未来へ根を張る人々を見守るファイノンは、願いに満ちた枝の中から「タイタンの権能を解析する」という一枚の短冊を見つける。
かつてなら異端とされた宣言も、今では日常の願いと同じ風に揺れていた。
神秘を畏れるだけでなく、人の知恵で理解し、技術へ変えようとする者がいる。ならば、いつか世界は英雄一人へ重荷を預けずに立てるはずだ。
自分の剣も、力も、身体も必要とされなくなる未来を思い、ファイノンはただ安堵していた。
若木の向こうから弾むような声が飛んでくる。風に乗ったその声は、枝葉の間を縫うようにしてファイノンの耳へ届いた。
周囲で交わされていた話し声や、紙の擦れる音に紛れそうになりながらも、妙に明るく、まっすぐだった。まるで自分の存在を木の下にいる全員へ知らせるように、声の主はもう一度、少しだけ身を乗り出して叫んだ。
「ヒアンシーさま、あたし、自分でむすびたい!」
それは、よく通る声だった。近くにいた何人かがつられて振り向き、ファイノンも枝葉の隙間から声の主を探した。
先ほどから何度か見かけていた女の子が、自分の短冊を両手で胸元へ抱え、ヒアンシーを見上げている。赤みのある髪を左右で束ねた、小柄な子だ。手元の紙から伸びた紐が風に吹かれ、細い手首へ何度も絡みついていた。
「大人の人やペガソースたちに任せなくていいんですか?」
「うん! だって、あたしのおねがいだもん!」
理屈としては随分と明快だった。ヒアンシーも同じように思ったのか、わずかに目を丸くしてから、すぐに頬を緩ませた。
「ただし、枝へ登るのは禁止ですよ? 背伸びしすぎるのも危ないですから、届かなかったら大人の方に手伝ってもらってくださいね」
「はーい!」
「元気なお返事でよろしいです!」
許可を得るやいなや、女の子は短冊を掲げて木の周囲を歩き始めた。どこへ結ぶかまでは決めていなかったらしい。
「あっちがいいかな……でも、こっちのほうがきれいかも」
一本の枝の下で立ち止まっては首を傾げ、また数歩移動する。高い位置へ結びたいのかと思えば、今度は顔の高さまで垂れている枝を覗き込み、そこにすでに並んでいる短冊と自分のものを見比べている。
やがて何か納得したらしい。ここにする。そう言って選んだのは、彼女自身が少し踵を持ち上げれば届く程度の低い枝だった。
短冊を左手へ持ち替え、右手で枝を引き寄せようとして、すぐに止まる。ヒアンシーから枝を強く引っ張ってはいけないと事前に教えられていたのか、今度は身体の方を伸ばした。つま先が石床の上でぎりぎりまで持ち上がり、伸ばした腕の先で紐が枝へ触れる。しかし、結ぼうとした途端に身体がぐらりと揺れた。
「おっと」
そばにいた父親らしい男が、慌てた様子もなく両脇へ手を差し入れて支えた。その表情は、娘が自分の力で結び終えるまで見守るつもりなのだと、言葉にせずとも分かるほど穏やかだった。
「届かないなら言いなさい」
「とどくもん」
「届いてないから持ち上げてるんだが?」
「いまからとどくの!」
「はいはい」
「はいはい。……じゃあ、父さんの肩に乗るか?」
「それはこわい」
「そうか」
「ここをもってて」
「お前を?」
「ちがう! ここ!」
我が子との言葉の応酬に父親は笑いを噛み殺すように口元へ力を入れると、言われた通り、女の子の背中と腰を両手で支えた。今度は身体が安定したらしく、女の子は小さな指で紐の両端を枝へ回す。一度交差させ、片方を輪へ通す。そこまでは順調だった。
「……あれ?」
しかし、そこから先で女の子の指が止まった。さっきまで迷いなく動いていた小さな手が、結び目の前でぴたりと固まる。右手に持った紐と左手に残った紐を見比べ、首を傾げた。どうやら次にどちらを動かせばいいのか分からなくなったらしい。
もう一度やり直そうと指先を動かしてみるものの、今度は紐同士が絡まり、ますます分からなくなってしまう。眉間へ小さなしわを寄せながら、女の子は右手と左手を交互に見つめた。
「お父さん、これ、どうするの?」
「だから出る前に練習しようと言っただろう」
「できたもん、おうちでは!」
「じゃあ思い出しなさい」
「ええー……」
