願いを書いた市民たちは、やがてその短冊を自分の手で枝へ結び始めた。届かなければ誰かが支え、結び方に迷えば隣の者が教え、紐が絡めば皆で笑ってほどいてゆく。
救いを待つためではなく、自ら未来へ向かうために願いを結ぶ人々。その小さな営みを幹越しに感じながら、ファイノンは掌の力を静かに緩めていく。まだ手は離さない。けれど若木も、人々も、すでに誰か一人の手の中で立っているのではなかった。
樹皮の内側を通っていた力は、もう細い流れで足りていた。根がどこまで張ったか、枝先へ無理がかかっていないか、それを確かめる程度に意識を残しておけばいい。
人々が短冊を結ぶたび枝は細かく揺れるものの、それも木自身が受け止めている。先ほど子どもを抱き上げた時に掌を浮かせても何ひとつ問題は起こらなかったのだから、少なくとも以前のように、こちらが支え続けなければ形を保てない状態ではないのだろう。
そう思っていたところへ、人混みの向こうから聞き慣れた声が飛んでくる。反射的に返事をすると、短冊の束を抱えていたヒアンシーが、受付の机へそれらを預けてからこちらへ歩いてきた。
「ファイノンさま!」
「なんだい?」
急ぎ足ではあるものの、今度は誰かに呼ばれたからではないらしい。途中ですれ違った子どもへ身体をずらして道を譲り、足元へ落ちていた紐の切れ端を拾って近くの机へ置く。それから木の根元へ回り込み、幹の反対側に立つファイノンを覗き込んだ。
「どうしたんだい? 何か木に――」
「いいえ、木ではなくて、ファイノンさまです」
「え、僕?」
思わず聞き返すと、ヒアンシーは「はい」と頷いた。枝葉の隙間からこぼれる陽射しが彼女の額や頬を細かく照らし、忙しく動き回っていたせいか、こめかみの髪が少し乱れている。それでも呼吸は穏やかで、声にも疲れは滲んでいなかった。
対してヒアンシーの視線は、ファイノンの顔から肩口、幹へ添えた腕へと順に動いた。診察道具を持ち出すほどではないらしく、まずは離れた位置から目で確かめているらしい。
「顔色は……変化なしですね。息も、さっきと変わっていませんし……」
少し首を傾げ、今度はファイノンが呼吸する様子を数回見てから、ヒアンシーは眉間へ寄せていた力を解いた。
「ときどき子どもたちに話しかけられて、お返事されている声も聞こえていました。受け答えにも問題なし。少なくとも今のところは、良好……ですね!」
「あはは。そうだね」
「『そうだね』だけじゃなくて、ご本人としてはどうですか? 苦しくなったり、胸が痛んだり、身体が急に重くなったりは?」
「ないよ。力を使っている感じも、ほとんどしないくらいだ」
「本当に?」
「本当に」
あまりに即答したせいか、ヒアンシーは少しだけ目を細めた。信用していないというより、念を押しているのだろう。ファイノンはもう一度、自分の身体へ意識を向けてみた。
胸の奥に妙な圧迫感はない。息を吸えば、空気は途中でつかえることなく肺へ入る。腕にも震えはなく、幹へ触れている指先へ力を集めようと思えばいつでもできる。立ち続けていることによる軽い疲れはあるものの、少なくとも今すぐ座らなければならないようなものではなかった。――事実として、問題は見当たらない。
「うん。平気だよ」
ヒアンシーはすぐには返事をしなかった。ファイノンの声が途切れたあとも、彼の顔色と呼吸の間隔を確かめるように視線を留め、幹へ触れている指先へ一度だけ目を落とす。
木漏れ日が彼女の瞳の中で揺れ、周囲のざわめきが枝葉に遮られて、そこだけわずかに遠のいたようだった。やがて、張りつめていた肩がゆっくり下がり、ヒアンシーはようやく納得したらしく、小さく息を吐いた。
「でしたら、ひとまず安心です。でも、途中で少しでも変だと思ったら、ちゃんと教えてくださいね。『これくらいなら大丈夫』は、ファイノンさまの場合あまり信用できませんから」
「そこまで?」
「そこまでです!」
即答だった。
ファイノンが苦笑すると、ヒアンシーも一瞬だけ頬を膨らませたものの、すぐに表情を緩めた。
「木の方はどうですか?」
「ずいぶん安定したよ。さっき少し手を離してみたけど、問題なかった」
「えっ、いつの間に?」
「子どもを抱えてあげた時にね」
「……ファイノンさま」
「大丈夫だったよ?」
「そういう問題ではなくてですね……」
ヒアンシーは何か言いかけたものの、ファイノンの背後で揺れる短冊へ視線を移した。先ほど彼が抱き上げた子どものものらしく、少し不格好に結ばれた紐は、それでも枝をしっかり捉えている。隣の短冊と触れ合うたび、紙の擦れる小さな音が風に混じった。
