オンパロスの空へ、ひとつ、またひとつと願いが結ばれてゆく。
かつて明日を望むことさえ難しかった人々が、自分の手で未来を選び、若木の枝へ託していく。その光景を見守りながら、ヒアンシーはようやく、この祭りが始まったのだと実感した。
しかし、空を彩る短冊の向こうには、かつて世界を救った英雄たちの姿もあった。彼らは今、戦いのためだけに生きるのではなく、それぞれの「今」を歩み始めていたのである。
若木を見上げれば、先ほどまで数えるほどしかなかった短冊が、もう枝のあちらこちらで風を受けていました。
色も長さも結び方も少しずつ違っていて、イカルンが一生懸命に結んだものは紐の輪がまだ少し不格好ですし、アグライア様が預かったものは遠目からでも分かるほど整っています。ケリュドラ様の担当した枝には、どういうわけか高さまできちんと揃えられた短冊が並び始めていて、あれはきっとご本人なりの秩序なのでしょう。
子どもたちの声が一段落すると、その隙間から今度は年配の方々の話し声が聞こえてきました。筆記台の前で互いの短冊を覗かないよう少し距離を取りながら、「何を書こうかねえ」「孫のことならいくつでもあるんだが」と笑っています。
わたしは空白の短冊を一枚ずつお渡ししながら、書くことに迷っている方には急かさず席をご案内しました。
「願い事は、一つでなくてもいいんですよ。まず思い浮かんだものから書いてみてもいいですし、今日は思いつかなかったら、またお昼からいらしてくださっても大丈夫です」
「そうかい。でも、せっかくだから何か書いて帰りたいねえ」
「ふふ。では、ゆっくり考えましょう。椅子はこちらです。お疲れでしたら、少し休んでからでも」
腕を貸そうとすると、ご老人は「まだ歩けるよ」と笑いました。だからわたしも無理には支えず、転びそうになった時だけ届く距離を保って隣を歩きます。
歩ける方から歩く力を奪わないことと、助けが必要になるまで完全に放っておくことは同じではありません。治療の場でも日常でも、そのあいだの距離を測ることは、思っているより難しいものです。
誰かができることを、心配だからという理由だけで全部取り上げてしまえば、その人自身が持っている力まで見えなくなってしまう。けれど、まだできますよね、と任せ続けて限界を越えさせれば、それは見守ったことにはなりません。
その匙加減を、わたしは患者さんたちから何度も教わってきました。――先ほどのイカルンも同じでした。
最初からファイノンさまが短冊を結んでしまっていたら、きっと失敗はありませんでした。でも、イカルン自身が飛んでみたからこそ、何ができて、何を忘れて、次はどうすればいいのかが分かったのです。今では子どもたちから次々に短冊を預かり、枝のあいだを慎重に飛んでいます。
「ぷるるっ!」
「イカルン、休憩も忘れないでくださいね〜!」
「ぷるっ!」
聞こえているのかどうか、元気な返事だけを残して白い身体がまた梢へ上がっていきました。
その様子に笑いながら、わたしは空いている椅子を一つ引き、ご老人が座るのを確認してから立ち上がります。視界の向こうには、願いを抱えた人たちと、その間を行き来する黄金裔の皆さまの姿がありました。
つい少し前までは、同じ顔ぶれが集まれば、何をどう戦うのか、どのタイタンへ挑むのか、誰をどこへ配置するのか、そんなことばかり話していた気がします。
それが今日は、短冊の紐が絡まったり、結ぶ枝が高すぎたり、子どもが走り回って危なかったり、筆を一本どこかへ持っていった子がいたりと、そんなささやかなことで忙しくしています。
(歴々の黄金裔の皆さまは、きっと……こういう景色を、ずっと見たかったはずです)
胸の内でそう思った時、風に揺れる短冊の向こうへ、ずっと昔の天空が重なった気がしました。
わたしは天空の末裔です。エーグル様の助祭として、その神権を継ぎ、「天空」の火種を背負った黄金裔でもあります。けれど、わたしの血の始まりにいる人は、語り継がれるような偉大な英雄ではありませんでした。
幼い頃から聞いてきた物語の中では、わたしたちの祖先は陽雷の騎士セネオス様なのだと思っていた時期もあります。天空を駆け、戦い、誰かを守るために剣を取った英雄。その名を自分の系譜へ重ねれば、誇らしい気持ちにならなかったと言えば嘘になるでしょう。
でも、本当は違いました。