父親は結んでやらなかった。代わりに、女の子の背中と腰を支える手だけを動かさず、その小さな指がもう一度紐を探るのを黙って待っている。急かすことも、正解を教えることもない。ただ、足元がふらつかないようにしっかりと支えながら、娘が自分で思い出すまで見守っていた。
女の子は唇を尖らせ、結び目の途中で止まった紐をじっと見つめた。風が吹くたび、赤い短冊が頬のそばで揺れる。紐の端もそれに合わせて小さく跳ね、どちらを先に動かせばいいのか、ますます分かりにくくなっていく。
少し離れたところからその様子を見ていた年配の女性が、見かねたように片手を上げた。白髪の隙間から覗く目元には、困っている子どもを放っておけない親しみが浮かんでいる。けれど、すぐに手を出すことはせず、女の子の視線が自分へ向くのを待ってから、ゆっくりと指先で紐の動きを示した。
「最初の輪っかに、もう一回こっちを通すんだよ」
「こっち?」
「反対、反対。いま右手で持ってる方さね」
「あっ」
言われた通りに指を動かす。紐の端が小さな輪の中へ滑り込み、女の子は息を詰めたまま、慎重にそれを引いた。結び目が少しずつ形を整え、枝の表面へ紐が食い込んでいく。
赤い短冊が揺れるたび、指先へ伝わる抵抗もわずかに変わった。最後に両手をきゅっと左右へ引くと、紐がきゅっと締まった。
「できた!」
女の子の声とともに、赤い短冊が枝からぶら下がった。結び目は少し歪んでいたが、紐はしっかりと枝へ食い込み、もう簡単には外れそうにない。
風を受けるたび、短冊は小さく身を翻し、赤い紙の表面に描かれた文字が光の中でちらちらと覗いた。紐の端が短冊の角をかすめ、そのたびに紙がかさりと音を立てる。まるで、結ばれたばかりの願いが嬉しそうに揺れているようだった。
「できた! お父さん、見て!」
「見てるよ」
「おばあちゃんも、ありがとう!」
「いいの、いいの。今度は忘れないようにね」
「うん!」
父親に地面へ戻された女の子は、自分の短冊をしばらく見上げていた。イカルンに結んでもらった紙と違い、位置はそれほど高くない。少し強い風が吹けば、通りかかった大人の肩へ触れてしまいそうな高さだった。
それでも本人は、ひどく満足そうで。胸を張って、二歩ほど後ろへ下がって、角度を変えてもう一度見上げる。
「わたしがむすんだの!」
誰にともなく告げた自慢げな声へ、父親が「知ってる」と返す。そのやり取りを聞きながら、ファイノンは幹へ触れた指先を僅かに動かした。
枝を伝って届いたのは、先ほど女の子が触れたためだろう。風とは異なるごく小さな振動だった。それが収まるより早く、今度は別の場所から声が上がった。
「ヒアンシー様、私も自分で結んでも構わないでしょうか?」
「もちろんですよ~。届く範囲で、枝を傷めないようにお願いしますね!」
「じゃあ俺も」
「わたしもそうしようかしら」
どうやら最初の一人を見ていたらしい。
先ほどまで短冊をヒアンシーやペガソースへ預けていた人々が、次々に自分の紙を持って木の周囲へ集まり始めた。それでも一斉に押し寄せることはなく、先にいる者の後ろで足を止め、空いている枝を探している。
「そちら、まだ結んでいませんか?」
「ええ、まだです。どうぞ先に」
「いえいえ、こちらは急いでいませんから」
「願い事を結ぶのに、急ぐも何もないでしょう」
「それもそうですね」
譲り合った末、二人とも別々の枝へ向かった。先に声を掛けた方は、幹の正面に伸びた低い枝へ歩み寄り、もう一人は少し離れた場所にある、葉の隙間から光の差す枝を選んだ。
互いに邪魔にならない距離を保ちながら、それぞれが短冊を掲げる。片方が紐を枝へ回す間、もう片方は足元へ視線を落とし、結び終えるまで静かに待っていた。やがて二人の短冊がほとんど同時に風を受け、別々の枝の上で揺れ始める。顔を見合わせた二人は、どちらからともなく小さく笑った。
そのすぐ隣では、小柄な老婆が、目の高さほどまで垂れ下がった枝へ紐を巻きつけようとしていた。枝先は風に揺れるたび、老婆の手からわずかに逃げていく。
