七夕の若木を舞台にした祭りの準備が始まり、ヒアンシーは小さな相棒イカルンへ短冊を運ぶ役目を託した。
遊んでいるように見えた飛行は、枝の高さや人の手の届く範囲を確かめるためのものだった。言葉を持たぬ幼獣の行動を読み解きながら、ヒアンシーは祭りが誰か一人の力ではなく、それぞれの得意を持ち寄って形になるものだと知る。やがて、最初の願いが空へ結ばれる時が近づいていた。
小さな白い背中を見上げたまま、わたしは受付台の脇へ置いていた短冊の束を両腕で抱え直しました。
重いものではありません。けれど、色も意匠も異なる紙が何十枚と重なっているため、腕の角度を変えた拍子に束の端がわずかにずれ、いちばん上の一枚がするりと指先を滑りました。
「あっ」
落とすほどではなく、親指で押さえ直します。
その時、紙の角が指の腹へ触れ、さら、と乾いた音を立てました。
厚すぎれば枝へ結んだ時に風を受けすぎてしまい、薄すぎれば紐を通した部分から破れてしまいます。そのあたりはアグライア様もよく考えてくださったのでしょう。指で挟めば軽いのに、少し曲げたくらいでは折れ癖がつかず、朝の湿気を吸っても頼りなく波打つ様子はありません。
縁へ目を落とせば、オンパロスに存在したいくつもの国家都市を思わせる小さな意匠が織り込まれていました。土地を象徴する色や建物の輪郭、花や麦、天空を渡る線、なんだか見覚えのある装飾文様が、短冊という細い紙面へ収まるよう丁寧に組み直されています。
束の途中から覗く色を追っているだけでも、知っている場所がいくつも見つかりました。すでに失われた景色を思い出す方もいれば、新しくなった街と見比べて微笑む方もいます。先ほど短冊を受け取ってくださった男性も、紙の端に使われた模様へ指を置いたまましばらく動かず、やがて隣のご家族へ何かを語り始めていました。
内容までは聞こえませんでした。けれど、何度も紙面を撫でる指先と、聞いている方が時折頷く様子を見る限り、そこにはきっと、その人たちだけが知っている景色があるのでしょう。
願いを書く紙が、過去を思い出させる。一見すると、少し不思議なことでした。でも、どこから歩いてきたのかを知っているからこそ、これからどこへ行きたいのかを書けることもあるのかもしれません。
そんなことを考えながら、わたしは短冊の束を胸元へ寄せました。
先行受付は始まったばかりですが、すでに数人の方が記入を終えています。自分の手で若木へ結びに行く方もいれば、高いところを希望して受付へ戻ってくる方もいて、案内係の方々がそれぞれの進む先を示していました。
今のところ、大きな混乱はありません。机の間隔も十分にあり、椅子の数も足りています。筆を使ったあとに手を拭ける布の位置も分かりやすく、イカルンの飛行経路も確認できました。
(うん。順調です……!)
そう胸の中で確認した直後、わたしの耳へ、少し掠れた女性の声が届きました。
「お嬢さん」
「はい!」
反射的に返事をして振り向くと、受付から若木へ続く道の途中に、一人のご老人が立っていました。白髪を後ろで小さくまとめた女性です。
年齢を重ねた身体は細く、背中も少し曲がっていましたが、杖は使っていません。片手には書き終えたらしい短冊を持ち、もう一方の手でその紐を摘まんでいます。急いで近寄ろうとして、わたしは二歩目で速度を落としました。
こちらが慌てて駆け寄れば、相手まで急がなくてはいけない気持ちにさせてしまうことがあるからです。
「お待たせしました。どうされましたか?」
「これをねえ。できれば、少し高いところへお願いしたくて」
「お任せください!」
女性が差し出した短冊を、願い事が見えないよう自然に裏返し、両手で受け取りました。願い事は、その方が見せたいと望まない限り覗かない。それも今日の決まりです。
「そうねえ。せっかく空がこんなに広くなったんだもの。あの子に、少し高いところまで持っていってもらえるかしら」
「あの子……」
女性の視線を追うと、少し離れたところで白い影がぱたぱたと若木の周囲を飛んでいました。
なるほど。
「イカルンですね。はい、喜んで引き受けさせていただきます」
「かわいい子ねえ」
「ふふ。ありがとうございます」
