ瞬いている。だが、その無言こそが、今夜のオンパロスには必要だった。
「幾千万もの輪廻。その記憶を、我々は、あなたのように記憶の引き継ぎこそ出来ませんでしたが、印象に残ったものはある。その記憶をもって、私は私の見解を述べます。」
「そ、れは……」
「多くの現象を観測しました。滅び、再生、失敗、逸脱、誤差、そして
アナイクスは、彼の方を見ない。今そこに切り込んでしまうには、この教え子は無防備すぎる。見てしまえば、言葉の矛先がどこへ向かうのか、自分でも分かっていたからだ。――あなたは、特に安らぎの時がなかったはずだと。
ヒアンシーが、そっと恩師を呼んだ。
「先生?」
それは、アナクサゴラスの思索を遮るにはあまりにも控えめな声だった。けれど、夜空を見上げたまま動かなくなったアナイクスを案じるには、充分な響きでもある。
薄緑の髪が星明かりを含んでかすかに揺れ、顔にかかる毛束の奥で赤紫の瞳が遠い銀河を測る。まるで、閉ざされた片目の代わりに、夜そのものが彼の思索を覗き込んでいるかのように黒い眼帯に施された金の装飾が鈍く光った。その姿は夜空を前にした観測者というより、静かに思索へ沈む学者そのもの。
やがて、手袋をはめた指先が上がる。その指は顎へ向かいかけ、ふと進路を変えて、眼帯の縁に触れた。硬質な飾りが、かす、と小さく鳴る。それは、内側へ深く潜りかけた思考を、現実へ引き戻すための、彼なりの合図のようでもあった。
「問題ありません。少なくとも、彼は訂正すべき発言をしたわけではありませんから」
「ええと……今のは、ご自身への確認ですか?」
ヒアンシーの問いは、いつも通り控えめだった。だが、その声に呼び戻されたのか、アナイクスは眼帯から指を離した。わずかな間を置き、呼吸を整える。感情の揺らぎを外へ漏らさぬよう、彼は意識的に表情を均し、何事もなかったかのように告げた。
「……半分は。残り半分は、あなた方が感情に流されて私の発言を曲解しないための、事前の注釈です。」
いつもの調子である。
冷静で、少し棘がある。けれど、今夜の棘は人を遠ざけるためのものではなかった。年季の入った
その視線は、ほんのわずかにだけ、ファイノンの方へ向いていた。露骨ではない。誰にも気づかれぬ程度の、測定にも満たない偏差。
それでも、彼の内側では確かに重みを持っていた。言葉をかけるべきか、否か。触れれば崩れるものに対して、どの距離を保つべきか。アナイクスは、その判断を慎重に保留して。さて、いかなる言葉を与えたものかと思案した教師は、一旦沈黙を選び取る。
紫色の銀河。無数の星々。開かれた天蓋。かつて星神や神礼の観衆の策略によって閉ざされていたものが、今、人々の頭上にあるという。――その事実は、感傷を好まぬ者の思考すら、ほんの一瞬だけ静止させるものだった。まるで長く封じられていた書庫の扉が開き、埃をかぶったページの上で、初めて意味を見出した学者のように。
そう。
かつて、滅びを迎える前のオンパロスでは、「天空」のタイタンたるエーグルが目を閉ざしていた。ゆえに、人々の頭上から天外の光は隠されたのである。太陽も。月も。星々も。
正確には、それらが失われたわけではない、とアナイクスは考える。世界の外側では、太陽は変わらず昇り、月は満ち欠け、星々は互いの距離を保ちながら巡っていたはずだ。
宇宙はオンパロスのために止まらない。星海の
空はそこにあった。けれど見えなかった。光は巡っていた。けれど届かなかった。昼と夜という秩序は、世界の外側で変わらず脈打っていたはずなのに、閉ざされた
「興味深いのは、昼と夜という現象そのものが消失したのではなく、観測が遮断されていた、という点です。」
