若木に結ばれた短冊は、風を受けるたびに小さな音を立て、そこへ集う人々の願いを空へ運んでいった。戦いのために集められていた黄金裔たちは、今や紐の結び方や子どもの安全を気にかけ、英雄として名を刻んだ者たちもまた、誰かの歩みに寄り添い、次の人生を選び始めている。
天空の末裔であるヒアンシーは、名もなき祖先が生きたいと願ったからこそ、自分がここにいるのだと改めて知る。セネオスとの約束を果たした今、英雄でなくても生きてよいという答えは、短冊へ願いを書く子どもたちの姿そのものにあった。
その一方で、セネオスやファイノンをはじめとする英雄たちは、自らへ向けられる憧れや好意に驚くほど無頓着だった。ヒアンシーがその不思議を考え込んでいた時、神悟の樹庭で慣れ親しんだ足音が、祭りの喧騒を縫って近づいてくる。
学び舎で何度も見慣れた人影へ向かって振り返ると、祭りの明るい色彩の中へ、濃紺と青緑を重ねた長衣が静かに入り込んできました。
歩幅は一定。石床を踏む靴音にも急ぐ気配はありません。それなのに、短冊を選ぶ人や走り回る子どもたちのあいだを迷うことなく抜けて、こちらへ真っ直ぐ近づいてきます。歩くたび長い上衣の裾が一拍遅れて揺れ、腰元の金具から細い音がしました。
朝の日差しを受けた灰緑の髪は、神悟の樹庭で講義を受けていた頃より少し淡く見えます。片眼を覆う黒い眼帯と長い前髪。その反対側から覗く赤紫の瞳は、まだわたしが声をかけてもいないうちから、こちらを上から下まで一度なぞっていました。
顔色や姿勢、抱えている短冊の状態、腕の位置まで順に確かめられ、それから、先ほど考え込んでいたせいで少し俯いていた顔へ視線が戻りました。アナイクス先生が何を見ているのか、長年の生徒経験からすぐに分かります。
だから、わたしが最初に言われることも、なんとなく予想できてしまいました。
「おはようございます。主催である貴女が、そのように額へ手を当てて思案に沈んでいるとは。……何か厄介事でも起きましたか?」
「わっ、アナイクス先生。おはようございます!」
予想していたのに、いざ声をかけられると肩が少し跳ねました。抱えていた短冊の束がずれそうになり、慌てて腕を締め直します。
「いえ、心配には及びませんよ。ちょっと考え事をしていただけです」
「その回答は、問題が存在しないことの証明にはなっていませんね」
「そうでしょうか」
返事をしたばかりなのに、もう一段先へ進まれてしまいました。
アナイクス先生はわたしの前まで来ると足を止めました。細身の腕が胸の前で組まれ、その動きに合わせて赤い腕章が暗色の袖の上へ浮きます。
「問題がないのであれば、貴女が考え込んでいた理由を説明できるはずです。逆に説明する必要すらないほど些末な事柄であるなら、その程度の事柄に現在の仕事を中断させられていたことになります。どちらにせよ、主催者としては望ましい状態ではないでしょう」
「うう……先生、朝から容赦がありませんね」
「観測した事実を述べただけです」
昔から変わりません。先生へ「大丈夫です」と言う時には、大丈夫である根拠を用意しておかないと、むしろ質問が増えるのです。
患者さんから「大丈夫です」と言われた時、わたしが顔色や呼吸、姿勢や手先を見て、本当に無理がないかを確かめるのと少し似ています。もっとも、わたしの場合は、なるべく相手を問い詰めないようにしますけれど。
「患者の前では笑顔を絶やさないことを心掛けている貴女が、祝祭の最中に一人で腕を組み、額へ手を置き、さらに短冊を潰しかけるほど注意を内側へ向けていた。普段の貴女を基準にすれば、十分に
「短冊を潰しかけたところまで見ていたんですか?」
「見えていましたからね」
「いつからです?」
「貴女が二度目に首を傾げた辺りから」
思っていたよりずっと前でした。
「そ、そんなに見られていたんですね……」
「観察対象が自ら目立つ動きをしていたのですから、見ない理由がありません」
言葉だけを聞けば、冷たいと言われることもあるでしょう。
けれど、わたしは知っています。アナイクス先生は、人の顔色を見て「心配だ」とすぐ口にする方ではありません。その代わり、呼吸の乱れ、動作の遅れ、発言の矛盾、手元の細かな失敗を拾って、そこから問題を切り分けます。
樹庭で助手をしていた頃、わたしが寝不足のまま資料を整理していた時だってそうでした。休みなさいではなく、「その精度で記録を続ければ誤差が累積します。作業から外れなさい」――そう言って机から追い出されました。
