烈日よ、さざ波を追って   作:夜鷹ケイ

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<前回のあらすじ>
 ファイノンを引き留めるため、涙や情へ訴えかけることは、確かに彼へ届く可能性があると知った。けれど、それは永劫回帰の中で幾度も繰り返された別離と殺害の記憶へ触れる、強すぎる刺激でもあることをアナイクスが指摘する。
 痛みを感じないのではなく、痛みを行動停止の理由に数えない――その危うさを知ったヒアンシーは、善意のまま傷口を抉らぬよう、まず「してはいけないこと」を胸に刻んだ。


107 光つづく笑顔の朝

 わたしはその明るい景色を見つめながら、今受け取った注意事項だけを忘れないよう、静かに胸の内へ留めました。

 知らなければ踏んでいたかもしれない傷口が、ひとつ分かった。それは大切な前進です。けれど、傷へ触れてはいけないと分かったからといって、今度はその傷ばかりを見つめ続けるのも、きっと違います。

 患者さんの身体に大きな傷があれば、もちろん経過を観察します。熱はないか。腫れは増えていないか。出血は。痛みは。動かした時の反応は。必要な確認を怠ることはできません。

 でも、診察のたびに包帯をすべて剥がし、治りかけた場所を指で押して、「まだ痛みますか」と確かめ続けるわけではありません。休ませるべきところは休ませて、傷から離れたところで食事が取れているか、眠れているか、少し歩けるようになったか、昨日より笑える時間が増えたかも見ていきます。傷だけが、その人のすべてではありませんから。

 小さく息を吐き、胸元へ抱えていた短冊の束を持ち直しました。指先に残っていた冷たさは、いつの間にか薄れていました。代わりに感じたのは、朝日を吸ってほんのり温まった紙の感触です。重なった短冊同士がさらさらと擦れ、細い紐が手首へ触れます。

 

 顔を上げれば、目の前にあるのは先ほどまでと同じ大講義場でした。いいえ――同じ、という言い方は少し違うかもしれません。

 わたしたちが話しているあいだにも、若木には短冊が増えていたのです。さっき見た時には空いていた枝へ薄青の一枚が揺れ、その隣には麦色。もう少し下には赤いものが二枚並び、風が吹くたび互いの端を軽く触れ合わせています。

 その下では、先ほど願い事に悩んでいた少年が、書き終えたらしい短冊を両手へ持っていました。

 

「書けたー!」

「わあ、よかったですね!」

 

 思わず声を返すと、少年は嬉しそうにこちらへ短冊を掲げました。

 けれど、紙面はこちらからは見えません。見せたいわけではなく、書けたことそのものを知らせてくれているのでしょう。

 

「結んでくる!」

「はい。でも走らないでくださいね〜!」

「分かった!」

 

 元気いっぱいの返事と一緒に駆け出しかけ、わたしの顔を見て途中から早歩きへ変わりました。ちゃんと覚えてくださっていたようです。

 その横を別の子どもが追い越そうとして、「走っちゃだめなんだよ」と注意されています。

 

「えー」

「ヒアンシーさまに言われたもん」

「じゃあ速く歩く!」

「それなら……うーん、ぶつからないくらいなら」

 

 いつの間にかわたしの代わりに安全指導まで始まってしまいました。

 思わず頬が緩みます。ほんの少し前まで、未来について何を書けばいいのか分からなかった子が、自分の願いを手にして、次は友達へ走らないよう声をかけている。

 治療でも教育でもない、ごく普通のやり取りです。でも、そういう普通が、今のオンパロスにはたくさん必要なのだと思います。

 

「……ヒアンシー」

 

 隣から先生の声がして、わたしは視線を戻しました。

 

「はい?」

「今度は何を考えているのです?」

「あら。分かります?」

「顔に出ています」

「先生にだけではありませんか?」

「先ほど子どもにも指摘されていたでしょう」

「うっ」

 

 そうでした。セネオス様を見つけて背筋を伸ばした時にも、すぐに見抜かれてしまっています。どうやら今日のわたしは、普段より分かりやすい側にいるようです。

 

「いえ。ただ……」

 

 わたしは若木へ視線を戻しました。

 

「ファイノンさまのことを、考えすぎない方がいいのかもしれないなって」

「忘れろと言う意味であれば賛同しません」

「もちろんです。そうではなくて」

 

