烈日よ、さざ波を追って   作:夜鷹ケイ

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<前回のあらすじ>
 前夜から胸に残る問いを抱えたまま、ヒアンシーは空を見上げた。かつて人々を縛った暗雲も、天罰を告げる巨大な瞳も、今はどこにもない。
 大講義場の中央では若木が風に葉を揺らし、正式開会を前に、短冊と人々を迎える準備が進んでいる。願いを預かる木を見つめていた彼女のもとへ、仔ペガソースのイカルンが舞い降りた。今日の役目を理解しているのか、まだ判然としないまま、白い翼は若木の周囲を飛び始める。


101 光はばたく白い翼

 わたしは口元へいつもの笑みを戻し、今日いちばん頼りにしている小さな相棒へ声を届けるため、弾む羽音に合わせるようにひとつ息を吸いました。

 

「イカルン、今日はあなたも大忙しですよ!」

「ぷるぅー?」

 

 ひとつ息を吸って呼びかけると、ちょうどわたしの頭上を横切ろうとしていたイカルンの羽ばたきが、一拍だけゆるみました。

 白く丸い身体が空中でふわりと傾き、右の翼で多めに風を掴みながら器用に向きを変えます。勢いのまま通り過ぎるのかと思えば、その場で小さな円を描いてから高度を下げ、わたしの斜め前あたりまで戻ってきました。

 そこでイカルンは、何も分かっていないような顔をして首を傾けます。黒曜石を磨き上げたような大きな瞳が、まずわたしを映し、次いで若木へ向かい、それからもう一度わたしへ戻りました。耳もぴんと立っているわけではなく、翼も慌てて畳もうとはしません。

 聞こえなかった様子ではありませんけれど、「大忙し」という言葉に思い当たるものがあるのかどうかまでは、その反応だけでは判断できませんでした。

 

(あら。思ったよりも反応があまり……何を考えているのでしょうか?)

 

 つい先ほどまで、今日いちばん頼りにしている相棒だと胸の内で意気込んでいたものですから、もう少し「任せてください!」とばかりに元気よく鳴いてくれる姿を想像していたのです。

 もちろん、想像した反応が返ってこなかったからといって、勝手に意味を決めつけるつもりはありません。イカルンは言葉を喋れません。幼獣ですから、わたしが受け取れるのは鳴き声の調子と、目線、それから耳、翼、脚、尾、身体全体の動きです。

 それらを長く見続けてきたおかげで分かることは増えましたけれど、「きっとこう思っているはず」と本人より先に答えを作ってしまえば、それは観察ではなく思い込みになってしまいます。ですから、まずは見ることにしました。

 

「今日のお仕事、覚えてますか?」

「ぷるる?」

 

 今度は少し長めの声が返ってきます。イカルンは鼻先をわたしの方へ向けたまま、前脚を空中で一度だけ掻くように動かしました。それから、思いついたように身体を持ち上げます。

 

「あっ、イカルン?」

 

 返事を待つより早く、小さな翼が大きく開きました。ばさっ、と一度強く空気を叩き、次の羽ばたきでは身体がわたしの目線より上へ。そのまま三度、四度と高度を上げていきます。

 先ほど遠くに見えた成獣たちの飛行とは、やはりずいぶん違いました。成獣は大きな翼へ風を預けるように飛びますが、イカルンはまだ一回ごとの羽ばたきへ身体を持ち上げてもらっているような飛び方です。上昇するたび胸元がわずかに反り、羽ばたきと羽ばたきのあいだには小さな上下動が生まれます。とはいえ、不安定というほどではありません。

 翼の左右差もなし。高度を上げるにつれて呼吸が乱れている様子もありませんし、下肢を不自然に引き寄せる仕草もありません。先ほど確認した通り、今日の身体状態は良好そうです。だからこそ、わたしもすぐに呼び戻さず、そのまま行動を追いました。

 

「……どこへ行くんでしょう?」

 

 イカルンが向かった先は、若木でした。石床から離れて数歩ぶんほどの高さを進んだあと、幹の近くまで来ると、そこで一度速度を緩めます。

 真正面から枝葉へ突っ込むことはせず、若木を大きく回り込むように身体を傾けました。右へ。そのまま円弧を描いて奥へ回り、葉の隙間を横目に見ながら左へ抜けます。そしてもう一周。