あの頃はずいぶん理屈っぽい言い方だと思ったものですが、今となってみれば、あれも先生なりの心配だったのでしょう。
そう考えていると、アナイクス先生の眉がほんの少し動きました。
「今度は何です?」
「いえ。先生は相変わらずだなぁ、と」
「意味のない感想ですね」
「ふふ。そういうところです」
笑うと、露出した赤紫の瞳が一瞬だけ細まりました。
怒ってはいません。本当に機嫌を損ねた時なら、もっと声の輪郭が鋭くなりますし、わたしの返事を待たず論点を切り直すでしょう。今はただ、話が本題から逸れていることに少し呆れている程度です。
「それより、先生こそどうされたんですか?」
「どう、とは?」
「こんな時間にお見かけするのが、少し珍しくて」
言ってから、視線を先生の手元へ落とします。資料がありません。記録端末もありません。書き込みだらけの紙束も、試料を入れた容器も見当たりません。
神悟の樹庭にいた頃、先生がこれほど手ぶらで歩いている姿を見る機会は、かなり限られていました。食事へ向かう途中ですら、片手に論文を持っていることがありましたから。
「ああ。そのことですか」
先生は心底どうでもよさそうに答えました。けれど、その声より先に片方の眉がわずかに下がったのを、わたしは見逃しませんでした。
「現在、私には長期休暇が設定されています」
「……長期休暇」
「繰り返さなくても聞こえています」
「いえ、だって、先生と長期休暇という言葉が、あまりにも……」
「結びつかない、と?」
「はい」
「貴女はもう少し教員へ敬意を払った方がいい」
「尊敬していますよ〜?」
それは本当です。ただ、尊敬と現実認識は両立します。
アナイクス先生が自発的に長期休暇を申請して、研究から離れてのんびり過ごす姿など、どう想像しても上手く形になりません。そんなわたしの表情を読んだのか、先生は小さく息を吐きました。
「宇宙進出に必要となる航行手段、その搭載機構、長距離滞在を前提とした移動式仮想住宅、研究設備の独立運用、外界環境下での魂および記憶体への影響――検証すべき項目が増えた結果、ここしばらく計画作成とデータ収集が連続していました」
「はい」
「その進捗を確認した姉さんが、研究効率ではなく私自身の稼働時間へ不要な関心を示しましてね」
姉さん。その呼び方が出た瞬間だけ、先生の声からいつもの尖った部分が少し薄くなったように聞こえました。
「一定期間、研究設備への立ち入りを禁ずる、と。実に非合理的な命令です」
「……先生」
「何です?」
「もしかして、寝てなかったんですか?」
「論点を勝手に変更しないでください」
「食事は?」
「それも現在の議題とは無関係です」
「先生?」
「……」
赤紫の瞳が、わたしから外れました。
納得しました。昔から、都合が悪い時だけ少し分かりやすいのです。
「お姉さまの判断は正しかったのでは?」
「医療従事者としての偏見が入っていますね」
「休養を勧めることは偏見とは言いませんよ〜?」
「研究計画は予定どおり進行していました」
「先生自身の体調も、計画を進めるための条件に含めてください」
「姉さんと同じことを言わないでください」
思わず口元を押さえました。
「ふふっ」
「何がおかしいのです?」
「いえ、先生もお姉さまには弱いんだなと思いまして」
「訂正します。弱いのではありません。議論を継続したところで結論が変わらないと判断しただけです」
「それを、わたしたちは押し切られたと言うのでは?」
「ヒアンシー」
「はい」
名前を呼ばれたので、素直に姿勢を正しました。先生は数秒ほどこちらを見ていましたが、結局それ以上反論しませんでした。
つまり。たぶん。わたしの理解はそれほど間違っていないのでしょう。
「ですから現在、工房どころか研究区画への立ち入りも制限されています。精々、休暇とやらを楽しむとしますよ」
「先生がそう言うと、ものすごく不本意そうに聞こえますね」
「不本意ですからね」
そこは隠さないようです。
「それで、何をして過ごしていらっしゃるんです?」
「特に決めていません」
「えっ」
「休暇中に予定を組めば、それを仕事と呼び始める者がいるのでしょう?」
「お姉さま、先生のことをよく分かっていらっしゃいますね……」
「余計な感想です」
言いながらも、アナイクス先生はその場を去ろうとはしませんでした。