「……あの子のですか?」
「そう。自分で結びたかったみたいだったから」
「ファイノンさまが抱っこしたんです?」
「うん」
「木を支えながら?」
「片手でね」
ヒアンシーは数秒、叱るべきか、子どもが自分で願いを結べたことを喜ぶべきか決めかねるような、何とも言えない表情を浮かべた。けれど結局、彼女は短冊を見上げると、張りつめていた頬をふっと緩めて笑った。
「……でも、ちゃんと結べたんですね」
「上手だったよ」
「それなら、良かったです」
その声は柔らかかった。ヒアンシーはもう一度ファイノンの顔を見上げ、目元や唇の色を確かめるように眺めた後、小さく頷いた。
「顔色も変わっていませんし、呼吸も問題なさそうです。今日のところは、このまま無理をしない範囲でお願いしますね」
「了解」
「本当にですよ?」
「分かってるって」
軽く右手を上げかけたものの、そちらが幹に触れていることを思い出し、ファイノンは代わりに空いている方の手を上げた。その様子に、ヒアンシーが苦笑する。
「ヒアンシーさーん! こっちの紙、もうなくなりそうです!」
「あっ、はーい! いま行きます!」
受付から声が飛んできた。ヒアンシーは反射的に振り返ったものの、すぐにファイノンへ向き直る。
「では、またあとで確認に来ますからね!」
「僕のことは気にしなくていいよ。忙しいんだろう?」
「気にします。お医者さんなので!」
言い切ると、彼女は外套を翻して受付へ戻っていく。その途中で別の市民から何か尋ねられ、歩きながら答える。さらにイカルンが飛んできて肩口へ並ぶと、そのまま二人で短冊の残数を確認し始めた。
ヒアンシーはすぐに人の輪へ戻っていった。患者を診て催しを取り仕切り、天外の医者たちと知識を交わす彼女の仕事は、これからも増えていくのだろう。
(……もう、)
何が、と具体的に区切る必要はないように思えた。木は立ち、人々は願いを結び、誰かが差し出した手を別の誰かが受け取っている。
ヒアンシーも笑って自分の仕事へ戻っていったし、自分もまた、いま必要とされている程度の役目なら問題なく果たせている。ならば、それでいいのだろう。そう考えた時、ふと、これまでの時間がひどく遠く感じられた。
晴れた空。紙の擦れる音。誰かが笑う声。それらと、かつて自分が立っていた場所とが、あまりにも違いすぎる。繰り返していた頃には、その言葉を一度ごとに意識することさえなかった。
同じ終末を繰り返しながら、異なる結末へ至るための変数を待ち続けた。誰がどこで死ぬのか、どの都市がいつまで残るのか、何を変えれば何日延びるのかを覚え、試し、失敗するたびにまた最初へ戻った。それは、やらなければならないことだった。ほかには何もなかった。
その最重要事項はもう終わっている。待ち続けた
もう戻る必要も、誰かを救えなかった記憶を抱えたまま、次の回帰で同じ場所へ先回りする必要もない。間に合わなかった道を覚え、その失敗だけを携えて最初から走り直すことも、もう求められてはいない。次はない。この一回が、そのまま先へ続いていくのだ。そこまで考えた瞬間、ファイノンは奇妙な感覚に襲われた。
肩から下ろしたはずの荷物があまりにも重かったせいで、何も載っていない状態の方が現実味を失っているような感覚だった。
机の上に置かれた空の器を眺めている時に似ている。そこへ何かを注がなければならないと思っているのに、もう注ぐ必要はない。ただ空のまま置いておけばいいのだと頭では分かっていても、長く続いた動作だけが身体のどこかに残っている。
かつては、絶滅大君へ至る道すらなかった。だからファイノンは、空のグラスへメーレを注ぎ足すように、自らを足場へ変え、燃え滓となった身体さえ道の一部として、途切れた先を何度も継ぎ足してきた。けれど、その果てなき旅路はもう過去のものだった。
いまは身体へ力を通しても、あの頃のように次の一歩のため自分を削って継ぎ足す必要はない。幹へ触れているだけでいい。風が吹けば枝が揺れ、それでも折れずに戻ってくる。その当たり前が、どこか夢の中の出来事のようだった。
バルネアで微睡んでいた時も、こんなふうだっただろうか。目を閉じれば現実と夢の境目が曖昧になり、机の上へ空想を組み立てているだけのように感じる。泡の膜を通して時間を眺めているような、触れれば消えてしまいそうな静けさ。
けれど、枝に触れる人々の手は本物だった。短冊を結ぶ指も。子どもの声も。ヒアンシーがこちらを診に来て、忙しそうに戻っていったことも。