 

「……?」

 

 わたしは思わず首を傾けました。

 遊んでいるのでしょうか。いえ、空を飛べるようになったのが嬉しくて、若木の周りをぐるぐる回っているだけなら、それはそれで大変微笑ましいのですけれど。今日はお仕事がありますから、正式開会が始まる前にあまり飛び疲れてしまうのも困ります。

 それに、飛び方が少し変でした。一周目より二周目の方が、枝との距離が近くなっています。さらに、速度も遅いような……。

 葉の上を越える時だけ羽ばたきを強め、枝先へ近づくと減速する。幹の正面では身体をやや外へ逃がし、支柱のある側では一段高く上昇してから回り込んでいました。

 

(遊んでいる……だけでは、なさそうですね)

 

 そう思い直したところで、イカルンは若木の天辺近くまで上昇しました。もちろん「天辺」と言っても、大人のペガソースが空高くへ舞い上がる時と比べれば低いものです。けれど幼いイカルンにとっては、翼を何度も使わなければ届かない高さでした。

 ばた、ばた、と少し速く羽ばたきながら、最上部の葉と同じ程度まで身体を持ち上げます。そこで、くるり。もう一度、くるり。

 

「イカルン?」

「ぷるっ」

 

 呼んでみると返事だけはあります。けれど下りてきません。むしろ若木の上を一度横切って、反対側へ回り込みました。

 小さな身体が葉陰へ隠れたり、朝日に照らされて白く浮かび上がったりを繰り返します。桃色の髪へ落ちる木漏れ日の向きを追いながら、わたしも自然と数歩移動しました。

 視界から消えれば反対側へ。高く上がれば顎を上げ、低くなれば目線を下げる。そうして追っているうちに、どうしても医療者としての癖が働いてしまいます。羽ばたきは何回続いたでしょう。左右の翼の疲労差は。高度が落ちる間隔は一定でしょうか。

 呼吸を直接聞ける距離ではないものの、胸郭の動きに目立った乱れは見られません。着地を求めるほど疲れている様子もなければ、飛行中に痛みが生じて進路を変えたようにも見えません。

 ただ、少しずつ高度が変化しています。最初は若木の上端。次はそこから葉二、三枚ぶん下。その次は、中ほどの枝。

 

「あら……?」

 

 わたしは片手を額へ添え、朝日に目を細めました。今度は若木そのものではなく、イカルンがどこを見ているのかに注意します。

 飛んでいる本人の視線を正確に追うのは簡単ではありませんが、頭部の角度を見る限り、遠くを眺めているわけではありません。若木へ近づいた時には鼻先が枝へ向き、離れれば全体を見渡すように少し首を上げています。

 イカルンは一本の枝だけでなく、若木の上部、中ほど、外へ大きく張り出した枝、支柱に近い場所、葉が密集したところ、比較的開けたところへ順に視線を移していました。

 

「……もしかして」

 

 声に出すほどの確信はまだなく、わたしは口元へ指を添えました。

 その間にも、イカルンは石床へ向かって高度を落とします。ふわり、ふわりと二度ほど身体を沈ませ、ようやくわたしの肩ほどの高さまで戻ってきました。

 

「おかえりなさい。もう満足しましたか?」

「ぷるぅ」

 

 丸い鼻先が、わたしの肩の近くを通り過ぎます。戻ってくるのかと思ったのに、イカルンはそのまま背後へ回り、今度は腰ほどの高さまで下がりました。

 

「……イカルン?」

 

 ぱたぱたぱた、と小刻みな羽音を響かせながら、イカルンはわたしの腰の高さを一度横切り、すぐにまた上昇しました。肩のあたりを抜け、頭上まで舞い上がったかと思うと、そこから再びゆっくりと下へ降りてきます。

 

「ええっと……」

 

 わたしの首だけが、上へ下へと忙しく動きます。近くで受付準備をしていた方がこちらへちらりと視線を向けましたので、心配はいりませんよ、という意味を込めて微笑んでおきました。

 実際、危険な飛び方ではありません。わたしへぶつかるほど近づきもしませんし、イカルン自身も障害物との距離をきちんと取っています。

 ただ、何をしているのかが分からないだけです。

 

(もしかして、わたしと遊びたいのでしょうか?)