老婆は片手で短冊を押さえ、もう片方の手で紐をつまもうとするものの、節くれだった指先は何度も空を切った。紐の端が指の間をすり抜け、短冊がかさりと揺れるたび、老婆は小さく息を吐きながら、焦らずに手元を整え直していた。
「おばあちゃん、貸して」
「結んでくれるのかい?」
「ちがうよ、枝のほう。自分でむすびたいんでしょ?」
孫らしい少年が枝先をそっと支え、老婆の手元へわずかに寄せる。老婆は目を細め、節くれだった指でゆっくりと紐を結んだ。結び目が緩んでやり直したり、紐の端を少年に拾ってもらったりしながらも、最後まで自分の手で結び終えた。
「あぁ……、できた」
「ちゃんと結べてる?」
「たぶんね」
「たぶん~?」
「風で飛んだら、また書けばいいさ」
「おばあちゃん願い、飛んじゃっていいの?」
「紙が飛ぶだけだよ。願ったことまで風に持っていかれるわけじゃないだろう?」
「……そっか」
「それに、お前が覚えててくれるなら、それでいいさ」
「そう? へへ、じゃあ覚えておいてあげる!」
そんな会話を聞きながら、ファイノンは老婆が結び終えた手を胸元で軽く擦り合わせ、少年の肩を叩いて歩き出すまでを見送った。
その次には、太い指で紐と格闘している男が目に入った。腕や掌には細かな傷が多く、石工か鍛冶に携わる人なのかもしれない。もしかしたら、準備期間中に顔を合わせたことがある人かも。
「細すぎるだろ、これ」
「あなたの指が太いのよ」
「俺が悪いのか?」
「紐は悪くないもの」
隣に立つ女性が笑っている。口元にはからかうような笑みが浮かんでいたが、その目は男の太い指先をじっと見守っていた。手を出すつもりはないらしい。ただ、彼が自分で結び終えるまで、すぐそばで見届けるつもりなのだろう。
「ぬぁー! はあっ、ダメだ集中できん、結んでくれ」
「自分でやるんでしょう?」
「半分やったぞ」
「まだ枝に巻いただけじゃない」
「一番難しいところだ!」
「あら、そうかしら」
それでも女性は手を出さなかった。けれど男が何度目かに結び目を作り損ねると、紐の片端だけを指先で押さえた。
「ほら。これなら逃げないでしょう」
「う、すまん……」
「自分で結ぶんでしょう?」
「……そうだったな」
男は渋い顔をしながら、今度こそ結び上げた。完成した結び目は決して綺麗ではなく、左右の紐の長さも違っていた。それでも二人は数歩離れて眺め、女性が「まあ、落ちなければいいんじゃない?」と言うと、男も満足そうに頷いた。
完璧でなくても、そこへ自分の手で結べていれば、それで十分なのだろう。そうしている間にも、人は増えた。
「そこ、空いてますか?」
「どうぞどうぞ」
「お姉ちゃん、抱っこして!」
「はいはい。落とさないでよ、その短冊」
「お兄さん、ちょっと枝を押さえてもらっても?」
「ああ、この辺りでいい?」
「ありがとうございます」
「もっと右じゃない?」
「いや、ここなら風通しがいいぞ」
「願いに風通しって関係あるのか?」
「知らないけど、気分だよ」
枝の下では、会話と笑い声がいくつも交差していた。知らない者同士でも、ごく自然に手を貸し合っている。誰かが枝を支え、誰かが子どもを抱き上げ、紐の結び方に迷えば隣の者が指先の動きだけを示す。そうして人々は、それぞれの願いを自分の手で枝へ結んでいった。
短冊を持ったまま杖をついてきた老人には、通りすがりの青年が「ここ、段差がありますよ」と声を掛けて。老人は礼を言い、自分で歩いて木のそばまで来ると、低い枝を選んだ。
「高いところじゃなくていいんですか?」
「高けりゃ叶うってものでもなかろう」
「それもそうですね……」
「それに、ここなら来た時に見えるだろう」
老人はそう言って笑った。結んだ短冊は、彼の目線より少し下で揺れている。きっと、またここへ見に来るつもりなのだろう。
今日だけの願いではない。明日か、何日か後か、それとももっと先かは分からない。それでも老人は、次に訪れた時にも自分の短冊が見えるよう、手の届く枝を選んでいた。ファイノンはその言葉を聞き、ほんの少しだけ視線を留めた。
老人の中にはすでに、今日の先にもう一度この場所へ立つ時間があるらしい。その様子を上から見ていたイカルンが、仕事を取られたように首を傾げている。
