神秘が失われた世界で、半神は存在し続けられるのか。ふと蘇った異世界の話をきっかけに、ファイノンは黄金裔たちの未来を一人ずつ思い描く。
物語を愛するキュレネ、服を仕立てるアグライア、本を書くキャストリス、空を目指すトリスビアス、命を救うヒアンシー――彼らはもう神話だけに生きる者ではない。誰かと関わり、何かを残し、自分の名前で未来へ根を張っている。その景色こそ、人が神なくしても歩み続けられるという、彼自身の答えになった。
胸の内へ落ちた答えをわざわざ言葉にすることもなく、ファイノンは木漏れ日の下で目を細めた。枝葉を抜けてきた風が銀白の髪をかすかに揺らし、そのまま幹の向こうへ流れていく。つられるように色とりどりの短冊がいっせいに傾き、陽を透かした紙が重なって、青空の一角へ淡い色彩を散らした。
「ヒアンシーさま、ぼくのも!」
「次あたし! あたしも書けた!」
「はーい、順番にお待ちくださいね~。短冊は逃げませんから、走らなくても大丈夫ですよ!」
ヒアンシーの声が返った直後、ぱたぱたと軽い足音が幹の向こうを横切った。走らなくても大丈夫だと言われたそばから、子どもが二人、競うように受付へ向かっているらしい。その後ろを追った大人が「だから走らないの」と嗜める声まで聞こえてきて、ファイノンは口元を緩めた。
やがてイカルンが短冊を一枚くわえて舞い上がる。少し遅れて別のペガソースも翼を広げ、ヒアンシーの手から受け取った紙を枝先へ運んでいった。
一枚。また一枚。人が増えるほど、木に色が増えて。先ほどまで目立っていた葉の緑は、いつの間にか赤や黄、青、桃色の隙間から覗く色になっていた。風の通るたびに短冊が裏返るものだから、見上げる角度によって空の表情まで変わる。
きっと夕方になれば、西日を受けてまた違って見えるだろう。夜になれば、灯りの下で紙の色は少し沈むのかもしれない。そんなふうに、今日という一日がこの先へ続いていく景色を自然に想像できることが、ファイノンにはまだ少し不思議だった。
そんなふうに、今日の先に夕方や夜の景色まで思い描けることが、ファイノンにはまだ少し不思議だった。以前なら、今日の次に浮かぶのは明日ではなく、次の襲撃や犠牲、守るべき場所だった。けれど今は、それらより先に祭りの後の景色が浮かぶ。それだけでも、世界は随分と変わったのだろう。
「お願いしまーす!」
「はいっ。……あら、これは長いですね?」
「書きたいことが多くて……」
「素敵だと思いますよ。叶ったものから、また次を書けばいいんですから!」
人垣の隙間から、ヒアンシーが長い短冊を受け取る姿が見えた。受け取った紙を折らないよう両手で持ち上げ、どの枝へ運ぶかペガソースと相談している。
その向こうでも別の人が筆を走らせていた。若い女性が何度も文字を書き直している横で、年配の男性が腕を組みながら自分の番を待っている。さらに奥では、どうやら家族全員で一枚ずつ書くことにしたらしく、小さな机を囲んだ五人が肩を寄せていた。
何を書いているかは見えない。それで構わない。願いの内容を知らなくても、人々が願っているという事実だけは目の前にある。ファイノンがぼんやりとその様子を追っていると、イカルンがまた一枚を運んできた。
今度の短冊は、他の紙より少し文字数が少なかった。風に煽られた紙が、たまたまこちらへ表を向ける。見るつもりではなかったのだが、太く明瞭な筆跡だったため、内容は容易に読めてしまった。
――タイタンの権能を解析してみせます。
「……ん?」
ファイノンは一度瞬きをし、見間違いかと短冊へ目を戻した。風に翻った紙は枝へ結ばれる直前、再び表を見せる。
そこに記されていたのは、やはり同じ言葉だった。願いというより、随分と思い切った宣言に思えた。少なくとも以前のオンパロスで、広場の真ん中へ堂々と掲げてよい種類のものではない。
