やるべきことを終えたファイノンは、自分に残るかもしれない唯一の願い――「冒険」を思い返す。
少し前、ケリュドラに誘われて樹庭の頂を目指した時間は、思いのほか賑やかで楽しかった。けれど頂上に立っても、胸を満たす達成感は訪れない。
幼い日に夢見た「英雄との旅」は、すでに開拓者と歩んだ道の中で叶っていたのだろう。そう受け止めた彼に、冒険への未練はもう残っていないように思えた。
少年の頃に夢見た冒険は、知らぬ間にとうに叶っていたのだろう。そのことを確かめられただけで、今は十分だった。
ファイノンは枝葉を見上げたまま、しばらく何も考えなかった。正確には、考えるべきことを探す必要がなくなった、と言う方が近いのかもしれない。
ケリュドラと樹庭へ登った記憶が薄れていった後には、また現在の大講義場が戻っている。葉を抜ける陽射しは暖かく、晴れた空には雲が少ない。短冊の重みを抱えた枝が風に押されるたび、色とりどりの紙が重なって、かさり、さらりと細かな音を立てていた。
受付の方から子どもの笑い声が届く。何かを言い合いながら走りかけたらしく、すぐに大人から「走らないの」と声を掛けられている。
その向こうではイカルンが一枚の短冊をくわえて舞い上がり、誰かが「もう少し右」と手を振っていた。別の枝では、自分で結び終えたらしい青年が紐を一度引いて強度を確かめ、隣にいた友人から「そんなに引いたら枝の方が心配だ」と笑われている。
どこを見ても、誰かの次があった。
今日の祭りが終わった後に食べるもの。次に会う約束。治したい病。覚えたい技術。遠くへ行ってみたいという願い。植えたものが育ってほしいという望み。研究を続けるための宣言まで、同じ枝の中で風を受けている。
どれも、ファイノンが背負わなければ前へ進めない願いには見えなかった。手を貸すことはできるだろう。もし危険があれば守れる範囲で守りたいし、困っている者がいれば、できることをすればいい。
けれど、願った本人の代わりにその先まで歩く必要はない。皆はもう、自分で短冊を結ぶことができる。届かなければ助けを求め、失敗すればやり直し、叶えば次を願う。その営みの中へ、誰か一人がずっと救世主として立ち続ける余地など、本当は必要なかったのかもしれない。
その事実は、少しも寂しくなかった。むしろ、胸の奥へ柔らかな熱が残っている。長く握っていたものをようやく安全な場所へ置き、もう落ちないと確かめられた時のような安心だった。
(――世界は助かった。)
少なくとも、終末を繰り返していた頃に願った意味では、間違いなく助かったのだろう。黄金裔たちはそれぞれの名と役割を取り戻し、自分がいなければ何も決められない者などいない。
ヒアンシーは患者を診ながら祭りの運営までこなし、アナクサゴラスは相変わらず神々の領域へ理性を伸ばし、ケリュドラは自らの征途を選ぶ。人々は未来を祈るだけではなく、自分の手でそこへ近づこうとしている。
自分の役目も果たした。永劫回帰は終わりを告げ、待っていた変数は訪れた。託された言葉も、届けられるものは届けた。フレイムスティーラーとして受けるべき怨嗟から逃げるつもりもなく、器として抱え込んだ壊滅も、少なくとも今すぐ誰かへ押しつけなければならない状態ではない。
それでも残っているものがあるのではないかと思い、最後に冒険まで確かめたけれど、――それも、とうに叶っていた。
ファイノンは銀白の睫毛を僅かに伏せ、幹へ添えていた手へ目を落とした。掌の下にある樹皮は、陽を受けてほんのり温かい。
最初にこの木を支え始めた頃とは、触れた時の感覚からして違っていた。あの頃は細い幹の内側へ力を送り続けなければ、どこか頼りないものを感じていたはずだ。
根が大地へ馴染み切らず、枝葉もまだ自分の重みへ慣れていない。少し強い風が吹けば、こちらまで反射的に力を込めた。でも、今はもう、その必要がない。人が枝へ触れても、短冊が増えても、風が強くなっても、若木は自分で揺れて、自分で戻ってくる。
樹皮の向こうへ意識を伸ばしてみれば、根はしっかりと土を掴み、水も養分も自分で吸い上げていた。ファイノンが流している力は、ごく僅かなものにまで細くなっている。なくても変わらないのではないか――そう思えるほどに。
(だったら、確かめてみればいい。)
ファイノンは一度だけ、幹の内部へ通していた力を静かに収めた。何かを断ち切るような感覚はなく、細い水流の栓を閉じるように、ただ自分から木へ注いでいたものを止めただけだった。指先に残ったのは、樹皮の細かな凹凸と、陽射しに温められた表面の温度である。
枝が風に揺れ、青い短冊が翻って隣の赤い紙へ触れた。幹は僅かにしなり、葉の群れが一斉に音を立てる。……けれど、それだけだった。根元は動かず、枝も折れない。若木はいつも通り、風が過ぎると元の位置へ戻った。
(……うん。)
予想していた通りだった。
ファイノンは樹皮から指を一本ずつ離し、最後に掌を浮かせた。念のため一呼吸ほど様子を見ても、木は揺らぐことなく、風に葉と短冊を鳴らしているだけだった。
新たな短冊が結ばれるたび枝は僅かに沈み、やがて元へ戻る。その光景を見つめるうち、ファイノンの口元には自然な笑みが浮かんだ。
「……よかった」
呟きは祭りの喧騒へ溶けた。木だけではない。人々も、仲間たちも、神々の力へ手を伸ばす者たちも、天外へ歩み始めた世界そのものも、もう誰か一人が支え続けなくても立っていられる。自分が手を離しても倒れない――その事実が分かっただけで、ファイノンには十分だった。