 自分の言葉を探しながら、風に揺れる短冊を追います。

 

「傷があると分かったからって、そればかりを診続ける必要はないんです。今すぐ処置が必要なら別ですけれど、そうでないなら、傷が悪化しないよう注意しながら……その人が普通に過ごせる時間を増やすことも、大事ですから」

「休養と環境調整」

「はい。それから、安心して動ける範囲を少しずつ広げることも」

 

 患者さんが怪我をしたあと。あるいは長く寝込んだあと。治療が終わったからといって、すぐ以前と同じ暮らしへ戻れるとは限りません。

 身体が治っていても、転ぶのが怖くて歩けなくなることがあります。痛みが再発するのではないかと、動く前から身を固くしてしまう方もいます。そんな時には、いきなり遠くまで歩いてくださいとは言いません。

 まず椅子から立ち、部屋の中を歩き、廊下へ出て、陽の当たる場所まで行く。できたことを一つずつ増やして、その人自身の身体と心へ、「ここまでは大丈夫だった」という経験を返していきます。

 ならば、ファイノンさまへ今すぐ「あなた自身の未来を願ってください」と迫るよりも、皆さんが自分の願いを書き、子どもたちが笑い、英雄だった方々が短冊を結び、看護師を目指す人が未来を語り、王様が子どもたちの列を整える――そんな光景が一日、また一日と続いていく方が、少なくとも今は負担が少ないのではないでしょうか。

 

「……ただ」

 

 そこまで考えて、わたしは自分へ言い聞かせるように続けました。

 

「皆さんの笑顔を、ファイノンさまを治すためのものにしてはいけませんよね。だって、今日ここにいる皆さんは、ファイノンさまを治療するために笑っているわけではありませんから」

 

 子どもがまた一人、若木の枝へ短冊を結んでいます。紐を一度巻いただけではうまく留まらず、少し苦戦していると、横からお父さまらしい方が手を添えました。二人は相談しながら同じ結び目を作り、短冊を枝へしっかりと結びつけます。

 

「市民の皆さんが楽しいから笑って、自分の願いがあるから書いて、誰かに結んでもらいたいからお願いしている。それでいいんですよね。その景色を見たファイノンさまが何を感じるかは……ファイノンさまのものです」

「妥当です」

「わたしたちが『みんなの幸せを、あなたが掴んでくれた。だから、あなたもここにいてください』って答えを要求してしまったら、結局また別の形で押しつけてしまいますし」

「先ほどの情動的な強制と程度は違えど、構造としては近づくでしょうね」

「ですよね……」

 

 危ないところでした。傷へ触れない方法を考えるあまり、今度は笑顔という別の薬を、本人の許可もなく飲ませようとしてしまうところです。

 医療でも、よく効く薬があるからといって、誰にでも同じものを使えばいいわけではありません。症状や身体の状態、併用している薬、本人の希望までを見ながら、その人に合う方法を選びます。

 まして、これは本当の薬ですらないのです。祭りを楽しむ人々の姿を、こちら側の都合で「治療」と名づけてしまう必要はありません。

 笑顔があり、未来を願う人がいて、昨日より少し先の予定を語る人がいる。ファイノンさまがその中にいても、何かを求められることなく、ただ同じ空の下でその景色を見ていられる。今は、それくらいでよいのでしょう。そう整理すると、胸の中へ詰まっていたものが少しほどけました。

 

「先生」

「何です?」

「さっき、危険要因が一つ分かっただけだっておっしゃいましたよね」

「言いました」

「なら今日は、それ以上を無理に探さなくてもいいのかもしれません」

「研究者へ向かって、探求を止めろと?」

「今日は長期休暇中ですよ〜?」

「……」

 

 先生の口元が止まりました。

 少し前に使った言葉が、思いがけず強い効力を発揮しました。

 

「研究区画へ入れないんですよね?」

「それとこれとは別問題です」

「お姉さまから休暇を楽しむように言われたのでは?」

「楽しめとは言われていません。休めと言われただけです」

「では、わたしから楽しんでくださいとお願いします」

「主催者権限ですか?」

「はい! それと生徒権限ですよ!」

 

 胸を張って答えると、先生の眉間へまた薄い線が入りました。でも、先ほどファイノンさまについて話していた時のものとは違います。

 困っているのか、あるいは理屈を組み立てようとしているのか。長年の生徒経験から見れば、そのあたりでしょう。しばらく待っていると、先生は小さく息を吐きました。

 