タイタンは人々へ恩恵を与え、ときに畏れられる、都市の営みと切り離せない神である。その権能を解析するとは、神が神である所以を人の理性で分解し、仕組みとして確かめることにほかならない。見る人によっては、神への不敬や冒涜、異端として声高に糾弾されてもおかしくない宣言だった。
かつてなら異端として糾弾されてもおかしくなかったその宣言は、今では子どもの願いや料理の腕前、誰かの健康、遠くへの旅を願う短冊と何ひとつ区別されることなく、若木の枝で風に揺れていた。
誰も石を投げず、引きずり下ろそうともしない。少なくともファイノンの耳には、非難する声ひとつ届いてこなかった。むしろ近くにいた青年が内容に気づいたのか、一瞬だけ眉を上げた後、隣の友人らしい者へ「あれ、誰のだと思う?」と小声で尋ねている。
「分からないけど……あんなこと書く人、一人しかいなくない?」
「だよなあ」
「先生じゃない?」
「先生だろ」
二人は顔を見合わせ、それ以上は何も言わずに笑った。その反応に、ファイノンもようやく納得する。なるほど、あの筆跡にも内容にも心当たりがある。
アナクサゴラス――本人に直接アナイクス先生と呼べば、きっと訂正されるだろうけれど、ファイノンの中では長らくその呼び方で馴染んでしまっている。神悟の樹庭の七賢人にして、知種学派の創始者。魂を研究し、人とタイタンの本質へまで手を伸ばした、筋金入りの研究者だ。確かに、あの人なら書くだろう。
むしろ、ずいぶん控えめに書いた方なのではないだろうか。短冊へ収まらないから省略しただけで、本当はもっと細かな条件や研究手順まで書き連ねていた可能性さえある。
そんな光景まで容易に想像できてしまい、ファイノンは肩を揺らした。もし本人がここにいれば、「願いではありません。研究目標です。両者を混同しないでください」と真顔で言いそうなのに、そのくせ短冊にはきちんと書いている。少し可笑しかった。
キュレネが隣にいたなら、どうしただろう。
きっと短冊を見上げて、「ふふっ、アナクサゴラスらしいお願いね」と笑うかも。――いや、先生本人が近くにいるなら、願いと研究目標を一緒にするな。と訂正されるだろうから、わざともう一度「お願い」と呼んで楽しむかもしれない。
そんなやり取りを想像すると、本人たちがいないのに随分と賑やかな場面が頭へ浮かんできて、ファイノンは風に揺れる短冊へ目を戻した。けれど、面白いというだけでは終わらなかった。
タイタンの権能を解析する――その短冊の文言は、少し前までファイノンが考えていたことと、綺麗に繋がっていた。
神秘がなくなった後、人は生きられるのか。神々を必要としない世界が成り立つのか。ファイノンはそれを、目の前の人々や仲間たちの生き方から考えていた。けれどアナクサゴラスは、もっと直接的だった。
分からないなら調べる。神だからといって、分からないまま置いておかない。神権だからと人智の及ばない領域として棚へ戻すのではなく、その構造を見て、条件を探り、何ができて何ができないのかを確かめる。
それが可能になれば、これまで神だけが担っていたものの一部を、人の技術へ移すこともできるのかもしれない。現に、似たようなことはもう始まっている。
天外から来たマダム・ヘルタのことを、ファイノンはまだすべて理解できているわけではない。知っていることも、ものを見る尺度も、考える速さも、自分とはあまりに違う。
けれど、彼女もまた、神秘を神秘のまま遠巻きに眺める人ではないことだけは分かっていた。興味を持てば近づき、分からなければ調べ、必要なら分解する。予想と違えば、そこからまた考え直す。世界の側が「これは神だから触れてはいけない」と線を引いても、その線自体に理由がなければ、彼女はきっと気にも留めないのだろう。
アナクサゴラスと彼女が同じ場所で研究を始めたなら。……少し、怖い気もする。研究室の安全を確認する人間は、絶対に一人置いた方がいいだろう。場合によっては二人くらい。
