人々の願いを受け、若木は色とりどりの短冊を抱く大樹へ育ち始めた。
受付を駆け回るヒアンシー、空を飛ぶイカルン、自分の手で願いを書く市民たちを見守るファイノンは、そこに終末では得られなかった確かな日常を見る。
誰か一人が未来を背負わずとも、人々は迷い、助け合い、自分の足で次の一歩を選べる。まだ少しだけ世界へ手を添える必要はあるだろう。それでも、枝葉の向こうに広がる笑顔を前に、彼の肩から長く残っていた力は静かに抜けていった。
もう、心配はいらないな――胸の奥へ落ち着いたその言葉は、声にして誰かへ伝える必要もなく、晴れた空の下でそのまま柔らかく馴染んでいった。ファイノンは若木の幹へ掌を添えたまま、枝葉の向こうへ広がる人々の姿を眺めていた。
視線の先で、風に揺れた短冊の一枚が、枝葉の向こうでくるりと裏返る。表に何が書かれていたのかは分からない。けれど、白い裏面へ落ちた木漏れ日が一瞬だけ眩しく瞬き、また次の風が来れば何事もなかったように色の群れへ紛れてゆく。
あれほどまでに手を伸ばし、零れ落ちぬよう燃やし続けた祈り。もう、それを、知らないままでいいのだと思えた。
彼ら自身が願いを読み、選び、叶えていけばいいものなのだ。少し前に胸へ落ち着いたばかりのその考えは、ファイノンの中で、まるで散らばっていたパズルのピースがぴたりとはまるように、すとんと馴染んだ。これまでの長い旅路では、知らないことを残しておく方が難しかったはずなのに、いまは知らない未来があることそのものへ、かえって安堵を覚えている。
誰がどの道を選ぶかまで、僕が把握しておく必要はないのだろう。そう思えるということは、それだけ先へ続く道が、もう彼らの前にあるということなのだから。
今日ここにいる誰かが、明日は別の場所へ行くかもしれない。新しい仕事を始める者もいれば、遠くへ移り住む者もいるだろう。何年か経てば、今日の短冊へ書いたものとはまったく違う願いを抱いている者だっているはずだ。
それで構わない。願いは命令でも契約でもない。一度書いた未来へ、生涯を縛りつけられる必要などないのだから。むしろ、いくらでも書き直せる方がいい。
ふと、そんなことを考えたところで、ファイノンは自分の掌の下にある幹へ視線を落とした。人々の願いを受けて育った木は、相変わらず穏やかな脈動を返している。
神権と無縁の樹木ではない。誰かの祈りと、それを受け止める力によって急速に根を張り、枝を伸ばした以上、いま目の前にある姿は、どう考えても神秘の側に属するものだろう。けれど、その木の下で笑っている人々まで、神秘がなければ立っていられないわけではない。
そこまで思考が巡ったところで、以前、相棒から聞いた話がひょいと記憶の底から浮かび上がってきた。
なんでも、異なる世界を旅した剣士から、魔術について少し教えてもらったことがあるらしい。ファイノン自身はその世界を見たわけではないし、魔術というものを体系立てて学んだこともない。だから、話の細かな部分までは理解しきれていなかった。
ただ、妙に引っかかって覚えている話がひとつあった。世界から神秘が失われていけば、神秘によって成り立っているものは、いずれその世界に存在し続けることそのものが難しくなるのだという――消える。という表現でよかっただろうか。
正確には、存在するための土台を失ってしまう、というような話だった気もする。もっとも、信仰や伝承、あるいはその存在が確かにいたのだと証明するものが残っていれば、必ずしも即座に消えてしまうわけではないらしい。……そこまで思い出し、枝葉の下で眉を寄せた。
(……それなら、僕たちはどうなるんだろう。)
黄金裔は人である。
少なくとも、ファイノン自身はそう思っている。腹が減れば食べ、眠ければ眠る。怪我をすれば血が出るし、嬉しいことがあれば笑う。好き嫌いもあれば、得意不得意もある。意見が合わずに喧嘩をすることもあれば、誰かの何気ない一言をいつまでも引きずることだってある。
けれど、普通の人間かと問われれば、素直に首を縦へ振るのは難しい。タイタンの火種と神権の一端を宿した半神であり、神ではないが、完全に人だけとも言い切れない。考えるほど、その境界は曖昧だった。
