人々が自ら願いを結ぶ傍ら、ヒアンシーは若木を支えるファイノンの体調を確かめる。身体も木も安定している――その事実を受け取った彼は、ようやく永劫回帰の果てを振り返った。
待ち続けた変数は訪れ、器としての役目も、託された遺言も、向き合うべき怨嗟も果たしてきた。けれど「自分は何を望むのか」と問えば、浮かぶのはなお役立つ方法ばかり。
やるべきことの消えた時間を思い描こうとして、彼は初めて、自分の予定だけが何も見えないことに気づく。
冒険、か。
やりたいことを聞かれて相棒やミュリオンへ語った時には、自分でも少し意外に感じた言葉だった。英雄のような人と一緒に旅をしてみたい――ずっと昔、まだ世界の終わりも、火種も、永劫回帰も知らなかった頃の自分が、確かにそんなものへ憧れていたらしい。
ならば、それはまだ願いとして残っているのだろうか。枝から落ちる木漏れ日を眺め、ほんの少し首を傾げた。
そういえば、つい最近、冒険らしいことを試してみたのだった。思い出した瞬間、現在の大講義場を満たしていた紙の音と笑い声が遠のき、樹庭を渡る冷たい風の感触が記憶の底から蘇った。
きっかけは、ファイノンにとってひどく分かりにくいものだった。
『確かにワタシは金のマスのもとで働いているが、カイザー随一の騎士でもあるのだ。どうか遠慮せず命じてくれないか。』
セイレンスさんがそう告げた時、僕は自分へ向けられた話ではないと思っていた。実際、彼女の視線はケリュドラへ向いていたし、声にも普段の柔らかな潮の気配とは違う、臣下としての張りがあった。
アグライアの工房へ身を置くようになったからといって、剣旗卿としての立場まで失ったわけではない。そういう話なのだろうと、少し離れた場所で聞いていた。……ところがケリュドラは、王冠の下からセイレンスさんを見上げると、小さな顎を僅かに持ち上げた。
『僕の騎士を名乗るのであれば、相応の品格を保て。ということだ。烈日卿。僕の伴として、巨木を登る許しを与えよう。』
『……僕?』
許しを与えよう、と言われても、ファイノンにはその言葉がどこへ向けられたものなのか、すぐには掴めなかった。
ケリュドラが王として誰かに同行を命じる時、そこに許可という形式が必要なのは分かる。けれど、いま話題になっているのはセイレンスさんの立場であって、自分が何かを願い出たわけではない。まして、樹庭へ登る予定など、少なくとも自分の記憶にはなかった。
何の許しだったのだろう。僕がここにいてもいいということだろうか。それとも、彼女の冒険へ付き合ってもいいという意味なのだろうか。
考えているうちに、ケリュドラはすでに王笏の先を樹庭の上方へ向けていた。問い返すなら今しかないと思ったが、ファイノンが口を開くより先に、セイレンスさんが口元へ笑みを浮かべた。瞳の奥には、ようやく話が繋がったことを面白がるような光が宿っていた。
『ワタシより先にカイザーの同伴者に選ばれるとは、少し妬けてしまうな。』
『えっ、僕? 何?』
そこまで聞いても、まだ話の繋がりが見えなかった。たぶん、あの時の自分は本当に分かっていない顔をしていたのだろう。セイレンスさんは面白がるように目を細め、対するケリュドラは、ほんの僅かに眉間へ皺を寄せた。
『ふむ。意図が伝わっていないようだから、ここはカイザーの家臣として先輩であるワタシが解説してやろう。カイザーが、青と金色のサンフィッシュと
『ど、どうだ……って、そうなの?』
僕はケリュドラを見た。彼女は一瞬、セイレンスさんへ向けていた視線を鋭くした。青緑の瞳の奥から、先ほどまで漂っていた王としての余裕がすっと引き、細い刃のような光が覗く。けれど、それは怒りというより、誰かに先回りして言葉を拾われたことへの不満に近いのだろう。王笏を握る指先がわずかに強まり、白い手袋の布地が軋んだように見えた。