わたしが褒められたわけではありませんけれど、つい頬が緩みました。イカルンを見て「かわいい」と言ってくださる方には、どうしても少し嬉しくなってしまいます。
女性は若木の上を飛ぶ白い身体をしばらく眺めたあと、短冊へ添えていた手を胸元へ戻しました。乾いた指先には薄く墨の跡が残っており、書き慣れた人の筆跡なのか、それとも時間をかけて書いたのだと思います。
紙を受け取った時に感じた端のわずかな温もりが手のひらから消えるより先に、女性は空を仰ぎました。
「どうか、サーシスの恵みがありますように」
小さな祈りでした。声量は大きくありません。それでも、ちょうど近くを通ったペガソースの翼が風を起こし、その風が女性の衣服の裾と、わたしの手にある短冊の紐を同時に揺らしました。
細い紐が指へ絡み、短冊まで手のひらからふわりと浮きかけたため、わたしは慌てて持ち替えました。
「わっ」
親指と人差し指で端を挟み直します。
危ないところでした。まだ何も書かれていない紙ならともかく、これはもう誰かの願いです。飛ばしてしまうわけにはいきません。
「大丈夫ですよ」
女性へ笑いかけながら、今度は紐の付け根をしっかり持ちました。風はすぐに弱まりましたが、細長い紙は軽く揺れ続けています。そこで、視界の上を白い影が横切りました。
「あら」
ちょうどいいところです。
「イカルン!」
「ぷるっ?」
呼ぶと、すぐに黒曜の瞳がこちらへ向きます。先ほど高さを確認していた時とは違い、今度はわたしの手元にあるものへ視線が落ちました。短冊と紐、それからわたしを、順番に見ています。
「さっそく
「ぷるっ!」
今度の返事には迷いがなく、白い身体がこちらへ向きを変えました。わたしは短冊の下端を片手で支え、イカルンが受け取りやすいよう少し高く掲げます。
「この短冊を、あの上の方へお願いできますか?」
指差したのは、先ほどイカルン自身が何度も確認していた場所です。
若木の中でも比較的枝が開けていて、支柱から離れているところ。人の手では届きませんが、天辺ほど葉が密集してもいません。
「無理に奥まで入らなくて大丈夫です。安全な枝を選んでくださいね」
「ぷるるっ」
イカルンが高度を下げてきました。
わたしの手元へ近づくにつれ、翼から押し出された空気が短冊を細かく震わせます。紙が鼻先へ張りつかないように少し角度を変えると、イカルンは一度だけ首を伸ばし、短冊の上端を確かめるように鼻先で触れました。
「ここをお願いします」
紐ではなく、紙の端を示します。願い事の面を傷つけないよう、決めた位置をくわえて運ぶ練習も必要です。イカルンは口を開き、示された端を慎重にくわえると、紙がわずかに撓みます。
「そうです。上手ですよ」
「ぷる」
くわえたままなので、イカルンからの返事は少しくぐもりました。
わたしが指を離すと、紙の重みがすべてイカルンへ移ります。短冊は身体の下で垂直に下がり、紐だけがさらにその下へ長く揺れていました。運べない重さではありません。むしろ軽すぎるくらいです。だからこそ風を受けた時に揺さぶられやすいのが気になりました。
「ゆっくりでいいですからね」
言い終える前に、イカルンの四肢がわずかに縮まりました。空中にいるのに、地面を蹴る前のような姿勢です。
「あ」
次の瞬間。ばさっ、と翼が大きく開きました。
「イカルン、ゆっく――」
お、遅かったようです。
意気込みが身体へそのまま出てしまったのでしょうか。イカルンは鼻先で空を切るように身体を前へ傾け、そのまま一気に若木へ向かって飛び出しました。
「わ、わあ……!」
思わず一歩追いかけます。
最初の数回の羽ばたきは、とても力強いものでした。短冊をくわえているぶん頭部が少し下がっていますが、飛行姿勢に大きな崩れはありません。紙も風へ翻弄されているというほどではなく、イカルンの胸元から少し遅れてついていくように、ぱたぱたと後ろへ流れています。
先ほど確認した経路を覚えていたのでしょう。支柱のある正面を避け、若木の右側から回り込んでいます。
「そうです、そのまま……」
わたしも若木へ近づきながら、イカルンの姿を目で追いました。高さは順調です――ただ、短冊を運んでいなかった時よりも明らかに勢いがあり、速度は少し速すぎるように見えました。