(セーフか、アウトかなら……アウト寄りのグレーゾーン、かな。)
そこまで考えてから、それはほとんどアウトと言うのではないだろうか、と自分で自分の考えへ突っ込みたくなった。僅かに口元を歪めた拍子に息が漏れ、誰かに聞かれたわけでもないのに少しだけ可笑しくなる。
もし本当に神秘というものが世界から薄れていくとしても。タイタンが神話となり、火種の力がいずれ過去のものとなり、神権が必要とされなくなった時が来たとしても、黄金裔はどうなるのだろう。――その問いへ、ファイノンはすぐ答えを出せなかった。
だからといって怖いとも感じなかった。いま思いついたばかりの仮定であるし、そもそも相棒から聞いた別世界の魔術理論を、そのままオンパロスへ当て嵌めてよい保証もない。
けれど、目の前の木を見上げているうち、別の考えが浮かんできた。神秘そのものが消えたとしても。人まで一緒に消えてしまうとは限らないのではないか。
枝が揺れ、短冊同士が触れ合った。紙の擦れる乾いた音へ、人々の話し声が重なる。その一つを追って視線を巡らせた時、淡い桃色の短冊が目に入った。
キュレネがここにいたなら、あの色を選んだかもしれない。そんな連想は、あまりにも自然に浮かんだ。
彼女はいま、この場所にはいない。それでも、桃色の紙が陽光の中で揺れているのを見ただけで、ファイノンの記憶には、長い髪を風へ遊ばせながら笑う彼女の姿が鮮明に立ち上がる。
もし先ほどの話をキュレネへしたら、どう答えるだろう。
―― 「神秘がなくなったら、僕たちって存在できなくなるのかな」
突拍子もない幼馴染からの問いを、キュレネはたぶん最初から否定しない。少しだけ目を丸くした後、頬へ指を添えるような仕草をして、こちらが何を考えてそう言ったのかを最後まで聞いてくれるだろう。
それから、……それから、きっと、……笑うのだ。困ったようにではなく、呆れたようにでもなく、まるでそんな問いの中にさえ、物語の続きを見つけたみたいに。
その笑顔を思い浮かべた瞬間、ファイノンの胸の奥へ、柔らかな光が差し込んだ。その先に、どんな言葉を置くのかまでは分からない。けれど王道を歩む物語が好きな彼女のことだから、神秘がなくなった結果、そこにいた人まで全部消えてしまうような終わり方よりも、神々の時代が終わった後にも人々の物語が続いていく方を、ずっと素敵だと言うのではないだろうか。
もしかすると、『物語はきっと残るわ。その方が、ハッピーエンドらしいでしょう?』くらいは言うかもしれない。ファイノンの中にいるキュレネは、そんなふうに微笑んだ。
勝手な想像だと分かっているのに、不思議と似合っていて、口元にもまた小さな笑みが浮かぶ。そして、そう考えれば考えるほど、キュレネについては心配する必要がないように思えた。
彼女を知る人間が、あまりにも多い。オンパロスの心であるとか、歳月の火種を受け継いだ黄金裔であるとか、そうした大きな肩書きをいったん全部取り払ったとしても、彼女を覚えている者はいなくならないだろう。
たとえば、どんな話でも最初から否定せずに耳を傾けてくれること。人が語る物語を楽しそうに聞き、悲しい結末には眉を下げ、幸福な結末には自分のことのように微笑むこと。花を見つければ足を止め、綺麗なものを綺麗だと言い、誰かの恋路へ必要以上に楽しそうな顔で興味を示すこと。ときどきこちらが答えに困るほど真っ直ぐな言葉を差し出してくること。
そういう、一つ一つを、ファイノンは知っている。きっと自分だけではない。彼女に救われた者。彼女と話した者。一緒に笑った者。別れを惜しんだ者。もう一度会いたいと願った者。そうした人々の記憶の中に、キュレネはもう、神権とは別の根を張っている。
なら、たとえ遠い未来に神秘が薄れたとしても、彼女まで消えてしまうというのは少し想像しづらかった。名前は残るだろう。物語も残る。何より、彼女が誰かへ渡したものが残っていく。
(キュレネなら、大丈夫そうだな。)
そう考えると、肩の内側へまた少しだけ余裕が生まれた。
(じゃあ、他のみんなはどうだろう?)