セイレンスさんはそんな反応を予想していたのか、口元の笑みを崩さなかった。むしろ、ケリュドラが否定しきれないところまで話を運べたことを楽しんでいるようだった。
二人の間で自分の知らないやり取りが何度も交わされてきたように感じられた。ケリュドラは自分から誘うつもりだったのかもしれない。けれど、王として命じるには少しばかり個人的すぎる願いだったから、セイレンスさんの言葉を借りるしかなかったのだろうか。
そう考えている間にも、ケリュドラの視線はファイノンへ戻っていた。鋭さはまだ消えていない。けれど、今度は逃げ道を塞ぐようなものではなく、返事を待つ者の目に見えた。
彼女が何かを言う前に、ファイノンはその沈黙の意味を考えようとしたが、結局うまく掴めなかった。誘われているのなら、断る理由はない。少なくとも、彼女がここまで言いにくそうにしているものを、わざわざ問い詰める必要もないだろう。
ケリュドラは視線を逸らさなかった。王としてなら、相手の返答を待つことさえ命令の一部にできるはずなのに、今の彼女はそうしなかった。王笏の先がわずかに揺れ、風もないのに裾の端が小さく震えている。ファイノンには、それが返事を急かす仕草には見えなかった。むしろ、自分から差し出したものを、受け取るかどうか見届けようとしているようだった。
そのことに気づくと、ファイノンは少しだけ困った。ケリュドラが何を考えているのか、やはり正確には分からない。けれど、分からないままでも、彼女が自分を同行者として選んだことだけは伝わってくる。セイレンスさんに説明されなければ気づけなかったほど遠回しな誘いだったが、だからといって断る理由にはならなかった。
ファイノンが答えを探している間に、ケリュドラはわずかに顎を引いた。先ほどの鋭さを隠すように、王としての表情を取り戻そうとしているらしい。けれど、声を発する直前、呼吸が一度だけ浅くなったのを、見逃さなかった。
『
最後の二文字だけ、少し間があった。
王が命じる時の声ではなく、普段ならもっと淀みなく相手の進路まで決めるように言葉を置くはずなのに、その時だけは、ほんの少しだけ言いにくそうだった。
ファイノンには、その沈黙が拒絶された時の備えにも、肯定を認めるための覚悟にも見えたが、どちらなのかまでは判断できなかった。もっとも、僕がそれを深く考えるより早く、ケリュドラは王笏の先を樹庭へ向け直していた。
『僕が先導する。烈日卿、遅れるなよ。』
『え、今から?』
『冒険とは、全ての条件が整うまで会議室で待つことを言うのか?』
『いや、たぶん違うけど……』
『ならば決まりだ。』
決まったらしい。反論するほど嫌でもなかったし、むしろ「冒険」という言葉を聞いた時、胸のどこかが僅かに引かれた気がした。
自分が以前、相棒へ口にした願いをケリュドラがどこで知ったのかは分からない。たぶん誰かから聞いたのだろうし、あるいは彼女自身も、ただ登ってみたかっただけなのかもしれない。どちらでもよかった。
そうしてファイノンは、小さなカイザーの後ろを追うことになった。
先頭を歩むケリュドラは振り返らなかった。けれど、ファイノンの足音が一定の距離を保って続いていることを確かめるように、時折、王笏の先を止めた。先へ進めと急かすでもなく、遅れたことを咎めるでもない。ただ、同行者がそこにいることを前提にした歩みだった。
巨木を登る、と言っても、最初から垂直の幹へしがみつくようなものではなかった。太い根が地面を割るように伸び、その先から幾重にも枝が広がっている。人が通れるほど太い部分もあれば、足場を選ばなければ先へ進めない場所もあった。樹皮の裂け目には淡い光が溜まり、踏みしめるたび、乾いた木の匂いと青葉の湿り気が靴底から伝わってくる。