「ぷる?」
「あらあら。イカルンのお仕事がなくなっちゃいそうですね?」
「ぷるるぅ……」
「大丈夫ですよ。高い枝は、まだイカルンたちにしかお願いできませんから!」
「ぷる!」
明らかに残念そうな声だったのに、立ち直りは早かった。翼をぴんと広げたイカルンへ、近くにいた子どもが笑いながら短冊を差し出した。
「じゃあ、ぼくのは一番高いところやって!」
「こら。イカルンが困るでしょ」
「いける?」
「ぷるるっ!」
「ほら、いけるって!」
「本人がやる気でも限度はあるの」
母親らしい女性が額へ手を当てる。イカルンは使命を受けたように胸を張っていたが、ヒアンシーから「無理をしない高さにしてくださいね」と念を押され、少しだけ翼を下げた。
そこかしこで役割が変わっていった。
最初は短冊を書く人、それを受け取るヒアンシー、枝へ運ぶペガソースたちに分かれていたが、今では書いた者が自分で木へ向かい、届かなければ近くの者に支えてもらっている。
高い場所だけはペガソースへ頼み、枝が混み合えば互いに譲り、紐が絡めばその場にいる誰かが解く。ヒアンシーも受付へ戻り、一人ずつ結び方まで世話をしなくてよくなった。それでも催しは滞らず、むしろ人々の手が加わるほど賑わいを増しているようだった。
むしろ、人の手が加わるほど、場の賑わいは増しているようだった。ファイノンは幹越しに、その気配を感じていた。誰かが枝へ触れるたび、僅かな重みが木を伝って掌へ届く。一人、また一人。場所を変え、角度を変えながら、絶え間なく小さな振動が続いている。
かつて戦場で大地へ意識を広げた時に拾っていた振動とは、まるで違う。あの頃に土を揺らしたのは、走る兵の足音や、崩れる建物、地へ突き立つ武器だった。
いま伝わってくるのは、枝へ触れる指の力。子どもを抱き上げた大人が踏み直す足。結び終えた者が地面へ降りる時の、ほんの小さな着地。同じ大地を通じて届くものなのに、意味が違うだけでこれほど穏やかなものになる。
「もうちょっと上!」
「これ以上は無理よ」
「じゃあ私が台になる」
「危ないからやめなさい」
「じゃあ二人で持ち上げる?」
「人を荷物みたいに言わないでよ!」
今度は若い女性三人が笑い合っている。一人が自分の短冊を少し高い枝へ結びたいらしい。結局、背の高い一人が短冊を預かることになりかけたが、本人は首を振った。
「ううん、やっぱり自分で結びたい」
「じゃあ、こっちの枝なら?」
女性は一瞬だけ、先ほどまで見上げていた枝へ視線を戻した。そこへ結べたなら、きっともっと満足できたのだろう。けれど、友人が示した少し低い枝へ目を移すと、すぐに小さく頷いた。
「うん。じゃあ、そっちにする」
名残惜しそうにすることもなく、彼女は短冊を持ったままそちらへ歩み寄った。希望していた高さを諦めたはずなのに、不満げな様子は少しもない。届く場所で、自分の手で結べるなら、それで十分だと決めたようだった。
「なんでそんなに自分で結びたいの?」
女性はすぐには答えなかった。枝へ伸ばしかけた手をいったん止め、短冊の端を指先で押さえながら、少しだけ首を傾げる。
友人たちの視線が自分へ集まっていることに気づくと、照れたように笑った。まるで、今まで当たり前だと思っていたことを、初めて言葉にしようとしているようだった。
「だって、お願いするところまで人任せなのって、なんか違う気がしない?」
「そう?」
「知らないけど」
「なんなのよ」
「でも、最後くらい自分でやった方が、叶えに行く感じするじゃない」
そう言って、彼女は枝へ回した紐の両端を、今度こそ自分の指でしっかりと引いた。結び目がきゅっと締まり、短冊が風の中で軽やかに揺れる。少し歪んだ結び方だったが、彼女は満足そうにそれを見上げた。
何気ない言葉だった。たぶん、深く考えたわけではないのだろう。友人たちも「それなら願い事の中身も努力が必要なものにしなさいよ」と笑い、彼女も「それはこれから考えるの」と肩をすくめて笑い返している。
冗談めいたやり取りはすぐに別の話題へ移り、彼女たちは次にどの短冊を結ぶか相談し始めた。けれど、その何気ない笑い声とともに、彼女の言葉だけがファイノンの耳には長く残った。