そうやって考え始めてから、これは随分と妙な確認の仕方だと気づいた。まるで黄金裔たちを一人ずつ並べ、神秘がなくなっても存在できるかどうか判定しているみたいだ。
アナイクス先生辺りに知られれば、前提条件が雑だ、定義が曖昧だ、検証方法として成立していない、と開始数秒で大量の訂正が飛んできそうだった。けれど、別に論文を書くわけでもないのだし、自分が納得できれば、それでいいだろう。
枝葉の向こうへ目を向けた時、少し離れた場所で陽光を弾く金糸が一筋だけ見えた気がした。
アグライアだ。さっきも、人々の願いが増えていく様子を見て、目元を湿らせていた。本人は上手く取り繕ったつもりだったのかもしれないが、あれだけ近ければさすがに分かる。昔の彼女を知っている者ほど、ああいう顔には驚くのではないだろうか。
オクヘイマの守護者。火を追う旅を導いた者。黄金の糸を巡らせ、都市全体へ意識を張り巡らせていた女主人。それだけを聞けば、誰よりも隙なく、誰よりも強く、人の前で涙など見せない女性を想像するだろう。
実際、それも間違いではない。けれど、いまのファイノンが思い浮かべるアグライアは、それだけではなかった。
服の仕立てへ妥協せず、身体の寸法だけでなく、着る人間がどこへ行き、誰に会い、何をしたいのかまで聞いてくる。人の衣服が少し乱れていれば、気づかれないほど自然な手つきで直すくせに、自分が世話を焼いたとは決して大袈裟に言わない。
美しいものを好みながら、美しい顔だけを見ているわけでもない。不器用でも、傷だらけでも、その人なりに誰かを想って選んだ行動へ美しさを見つける人だ。
ラプティスとしての名は、もう十分に広まっている。オンパロス随一の美女と呼ぶ者だって少なくないだろう。けれど、これから先はそれに加えて、あの真綿のように柔らかく、少し触れ方を間違えれば傷ついてしまいそうな感受性まで、人々が少しずつ知っていくのかもしれない。神秘よりも、そちらの方がずっと長く残るような気がした。
(アグライアも、大丈夫だろうな。)
そうして一人へ答えを置けば、自然とその周りにいる人々まで浮かんでくる。サフェルさんも、いまではセイレンスさんと一緒にアグライアの工房へ雇われていると聞いた。
最初にその話を聞いた時は、本当に大丈夫なのかと少しだけ心配した。世界中へ悪戯を仕掛けて回った怪盗ニャンコが、仕立て屋の工房で大人しく働くところなど、想像しただけで何か一つくらい事件が起こりそうだったからだ。
たぶん、実際に何かは起きている。商品へ勝手な仕掛けを忍ばせて怒られたり、用意されていた糸を別の場所へ移して叱られたり、そのあたりは十分にあり得るだろう。だけど、そのうち人々も知るはずだ。
サフェルさんが、ただ悪戯をして笑っているだけの人ではないことを。誰にも見えないところで動き、必要なら汚名を被ることさえ厭わず、自分なりのやり方で崩れかけた世界を支えていたことを。
セイレンスさんについても同じだった。以前なら、彼女を知る方法として真っ先に挙がるものは剣だったかもしれない。言葉を重ねるより先に刃で示し、立つべき場所へ立ち、必要なら自分の身体を盾にする。
けれど、それだけではないことをファイノンは知っている。彼女が気高さを声高に語ることは少なくても、どんな相手へ剣を向け、どんな相手へ剣を向けなかったかを見れば、その人となりは十分に分かる。工房という場所で、人々と顔を合わせて働く日が積み重なれば、そういう見えづらかった部分も、いつか当たり前のように知られていくのだろう。
(二人とも、神話の中だけへ閉じ込められる人ではないしね。……そうなると、聖女として誰よりも長く火を追う旅に身を置いたトリスビアス先生たちは……)