下から見上げた時には、ただ高いと思っただけだった。実際に登り始めると、巨木は一本の道ではなく、いくつもの選択肢を抱えた地形だった。
枝は途中で分かれ、根は別の根へ重なり、どこかへ通じているように見えながら、先端で行き止まりになることもある。ファイノンは自然と周囲を見渡し、足場の強度や風の通り道を確かめていた。
ケリュドラは身体こそ小さいが、歩みは迷わなかった。先へ出した王笏で足場を確かめ、裾を枝へ引っかけないよう片手で軽く持ち上げながら進んでいく。
王笏の先が樹皮を叩くたび、こつ、こつ、と乾いた音が響いた。その音は、彼女が進む場所を決めるための合図のようでもあり、ファイノンへ道を示すための目印のようでもあった。
高い段差へ差しかかった時には、ファイノンが手を出そうとした。ケリュドラの足元にある枝は、彼女の身長からすれば胸の高さほどまでせり上がっていて。王笏を横へ渡して身体を持ち上げることもできるだろうが、裾が枝の突起へ引っかかれば、体勢を崩す可能性がある。ファイノンは一歩近づき、空いた手を差し出した。彼女が掴みやすいよう、指を軽く曲げる。
『掴まる?』
『不要だ。』
即答された。
『でも、そこ結構高いよ』
『見れば分かる。』
『じゃあ――』
『烈日卿。』
低く呼ばれ、ファイノンは差し出しかけた手を引いた。ケリュドラは王笏を上の枝へ掛け、細い靴底で樹皮を確かめながら、自らの身体をひょいと持ち上げて段差を越えた。
『僕を幼子のように扱うな。』
『ごめん。でも、危なそうだったから』
『危険と不可能を混同するな。危険ならば対処すればよい。』
『それはそうだけど』
『もっとも――僕が落ちた場合は拾え。許可する。』
『あはは。分かったよ』
それなら最初から手を取ってもいいのではないかと思ったが、口には出さなかった。ケリュドラは、自分で登れるところまでは自分で登り、それでも落ちれば助けさせるつもりなのだろう。そういうところが、ひどく彼女らしかった。
高くなるほど、下から吹き上げる風が強くなった。葉の間を抜けた風がケリュドラの氷青の髪と黒い蝶結びの下の毛束を揺らし、ファイノンの外套も枝へ煽られた。
『烈日卿、右だ。』
『こっち?』
『そちらは枝が細い。貴様の体格では折れる可能性がある。』
『僕、そんなに重いかな』
『僕と比べればな。』
『それはほとんどの人がそうじゃない?』
『比較対象として僕がいるのだから、何も間違っていない。』
『うーん……』
言い返せなかった。ケリュドラは自分の言葉が正しいと疑っていない顔をしており、そこへ反論を重ねるのも野暮に思えたからだ。やがて別の場所へ差しかかると、今度はファイノンが先に登り、上から安全な道を確かめることになった。
『ここなら足を置けそうだよ。』
『当然だ。僕もそこを選ぶつもりだった。』
『じゃあ先に行けばよかったのに』
『臣下へ偵察の機会を与えたのだ。』
『僕、臣下だったっけ?』
『いま僕の征途へ同行している以上、暫定的にそう扱う。』
『勝手じゃないか……?』
『王とはそういうものだ。』
言葉だけを聞けば、いつものカイザーだった。けれど戦場でも軍議でもない場所では、その尊大な物言いが妙に可笑しく響く。敵の配置も兵站の計算もなく、失敗しても世界の命運が傾くわけではない。ここにあるのは、どの枝を通れば登りやすいかという、ささやかな判断だけだった。
それでもケリュドラは先導役を律儀に務め、ファイノンが別の道を示せば足を止め、そちらの方が安全か、終点まで共に辿り着けるかを確かめた。提案が採用されることもあれば、足場の悪さを理由に退けられることもあった。