「イカルン、急がなくても――」
言葉の途中で、白い身体が支柱の横へ寄りました。
「あっ」
そこは狭い場所でした。
先ほど本人も避けていた場所。けれど短冊が風を受けたせいか、あるいは目標にしていた枝へ早く近づこうとしたためか、イカルンの進路がわずかに内側へ寄っています。
翼の先が支柱をかすめそうになりました。
「右です、イカルン!」
わたしの声とほとんど同時に、イカルンも気づいたようでした。
イカルンは右の翼を強く打って身体を横へ逃がし、支柱との衝突を避けました。けれど、その勢いで今度は外側へ伸びた枝先へ近づいてしまいます。
翼の先が支柱をかすめそうになりました。
「今度は枝が……!」
翼の先端が葉を掠め、しゃら、と若葉が大きく揺れました。その風に短冊も大きく振られ、くわえていたイカルンの頭が引かれます。
「ぷるっ……!」
くぐもった声が漏れ、羽ばたきが一瞬だけ乱れました。右の翼、左の翼。左右が同じ角度で開かず、小さな身体が斜めに傾きます。
胸の奥がひやりと冷えます。翼が枝へ絡まった様子はありません。落下するほど高度を失ってもいません。けれど姿勢は崩れています。下は石床です。
もし立て直せなかったら――?
「イカルン!」
気づけば、短冊を抱えていた腕を開き、落ちてくるイカルンを受け止めようとしていました。今の高さからそのまま受け止めれば、わたし自身も無事では済まないかもしれません。それでも、そんなことを考えるより先に、身体が動いていたのです。
一歩、また一歩と、わたしは若木の根元へ駆け寄りました。ところが、わたしが両腕を広げたのが見えたのでしょうか。傾いていたイカルンの黒い瞳が、急にこちらへ向きます。まん丸だった目がきゅっと細まり、四肢が空中でばたばたと動きました。
その反応には見覚えがあります。助けを待つというより、まるで「まだ大丈夫です」と示しているようでした。
「無理しなくても――」
「ぷるっ!」
今度ははっきりした声でした。くわえている短冊が邪魔をしているにもかかわらず、イカルンは強く鳴きます。
大きく左の翼を開き、右の翼を短く打つと、その身体がくるりと回転しました。わたしの心臓まで一緒にひっくり返ったような心地がしましたが、白い身体は枝を避け、少し広い空間へ抜けていきます。
「あ……」
思わず漏れた声は、自分でも驚くほど小さなものでした。けれど、その一声を発したことで、ようやく呼吸が戻ります。イカルンは落ちていません。今もちゃんと飛んでいて、左右の翼も再び同じ周期で動いていました。
「よかった……」
両腕を広げた姿勢のまま、肩から力が抜けました。
イカルンは速度を落とし、今度こそ慎重に目標の枝へ近づいていきました。先ほどの勢いが嘘のように消え、翼を小刻みに動かしながら位置を合わせ、鼻先を枝へ寄せていきます。わたしも息を詰めるようにして、その様子を見守りました。
「そうです。ゆっくりゆっくり~……」
紙の端が若葉へ触れ、さらりと短冊の表面が葉を撫でました。そのまま少し奥へ進むと、イカルンが首を傾け、短冊が枝へ乗りました。
「上手です……!」
今度こそ、うまくいったと思いました。イカルンが口を開いて短冊を離すと、紙の上端が枝へ引っかかり、細い紐がその下へ垂れました。
「できました!」
声が弾みました。落下しかけたわけでも翼をぶつけたわけでもなく、短冊は無事に枝へ届いています。最初の一枚がちゃんと届けられたことに安堵していると、イカルンも役目を果たしたことを確認したように、枝から身体を離しました。
「ぷるるっ!」
白い身体がこちらへ向きました。胸を張ったように見えたのは、わたしの気のせいかもしれません。けれど、羽ばたきはさっきまでより軽く、黒曜の瞳もまっすぐこちらへ向けられています。わたしも笑顔で両手を上げかけました。
「イカルン、すご――」
その途中で。
若木の枝に引っかかっていた短冊が、ゆらりと傾きました。
「……あれ?」
風はほとんどありませんでしたが、先ほどイカルンが離れた時の羽ばたきが、まだ枝葉のあいだに残っていたのでしょう。葉が一枚、二枚と遅れて揺れ、その動きに合わせるように短冊の紙面が横へずれました。
(――む、結んでません……!)