アナイクスは、自分の声がいつもと変わらないことを自覚していた。講義室で語るときと同じ、平坦で、明晰で、余計な慰めを含まない調子。
そうであるべきだと、半ば意識的に整えている。だが、星明かりに照らされた視界の端で、自分の横顔に落ちる影の深さも、同時に理解していた。
「オンパロスには夜はあったけど、昼はなかったよね? ケファレが抱えた黎明のミハニで、オクヘイマを中心に、周辺区域だけは昼のように明るかった……そのくらいだったはずだけど。」
ファイノンの声が届く。首を傾げる仕草まで、視界に入る。それは、自分の知っている景色と、今の言葉を重ね合わせて、ずれた箇所を指先でそっと押さえたような声だった。
やはりそう来ましたか。アナイクスは、ほんの一瞬だけ沈黙した。神悟の樹庭の賢者アナクサゴラスが認めた、最も優秀な教え子の発言は、おそらく多くの人が抱く疑問点だろう。
そして、その役をこの生徒が担うのも、ある意味では当然だった。観測と記憶を重ね、違和を見逃さない。優秀であるがゆえの問いだ。それは、それ自体はいい。相変わらずの着眼点だと言ってやれるものであったから。
この問いは単なる知識の補足ではない。彼らが生きてきた世界の前提そのものに触れる。軽く扱えば、理解は浅くなる。重くしすぎれば、余計な感傷を呼び込む。
ならば、構造で示しましょう。額に触れた指先に、夜風が触れる。薄緑の髪がわずかに揺れたのを感じながら、アナイクスは口を開いた。
「……言葉を変えましょうか。空の光を部屋に取り入れようとした場合、人は窓を開ける。それと同じことです。エーグルが目を閉ざしたことで、我々は空を失ったのではなく、光を受け取るための窓を失った――と。」
「なるほど……? じゃあ、朝を運ぶ真の太陽を知らず、夜を告げる月を知らず、星々が沈黙のうちに語る無数の物語も知らぬまま、僕らは過ごして来たってこと?」
なんつー表現で、なんということを言いやがるのだ、この生徒は。
アナクサゴラスの脳裏に、講義録には到底残せない一文が滑り込んだ。
今の問いは、閉ざされた世界で生き延びた者たちへの哀歌であると同時に、その窓をこじ開けた張本人が、まるで他人事のように呟いてよい類いのものではない。
しかし、彼の質問はどちらにせよ、訂正する必要はない。内容は正しいのだから。ただし、そのまま放置すれば、余計な方向へ思考が流れる可能性がある。
アナイクスは表情を崩さないよう意識した。前髪の奥で、片方の瞳だけをわずかに細める。感情を押し殺すというより、整理するための動作に近かった。
人物ごとにどう書くべきか……
Q.玻璃器具とは? どうしてその表記にしたの?
A.生活感入れたくて……入りませんでした↓
オンパロスには、古い名を持つものがいくつもある。
神々がまだ人の営みのすぐ隣にいた頃から、名はかたちを変え、音は人々の舌の上で丸くなり、やがて意味だけを残して棚の奥へしまわれていく。剣も、杯も、秤も、薬瓶も。かつては神話の端に触れていたものが、いつしか生活の道具となり、子供の好奇心に開かれる日を待つ。
これは、そんな名のひとつを知った、とある幼い貴族の令嬢の話である。
「あたくし、シタロースさんのところで聞きましたの」
令嬢は胸を張った。
これは、星の振るドームで開店したばかりの骨董屋に顔をのぞかせた少女の、ちょっとした冒険の記憶である。小さな手は、見えない棚の奥を指し示すように、ひらりと宙を掬う。
「この棚の奥で、箱に入れられて飾られているものは、何と仰りますの? って。そうしたら、シタロースさんが、はりきぐ、と仰いましたの」
はりきぐ。
その響きは、幼い令嬢の耳にはひどく不思議に聞こえたらしい。針でできた器具なのか。あるいは、張りつめた糸を扱う道具なのか。彼女は眉間に小さなしわを寄せ、思案顔を作った。貴族の娘らしい仕草ではあったが、その頬には隠しきれない好奇心がふくらんでいる。