わたしへ命を繋いだのは、英雄として讃えられた方ではありません。
その英雄へ、生きたいと願った人。死にたくないと、命を乞うた名もなき黄金裔。戦場で華々しい功績を残したわけでもなく、神話の中へ名前を刻んだわけでもない、ただ生き延びることを願った一人の人でした。
その事実を知った時の胸の揺れを、今でも覚えています。けれど、恥じる理由などなかったのです。あの人が生きたいと願ってくださらなければ、その先の命はありませんでした。その人が恥も誇りも投げ捨てるようにして命を求めたから、次の人が生まれ、そのまた次の人が生まれ、お父さんとお母さんがいて、わたしがいます。
英雄になることだけが命の価値ではない。戦って散ることだけが誇りではない。生きたいと願うことも。誰かへ助けてほしいと手を伸ばすことも。傷だらけになったあとで、もう一度朝を迎えようとすることも――全部、生きるための立派な選択です。
そう考えられるようになったのは、医師としてたくさんの患者さんと向き合ってきたからなのか、それとも、あの時セネオス様へ自分なりの答えを返すことができたからなのか。たぶん、どちらか一方ではないのでしょう。
(セネオス様と交わした約束は、果たされました)
あの問いへ、いつか納得できる答えを返すこと。ご先祖様から長い時間を越えてわたしへ届いたものを、わたし自身の言葉で返すこと。
それはもう果たしました。だから今、ここで改めて答え直す必要はありません。短冊の下を走っていく子どもたちの姿を見れば、それで十分な気がしたのです。
命を残した人がいて。未来へ繋いだ人がいて。そのずっと先で生まれた子どもたちが、自分の願いを書いて走っています。英雄ではなくても生きていいと願った命の先で、今度は誰もが「こんなふうに生きたい」と書ける世界になった。
それなら、きっと。
(ご先祖様。……わたしは、わたしたちは、ご先祖様やお歴々の天空の戦士たちに誇れる黄金裔になれたでしょうか)
返事はありません。もちろん、あるはずもありません。
ただ若木の葉が鳴り、頭上でイカルンの翼が空気を叩き、すぐそばでは子どもがきゃらきゃらと笑っています。それだけで、不思議と問いを問いのまま持っていられました。
答えを急がなくてもいいのでしょう。未来というものは今日で終わるものではありませんから、これからも暮らして、働いて、誰かを傷つけてしまったなら謝って、できることを増やしながら、いつか改めて考えればいいのです。
「ヒアンシーさまー! この子、何書けばいいか分からないって!」
「あら」
思考を引き戻したのは、先ほどまで駆け回っていた女の子でした。袖を掴まれて連れていかれると、筆記台の端に一人の小さな少年が座っています。空白の短冊を両手で持ったまま、困ったように眉を寄せていました。
「書きたいこと、ありませんか?」
「うーん……」
「好きな食べ物でもいいですよ」
「昨日食べたんだよ」
「では、また食べたいものは?」
「昨日のやつ!」
「それも立派な願いですね」
「でも、もっとすごいやつ書くんでしょ?」
少年の視線が若木へ向きます。そこには英雄たちが結んだり、市民が自分で結んだりした短冊が揺れています。
「すごくなくてもいいんですよ」
「ほんと?」
「はい。誰かと比べるためのものではありませんから。昨日おいしかったものを、また食べたい。わたしは、とっても素敵な願いだと思います」
少年は短冊へ目を落とし、しばらく考えてから筆を手に取った。わたしは何を書くのか覗かず、少し離れて見守る。筆先が紙に触れ、細い音を立て始めたことを確かめて頬を緩めた時、視界の端に見覚えのある姿が映った。
「……あ」
紺色がゆらりと。
かつて天空を駆けた英雄。先代エーグル様――セネオス様です。けれど今、その手に矛先を天へと向けた槍はありませんでした。
こちら側の休憩席で、椅子へ座ったご老人の隣に立ち、何やら話を聞いています。ご老人が足元を指すと、セネオス様も視線を落とし、膝を少し曲げて高さを合わせました。
怪我でもしたのでしょうか。反射的にわたしも足元を確認します。片脚を庇っている様子はなし。顔色も悪くありません。どうやら履物の紐が緩んだだけらしく、セネオス様がしゃがみ込み、結び直すのを手伝っています。
それを見て、わたしの背筋までつい伸びてしまいました。
(セ、セネオス様……!)