「……今は、我々を含めた、オンパロスの生命(ヒト)たちの笑顔が特効薬なのでしょうね」

 

 わたしは一度だけ瞬きをしました。先生の口から「特効薬」という言葉が出るとは思っていなかったのです。それでも、その比喩が示すものはすぐに分かりました。

 

「そうですね……」

 

 頷いてから、少し考えます。

 

「でも、飲ませる薬じゃなくて。置いておけるもの、くらいがいいですね」

「また細かな比喩の修正を」

「大事ですよ。患者さんに勝手に薬を飲ませるわけにはいきませんから」

「ならば、環境因子とでも呼びますか?」

「それだと先生の研究みたいになっちゃいます」

「貴女が医療へ変換したのでしょう」

「ふふ。それはそうですね」

 

 先生と話していると、重たい話をした直後でも、不思議といつもの呼吸へ戻っていけます。何かが解決したわけではなく、分からないものは分からないままですし、ファイノンさまの傷も消えてはいません。ただ、こちらが踏んではならない場所を一つ知れたことで、焦って答えを求めずに済むようになったのでした。

 それでも、分からないものを無理やり結論へ押し込まず、今日はここまで、と区切ることができます。医療でも大切なことですから。

 検査は増やせばよいというものではありません。患者さんが疲れてしまうなら、必要な分だけに留め、残りは身体を休めてからでいいのです。焦って答えへ手を伸ばすより、安全に次の日へ繋ぐことの方が大切な時もあります。

 

「焦りは禁物、とも言いますし」

 

 そう口にすると、少し離れたところから、また子どもの歓声が聞こえました。

 

「イカルン、できたー!」

「ぷるるるっ!」

「次ぼくの!」

「順番ですよ〜!」

 

 反射的に声を飛ばします。

 振り向けば、イカルンが枝の近くで白い翼をぱたぱたさせていました。結び終えた短冊がそのすぐ下で揺れています。先ほどより結び目がきれいです。

 

「あっ先生、見てください。イカルン、また上手になってます!」

「……先ほどから確認しています」

「見てたんですか?」

「視界に入りますから」

「ふふ」

「何です?」

「いえ、なんでもありません」

 

 なんでもないことにしておきます。

 休暇で研究区画から締め出され、特に予定もないと言いながら元生徒たちを巡回し、子どもたちと一緒に働くイカルンまで見ている。それを「視界に入っただけ」と説明しているところまで、アナイクス先生らしいのです。

 わたしは短冊の束へ目を落としました。まだ空白のものはたくさんあります。正式な開会はお昼からですから、これから訪れる方が増えれば受付はさらに忙しくなり、短冊もまた増えていくでしょう。人の手が届く枝から、イカルンたちにしか届かない高い場所まで、色とりどりの紙が広がっていくはずです。

 どんな願いが書かれるのか、わたしは知りません。けれど、それを知る必要もないのでしょう。その人自身が未来を思い浮かべ、自分の手で書き、枝へ結ぶ――今朝から見てきたのは、ただそれだけの光景でした。

 そして、そんな当たり前のことができるようになった今日を、わたしは今、ちゃんと喜びたいと思いました。

 

「……よしっ」

 

 小さく息を吸い直し、短冊を抱える腕の位置を整えます。

 

「先生とのお話も一段落しましたし。わたしは受付へ戻りますね」

「最初から仕事中だったはずですが」

「先生が話しかけてきたんですよ?」

「貴女が考え込んでいたからでしょう」

「また最初に戻っちゃいました」

 

 くすくす笑うと、先生は返事をせず、ほんの少しだけ顔を逸らしました。横顔に見える眉の角度は、もう先ほどほど険しくありません。

 

 その時、ふと思い出しました。

 

「そうです、先生」

「まだ何か?」

「せっかくですから、アナイクス先生も七夕イベントをどうぞ楽しんで行ってくださいね!」

「先ほども同様の要求を聞きましたが」

「今度は具体的なご案内です」

 

 わたしは若木の方へ身体を向け、人差し指を伸ばしました。

 

「短冊、まだ受け取っていませんよね?」

「受け取っていませんが」

「でしたら、ぜひ一枚どうぞ。お願い事は研究課題以外でお願いします」

「その制限に合理性はありません」

「大地獣でもいいですよ?」

「……」

「ふふ」

 