紐は枝へ巻かれておらず、ただ垂れているだけでした。イカルンは紙を枝へ置くところまでは成功しましたが、最後に紐を結ぶことまではできていません。
そのことに気づいた瞬間、背中に冷たいものが走りました。紙はさらに傾き、今にも枝から滑り落ちそうになっています。
「ま、待ってください……!」
言って待ってくれるはずもなく、短冊は枝の上を少しずつ滑っていきました。わたしは慌てて若木の下へ移動し、手を伸ばしましたが、当然ながら届きません。先ほどイカルン自身が確かめてくれたとおり、そこは人間の手では届かない高さでした。
背伸びをして手を伸ばしてみましたが、十メートルを超える若木の枝へ指先が届くはずもありません。跳んだところでどうにもならず、根元で無理に動けば危険です。枝を掴んで引き寄せるなど、若木を傷めるような真似もできません。
脚立は受付の反対側にあります。別のペガソースを呼ぶべきでしょうか。それとも、イカルンを呼び戻すべきでしょうか。
けれど、当の本人はすでに自分の仕事を終えたつもりらしく、得意げな様子でこちらへ向かって降り始めていました。
「イ、イカルン、ちょっと待って――」
「ぷるるっ!」
得意げ、とまでは断定しません。だけど褒めてもらえると期待しているようにも見える顔で近づいてくる小さな相棒へ、「実はまだ失敗しています」と今すぐ告げるのも躊躇われます。
その一瞬の迷いのあいだにも、短冊は枝から半分ほど外へ出ました。
(――――お、落ちる……っ!)
もし落ちたとしても、紙そのものが壊れるわけではありません。拾えばいいのです。紐が解けたわけでもありませんし、少し土がついたくらいなら拭うこともできます。
それでも、あのご老人が最初に託してくださった一枚です。できることなら、最初に選んだ枝へ、そのまま留めて差し上げたいと思いました。
「どうしましょう……!」
周囲を見回します。高いところへ手が届く人はいないでしょうか。ペガソースを呼ぶべきか、脚立を取りに行くべきか。それとも、別の方法があるのか。
考えているあいだにも、短冊は枝の上を少しずつ滑っていました。紙の端は、もう半分以上が枝から外れています。
このままでは落ちてしまいます。わたしは受付の方へ視線を走らせました。けれど、すぐに駆けつけられそうな人の姿はありません。脚立は遠く、ペガソースも別の作業へ回っています。
間に合わない――そう思った瞬間、若木の向こう側で何かが動きました。幹に添えられた大きな手のひらと、長い指。その腕に見覚えがあり、視線を辿ると、ファイノンさまが幹のそばに立っていました。
今朝から何度か姿は目に入っていましたが、若木を支える作業に回ってくださっていたため、わたしも必要以上に話しかけずにいたのです。
彼は今も片手を幹に添えたまま、こちらの様子を見ていました。蒼い瞳がまずわたしを捉え、それから枝へ、落ちかけている短冊へと移り、最後に戻ってくるイカルンへ向けられます。一連の状況を見たのでしょう。
ファイノンさまの口元が、ほんの少しだけ緩みました。怒っている様子ではありません。呆れているというよりも、何か可笑しいものを見つけた時のような笑い方でした。
「ファイノンさま……!」
助けを求めるように名前を呼びかけたわたしへ、彼は空いている方の手を持ち上げました。人差し指が立ちます。その指先が、自分の唇の前へ。
「シーっ」
ごく小さな声。
「え?」
わたしが聞き返すより早く、ファイノンさまの手が唇から離れました。指先は空へ向けられ、何かを掴むというより、手首をひねって掌を上へ返し、離れた場所にある糸へ触れるように、ほんの少しだけ指を曲げます。その仕草は、風を操るものとは思えないほど静かで、慎重なものでした。
わたしは反射的に、その指先から短冊へ視線を戻しました。まだ落ちます。紙の端が枝を離れかけた、その直前、頬へ風が触れました。
「……!」