宇宙進出のためのロケット開発。話だけ聞けば、いまだに少し妙な感じがする。空を見上げた先が神々の領域ではなく、実際に辿り着ける場所になる。星々が物語の舞台や神託の象徴ではなく、いつか自分たちで訪れられる場所になる。このオンパロスで、そんな研究がすでに始まっているのだ。考えてみれば、それ自体が随分と大きな変化だった。
神秘の中で育った世界が、神秘だけへ答えを求めず、自分たちの手で技術を積み上げて空の外へ出ようとしている。
トリスビアス先生たちなら、たとえ神託の力が薄れたとしても、そこで立ち止まったりはしないだろう。むしろ、知らないことが増えれば増えるほど忙しくなるのではないか。
これまで未来を見渡していた人が、今度はまだ誰も見たことのない宇宙へ道を伸ばす。そう考えると、神秘がなくなる未来を心配するどころか、その頃には神秘がなくても困らないものを自分たちで作ってしまっていそうだった。
キャストリスさんについては、さらに分かりやすい。少し前に、彼女が自分たちの冒険をもとに絵本を作っているのだと教えてくれたからだ。
それを聞いた時、ファイノンは随分と驚いた。けれど、よく考えてみれば彼女ほど向いている人もいないような気がした。
キャストリスさんは、ものを語る時に急がない。相手が言葉を探しているなら待ってくれるし、ひとつの出来事を説明する時も、目にしたものだけではなく、その時に吹いていた風や、誰がどんな顔をしていたかまで丁寧に拾い上げる。だから、彼女が物語へ置いた言葉は、きっと温かい。読んだ者がその場所へ行ったことがなくても、そこに誰かが確かに生きていたのだと思えるような文章になるだろう。
ただ、ファイノンとしては気になる点も多かった。実際に読ませてもらえば、なぜここではこの表現なのか、この部分で語り手が見ているのは誰なのか、同じ出来事でも別の人物から見れば印象が変わるのではないかと、次々に疑問が浮かんでしまう。本人から疑問や感想があれば聞いてほしいと言われていたから、その通りにしただけなのだけれど。
なぜか、そばにいたモーディスには怒られた。質問の数が多い、と。細かすぎる、と。作家を追い詰めるな、と。言われてみれば、最後の方で彼女が少し困ったように笑っていた気もするので、あれは聞きすぎだったのかもしれない。
それでも彼女は、もう次の物語を書き始めている。誰かの命を見送り続けた人が、今度は物語を生み、読んだ者の心へ残すものを作っている。これほど分かりやすい存在の残し方もないだろう。遠からず、オンパロスで最初の作家として名前を知られるようになるかもしれない。
そうなれば、神秘がどうなろうと関係ない。彼女の書いた本を読む人がいて、その物語をまた別の誰かへ渡す者がいる限り、キャストリスさんは人の中へ残っていける。
そして、彼女への質問が多いと怒ってきたモーディスについては、そもそも考えるまでもなさそうだった。半神である以前に、クレムノスの第一王位継承者。王として生きた男
だ。
あれほど大きな声で怒鳴り、人を叱り、それでいて必要な時には誰よりも先に前へ出る人間を、周囲が簡単に忘れられるとは思えない。たとえ本人が静かにしていたくても、後世の方が放っておかないのではないだろうか。
(モーディスは……うん、心配するだけ無駄だな。)
少し可笑しくなって、ファイノンは目を細めた。
カイザーも同じだ。いまやオクヘイマの国主として立っている。王として命令を出し、人を動かし、これから新しく形を変えていく国の行く先へ責任を負う。良くも悪くも、彼女の決断は記録されていくのだろう。それなら、存在証明などという仰々しい言葉をわざわざ持ち出す必要もない。
生きている間に多くの人と関わり、その人たちの暮らしへ自分の選択を残していく。それだけで、十分すぎるほど確かなものになる。
そうして一人ずつ思い浮かべているうち、また聞き慣れた声が人垣の向こうから飛んできた。
「はーい、こちらにお名前を書いてくださいね~! 願い事のお名前ではありませんよ、あなたのお名前です!」
「あっ、そっち!?」