 今の沈黙は、少しだけ効いた気がします。

 

「ささっ、アナイクス先生も七夕イベントをどうぞ楽しんで行ってくださいね! ファイノンさまからも短冊を受け取れますから、ぜひ」

 

 最後の一言を添えると、先生の露出した片眼が、若木の向こうで市民へ空白の短冊を渡しているファイノンさまへ、わずかに動きました。

 その視線の動きがあまりにも早く、わたしは危うく笑いそうになりました。

 

「……何です?」

「何も言ってませんよ?」

「顔に出ています」

「先生もですよ〜?」

「意味が分かりません」

 

 分からないことにしておいて差し上げましょう。

 わたしは口元へ笑みを残したまま、少しだけ身体を引きました。先生が行くのか、行かないのかを決めるのは先生です。ファイノンさまへ話しかけてくださいと頼むつもりも、短冊に何を書いてくださいと指定するつもりもありません。今日の祭りでは、それぞれが自分で決めればよいのですから。

 アナイクス先生は数秒ほど若木を見つめ、風に揺れる短冊の一枚が裏返って陽光を弾く様子を静かに眺めました。

 

「そうさせてもらうとしましょう。では」

 

 先生はそれだけ言って腕を解きました。

 

「はい。ごゆっくり〜!」

 

 わたしが片手を振ると、先生はいつもの一定した歩調で背を向け、長衣の裾を石床の上で静かに揺らしながら歩き出しました。

 どこへ向かうのかと思いました。受付をもう一度見に行くのか、キャストリス様たちのところへ向かうのか、それとも本当に何も決めず、祭りの中を歩くのか。そう考えながら見送っていると、颯爽と立ち去ったアナイクス先生の行き先は、なんとも分かりやすいものでした。

 

(……あら)

 

 先生は先ほど巡回していた筆記台の方へは向かわず、若木の前を通り過ぎると、そのまま空白の短冊を配っているファイノンさまのもとへ歩いていきました。

 ファイノンさまも途中で気づいたらしく、こちらから見える横顔を先生へ向けました。距離があるため会話の内容までは聞き取れませんでしたが、先生が何かを告げると、ファイノンさまは一度瞬きをしてから手元の短冊の束へ視線を落とします。何枚かを指先で静かにずらしたあと、その中から一枚を抜き取りました。

 先生へ差し出されたのは、青緑とも灰色ともつかない、朝日に透かすと淡く色を変える短冊でした。遠目に見ても、アナイクス先生の髪色とよく似ています。

 

「ふふっ」

 

 思わず笑いが漏れました。

 先生は短冊を受け取る前に何か一言おっしゃったようで、ファイノンさまが笑うと、先生はわずかに眉を寄せました。それでも差し出された紙を拒むことはなく、細い指で上端を摘まんで受け取っています。

 大地獣のことを書くのでしょうか。宇宙進出は計画だから願いではない、とまた理屈を並べるのでしょうか。それとも、わたしの知らない願いを書くのかもしれません。そこは先生のものですから、見ないでおきましょう。――それに、わたしには受付の仕事があります。

 

「ヒアンシーさまー!」

「はい、今行きますよ〜!」

 

 呼ばれて、わたしは先生から視線を外しました。

 筆記台の前では、ご家族らしい三人が短冊を選んでおり、お子さんはどの色にするか決めかねた様子で、二枚を両手に持ったまま真剣な顔で見比べています。

 

「青がいい!」

「さっき赤って言ってたでしょう」

「どっちも!」

「二枚書いても大丈夫ですよ」

「ほんと!?」

「はい。でも、願い事も二つ考えてくださいね」

「いっぱいある!」

「それなら安心ですね」

 

 弾んだ返事を聞きながら、わたしは束の中から必要な短冊を取り出しました。その隙間から見える若木の枝には、先ほどよりも多くの色が重なり、風に揺れる短冊の間をイカルンが忙しそうに飛び回っています。子どもたちが声を弾ませ、ご老人が穏やかに筆を運び、かつて英雄と呼ばれた方々もそれぞれの願いを選びながら、これから何を書こうかと静かに悩んでいました。

 

 そして、先ほどまで「休暇中に資料を読むことは禁止されていない」などと主張していた先生が、今は短冊を手にして筆記台の方へ歩いています。

 