戦うことばかりに明け暮れていた先代エーグル様は、永遠の一ページでは看護師を目指しています。
そのことを初めて聞いた時は、嬉しいという言葉だけでは足りないくらい驚きました。わたしの生き方や、昏光の庭での働き方を見て、医療という道へ何か思うところを持ってくださったらしいのです。とても、とても光栄です。
ですけれど。
(わたしがお手本に……なっているんですよね……?)
そう思うと、急に外套の襟が曲がっていないか気になります。先ほど子どもたちを追って動き回ったせいで、桃色の髪も少し乱れているような。
わたしは短冊の束を片腕で支え直し、もう一方の手でこっそり髪を整えました。普段通りでいいのです。いつも通り患者さんを見て。必要な方へ声をかけて。困っている人がいたら手を貸す。
それがわたしの仕事なのですから、憧れの英雄様が見ているからといって急に立派そうな医師を演じる必要はありません。分かっています。
分かってはいるのですが――ど、どうしても、少しだけ背筋が伸びました。
「ヒアンシーさま、なんで急にまっすぐになったの?」
「えっ」
先ほどの女の子が、わたしを不思議そうに見ています。
「な、なんでもありませんよ〜?」
「なんか固い」
「気のせいです!」
「ふーん?」
子どもの目は、時々とても鋭いです。わたしが誤魔化すように笑っている間にも、セネオス様はご老人を立たせ、歩き出すまで様子を見ていました。
そのあと、こちらへ視線が来るかと思って少し緊張しましたが、セネオス様は別の方に呼ばれてそのまま反対側へ向かいます。
(……お気づきでは、ないようですね)
ほっとしたような、少し残念なような――複雑です。だけど、かつて天空を生き、戦うことを求められ続けた英雄が、今では人の歩き方を気にかけ、困っている人へ手を差し伸べ、医療を学ぼうとしている。
それは役割を失った姿ではなく、ようやく自分の生き方を選び直せるようになった姿なのでしょう。
ケリュドラ様が子どもたちの短冊を王の仕事として受け取り、モーディス様が戦場ではなく若木の下で願いを結び、アグライア様が仕立てた紙へ市民が未来を書き、ファイノンさまが誰かの失敗を目立たないように助けて笑っている。
黄金裔と呼ばれたわたしたち自身もまた、市民の皆さんと同じように、救われたあとの人生を始めたところなのでしょう。
火種を背負うためでもなく。タイタンへ挑むためでもなく。世界を終末から救うためでもなく。――ただ、自分がこれから何をして生きたいのかを選ぶ。
セネオス様が看護師を目指してくださっていることも、その一つです。そう思えば、わたしがあまり緊張しすぎるのも失礼なのかもしれません。英雄様だから立派に見せなくては、と意識すること自体が、今を生きているセネオス様を、昔の英雄という場所へ戻してしまう気がしました。
(いつも通り、いつも通りです)
自分へ言い聞かせ、肩を下ろします。
ちょうどその時、別の筆記台から小さな歓声が上がりました。
「あ、ファイノン様!」
「こっち見た!」
「手振ってくれ~!」
何でしょう、と視線を向けます。
若木の少し向こうでは、短冊を受け取っていたファイノンさまへ、数人の若い方々が控えめに手を振っていました。先ほどの子どもたちのように駆け寄ることはせず、けれど気づいてほしいという気持ちは隠しきれないのでしょう。互いに顔を見合わせ、声を潜めながら楽しそうに笑っています。
ファイノンさまは短冊を一枚整えたあと、誰かに呼ばれたことには気づいたらしく顔を上げました。けれど、自分へ向けられた視線だとは分からなかったのでしょう。辺りを見回した末、見当違いの方向へ軽く会釈してしまいます。
「あっちじゃないって」
「ふふっ」
「やっぱり気づいてないみたいだなぁ」
若い方々は、嫌味のない、呆れと親しみの混じった笑い声をこぼしました。見ているわたしにも、それがファイノンさまへの好意から生まれたものだと分かるほどでした。
(……ファイノンさま。どうして分からないのでしょう?)