強い風ではありませんでした。朝から何度も大講義場を通り抜けていた自然の風よりも、むしろ柔らかいくらいです。それなのに、その風は不思議なほど真っ直ぐにわたしの頬へ触れ、桃色の髪をひと房だけ持ち上げると、そのまま若木へ向かって抜けていきました。
葉がしゃらりと揺れ、短冊もまた風に揺れました。けれど、先ほどとは反対に、枝から離れようとしていた紙は、ふわりと内側へ押し戻されます。
「あ……」
垂れていた紐が風に持ち上げられ、弧を描きながら枝の上を越えて向こう側へ落ちました。いったんは枝に掛かっただけに見えましたが、風は止まず、今度は反対側からごく小さく巻き込みます。紐の先が再び持ち上がって先に掛かった部分の下へ潜り、枝を包むように絡みました。
わたしは思わず一歩前へ出ました。風に揺らされた細い紐が、枝の上で交差します。ひとつの輪を描き、もう一度くるりと回ると、紙そのものを大きく揺らさないほどの風が、紐だけを器用に運んでいきました。
やがて交差した部分がきゅっと狭まり、結び目が形を成します。短冊は、枝から落ちることなく、そこへしっかりと留まりました。
「わ……」
思わず、声が漏れました。最後に一度だけ風が枝葉を撫でると、紐の余った部分が横へ流れ、結び目がきゅっと締まります。短冊はもう落ちることなく、薄い翡翠色の葉のあいだで、まるで最初からそこに結ばれていたかのように静かに揺れていました。
わたしの頬を撫でていた風は、役目を終えたように、すっと消えていきました。短冊が枝へ結ばれるまでに要したのは、ほんの数呼吸ほどの時間です。その間も、周囲では受付の声が途切れることなく続いていました。誰かが異変に気づいて騒ぐ様子もありません。
少し離れた場所に立つご老人だけが、若木の高い枝へ視線を向けています。けれど、風が短冊を支え、紐を結んだことまでは、おそらく気づいていないのでしょう。
「ファイノンさま……」
もう一度、今度は声を抑えて彼の名を呼びました。彼を見ると、先ほどまで上げていた手はすでに下ろされ、幹へ触れていたもう一方の手もそのままです。まるで、何もしていなかったかのような姿でした。
けれど目が合うと、蒼い瞳が細まりました。わたしは短冊へ目を戻します。枝に掛かった結び目は少し不格好で、左右もきれいには揃っていません。紐の長さも片方だけがわずかに余り、風に揺れるたび、頼りなく形を変えていました。
風だけで結んだのだから、当然といえば当然なのでしょう。でも、ファイノンさまは麦で花冠を編めるほど手先が器用な方です。本気で整えるつもりなら、もっと美しく、隙のない結び目に仕上げられたはずでした。
それなのに、枝に残された紐の結び目は、左右の長さも揃わず、少しだけ不格好です。まるで、イカルンが自分で結んだように見える形でした。
そのことに気づいて、わたしはもう一度ファイノンさまへ視線を向けます。彼は何食わぬ顔で、戻ってきたイカルンへ目を向けていました。
「ぷるるっ!」
イカルンが、わたしのすぐ近くまで降りてきました。
白い身体は元気そのもので、翼をぱたぱたと動かしながら、わたしと若木を交互に見ています。そんなイカルンの姿を見たファイノンさまは、再び唇へ人差し指を当てました。
「……!」
今度こそ、ファイノンさまの意図が分かりました。イカルンには黙っていてほしい、ということなのでしょう。
イカルンは、自分の力で短冊を枝へ届けたつもりです。実際、短冊を運ぶところまでは自分で成し遂げました。途中で姿勢を崩しても自力で立て直し、支柱や枝を避けながら、紙を落とすことなく目標の場所まで運んだのです。
ただ、最後に紐を結ぶことだけを忘れてしまいました。その不足を、ファイノンさまは誰にも気づかれないよう、そっと補ってくださったのでした。
(だから、あの結び方……)
少し歪んでいる。
イカルンが自分で苦労して結んだと言われても、不自然には見えないくらいに。