 神悟の樹庭にいた頃。アナイクス先生のことを、「何を考えているのか全然分からない」とこぼす学生さんや研究者さんを、わたしは何度も見てきました。それを聞くたび、分かりにくいでしょうか、と首を傾げたものです。

 確かに先生は、ご自身の感情を言葉にして説明する方ではありません。心配していても観測値の話をし、休ませたくても作業精度を理由にし、気にかけていても巡回だと言い張ります。楽しみにしている時でさえ、それを願望ではなく当然の要求として扱うのです。

 だから、外から見れば分かりにくいのでしょう。

 

 でも。

 

(やっぱり、前よりずっと分かりやすくなりましたよね、先生)

 

 オンパロスが救われて。研究以外の時間が少しずつ増えて。明日も講義があるかもしれない、来月も研究が続くかもしれない、その先には宇宙へ出る計画まである。

 そんなふうに時間が先へ伸び始めてから、先生の小さな反応が、以前よりずっと表へ出るようになった気がします。

 お姉さまには弱く、大地獣には目がなく、元生徒たちの様子を気にかけ、ファイノンさまのこととなれば眉間へ皺を寄せる。そして七夕へ参加するよう勧めれば、結局そのファイノンさまのところへ向かい、短冊まで受け取ってくるのです。

 ご本人へ言えば、きっとすべてに訂正を入れられるでしょう。弱いのではない。大地獣への関心は学術的に当然で、巡回は観察、ファイノンさまへの注意は研究上必要、短冊については最も近い配布担当から受け取っただけ――そうやって一つずつ、もっともらしい説明を並べるはずです。

 けれど、今のわたしには、その理屈も含めて、なんだかとても先生らしく見えました。

 

「ヒアンシーさま、この筆でいい?」

「あっ、はい。そちらで大丈夫ですよ。墨はこちらです」

 

 目の前へ意識を戻すと、子どもの小さな手が筆を握っていた。隣ではお父さまとお母さまが自分たちの短冊を選び、空からはイカルンの羽音、枝からは紙の擦れる音、少し遠くからは誰かの笑い声が重なって聞こえてくる。

 正式な開会まで、まだ少し時間はあります。けれど、願いを書き、笑い声を交わす人々の姿を見れば、今日という日はもう十分に始まっていました。解決していないことも、癒えていない傷も、踏んではならない場所も、これから考えなければならないことも、まだたくさんあります。

 それでも今は、誰かの傷を確かめるためにこの景色があるのではありません。願いたい人が願い、笑いたい人が笑い、休みたい人が休む。英雄だった人たちも、教師だった人も、生徒だったわたしも、その中へ同じように混ざって過ごしている。そんな今日を、今日のまま受け取ればいいのでしょう。

 わたしは新しい短冊を一枚、差し出された小さな手へ渡しました。その向こうで若木の枝が風に揺れ、またひとつ、まだ何も書かれていない未来が、朝の光を受けて静かに輝いていました。




Q.「皆さんの笑顔を、ファイノンさまを治すためのものにしてはいけませんよね。だって、今日ここにいる皆さんは、ファイノンさまを治療するために笑っているわけではありませんから」
 なんか文章として可笑しかったような、ううん、でもこう……これ以外に何かあるのか……。DOYOU意味~?ってなりそうだったので、若干補足。
 簡単に言うと、「みんな楽しければOKなのさ!」ってことなんですが。
↓
 笑顔が薬になると判断したヒアンシーですが、ファイノンの心を癒すためだけに市民を巻き込んだイベントを何度も行うわけにはいかないと言い聞かせてる感じです。
 たとえば、病気で落ち込みがちな家族友人相手を散歩に連れ出して、一緒にワイワイしとるときに、ふと(お、笑った)(よっしゃもっと笑わしたろ(楽しませたろ))って思うことがあったとします。だけど、その為の費用や時間などには限りがあって、一緒に散歩へ出た仲間の予定や都合もあります。コッチが「おう、お前が笑っとった方が安心すんねん!」と思ってる相手は、我々や相手のことを深く考えてくれたり自分のことが負担になったりしてやいないだろうかと気にしたりするかもしれません。コッチとしても変な罪悪感や過度なプレッシャーも与えたくありません。
 (以下省略)だから、気兼ねなくやるなら何度も同じやら似たようなことやらは出来ませんね。それに、皆さんにも楽しんでもらいたいんですからって感じのニュアンスです。
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