首を傾けます。先ほども女の子たちから「ファイノン様がいい」と名指しされていましたし、今も会場のあちこちから視線を集めています。
英雄として名高いからというだけではないのでしょう。話しかければ笑ってくださいますし、高いところへ短冊を結んでほしいと頼めば嫌な顔一つせず、ご老人へは自然に歩幅を合わせ、子どもが短冊を見せればきちんとしゃがんで目線を合わせる。
そうした一つひとつを見ていれば、人気が出るのも不思議ではありません。なのに、ご本人だけがその事実から少し離れたところにいるようでした。
「……うーん」
思わず腕を組みました。なんとなしに考えてみれば――わたしが尊敬する英雄さまや偉人さまがたは、ご自分の人気に無頓着が過ぎるのではないでしょうか。
セネオス様しかり。ファイノンさましかり。それから――。
(アナイクス先生も、ですよね)
神悟の樹庭にいた頃を思い出します。
先生の講義を受けたがる生徒や、議論を求めて研究室へ集まる学者、論文を読み込んで質問を携えてくる人は、決して少なくありませんでした。
先生は研究内容について尋ねられればいくらでも答えてくださるのに、「先生のお話を聞きたいんです」と伝えられると、それさえも研究の話を求められているのだと即座に解釈してしまわれます。
研究者として尊敬されることと、一人の人間として好かれることは別のものです。けれど、その二つが同時に存在することだってあるのです。
(そのあたり、先生もあまりご自覚がありませんでしたよね……)
ますます首を傾げます。
では、黄金裔は皆そうなのでしょうか。視界を横へ動かすと、アグライア様が市民の方と話しています。
オンパロス随一の
その麓で長く過ごしてきたサフェル様も、人の視線には敏感でしょう。サフェル様の場合は気づいたうえで、気づいていないふりをして楽しんでいそうな気もしますけれど、それはまた別のお話です。
トリスビアス様に至っては、ヤヌサポリスの聖女として、長いあいだ人々の祈りや視線を受けてきた方です。ご自分が姿を見せた時、相手がどう反応するのかは、きっとわたしなどよりずっとよくご存じでしょう。
(となると、黄金裔だから、というわけではありませんね)
視線をファイノンさまへ戻します。
アグライア様のもとで学んだと伺っていますし、仕草はきれいで、人との距離の取り方も上手です。失礼な振る舞いをする方でもありません。
むしろ、相手の表情や声の調子をよく見て、必要な時には自然に歩み寄れる方です。それなのに、ご自分が周囲からどのように見られているのかということだけには、どうしても鈍いようでした。
先ほどから若木の周囲にいる方々が、彼の動きを目で追っていることも。短冊を直接渡せただけで少し嬉しそうにしている方がいることも。名前を呼ばれるたび周囲まで振り向いていることも。――なんだかご本人には、あまり届いていないように見えました。
「……不思議です」
わたしはとうとう片手を顎へ添えました。英雄として崇められることに慣れすぎて、個人的な好意と区別がつかないのでしょうか。それとも、ご自身へ向けられる好意を最初から計算へ入れない癖があるのでしょうか。医師として患者さんを見るなら、そういう自己認識の偏りは少し気になるところです。
けれど今日は診察の日ではありませんし、今すぐ問題があるわけでもありません。何より、先ほどまで「何でも診察へ結びつけないようにしましょう」と自分へ言い聞かせていたばかりでした。
(……いけません。また診察になりかけています)
それでも気になります。セネオス様も。アナイクス先生も。ファイノンさまも。なぜ、これほど周囲から好かれているのに、自分のこととなると急に見えなくなってしまうのでしょう。
うーん、と腕を組んで考え込みながら視線を落とすと、抱えていた短冊の端が外套へ押されて少し曲がっていました。
「あっ」
慌てて腕を緩めます。
願い事を預かる紙を、考えごとで潰してしまうところでした。
「危ない危ない……」
短冊の角を指で優しく整え、束を抱え直します。その間にも、若木の向こうからは笑い声が届いていました。
ファイノンさまは今度こそ自分へ手を振っていた方々に気づいたようで、少し遅れて笑顔を返しています。すると向こう側からまた小さな歓声が上がりました。なのに彼は、その反応に首を傾けています。
(やっぱり、不思議です……)
わたしが再び考え込みかけた、その時でした。賑やかな声のあいだから、一定の歩調で石床を踏む足音が近づいてきます。
子どもたちの軽い駆け足でもなく、短冊を受け取りに来た方の遠慮がちな歩みでもありません。急いではいないのに迷いがなく、こちらへ一直線に距離を縮めてくる、聞き覚えのある足取りです。
わたしは短冊の束を抱えたまま顔を上げました。こうして何かへ夢中になって考え込んでいる時、この歩き方で近づいてくる人には、神悟の樹庭にいた頃から覚えがあります。
口元へ自然と笑みが戻りました。けれど、まだ声をかけるより先に。わたしは学び舎で何度も見慣れた人影へ向かって、ゆっくりと振り返りました。