全部、やり直しの途中ではない。いま起きていることが、そのまま歴史になる。それだけでも、十分すぎるほどだった。
ふいに、近くを通った男から声を掛けられた。
顔を向けると、モーディスの友人であるプトレマイオスだった。復興作業の折に何度か顔を合わせているし、モーディスから話を聞いていたこともあって、ファイノンにも認識がある。
「ファイノン、その短冊はもう書いたのか?」
短冊の束を抱えたプトレマイオスが、枝先へ視線を向けたまま尋ねた。彼の指先には、まだ結ばれていない白い紙が一枚だけ残っている。
「僕の?」
「ああ。皆、書いてるだろう。ほら、あそこにも、あそこにも。願いを書いて、結んで、これから先へ持っていくんだ。お前だけ何も持っていないように見えたから、少し気になってな」
「まだだよ」
ファイノンは枝葉の隙間へ目を向けた。色も形も違う短冊が風に揺れ、互いに触れ合いながら小さな音を立てている。
「英雄様にも願いくらいあるんじゃないか? 大きな願いでなくてもいい。明日食べたいものでも、行ってみたい場所でも、誰かとまた会いたいでもな。こういうものは、立派な言葉を書く必要はないんだろう?」
「そういうものなのかい?」
「そういうものだろう。願いは、叶えられるかどうかを先に考えるものじゃない。書いておけば、あとで思い出せる。自分が何を望んでいたのか、誰と同じ未来を見ようとしていたのかをな」
プトレマイオスはそう言って、手元の短冊を軽く振った。紙の端が風を受け、まだ何も書かれていない白さが陽射しを返す。
「俺も、さっきまで何を書くか決められなかったんだ。けれど、皆が書いているのを見ていたら、何か一つくらい残しておきたくなってな。お前も、せっかくここにいるんだ。誰かの願いを支えるだけじゃなく、自分の分も一本くらい結んでみたらどうだ?」
ファイノンは返事をせず、彼の差し出した短冊を見た。
白い紙は軽く、指先でつまめば簡単に折れてしまいそうだった。それでも、そこへ言葉を書けば、枝に結ばれた他の願いと同じように風を受けるのだろう。
「……考えておくよ」
「それなら十分だ。考えた末に何も浮かばなかったとしても、書かない理由にはなる。だが、最初から自分にはないと決めつけるのは、少し早いんじゃないか?」
男は冗談めかして笑い、短冊を束へ戻すと、連れに呼ばれて振り返った。片手を上げて人の輪へ戻っていく背中を見送りながら、ファイノンは、返事を急かされたわけでも、何かを書けと言われたわけでもなく、ただ願いの有無を尋ねられただけなのだと受け止めた。
最近、似たようなことを何度か尋ねられるようになった。肩を並べて戦った者から。かつて正面から刃を向け合った者から。あるいは、こちらが奇襲を仕掛けたことすらある相手から。
世界のため。オンパロスのため。そう言えば終わる話だと思っていたのに、皆、なぜかその先を聞こうとする。では、お前自身は何を望むのか、と。それがファイノンには、いまだに少し不思議だった。
世界のためにしたことだとしても、フレイムスティーラーとして奪った命や、仲間たちの悲願を幾度も妨げ、刃を向けた事実まで消えるわけではない。どれほど事情があろうと、処刑されてもおかしくはなかった――少なくとも、ファイノン自身はそう考えている。
もし立場が逆だったなら。自分の大切な人を目の前で傷つけた相手がいて、その者が「事情があった」と告げてきたとして、すべてを聞いたからと剣を収められただろうか。
(たぶん、難しいだろうな……)
守ると誓ったのに守れなかった自分自身へさえ、簡単には折り合いをつけられない。それなのに、大切なものを斬った相手まで許せるとは思えなかった。
事情を知っても。使命を果たした後でも。理屈では理解できても、感情まで従うとは限らない。だから、怨まれるのなら受け取るつもりだった。
フレイムスティーラーへ言いたいことがある者とは、可能な限り会った。怒鳴られることも、黙ったまま睨まれることもあったし、何を言えばいいのか分からないまま、長い時間を同じ机越しに過ごした相手もいる。それで許されたとは思わないし、許してほしいと頼むのも違う気がした。
ただ、相手が言葉にできるのなら、そのすべてを受け取るべきだと思った。それも、やれる範囲ではやったはずだ。少なくとも、逃げたつもりはない。器として壊滅を抱え込み、世界を次へ渡すための役目も、無名の英雄として果たすべき使命も終えた。預けられた言葉も、かつて受け取った遺言も、届けられる相手には届けた。