むしろ露出した片眼が、わたしの肩越しへ動きます。受付の机、短冊を結びつけた若木、その周囲で弾む子どもたち、枝の高いところを飛ぶイカルン。少し離れた筆記台ではキャストリス様が市民の手元を覗き込み、樹庭所属の研究者らしい方々が受け取った短冊を種類ごとに整理していました。
先生の視線は、それぞれの場所へ短く留まりながら、祭りの流れに滞りがないか確かめるように順番に移っていきました。
なるほど。
研究ができないなら何もすることがない、というわけではなかったようです。
「皆さんの様子を見に来たんですね?」
「巡回しているだけです」
「それを様子を見に来たと言うのでは?」
「定義の問題でしょう」
「キャストリス様のところにも?」
「先ほど通りました」
「樹庭の研究者さんたちも?」
「一部は確認しました」
「ファイノンさまも?」
一拍、ほんのわずかな間でした。けれど、その問いにだけ返答が遅れたことを、わたしは見逃しませんでした。
「……まだです」
やっぱり。
思わず笑いそうになりましたが、先生の目がこちらへ戻ってきたので耐えました。
アナイクス先生は、生徒を同じ方法で気にかける方ではありません。キャストリス様には無理に人との距離を縮めさせず、わたしには自分で考えた治療方針の根拠を必ず尋ねました。ファイノンさまがどれほど突拍子もない質問を持ち込んでも、まずは内容を聞き、否定する時には次に考えるべき条件を残してくださったのです。
卒業したから。樹庭を離れたから。使命が終わったから。それだけで「もう自分の生徒ではない」と線を引く方ではありません。だから休暇に追い出された今日も、結局こうして教え子たちの周囲を歩いているのでしょう。
本人へそう言えば、きっと「観察可能な対象を確認しているだけです」と言われそうなので黙っておきます。
「そういえば先生、七夕はご存じですか? 詳しくは説明していなかったような気が……」
「天外由来の風習でしょう。願いを紙へ記し、樹木へ掲げる。由来となる伝承については開拓者から提出された資料を読みました」
「もう調べたんですか?」
「知らない事象が目の前で催されているのに、その前提を確認しない理由がありますか?」
「休暇中ですよ?」
「資料を読むことまで禁じられてはいません」
「……お姉さまに報告した方がいいでしょうか」
「やめなさい」
即答でした。
「ふふふ」
「……」
こんな先生を見ることも、以前なら珍しかった気がします。樹庭にいた頃は、研究へ没頭している背中を追いかけることの方が多く、わたしが体調について口を挟めば、論理を何段も積み上げて作業継続の正当性を主張されました。
今は、姉に工房を閉め出されたと文句を言いながら祭りを歩き、かつて受け持った生徒たちの様子を順番に見て回っています。
それが少し可笑しく、同時に嬉しくもありました。
「先生も短冊を書いていかれますか?」
「現時点では未定です」
「願い事、ないんですか?」
「願望と研究課題を混同するつもりはありません」
「宇宙へ行きたい、では駄目です?」
「それは計画です」
「大地獣をたくさん見たい、とか」
「それは当然の要求であって願望では――」
そこまで言って、先生の口が止まりました。
「あっ」
「……」
「今、書けそうでしたよ?」
「聞かなかったことにしなさい」
「ふふっ。分かりました」
先生の大地獣好きは、何年経っても変わりません。
こういうところを見ると、七賢人だとか知種学派の創始者だとか、世界構造を解き明かした理性の賢者だとかいう肩書きが、少しだけ遠くなります。そして同時に、先ほどまで考えていたことを思い出しました。
(そうでした。アナイクス先生も……)
わたしが尊敬する方々の中には、自分へ向けられる視線に驚くほど無頓着な方が何人かいます。せっかくその一人が目の前にいるのですから、少しくらい尋ねてみてもいいでしょう。
「アナイクス先生」
「今度は何です?」
「ひとつ、ちょっと不思議に思っていたことがあるんですが」
「質問なら前提を明確にしてください」
「そんなに難しい質問ではありませんよ〜」
先生の眉がわずかに上がります。
その顔を見ながら、わたしは腕の中の短冊を一度整えました。
「英雄さまや偉人さまって、ご自身の人気に気づきにくいものなんでしょうか?」
「……随分と曖昧な命題ですね」
「やっぱりそう言いますよね」
「人気という語の定義から必要でしょう。認知度、尊敬、信頼、親愛、憧憬、恋愛感情、宗教的崇敬。それらを同一の指標へまとめることには無理があります」