(叶えてもらうのではなく、叶えにいく……)
短冊へ願いを書くという行為を、ファイノンは最初、祈りに近いものとして理解していた。高い場所へ願いを結び、空へ届ける。そうして自分の手から離れた願いが、風や光に運ばれ、いつかどこかで届くことを祈るものだと。
けれど、目の前で人々がしていることは、彼が思っていた祈りとは少し違っていた。願いを書いた者たちは、それを誰かへ預けて終わりにはしない。自分で枝を選び、自分の指で紐を結び、届かなければ誰かの手を借りながら、それでも最後の動作だけは自分のものにしようとしている。
願いは、手放すためだけにあるのではない。自分がどこへ向かいたいのかを確かめ、その方向へ進むために、目に見える形で残しておくものでもあるのだろう。
高い枝へ結べなくても、望んだ場所へ届かなくても、手の届く枝を選び直し、そこへ自分の願いを結びつける。その小さな選択の中に、すでに未来へ向かう意志が含まれている。
それなら、この催しは随分といいものだ。ファイノンはそう思った。誰かに救済を願うためでも、誰かが願いを叶えてくれるまで待つためでもない。人々は自分の希望を言葉にし、それを自分たちの手で未来へ結びつけている。
届かない枝へ手を伸ばす者がいれば、隣の者が支える。結び方に迷えば教え、場所が重なれば譲り合う。それでも最後に紐を締めるのは、願いを書いた本人の指だった。必要な時に少しだけ手を貸してもらいながら、自分の願いを自分の足元から先へ進めていく。その姿の方が、誰かにすべてを委ねるよりも、ずっと人らしいのだろう。
「うん?」
ふいに、幹の裏側から小さな手が現れた。枝を探して木の周囲を回っていた子どもらしい。ファイノンが僅かに身体を引くと、その手の主も驚いたように動きを止めた。
やがて幹の陰から、短冊を握った子どもがそっと顔を覗かせる。ファイノンと目が合った瞬間、その子はまるで見つかってはいけないものを見つけられたかのように、全身を硬直させた。
「こんにちは」
「こ、こんにちは……」
その子は短冊を握ったまま、ファイノンと枝を交互に見た。どうやら、幹へ手を添えている彼が仕事中なのだと理解しているらしい。声を掛けたい気持ちはあるのに、邪魔をしてはいけないと思っているのか、視線だけが何度も行き来する。
「ここへ結びたいの?」
低い場所の方だろうか。確かにここは、ファイノンが仕事として場所をとっているからか、遠慮してあまり人が来ない。尋ねると、子どもはこくりと頷いた。
「じゃあ、どうぞ」
ファイノンは少しだけ身体をずらした。しかし、子どもは動かない。短冊を胸元へ抱えたまま、枝とファイノンの手を見比べている。
「届かない?」
「……ちょっと」
返事は極端に小さかった。見れば、狙っている枝は頭上よりかなり高い。ファイノンなら腕を上げれば容易に届く高さで、短冊を受け取って結んでやることもできる。けれど、子どもはそれを望んでいるわけではないらしい。自分で結びたいのに、ファイノンが幹を支えているから遠慮しているのだ。
「僕が抱えてあげようか」
ファイノンは子どもの目線まで少し身を屈め、穏やかに続けた。
「少しくらい手を放しても大丈夫だから」
子どもは驚いたように目を瞬かせた。
「……おしごと、してるんじゃないの?」
「しているよ。でも、君を抱えるくらいなら問題ない」
ファイノンは幹へ添えた手を見せた。指先はまだ樹皮に触れているものの、若木を押さえつけているわけではない。枝葉の揺れと根元の安定を確かめる程度の力しか込めていなかった。
「この木は、もう自分で立てるから」
そう言って、ファイノンはほんの少しだけ掌を浮かせた。幹は風に合わせて静かに揺れたが、傾くことも軋むこともない。
「ほら。大丈夫だろう?」
子どもは幹とファイノンの手を見つめ、それからもう一度、狙っていた枝を見上げた。まだ迷いは残っているようだったが、やがて小さく頷く。
「……だっこしてくれる?」
「分かった、任せて」