そう思ったところで、ファイノンは思わず息を漏らした。けれど、それでも頼もしいことに変わりはない。自分たちが神の奇跡として受け取っていたものを、人の知識へ変えていく者たちがいる。誰かが空を飛び、病を治し、遠い星へ行けるように。
これまで一部の神や半神にしかできなかったことが、仕組みを理解され、技術となり、いつか誰にでも扱えるものになるのだとしたら、その方がきっといい。
ファイノンは大地へ意識を向ければ根の状態を感じ取り、力を流して傷んだ土地を支えることができる。さらに大きな危機が訪れれば、世界を背負うほどの力を振るうことさえできる。
けれど、その力がファイノンにしかないままでは、いつまでも誰かが彼を必要とする。仕組みが解き明かされ、人の手へ分け渡されるなら、土地を守る方法を別の者が知り、世界を外敵から防ぐ手段を人々自身が持ち、復興した都市同士が支え合えるようになる。やがては天外の技術さえ学び、自分たちなりに改良し、必要なものを自分たちで作れるようになるだろう。
その頃にはもう、一人の半神が前へ立つ必要もなくなる。そこまで考えたところで、幹へ添えた掌へ目を落とした。
樹皮の下には、変わらず静かな熱がある。自分の力が流れている。けれど、それだけではない。木自身が根から吸い上げた力も、人々が持ち寄った願いも、大地そのものの支えも、すべてがこの木を立たせている。いまこの木が立っている理由を、自分一人の力へまとめることは、もうできなかった。
それでいい。その方がいい。この手がなければ倒れる木ではなくなった方が、ずっと安心できる。オンパロスも同じだ。いつまでも誰か一人へすべてを預けるのではなく、ケファレや黄金裔の誰か一人が支え続けなければ成り立たない世界でもなく、危機のたびに一人を選んで燃え尽きるまで前線へ立たせる世界でもない。人々が学び、考え、手段を生み、必要な時には皆で支え合えばいい。
(その形へ移っていけるのなら、こんなに嬉しいことはない――……そうだろう?)
石床を小さな靴が叩いた。思考から引き戻されるように顔を上げると、受付から戻ってきた少年の頭上を、ペガソースが短冊をくわえて飛んでいた。少年は首をいっぱいに反らし、その行方を追いながら、どの枝へ結ばれるのか見届けようとしている。
「もっと上! そこ、そこがいい!」
「ぷる?」
「うん! そこ!」
ペガソースが少し高度を上げると、少年は嬉しそうに跳ねた。何を書いたのだろう。それは分からない。けれど、その願いを守るために剣を握らなければならない、とは思わなかった。以前なら、誰かが明日を願ったというだけで、それを奪わせないために何をすべきか考えた。
けれど今は、少し違う。あの子はきっと、自分で大きくなり、自分の願いを自分で叶えていく。途中で諦めたとしても、また別のものを探せばいい。困った時には家族へ相談し、もっと難しいことなら、ヒアンシーやトリスビアス先生たちのような誰かを頼ればいい。そして本当に危険なものが来た時には、それに立ち向かう手段を持つ人間が、これからもっと増えていくだろう。
そう思った瞬間、胸の内側にあった重みが、すっとほどけた。大きな感動でも、剣を掲げたくなるような昂揚でもない。ただ、重い荷物を下ろした先に、最初からそれを載せるための荷台が用意されていたのだと気づいたような、不思議な安堵だった。
人は弱い。これからも間違え、争い、研究や政治で失敗するだろう。天外へ出たことで、新たな危険を自分たちから招いてしまう日さえあるかもしれない。
だけど、それを理由に、最初から一人の英雄へすべてを預ける必要はない。失敗したなら考え直せばいい。壊れたなら直せばいい。分からなければ、アナクサゴラスのような人が調べるだろう。それでも分からなければ、マダム・ヘルタのような天外の誰かへ尋ねることもできる。
もう世界は閉じていない。空の向こうには、自分たちの知らない方法を持つ別の星があり、オンパロスにもまた、天外の人々が知らないものがある。