「そっちです~!」
ヒアンシーだった。思わずそちらを見れば、受付机の前で、短冊とは別の記入欄を指差している。相手の男性は照れ臭そうに頭を掻き、彼女は笑いながら新しい筆を手渡していた。
彼女については、もっと心配がなかった。医者として、すでに多くの人が彼女の名を知っている。誰かが怪我をした時、熱を出した時、不安を抱えて診察室へ入った時、そこで交わされた言葉は、英雄譚のように大々的に記録されるわけではないだろう。
それでも治療された人は覚えている。家族も覚えている。助かった命がその先で別の誰かと関われば、ヒアンシーがその人へ渡した時間は、名前が直接語られなくなっても先へ続いていく。
それに、今度は天外の医者たちが参加する交流会へ、通信越しに参加するのだとも聞いた。ファイノンには医学の詳しいことは分からないが、ヒアンシーはその話をしている時、目を輝かせていた。
オンパロスにはない治療法。天外にはない知識。互いに持ち寄れば、救える人が増えるかもしれない。その時の彼女は、火種を継いだ黄金裔というより、純粋に新しい知識を前にした医者の顔をしていた。
それを思い出しながら、忙しなく動き回る小柄な姿を見ていると、こちらまで少し可笑しくなる。彼女なら、たぶん大丈夫だ。神秘がなくなったところで、薬の種類や診察の予定を考える方が忙しくて、存在できるかどうかを悩む暇さえないのではないだろうか。
最後に浮かんだ人物へは、ファイノンも少しだけ考え込んだ。
アナイクス先生。あの人の場合、存在証明がどうこう以前の問題である。すでに天外の天才たちから声を掛けられていると聞く。天才クラブという場所が具体的にどのような集まりなのかは、ファイノンにはまだ完全には分かっていないが、相棒やマダム・ヘルタたちの話を聞く限り、少なくとも並の研究者が気軽に招かれるようなものではなさそうだった。
神なくして人は生きられるか。もし真正面からそう尋ねたら、アナイクス先生は何と答えるだろう。
まず、質問の定義が甘いと指摘されそうだ。神とは何を指すのか。生きるとは生物学的な存続か、それとも文明の維持か。神秘を失う過程を考慮しているのか。前提を並べ直してから出直せ、と言われる可能性も高い。
思い浮かべただけで、あの顔が容易に想像できた。片方の眉をわずかに上げ、ファイノンが何を根拠にそんな疑問を持ったのか確かめるように、じっとこちらを見る。
それからきっと、何かしら答えてくれる。答えを知らないなら知らないと言うだろうし、検証できないなら条件を揃えるところから始めるだろう。
もしかすると「ならば確かめればいい」と、本当に神秘そのものを研究対象へ置きかねない。その姿を想像した時、ファイノンはふっと息を漏らした。なるほど。それなら、やはり大丈夫そうだった。神秘がなくなることを恐れるのではなく、神秘が何なのかを自分で調べる人がいる。
そして、ここにはいなくても、誰かの物語を聞き、覚え、次の頁へ運んでいく花のような人がいる。
黄金裔。半神。火種を継ぐ者。――そう呼ばれる以前に、それぞれに名前があった。生活があった。他者との関係があった。そして、これからやってみたいことがあり、今日の続きとして明日へ持っていく仕事がある。
神秘がもし、本当にいつか薄れてしまうとしても。それで全部が零れ落ちてしまうわけではない。むしろ、神話が静かになった後にこそ残るものもあるのではないだろうか。
アグライアの仕立てた服を着る人がいる。キャストリスさんの本を読む子どもがいる。ヒアンシーから教わった治療法を別の医者が使う。トリスビアス先生たちが作った技術を受け継ぐ研究者がいる。
誰かがサフェルさんの悪戯を思い出して呆れ、セイレンスさんの剣に助けられた話を語り、モーディスの叱責を真似して笑う。カイザーが決めた制度の上で、彼女の顔を知らない世代が暮らす。そしてキュレネが愛した物語を、彼女に会ったことのない誰かまで好きになるかもしれない。