「そこまで分類しなくても大丈夫です」
「貴女が質問したのでしょう」
「そうなんですけど」
予想通りです。
だけど、こうなることも込みで先生へ聞いたようなところがあります。
「例えば、セネオス様も、ご自分がどれほど憧れられているのか、あまりお気づきではないようでしたし」
「本人にとっては自らの知名度より、現在学ぶべき医療技術の方が重要なのでしょう」
「先生もです」
「私、ですか?」
露出した片眼がわずかに見開かれました。
ほら。やっぱりです。
「先生のお話を聞きたい学生さんがたくさんいたのは、研究内容だけが理由ではありませんよ?」
「教師の価値は、提供できる知識と議論の質で評価されるべきです」
「そういうところです」
「意味が分かりませんね」
本当に分かっていないように見えました。
わたしはつい頬を緩めます。
「それから、ファイノンさまも」
名前を出した瞬間、先ほどまでわたしへ向けられていた先生の視線が、何気ない動きで横へ流れました。けれど、その方向を確かめるまでもなく、若木の向こう側にいる白髪の青年をすぐに捉えています。
ファイノンさまは何人かの市民へ短冊を渡していました。子どもには身体を屈め、年配の方には歩み寄り、誰かが笑えば一緒に笑う。短冊を大事そうに抱えて去っていく背中を見送ってから、また次の人へ向き直るその姿には、やはり多くの視線が集まっていました。
「ほら。あんなに注目されていらっしゃるのに、ご本人にはあまり自覚がなさそうなんです」
「……」
アナイクス先生はすぐに答えませんでした。腕を組んだまま、片方の手で肘を支え、もう片方の指を口元へ添えます。樹庭で何度も見てきた、何かを観察しながら情報を整理し始めた時の姿勢でした。
露出した片眼が細くなりました。ファイノンさまの顔から手元へ、短冊を渡した時の姿勢から歩き出す足取りへ、そして人と話し終えて一人になった瞬間の肩へと、先生の視線が順に移っていきます。わたしが話していた「人気」だけを確かめているにしては、観察する場所が少し多すぎるように思えました。
先ほどまでとは、先生の眉の形が違いました。ほんのわずかに眉間へ線が寄っていますが、怒っているわけではありません。ファイノンさまが何か悪いことをしたわけでもないのですから、これは長年の生徒経験からも、心配している時に浮かべる表情だと分かります。
これは、樹庭にいた頃、無茶な実験計画を持ち込んだ生徒の資料を読んでいる時や、キャストリス様が無理に「大丈夫」と言った時、わたしが疲労を隠して助手の仕事を続けようとした時に、先生が浮かべていた表情に少し似ていました。
心配しているのだと思います。けれど、先生ご自身なら、そんな言葉は使わないでしょう。観測値に不整合がある、条件設定に問題がある、追加の確認が必要だ――きっと、そういう理屈へ置き換えて語る方です。
「……先生?」
声をかけると、赤紫の瞳がこちらへ戻りました。
「何です?」
「いえ」
わたしは一度口を閉じました。さっきまでの話題は、ファイノンさまがご自身の人気に気づいていないというだけの、軽い疑問だったはずです。けれど先生は、その名前を聞いた途端、笑われているか、好かれているかではなく、身体の使い方まで確認していました。
それに気づいた途端、わたしの胸の奥へ前夜からしまっていた問いが、ほんの少しだけ浮かび上がりました。けれど、今はまだ、子どもたちの笑い声がすぐ近くにあります。イカルンが頭上を通り過ぎ、白い翼から生まれた風が短冊を揺らしました。
正式な開会までは、まだ時間があります。ここで急に重たい話へ踏み込む必要はないでしょう。わたしはまず、最初の話題へ戻ることにしました。
「本当に大したことではないんです。ただ……ファイノンさま、あれほど注目を集めていらっしゃるのに、ご自身の魅力には無頓着でいらして。不思議だな、と」
先生は一度だけ瞬きをしました。
それからもう一度、わたしの視線の先へ目を向けます。
「……興味深い観察ではありますね」
「でしょう?」
「ですが」
先生の目が、今度はファイノンさまからわたしへ戻ります。
「それが貴女の悩みの種になるとは思えませんが」
「……」
さすが、先生です。
そこまで言い切ってしまわれると、笑って誤魔化すのは難しそうでした。
前回のあらすじの長さを未だに悩みます。
ちょうどよさそうな長さってなんだァ……それはそれとして、アナイクス先生おもしろすぎるやろ……。