『こっちの方が近いよ』
『足場が悪い。却下だ。』
『でも僕なら行ける』
『貴様だけが到達して何になる。同行とは、双方が同じ終点へ辿り着くことだ。』
『……なるほど(そういえば、そうだったかもしれない)』
『分かったなら戻れ。』
『はいはい、カイザー』
『返事は一度でよい。』
そんなやり取りを、ずいぶん重ねた気がする。右か左か、この枝を渡るか一本下へ回るか、休憩を挟むか、まだ進めるか――話題の大半は、いま思えば取るに足らないものだった。
それでも、ケリュドラが「競争ではない」と言った数分後、自分より先へ行かれると目に見えて歩調を速めていたことまで思い出せば、あの道中が決して退屈ではなかったことだけは確かだった。
『カイザー、急いでない?』
『気のせいだ。』
『でもさっきより速いよ』
『風向きが変わっただけだ。』
『歩く速さと風向きって関係ある?』
『あると僕が定めた。』
無理がある。
そう思ったら、ファイノンは思わず笑ってしまった。ケリュドラは振り返り、少しだけ不服そうに眉を寄せたものの、怒ることはなく、むしろその後はファイノンが追いつくまで枝の分かれ目で足を止めていた。
登っている間は、意外なほど時間が早く過ぎた。足場を探すことへ集中していたからかもしれないし、ケリュドラとの応酬が途切れなかったからかもしれない。
何度か風の強い場所へ出るたび、枝の隙間から遠くの景色が覗いたが、そのたびにケリュドラは「まだ見るな。頂まで取っておけ」と妙な命令を下した。
『景色を見るのにも命令があるの?』
『途中で満足されては困る。』
『困るんだ』
『当然だ。僕が用意した征途なのだから、終点までは進め。』
そこまで言われれば、行くしかない。
ファイノンもそれ以上は景色へ目を向けず、彼女の小さな背を追った。やがて最後の枝を越えると、樹庭の高みで視界が一気に開け、葉の密度が薄れた先に、空の青が大きく広がった。
樹庭の高みで視界が一気に開け、葉の密度が薄れた先に空の青が大きく広がった。下には街並みが小さく見え、その向こうまで土地が続いている。遮るものを失った風が強く吹き抜け、汗ばんだ額と首筋をさらっていく。ケリュドラは数歩前へ出ると王笏を足元へ立て、長い裾と氷青の髪を陽光の中で風に揺らした。
ケリュドラはしばらく何も言わず、ただ遠くへ視線を向けていた。青緑の瞳はいつものように何かを計るようには動かず、口元にはほんの少し満足げな笑みが浮かんでいる。その横顔を見たファイノンには、登り切ったことを嬉しく思っているように感じられた。
ファイノンも隣で景色へ目を向けた。だけど、最初に浮かんだのは、感嘆ではなく既視感だった。この高さから見下ろす街の建物の並びや遠くの地形には、どこか覚えがある。すべてが同じわけではない。それでも、似た景色なら何度も見てきた。
フレイムスティーラーとして人々の営みを見守っていた頃、高所は観光のためではなく、暗黒の潮が届く前に魂を回収するための観測地点だった。人の流れや逃げ道、崩れた区画、潮の迫る方向を見渡せる場所を選び続けたからこそ、樹庭の頂きから広がる景色にも覚えがあった。
もちろん、今は違う。暗黒の潮に追われる人々も、回収すべき魂も、煙に沈む街もない。逃げ道や潮の進路を数える必要さえなく、ただ穏やかな風景だけが、かつて見慣れた景色に似ていた。
それでも、胸の内側から大きな感情が湧き上がることはなかった。頂上へ辿り着いた達成感も、未知の景色を見つけた驚きも、憧れていた冒険を果たした昂揚も、期待したほどには訪れない。ファイノンはそれらが遅れて現れる可能性をわずかに待ったが、風に煽られた銀白の髪を指で払い、もう一度眼下を見渡しても、胸の内側には静けさだけが残っていた。
(……あれ?)