そうやって続いていけばいい。神として残らなくてもいい。英雄として崇められなくてもいい。名前が碑文へ刻まれなくなった後でさえ、その人が誰かへ渡したものが次の誰かへ受け継がれるのなら、それは存在していた証として十分なのではないだろうか。
ファイノンは枝葉の向こうへ広がる大講義場を見渡した。さっきまでと何も変わっていない。短冊を書く人がいる。筆を落として慌てる子どもがいる。少し離れた場所では、願いを人に見せるかどうかでまだ揉めているらしい。
ヒアンシーが呼ばれ、イカルンが飛ぶ。木漏れ日が風にほどけ、人々の肩や髪へ細かな光を置いていく。けれど、ファイノンの目には、先ほどより少し違って見えた。
ここにあるものは、神秘が作った仮初めの平穏ではない。少なくとも、彼にはそう思えた。人々が自分で話し、自分で選び、自分で誰かと関わっている。今日という日が終わっても、その続きがある。明日になれば別の話をして、その翌日にはまた何かを始める。その積み重ねが、人をその人たらしめていくのだろう。
なら、これが答えでいい。難しい理論を知らなくても。神秘の定義を完璧に理解していなくても。半神というものが、遠い未来にどうなるのか分からなくても。ファイノンには、目の前に見えているものの方がずっと分かりやすかった。
彼らはもう、タイタンから受け取った火種だけで存在しているわけではない。誰かに覚えられ、誰かと働き、誰かの暮らしへ何かを残しながら、それぞれの名前で未来へ根を張り始めている。
それなら、きっと大丈夫だろう。ファイノンは幹へ添えた指をゆっくりと滑らせた。樹皮の下から返ってくる温度は変わらない。根は大地へ伸び、枝は陽光を受け、そのあいだで無数の短冊が風に揺れている。目を閉じれば、そこへ思い浮かぶ顔があった。
何かにつけて物語へ喩えるキュレネ。
凛と背を伸ばしながら、いまでは人前で涙ぐむことさえあるアグライア。悪戯をして叱られながら笑っていそうなサフェルさん。
その隣で静かに剣を置き、人と向き合うセイレンスさん。
まだ見ぬ宇宙へ道を作ろうとしているトリスビアス先生たち。本の頁へ誰かの生きた時間を書き留めるキャストリスさん。その質問は多すぎると怒鳴ってくるモーディス。
国主として人々の先頭へ立つカイザー。今も受付の向こうで忙しなく外套を翻すヒアンシー。そして、問いを向ければ面倒そうな顔をしながら、それでも考えることだけは決してやめないアナイクス先生。
どの人も、もう神話の中だけにはいない。自分の名前で、この先へ続く場所を持っている。そのことが、ファイノンには何より嬉しかった。
もし本当に、いつの日か神秘が必要とされなくなるのなら。その時が来ても、この人たちの歩いた痕跡は消えないだろう。彼らから何かを受け取った人々が、その続きを生きていく。ならば、神なくして人は生きられるのか、という大きな問いに対しても、ファイノンはもう、わざわざ遠くへ答えを探しに行かなくてもいいような気がした。
他の誰かにとって正しい答えなのかは分からない。アナイクス先生が聞けば、また条件が足りないと眉をひそめるだろう。相棒が聞けば、もっと違う世界の例を教えてくれるかもしれない。キュレネなら、最後まで聞いたあとで、もっと綺麗な言葉にして返してくれそうだった。それでも、ファイノン自身には十分だった。
目の前で誰かが笑い、願いを書き、その願いを未来へ持っていこうとしている。仲間たちもまた、黄金裔という役目だけではなく、それぞれが自分の生き方を始めている。だから、いいんだ。
その景色は、難しい言葉で組み立てた理屈よりも、ずっと納得できる
何より、ファイノン自身が見て理解できる
枝葉を抜けた風が、銀白の髪をわずかに揺らした。ファイノンはそれを直すこともせず、陽の下で静かに目を細めた。
エリュシオンの麦畑も