ファイノンは短冊を落とさないよう、子どもの手元を確認してから、両腕を差し出した。抱き上げられた子どもは、最初こそ身体を強張らせていたものの、すぐにファイノンの肩へ片手を添え、もう片方の手で短冊を握り直した。
とはいえ幹へ触れていた手は、完全には離さなかった。指先だけを樹皮へ残し、若木の状態を確かめながら、空いた腕で子どもの背中と腰を支える。子どもの体重が腕へ預けられると、枝葉の間から小さな息が漏れた。
「これなら届く?」
「うん……!」
子どもは少しだけ身を伸ばし、短冊の紐を枝へ回した。ファイノンの腕が揺れないように支えると、子どもは安心したように指を動かし始める。
結び目を作る間、ファイノンは急かさなかった。短冊を奪うことも、代わりに結ぶこともせず、ただ落ちないように支えている。子どもの指が紐を取り違え、結び目がほどけかけるたび、ファイノンの腕がわずかに位置を調整した。
「ゆっくりでいいよ」
「……うん」
子どもはもう一度、紐を輪へ通した。今度はうまくいったらしい。小さな指が両端を引くと、短冊が枝からぶら下がった。風を受けて紙が揺れ、子どもの頬をかすめる。
「できた……!」
「うん。ちゃんと結べている」
ファイノンがそう告げると、子どもは短冊を見上げたまま、ようやく表情を緩めた。それから、抱えられたまま小さく尋ねる。
「ほんとに、おしごと、だいじょうぶ?」
「大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
子どもはしばらく短冊を見つめていたが、やがて満足そうに頷いた。ファイノンがゆっくりと地面へ下ろすと、子どもは短冊を結んだ枝を見上げた。先ほどまでの遠慮がちな様子は消え、胸元へ握った手には、わずかな誇らしさが滲んでいる。
ファイノンは幹へ触れていた指先を確かめた。もう、手を放しても大丈夫だった。若木は倒れず、風に合わせて静かに揺れている。子どもの願いも、誰かに代わりに結ばれることなく、ちゃんと自分の手で枝へ届いた。
「ありがとう!」
「どういたしまして」
地面へ下りた子どもは、そのまま母親のところへ駆けていった。受付の仕事をしているらしく、確かに忙しそうだった。あのような大人しそうな子が声を掛けるには、少しばかり勇気が必要だったのだろう。
―― 「救世主なんて……ずっと必要ないといいわね」
世界は、こういうふうに回っていく方がいい。
(そうだね、キュレネ。君の言うとおりだ……)
戦士が剣を抜くより前に。黄金裔が火種を燃やすより前に。誰かが大きな力を振るわなくても、隣にいる人へ一言、手を貸してと頼めば済むことが、きっとたくさんある。
届かない枝へ手を伸ばす子どもがいれば、誰かが背中を支える。結び方に迷えば、別の誰かが指先の動きを教える。場所が重なれば譲り合い、紐が絡めば一緒にほどく。そうして願いは、英雄の手を借りることなく、願った本人の指で枝へ結ばれていく。
その程度のことで解決できるなら、英雄など出てこない方がいいのだ。誰か一人がすべてを背負わなくても、人々が互いに少しずつ手を貸し合えば、世界はそれだけで前へ進める。ファイノンは、そんな当たり前の光景を幹越しに感じながら、静かに息を吐いた。
枝葉の間から降りる光が、少しずつ位置を変えていた。時間が進んでいる。それでも人々は気に留める様子もなく、短冊を結び続けている。
木の下にはいつの間にか小さな輪ができていた。誰かの順番を待つ列ではない。結び終えた人もすぐには立ち去らず、自分の短冊を眺めたり、知り合いのものを探したり、まだ結べていない者へ手を貸したりしている。
「これ、あなたの?」
「違うわよ」
「字がそっくりだったから」
「うそやだ、そんなに下手じゃありません!」
「そっち!?」
「ねえ、これ可愛い絵が描いてある」
「ほんとだ。誰だろう」
「勝手に読むのはよくないよ」
「絵だけだって」
「それでも」
笑い声に混じって、小さな言い争いも起きていた。子どもが自分の短冊を探して枝の周囲を何周もしている一方で、老婆は木陰へ椅子を置いて休み始める。先ほど紐に苦戦していた男は、今度は別の人へ結び方を教えていた。
「そこを一回通して」
「こう?」
「違う、俺もさっき間違えた」