少しだけ首を傾げた。楽しくなかったわけではない。ここまで登ってくる間は確かに楽しく、ケリュドラとの会話も思いのほか弾んだ。
右だ左だと言い合い、手を貸そうとして断られ、競争ではないと言い張る彼女が追いつかれそうになるたび歩調を速めるのを見て、たぶん何度も笑ったのだろう。いま思い返しても、彼女の表情や眉を寄せた言葉、振り返った場所まで妙に鮮明に浮かぶ。
けれど、頂上へ辿り着いた達成感や、幼い頃から憧れていた冒険をついに叶えたという昂揚が、胸の内側から湧き上がることはなかった。もう一度この景色を見たいとも、次は別の山や巨木へ登ってみたいとも思わない。そんな自分に気づき、ファイノンは少しだけ可笑しくなった。
(僕って、案外淡白だったのかな。)
そういうことなのだろうか。ずっと昔の自分が冒険へ憧れていたから、もっと特別なものだと思っていただけなのかもしれない。
実際に登ってみれば、その行為自体は面白かったし、一緒にいる相手との会話も楽しかった。それでも、何かを達成したからといって人生が変わるほどのものではなかった。そう理解すれば、胸に大きな感動が湧かなかったことも、特に不思議ではないのだろう。
『烈日卿。』
呼ばれて顔を上げると、ケリュドラがこちらを見ていた。先ほどまで遠くの街並みへ向けられていた青緑の瞳が、いつの間にかファイノンの方へ戻っている。
風に揺れる髪の隙間から覗く視線は、王として返答を命じる時の鋭さとは少し違っていた。問いを投げたまま答えを急かすのではなく、ファイノンが何を感じたのかを確かめようとしているように見える。
王笏を握る手はいつも通り落ち着いていたが、指先だけが柄の表面を一度なぞった。ケリュドラ自身も、いま尋ねようとしていることをどう扱えばいいのか、決めかねているのかもしれない。誘った相手が頂上でどんな顔をするのか、登り切ったことを喜んでいるのか、それとも期待外れだと思っているのか。彼女はそれを、命令や評価の形へ置き換えずに知ろうとしているようだった。
ファイノンはその視線を受け止めた。ケリュドラが自分の返事を待っていることだけは分かったが、何を答えれば彼女の望むものになるのかまでは分からない。
景色の感想を聞きたいのか、冒険そのものへの感想を聞きたいのか、それとも、彼女と一緒にここまで来たことについて尋ねているのか。どれもありそうで、どれも少し違うように思えた。
『どうだ?』
『何が?』
『……景色だ。』
『ああ』
ファイノンはもう一度、街を見下ろした。
風が通る。今度は遠くの光が屋根へ反射し、ちらりと目へ入った。陽の角度が変わったのか、先ほどよりも街の輪郭が柔らかく見える。屋根の上を走る光は、遠くから見れば細い川のようで、建物の隙間には人の営みが小さな気配として沈んでいた。
『綺麗だね』
嘘ではない。以前と同じ高さから見ても、今の景色はずっと穏やかだった。かつてなら、どこに危険が潜んでいるか、どの道が塞がれているかを探していたはずの視線が、今はただ、光の移ろいを追っている。街は守るべき配置ではなく、そこに暮らす人々の場所として眼下に広がっていた。
『そうだろう。』
ケリュドラはその返事に小さく頷いた。声には、まるで自分がこの景色を作ったかのような満足が滲んでいたが、あながち間違いでもないのだろう。彼女もまた、この世界をここまで繋いできた一人なのだから。
ファイノンはケリュドラの横顔を見た。王冠の影が額へ落ち、風に揺れた髪が頬をかすめている。彼女は景色を見ているようで、その実、街のどこかに自分の選択の痕跡を探しているのかもしれない。戦いの跡が消えた場所、誰かが再び暮らし始めた場所、かつて失われかけたものが今も残っている場所。ファイノンにはそこまで確かめることはできなかったが、彼女がこの眺めを自分とは違う仕方で受け取っていることだけは分かった。