「何の言葉か、とんと分かりませんでしたの。ですから、あたくし、もう一度お聞きしましたわ。それって、なんなんですの? って」
その時のことを思い出したのだろう。令嬢は少しだけ声を弾ませる。
「そうしたら、シタロースさんったら、なんだと思う? なんて、楽しそうなお顔で質問をお返しになられましたのよ。まあ、ずるい方でしょう?」
周囲から、くすくすと笑いが漏れた。
彼女はますます得意げになる。聞き手が笑ってくれると、話というものは羽を得る。まして、幼い語り手にとってはなおさらだ。
「ねえ、皆さん。はりきぐ、って何のことだか分かりまして? 見た目は硝子細工のようでしたけれど、あたくしも説明を聞くまで、本当に分かりませんでしたの」
令嬢はそこで一度、言葉を切った。
ほんの短い沈黙。
箱の中に収められた透明な器具。細い管。丸い瓶。光を受けると、きら、と縁だけが淡く光る。触れれば音を立てて壊れてしまいそうで、それでいて、何かを測り、混ぜ、変えるために作られた道具たち。
子供の目には、それは宝石でも、玩具でも、魔法の器でもあり得た。
「それで、あたくしが、硝子細工みたいですわね、と申し上げましたの。そうしたら、シタロースさんったら。そうとも、違うとも言わずに、ニヤッと笑いましたの!」
令嬢は両手を頬の前で握る。悔しそうで、けれどどこか嬉しそうな仕草だった。
「でも、ファイノン様だけは、そのお隣で、一緒に“なんだろうね”って悩んでくださいましたのよ。ふふん、いいでしょう?」
その一言に、場の空気が少しだけ柔らかくなった。
ファイノンが本当に答えを知らなかったのか。それとも、幼い令嬢が自分で答えへ辿り着くまで、隣で同じ高さにしゃがんでくれていただけなのか。それは、今となっては誰にも分からない。
ただ、令嬢は知っている。
自分が首を傾げた時、蒼のうつくしい瞳を持った彼も一緒に首を傾げてくれたことを。難しい言葉を前に置いていかれた気がした時、その人が、答えの側ではなく自分の隣に立ってくれたことを。
「でも、たぶん……答えはご存じだったのかもしれませんわ」
令嬢は、少しだけ声を潜めた。
「だって、あたくし、その前からずっと硝子にまつわるお話ばかり振られておりましたもの。透明な器は光をどう返すのか、とか。薄い硝子はどうして割れやすいのか、とか。古い言葉には、今の言葉と同じものを違うふうに呼ぶものがあるのだ、とか」
そこまで言って、彼女はぱっと顔を上げる。
「――ええ、そうですの。見たままでしたのよ」
小さな声が、祝祭の明かりの中で、鈴のように鳴る。
「“
玻璃。
古い時代、人々が透明な石や硝子をそう呼んだ名。
光を通し、かたちを歪め、壊れやすいくせに、世界の輪郭を少しだけ違うものとして映してみせるもの。棚の奥にしまわれた玻璃器具は、令嬢にとってその日、ただの道具ではなくなった。
それは、知らない言葉の箱だった。
開ければ、昔の人々が見ていた光の名が入っている。硝子の向こうには、今と同じものを別の名で呼んでいた誰かの時間がある。小さな令嬢はそれを知り、得意げに笑った。
シタロースは楽しそうにニヤリとした。
ファイノンは、隣で同じように考えてくれた。
そして令嬢は、棚の奥で静かに光る透明な器具を見るたびに、きっと思い出すのだろう。
世界には、見た目どおりの答えでも、知らなければ宝物のように輝くものがあるのだと。
「そんなことしてたんですか、シタロースさん?」
「うっ、若いお嬢さんが骨董品に興味を持ってくれたのが嬉しくて……」
「さすがはファイノン様ですね……お話の振り方が、お上手です」
「あはは……ありがとう、キャストリスさん」