 

 それなら、あとで遊ぶ時間を作りましょう。けれど、先ほど若木の周囲を何周もしていたことと、今の上下運動がどうにも結びつきません。

 

「イカルン、今は飛行練習の時間ではないですよ〜?」

「ぷるっ」

 

 注意したつもりなのですが、声は妙に元気です。

 

「元気なのは、とっても良いことですけどね?」

「ぷるるっ!」

 

 そう言うと、イカルンはまた頭上へ。

 

「もう」

 

 叱るほどのことではないので、声には笑いが混じりました。

 イカルンは普段から、こちらの予想と少し違う行動を取ることがあります。それをすべて「言うことを聞かない」で片づけてしまえば楽なのかもしれませんが、あとから見れば本人なりの理由があった、ということも珍しくありません。

 治療の時だってそうです。患者さんの周囲をうろうろしているだけに見えて、実は身体のどちら側へ触れると痛がるのか見ていたこともあります。

 診察室の入口から動かなくなったと思えば、そこへ置かれた荷物が通行の邪魔になっていたこともありました。もちろん、単純に眠くて動かなかったことだってありますけれど。

 だから、今回も少し待つことにしました。観察して、情報を集めて、それから判断する。患者さんを見る時とまったく同じではありませんが、分からないものを分からないまま一度置いておくことは、思っている以上に大切です。

 わたしが追いかけるのをやめると、イカルンは頭上で一度静止するように羽ばたきました。その位置は、ちょうどわたしが腕を伸ばしても届かない高さです。

 

「……?」

 

 今度はそこから、ゆっくり下がります。わたしの頭上、目線の高さ、胸元、腰のあたりへと順に高度を落とし、石床へ着く直前でまた浮上しました。

 同じ動きをもう一度、今度は一度目より少し横へずれながら繰り返します。黒曜の瞳は途中でわたしから離れ、若木へ向けられていました。そこで、わたしの中にあったばらばらの観察結果が、ようやく一つの形へまとまり始めました。

 イカルンは若木の上端まで飛び、枝ごとに高さを変え、支柱を避けながら周囲を回っていたのです。葉の密度が違う場所を確かめ、今はわたしの身体を基準にするように、高さを何度も変えている。その一連の動きは、遊びではなく、飛行経路と自分の届く範囲を確認しているように見えました。

 

「……あっ」

 

 思わず声が漏れました。

 イカルンがこちらへ顔を向けます。

 

「もしかして……」

 

 確信したつもりになって、また思い込みだったら恥ずかしいので、わたしは一度口を閉じました。それでも、もう一度行動を見ると、やはりそうとしか思えません。

 今日、イカルンにお願いしているのは、人の手では届かない場所へ短冊を運ぶことです。つまり必要なのは、ただ高く飛ぶことだけではありません。

 どの高さまでなら人の手が届くのか、どこから先を自分が担当すればよいのか、若木の枝がどの位置へ伸びていて、どの経路なら葉へぶつからずに済むのか、どの場所なら身体を安定させたまま近づけるのか――イカルンはそれを、自分の身体で確かめていたのでしょうか。

 

(えっ。じゃあ、さっきからずっと……?)

 

 若木の周りを回っていたのも。天辺まで上がったり、中ほどへ下りたりしていたのも。わたしの頭上と腰の高さを行ったり来たりしていたのも。

 単に遊んでいたわけではなく、今日の仕事をするために必要な距離や高さを、自分の身体で確かめていたのです。そう考えると、これまでの行動があまりにもきれいに繋がり、胸の前で組んでいた手も自然とほどけました。

 

「イカルン、ちょっと待ってくださいね」

「ぷる?」

 

 呼び止めると、イカルンはわたしの目線より少し上で羽ばたきを続けました。

 

「ここ」

 

 自分の頭の上へ手を伸ばしてみます。実際に指先を伸ばし、少し背伸びをしてみせると、イカルンの視線がその手を追いました。

 