互いに一方へ縋るのではなく、知識や技術を交換し合えるのなら、世界を守る手段は一つではなくなる。剣だけでも、火種だけでも、神権だけでもない。知識も、技術も、医療も、政治も、人と人との繋がりも、そのすべてが世界を生かしていくのだ。
ファイノンの視界の端で、例の短冊がまた揺れた。
今度は笑わず、その文字をしばらく眺めた。ほんの少し前まで、タイタンは人にとって見上げる存在だった。けれど、いつか遠い未来には、その権能さえ子どもが教本を開いて学ぶものになっているかもしれない。そんな日が来たら、アナクサゴラスは満足するのだろうか。
いや――たぶん、その頃には別の疑問を見つけている。教本に書かれた理論の間違いを指摘しながら、次の研究を始めていそうだ。その姿を想像すると、やはり少し可笑しかった。
ファイノンは枝葉から視線を下ろし、人々の行き交う広場を見た。ここから世界は変わっていく。自分の知らない技術や決まりが生まれ、やがては自分の知らない場所まで人々が歩いていくのだろう。
その先のすべてを見届ける必要はない。うまく歩けるようになるまで手を添え、転びそうなら支え、本当に大きな危険が来た時だけ前へ立てばいい。いつかそれさえ必要なくなる未来を思い描いても、寂しさはなかった。むしろ、ファイノンの頬には自然と笑みが浮かんだ。
自分より優れた防衛手段や、より早く危機を察知する仕組み、より多くの人を守れる技術が生まれれば、もう一人の身体へ世界を背負わせる必要はない。英雄と呼ばれる誰かにすべてを託さずに済む――それこそが、ファイノンの望んでいた未来だった。
皆がそれぞれの願いへ向かって進み、誰かの幸福を別の誰かの犠牲で支えることもなく、守るために一人が燃え尽きる必要もない。そんな世界へ、オンパロスは少しずつ近づいている。
アナクサゴラスの短冊は、その小さな証拠の一つなのかもしれない。神を畏れて手を合わせるだけだった人間が、神を調べると言える。
それを周囲が笑い、呆れながらも排斥しない。神秘を理解し、人の側へ引き寄せようとする者がいて、その背後には天外の知識まで繋がっている。ならば、自分が庇護者として世界から手を離せる日は、想像していたより早く来るのかもしれない。その予感に、心から嬉しくなった。
先ほどまで幹へ沿わせていた指先が、僅かに緩む。まだ離しはしない。今はまだ、この木にも、この世界にも、ほんの少しだけ支えが要る。
だから、それまではここにいればいい。けれど、支えが必要なくなることを怖がる理由など、どこにもなかった。自分の力が使われなくなるなら、それは世界が弱くなった証ではない。自分以外の方法が育った証だ。
自分の剣よりも良いものが生まれ、自分の身体を壁にしなくても人々が生き延びられるなら、その方がいいに決まっている。ファイノンは、自分自身をそういう役割から切り離して考えようとはしなかった。
剣が必要な時は剣になればいい。盾が必要なら盾になればいい。世を背負う力が必要なら、それを使えばいい。そして、いらなくなったなら――使わなくていい。道具とは、本来そういうものなのだろう。その考えに、悲しさはなかった。むしろ、ようやく役目を終えられるのだという安堵があった。
いつか、誰も「救世主」や「武器」に頼らず、自分たちの力で危機へ立ち向かえる世界になる。足りない時には仲間や天外の友人たちへ助けを求めればいい。
(そこまでたどり着けたら、)
陽射しが少し傾き、枝葉の隙間から伸びた光がファイノンの手の甲へ落ちた。白い指の上で揺れる光を眺めてから、彼は再び短冊へ目を向ける。
例の一枚は、もう他の願いの中へ紛れていた。料理、健康、旅、家族、研究、そして神の解析。どれも同じ枝に結ばれ、同じ風を受けて揺れている。その光景が、ひどく愉快で、何より頼もしく、静かに笑った。
いつか、神々の力さえ人が理解し、半神の身体ひとつを最後の防波堤に置かずとも世界を守れる日が来る。世界が