「説得力があるのかないのか分からないな」
「失敗したから分かるんだよ」
ファイノンの頬が緩む。そのやり取りの間にも、紙は一枚、また一枚と増えていった。色とりどりの短冊が枝を埋め、風が吹くたび、いっせいに揺れる。紙同士が触れ合う音は小さく、鈴の音よりも軽い。戦場の喧騒とは比べることすらできない、かすかな音だった。
それなのに、よく聞こえた。かさり。さらり。誰かが笑い、その隣でまた紐が締まる。そんな穏やかな音が、大講義場の空へ静かに積み重なっていった。
エスカトンの只中で、こんな音を想像したことはなかった。終末を越えた先に、皆が笑っていられる未来を願い、それだけを目指して走ってきた。
けれど、辿り着いたその光景には、紐を結べずに困る子どもや、それを教える老人、自分で結びたいと意地を張る者、見知らぬ人のために枝を押さえる者がいる。隣の短冊と紐が絡み、それだけで何人かが笑う。
そんな小さな出来事の一つ一つまで含めて、未来はできているのだろう。相棒がいたら、これを「ボーナスタイム」とでも呼ぶのかもしれない。
紐を結べずに困る子どもがいれば、それを教える老人がいる。自分で結びたいと意地を張る者には、手を出さず支えるだけに留める家族がいる。見知らぬ人のために枝を押さえる者がいて、隣の短冊と紐が絡めば、それだけで何人かが笑う。
あれほど途方もなく思えた未来も、辿り着いてみれば、そんな小さな出来事を無数に含んだ時間のことだったらしい。そのことに気づくと、ファイノンの胸の奥は静かに温まった。
(――
ぼうっとしていた思考から、ファイノンは幹へ添えていた掌へ意識を戻した。ここまでずっと、木の状態を確かめるために触れている。人が枝へ集まり始めた今も、何かあればすぐ支えられるよう、力の流れだけは途切れさせていない。
けれど、もう最初の頃のように掌全体で押さえる必要はなかった。気づけば樹皮へ触れているのは、指先の半分ほどだけだ。
人が枝へ触れるたび、短冊の重みが増えるたび、若木は自分で揺れ、自分で戻ってくる。根元も動かない。幹も軋まない。
まだ手を離しはしなかった。それでも、力を込めておく理由はもうなかった。指先を緩めた分だけ、樹皮のざらつきが薄れていく。代わりに入り込んできた風が、手のひらを静かに撫でていった。
「見てー! いっぱいになった!」
「まだまだ増えますよ~!」
「もっと?」
「もちろんです。だって、願い事はいくつあってもいいんですから!」
「じゃあ、もういっこ書いていい?」
「ふふっ。どうぞ~!」
また受付へ走ろうとしたらしく、すぐに「走らない!」という母親の声が飛んだ。周囲から笑いが起こり、ファイノンもその中へ小さく息を混ぜる。
願いはいくつあってもいい。ひとつ叶えたら終わりではなく、叶わなかったからといってそこで終わりでもない。また書いて、また結んで、必要なら誰かに支えてもらいながら、その先へ進んでいく。そんな当たり前を、人々は自分たちの手で作り始めている。
ファイノンは木の周囲を見渡した。短冊を結ぶ指、それを支える手、終わった者から次の者へ譲られる場所。高いところへ短冊を運ぶペガソースたちの姿や、枝の隙間から降りる光、頬を撫でる風、石床へ重なる足音、そして誰かの笑い声が、ひとつの穏やかな光景としてそこにあった。
目の前にあるのは、どれも大きな奇跡ではない。けれど、それらは大きな奇跡よりも確かなものだった。人々はすでに自分の願いを持ち、それを言葉にし、誰かに叶えてもらうのではなく、自らの手で未来へ結びつけようとしている。
ここまで来たのなら――きっと、もう。
その先を言葉にせず、樹皮へ触れていた指先の力をさらに緩めた。掌はまだ幹から離れていない。必要なら、いつでも力を流せる。
それでも若木は、もう彼の手に支えられて立っているのではなかった。土に根を張り、人々の願いを枝いっぱいに抱えながら、晴れた空の下で自らの力で立っている。その枝へ、また誰かの手が伸びた。今度はファイノンが手を出すまでもなく、隣にいた人がそっとその背中を支えていた。
ワイワイがやがやを演出したかっただけなんです――!
思ったより細々と盛り上がったな……。