ケリュドラの満足は、頂上へ到達したことだけに向けられているわけではないのだろう。ここから見える景色が、彼女の知る過去と比べて穏やかであること。その穏やかさを、誰かと並んで確かめられたこと。そうしたものが、彼女の声へ静かな重みを与えているように思えた。
ファイノンは再び街へ目を戻した。自分にとっては、見覚えのある高さだった。けれど、ケリュドラにとっては、同じ場所から見ても意味が違う。
彼女はこの景色を、失われなかったものとして見ているのかもしれない。ならば、ファイノンが大きな感動を覚えられなくても、ここへ来たことには別の価値があったのだろう。
『カイザーは?』
『僕か?』
『うん。登ってみたかったんだろう?』
ケリュドラは少しだけ王笏へ体重を預け、遠くへ視線を戻した。王笏の先が樹皮へ触れ、かすかな音を立てる。彼女はすぐには答えず、風が髪を払うのを待つように、しばらく黙っていた。
『悪くない。』
いつもの言い方だったけれど、その後しばらく景色から目を離さなかったことを考えれば、たぶん「悪くない」よりもう少し上だったのだろう。
ケリュドラにとって、満足をそのまま口にすることは、王としての威厳を損なうものではないにせよ、誰かへ簡単に預けるものではないらしい。ファイノンはそんな横顔を見て、自然と笑った。
『よかったね』
言葉はそれだけだった。ケリュドラはすぐには返さなかったが、一度こちらへ視線を向け、何か言いたそうに唇を動かしかけた後、結局は小さく鼻を鳴らした。
『貴様は妙なところで素直だな。』
『そう?』
『……まあいい。』
そう言うと、ケリュドラはまた景色へ向き直った。ファイノンも隣で風を受ける。小さな肩と並べば視線の高さには大きな差があったが、彼女が先に進み、ファイノンが後ろから追い、最後には同じ景色を見ているという形は、思っていたより自然だった。
特別な達成感はなかった。それでも、嫌な時間ではない。むしろ、頂上の景色より、そこへ至るまでの会話の方が鮮やかに残っていた。
むしろ、かなり楽しかったような気はする。頂上の景色よりも、そこへ至るまでの会話の方が、記憶の中では鮮やかだった。
ケリュドラが自分の足で登れることを証明しようとしたことも、王としての言葉を崩さないまま、何度もファイノンの歩調を確かめていたことも、風に煽られた髪を気にしながら景色を見ていたことも。
ただ、その楽しさを「もっと冒険したい」という願いへ繋げるほどのものには感じなかった。あの一度で、十分だったのだろう。いや、正確に言えば、もっと前から十分だったのかもしれない。幼い頃の自分が願ったのは、英雄のような人と一緒に旅をすることだった。
それなら、相棒と共に進んだ時間がある。世界の外から来た開拓者と出会い、同じ目的へ向かい、戦い、語り、知らなかったものを教えてもらった。僕にとっては、相棒と共に歩んだ時間こそが、幼い頃に夢見た冒険だったのだろう。英雄のような人と旅をし、世界の外から来た開拓者と同じ目的へ向かい、戦い、語り、終末の先へ道を開いた。
あれを冒険と呼ばないのなら、何をそう呼べばいいのか。少年の想像を遥かに超えて願いは叶っていたのだから、これ以上を望む方が贅沢なのかもしれなかった。
そこまで思い出したところで、樹庭の風景はゆっくりと現在へ薄れていった。目の前には、短冊を抱えた若木が立っている。
大講義場を行き交う人々の声と枝の下の笑い声を聞きながら、ファイノンは幹に触れた自分の手を見た。冒険という言葉を思い浮かべても、胸に「まだ足りない」という感覚はない。相棒と旅をし、ケリュドラとも登った。道中の会話は楽しく、カイザーが満足そうだったことも覚えている。ならば、幼い頃の願いはもう十分に叶っているのだろう。
ファイノンは枝葉を見上げ、風に揺れる短冊を眺めた。自分に残っているかもしれない願いを経験へ照らしてみても、未完のものは見当たらない。
少年の頃に夢見た冒険は、知らぬ間にとうに叶っていたのだろう。そのことを確かめられただけで、今は十分だった。