「このくらいなら、わたしでも頑張れば届きます――……でも」

 

 今度はさらに高いところを指します。

 

「ここから上は、難しいですね」

「ぷるっ」

 

 短い返事とともに、イカルンが一段上昇しました。

 わたしの指先より上。

 

「……!」

 

 では、と腰を落としてみます。

 

「このくらいの高さなら?」

 

 イカルンも下がります。

 

「じゃあ、これは?」

 

 背伸び。上がる。

 

「ここは?」

 

 手を下げる。下がる。偶然と判断するには、反応があまりにも揃っていました。わたしは何度か高さを変えてみましたが、イカルンはそのたびに翼を調整し、こちらが示した位置へおおよそ身体を合わせてきます。

 しかも最後には、わたしの手では到底届かない高さへ自分から上がって、そこから若木の枝へ視線を向けました。胸の内側で、ぱちん、と何かが弾けたような感覚がありました。

 

「ああ……!」

 

 嬉しさより先に、申し訳なさと恥ずかしさが来ました。

 

「そういうことだったんですね……!」

 

 わたしは額へ手を当てました。先ほどまで「ちゃんと今日のお仕事を覚えていますか?」などと聞いていた自分が、急に申し訳なくなってきます。イカルンは忘れていたどころか、わたしが説明した仕事をするために、自分なりに必要な確認を始めていたのです。

 それをわたしは、遊んでいるのか、飛行練習をしているのか、挙げ句には「あとで遊びましょうね」などと考えていました。

 

「ご、ごめんなさい。わたしったら……」

「ぷるぅ?」

 

 イカルンは首を傾けます。

 少なくとも、怒っているようには見えません。耳は寝ていませんし、鼻先を背けてもいません。むしろ、どうして急にわたしが謝り始めたのか分からない、とでも言いたげな反応に見えますが、それもわたしの推測です。

 なので勝手に都合よく解釈する前に、まずは行動そのものを褒めることにしました。

 

「イカルン、ちゃんとお仕事の確認をしてくれてたんですね」

「ぷるっ」

「若木の高さも、枝の位置も、人の手がどこまで届くのかも」

 

「ぷるるっ」

 

 声が一段大きくなり、わたしはようやく、間違っていなかったらしいと確信しました。頬まで自然に緩みます。

 

「もう。そうならそうと……と言っても、イカルンはまだ幼獣ですから、お話しできないんですものね」

 

 口にしてから、ほんの少しだけ胸の奥が引っかかりました。

 イカルンが幼獣であることを、わたしは忘れているわけではありません。人の言葉を話せないのは、まだ成長の途中だからです。それを悲しい出来事として扱う必要もありませんし、無理に言葉を求めるつもりもありません。

 今のイカルンには、今のイカルンなりの伝え方があります。翼の向きや目線、鼻先の動き、そしてわたしが気づくまで同じ仕草を何度でも繰り返すこと。

 その一つひとつを受け取るために、伝える方法が変わったのなら、わたしの側も学び続けなければならないのでしょう。

 医療だって同じです。声にできる患者さんだけが痛みを持っているわけではありません。言葉を探せないほど苦しい方もいれば、自分でも何が辛いのか整理できない方、我慢することが当たり前になっていて助けを求める発想そのものを持てない方もいます。

 だからこそ、表情や呼吸、姿勢、手の動き、そして行動を見ます。その人がこちらへ渡してくれている小さな情報を一つずつ拾い、言葉にならない訴えを読み取っていくのです。イカルンと過ごす時間は、ときどきわたしに、そうした基本を思い出させてくれます。

 

「まだまだ勉強不足ですね、わたし」

 

 苦笑しながらわたしが両手を胸の前でぽん、と打ち合わせると、軽い音に反応したイカルンが頭上を一度だけ旋回しました。白い翼からこぼれた風が桃色の髪を持ち上げ、耳へ掛けたばかりの房がまた頬へ戻ってきます。

 

「ぷるるるっ!」

 

 今度の声は、最初に「大忙しですよ」と告げた時とはまるで違って聞こえました。もちろん、鳴き声の意味を一語一句翻訳できるわけではありません。

 けれど身体は高く保たれ、羽ばたきも力強く、若木へ向けたあとすぐこちらへ戻ってくる視線にも迷いがありません。少なくとも、仕事を嫌がっているようには見えませんでした。