ひとつずつ思い返しても、まだ途中のまま放り出しているものは、すぐには見つからなかった。だからこそ、黄金裔たちが「お前の願いは」と尋ねるたび、答えに困るのだろう。
願いと言えるほど強く浮かぶものはなかった。
世界が救われ、皆が笑っていられればいい――そう願ってきたはずのことは、すでに目の前で形になり始めている。それなら他に何か、と探してみても、最初に浮かぶのは相変わらず自分自身の望みではなく、誰かの未来に役立つための方法ばかりだった。
壊滅。ナヌーク。相棒たちから聞いた、天外でそう呼ばれている災厄の主。もし願いとして認めてもらえるなら、真っ先に浮かぶのは、そこへ出向く許可だった。
出陣の許可状――以前にも却下されたそれが、他に何を望むのかと問われるたび、どうしても最初に浮かんでしまう。世界へ壊滅を振り撒く存在がいる。自分には、まだそれと戦える力が残っている。ならば使えばいい。ファイノンにとっては、ひどく単純な話だった。
もちろん、相手は星神と呼ばれるほどの存在であり、勝てると自分を過大評価しているわけではない。それでも、少しでも相棒たちの未来にある危険を削れるのなら――浮かぶ願いは、その程度のものだった。
烏滸がましいとは思うし、却下された理由も分からなくはない。それでも自分が欲しいものを探してみれば、「何を得たいか」より「何に使えるか」ばかりが浮かんだ。けれど、それを変だとは思わなかった。長くそうしてきたのだから、そんなものなのだろう。
以前、オンパロスの心であり、ミュリオンでもある彼女が作ってくれた短い時間の中で、相棒へ話したことがあった。
もしかしたら、自分は冒険というものへ興味があるのかもしれない、と。あの時に語ったことが、個人として口にできるもののほとんどすべてだったようにも思える。
(それ以外に、何があるのだろう……)
食べたいものも、欲しいものも、行きたい場所も、なりたいものも、短冊へ書けそうな言葉を人々の会話から借りるように、ひとつずつ頭の中へ並べてみる。
どれも形を結ぶ前に薄れていった。嫌いだからではない。興味がまったくないわけでもない。食べれば美味しいと思うだろうし、知らない場所へ行けば、それなりに面白いものも見つかるはずだ。
それでも、食べれば美味しいと思うだろうし、知らない場所へ行けば、それなりに面白いものも見つかるはずなのに、「だから食べたい」「だから欲しい」「だから行きたい」と、自分から手を伸ばすほどの熱にはならなかった。
必要ならやる。誰かが誘えば付き合う。頼まれれば手伝う。けれど、その先に自分から何を選ぶのかと問われた途端、思い描いていたはずの像は、薄い霧の向こうへ退いてしまう。
何もしなくていい一日を、今度はもう少し具体的に思い描いてみる。朝起きて、身支度を整えて、それから――そこで思考が止まった。
本を読むのか、散歩へ出るのか、誰かのところへ遊びに行くのか。どれもあり得るはずなのに、そのどれをしている自分も妙に遠く、まるで自分ではない誰かの予定を考えているようだった。
(モーディスに聞かれてからも、少し考えたことはあったのに――……彼に、自慢のハニーケーキを焼いてもらうとか)
まるで、自分ではない誰かの予定を考えているようだった。ファイノンはそれを深刻なものとして受け取らず、ただ少し首を傾げた。
永劫と呼べるほどの時間、やるべきことを先に置いてきたのだから、急に自由と言われても使い方が分からないだけなのかもしれない。なら、急いで答えを出さなくてもいいだろう。
器としての役目も、無名の英雄としての使命も終わり、預かった言葉や遺言も届けるべき相手へ届けた。怨みを抱く者から逃げるつもりはなく、望まれる限りこれからもその声を受け止めればいい。けれど今この瞬間、どうしても果たさなければならないことは、もう思い当たらなかった。
やるべきことも、やらなければならないことも、いまは残っていないらしい。その事実を認めても、胸に穴が開くような感覚はなく、ただ長い一日の終わりに道具を片づけた後のような静けさだけが残った。
ファイノンは枝葉を見上げた。人々が結んだ短冊は風の中で揺れ、それぞれの次――食べたいもの、行きたい場所、会いたい人、これから叶えたいこと――を抱えているのだろう。そこへ今の彼が口を挟む必要はない。彼ら自身が願いを選び、枝へ結び、その先へ進んでいく。
ならば自分も、何も急いで決めなくていいのかもしれない。そう考え、ファイノンは幹へ添えた手の力をまた少し抜いた。木は何も言わず、ただ風に揺れていた。