そう理解した瞬間、胸の奥がじんわりと温かくなりました。同時に、少しだけ可笑しくもなります。助けるなら、もっと普通の方法もあったはずです。イカルンを呼び戻して「紐を忘れていますよ」と教えたり、別のペガソースへ頼んだり、高いところへ手を伸ばして結んでしまったりすることもできたでしょう。
けれどファイノンさまは、イカルンの一回目の挑戦を「失敗」にしないよう、さりげなく支えてくださったのだと思います。もちろん、彼が何を考えていたのかまでは分かりません。そう見えた、というだけです。
それでも、彼の指先と、少し不格好な結び目、そして得意そうなイカルンへ向けた笑顔を見れば、そう受け取るには十分でした。
わたしはファイノンさまへ向かって、小さく頭を下げました。声にはしません。彼も何も言いません。ただ、また少しだけ目を細めます。それで十分でした。
「ぷるる?」
「あっ、ごめんなさい。お待たせしました」
イカルンが若木の上を見上げたので、わたしもつられて視線を向けました。すると、最初の短冊はきちんと枝に結ばれたまま、風に揺れていました。
「ちゃんと届きましたよ」
「ぷるっ!」
「高いところまで運べましたね。途中で枝にぶつかりそうになった時も、自分で立て直せていましたし、とっても頑張りました」
褒めるべきところは、本当にイカルン自身がやったことです。そこに嘘はありません。白い翼が大きく一度開きました。わたしはその動きを見届けてから、少しだけ身を屈めます。
「ただし」
「ぷる?」
声色を柔らかくしたまま、人差し指を一本立てました。
「次は、最後に紐まで確認しましょうね?」
「ぷるぅ?」
首が傾きました。やっぱり気づいていません。
「短冊は枝へ置くだけじゃなくて、紐をくるっとして、ちゃんと留めるんですよ」
両手の指を使い、空中で紐を結ぶ真似をします。
「こうです。くるっとして、きゅっ、です」
「ぷる……」
黒曜の瞳が、わたしの指をじっと追っています。
「難しかったら、最初はゆっくりで大丈夫です。お昼からいきなり完璧にできなくても、練習しながら覚えればいいですからね」
「ぷるるっ」
返事とともに、イカルンがわたしの手元へ鼻先を寄せました。わたしの言葉を理解したのか、それとも結び方そのものに興味を持ったのか、あるいはただ指の動きが気になっただけなのかは、まだ分かりません。だから今度は、分かったつもりにはならずにおくことにしました。
「次の時に、一緒に確認しましょう」
「ぷるっ!」
元気な声。
それだけ受け取って、わたしは立ち上がりました。
視線の先では、最初の短冊が朝の光を受けています。風が吹くたびに紙面が揺れ、そのたび細い紐の結び目も小さく動きますが、もう外れそうにはありません。少し歪んだ結び目。イカルンの一生懸命な初仕事と。誰にも知らせず、それをそっと支えたファイノンさまの指先。
その両方を知っているのは、たぶん今のところ、わたしだけです。口にしてしまえば簡単な出来事です。短冊が落ちそうになって、ファイノンさまが風で助けてくださった。ただ、それだけことです――けれど、こういう小さな助け合いがいくつも重なって、今日のお祭りは形になっていくのでしょう。
誰か一人が全部を完璧にやるのではなく。届かなかったところへ、別の誰かがほんの少しだけ手を伸ばす。その手柄を取り合うこともなく、時には誰が支えたのかすら分からないまま。
わたしはそんなことを胸の内へしまいながら、今度こそ安心して腕の中の短冊を抱え直しました。さらり、とまた紙の端が指へ触れます。
最初の一枚は、もうわたしの手元にはありません。願いを記した紙は人の手を離れ、小さな翼に運ばれて、誰かの風に支えられながら、若木の高い枝へ結ばれています。
その事実だけを確かめるようにもう一度見上げてから、わたしは次の方を迎えるため、受付の方へ身体を向けました。
イカルン旋風が強すぎるから吹っ飛んじゃうんですよ、タブンネ!