 わたしは今度こそ、胸を張って言いました。

 

「さすがイカルンです。わたしが心配するより、ずっとしっかり準備してくれてたんですね〜」

「ぷるっ!」

「でも、無理はしないでくださいね? 上まで一気に飛ぼうとしなくて大丈夫です。疲れたらちゃんと休むこと。それから、枝が混み合っているところへ無理やり入らないこと。翼を引っかけたら大変ですから」

「ぷるる」

「あと、お昼からは人も増えます。誰かが急に手を伸ばしてくるかもしれませんし、お子さんたちはイカルンを見たら喜んで追いかけちゃうかもしれません。周りを見てから飛びましょうね」

「ぷるぅ」

 

 返事の調子だけ聞けば、少し勢いが弱くなったような気がしました。

 

「……今、注意事項が多いって思いました?」

「ぷる?」

 

 首が傾きます。

 

「ふふ。そういうことにしておきましょうか」

 

 わたしも首を傾け返しました。何でも分かったつもりになるのはよくありませんが、分からないからと距離を置く必要もありません。今日みたいに、見て、考えて、少し確かめて、間違えたら直す。その繰り返しでいいのです。

 イカルンが再び若木へ向かうので、今度はわたしもその視線を追いました。先ほどまで単なる枝葉に見えていたものが、彼の飛行経路として眺めると、少し違って見えてきます。

 支柱の横は狭く、右側の枝は比較的ひらけている。中ほどには人の手が届きそうな枝があり、そこより上はイカルンたちの担当になるでしょう。天辺近くは葉が細かく茂っていますから、短冊を運ぶとしても、無理に奥へ入る必要はありません。

 なるほど。

 こういう確認は、人間側だけで図面を眺めていても足りなかったのですね。

 

「わたしたちも、イカルンに教えてもらわないといけませんね」

 

 呟くと、イカルンは若木の方を見たまま翼を二度打ちました。

 プレオープンは、人の流れだけを見るためのものではありません。実際に動いてみなければ分からないことを見つけるための時間です。

 受付の高さや机の間隔、休憩場所までの距離、短冊を渡してから若木へ向かう流れを確かめるのはもちろん、空を担当してくれる小さな相棒がどの経路なら安全に飛べるのかも、実際に動いてみなければ分かりません。

 まだ誰も大きな失敗をしていない今のうちに、一つずつ分かっていけばいい。それは準備不足ではなく、準備の一部です。

 そう考えられるようになると、先ほどまで胸のどこかにあった「主催者なのだから全部把握していなくては」という緊張も、少しだけ形を変えました。

 わたし一人ですべてを知る必要はありません。空のことは空を飛ぶ者に、仕立てのことは仕立てを知る人に、人の流れは実際に歩いてくださる方々に任せればいいのです。そして困っている方がいれば、その時はわたしが近づけばいい。それぞれが分かることを持ち寄って、今日という一日を作ればいいのです。

 

「イカルン」

「ぷる?」

 

 もう一度呼ぶと、今度はすぐこちらへ向きました。わたしは若木の上から下までを目でなぞり、先ほど彼が飛んでいた経路を思い返してから、小さな相棒へ笑いかけます。

 

「お昼からの本番でも、その調子でお願いしますよ〜?」

「ぷるるっぷるぅっ」

 

 元気な嘶きと一緒に白い翼が大きく開き、朝の光が羽根の一枚一枚を透かしました。先ほどまで頼りなく聞こえたぱたぱたという羽音も、何をしているのか分かったあとでは不思議と忙しく頼もしい音へ変わって聞こえます。

 

(たぶん変わったのは、イカルンではなく、見ていたわたしの方なのでしょう)

 

 たぶん変わったのは、イカルンではなく、見ていたわたしの方なのでしょう――そう思うと少しだけ可笑しくなって。わたしは頬へ戻ってきた桃色の髪を耳へ掛けながら、もう一度、仕事場になりつつある若木と、その周囲を確かめるように飛ぶ小さな白い背中を見上げました。

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