木から半歩だけ離れた。掌へ伝わっていた振動が途絶え、空いた手を外套の脇へ下ろすと、布越しに薄い紙の感触が指先へ触れる。
ポケットに入れたまま忘れていた短冊だった。催しに参加するなら一枚持っていてほしいと渡されたものだが、その後は木を支えたり人々を眺めたりしているうち、ずっとしまわれたままになっていた。何かを書くつもりで持っていたわけではない。ただ、受け取ったから手元にあった。それだけだった。
ファイノンはポケットから、まだ何も書かれていない短冊をゆっくり取り出した。端には僅かな折り目がつき、使われていない紐が風に揺れている。白紙のままのそれをしばらく見つめてから、彼は何となく陽射しへかざした。
紙が光を透かす。真っ白だった表面が薄い金色に染まり、その向こうで葉の影がゆらゆらと揺れる。指の輪郭まで淡く透け、風が吹くたび紙の面が僅かに波打った。
(うーん……)
その白い場所へ言葉が浮かんでくることはなかった。
けれど、だからといって困りもしなかった。先ほどまで、もし何か残っているとすれば何だろうと考えていたが、その答えはもうひと通り確かめたはずだ。世界が救われればいい。皆が未来を願えればいい。幼い頃には、英雄のような人と一緒に旅をしてみたかった――どれも、すでに叶っている。
完全な世界になったわけではなく、これから先も争いは起きるだろうし、外の宇宙には壊滅があり、オンパロスにも解決していない課題は残る。それでも、それは「まだファイノンの願いが叶っていない」という意味ではなかった。
危険があればその時に対処し、助けられることがあれば手を貸せばいい。けれど、それは短冊へ結びつけて未来へ預けなければならない未練とは、少し違う。
ファイノンの中に残っているものは、未練や興味と呼ぶにはあまりにも軽いものだ。明日の食事にこだわりはなく、誰かに誘われれば出掛け、本を勧められれば読んでみる。モーディスが自慢のハニーケーキを焼いてくれるなら、きっと美味しく食べるだろう。
キュレネや黄金裔たちと語らう時間があれば嬉しいし、相棒たちが戻ってくるなら、聞きたい話もいくらでもある。けれど、それらはどれも、叶わなければ終われないほど切実でも、まだ見ぬ景色へ未来ごと縋りつくほど強くも、失うことを恐れて手放せないほど熱いものでもなかった。
あれば嬉しい。なくても、これまで受け取ったものまで消えてしまうわけではない。それなら、その先はもう、余白と呼んでしまってもいいのかもしれなかった。
ファイノンは陽に透かしていた短冊を下ろした。白い紙は元の色へ戻り、そこへ記すべき言葉も浮かばない。人々の短冊がこれから叶えたい願いを未来へ結ぶ一方で、自分の願いはすでに過去から現在へ届いている。無理に同じ形へする必要はないのだろう。
彼は紙を折らず、受け取った時のままポケットへ戻した。紐の先も指先で押し込み、誰かに見せることも、後から何かを書くことも考えなかった。
「ヒアンシーさまー! もう一枚ちょうだい!」
「はいはい~。今度は何を書くんですか?」
「まだひみつ!」
「じゃあ、こっそり書きましょうか!」
声のする方へ顔を向けると、先ほども短冊を書いていた子どもが受付へ戻っているところだった。母親らしい女性が、その背中へ「今度はちゃんと歩いて」と声を掛けている。子どもは大きく頷き、今度こそ両足を急がせないよう、不自然なほどゆっくり歩き始めた。
その様子が可笑しくて、ファイノンは笑った。願いはいくつあってもいい――ヒアンシーがそう言っていたように、ひとつ叶えば、また次を願えばいいのだろう。
人々にとってそれが自然なことなら、皆がそれぞれの次を見つけていけることが何よりだった。自分はもう、十分なものを受け取っている。
幼い頃に欲しかったもの。守りたかった故郷の記憶。共に歩きたかった英雄。最後まで諦めきれなかった世界の明日。
それらすべてが、望んだ通りの形ではなくとも、いま目の前へ繋がっているのだから。何千年という単位すら小さく思えるほど同じ終末を繰り返し、そのたび何かを失い、それでも次へ運び続けたのだから。ようやくここまで来て、まだ足りないと数え始める方が、不思議な気さえした。
その認識には痛みも悲しみもなく、晴れた日の陽射しのような穏やかさだけがあった。もしこの身体にまだ使える時間が残っているなら、その分を何に使うかも、ファイノンには簡単に思い描けた。
(ごめんよ、ヒアンシー、キャストリスさん……あんなに教えてくれたのに、僕は自分のための予定は、相変わらずうまく想像できないみたいだ……)
けれど、誰かが困っている時に手を貸すことならできる。復興に力が必要なら使えばいい。天外から壊滅の脅威が迫るなら、その前へ立てる限り立てばいい。相棒たちの旅路に危険があるなら、減らせるものを少しでも減らせばいい。――そういうことなら、何をすればいいか分かるから。
器として壊滅を抱えたこの身体が、いつまで今の形を保つのかは分からない。何百年も続くとは思っていないし、逆に明日すぐ消えると決まっているわけでもない。
ヒアンシーが診てくれた通り、今日の身体は穏やかで、胸も痛まず、呼吸も乱れていない。ならば、終わりが訪れるまで急ぐ必要はないのだろう。食事を出されたら食べ、誰かに話しかけられたら応じ、頼まれた仕事があれば、できる限り手を貸す。
けれど、壊滅を減らせる機会があるなら、その時は自分を使えばいい。消滅を急ぐ必要はないが、いつか訪れる終わりを恐れて引き留める理由も、今のファイノンには見つからなかった。千年と呼んでも足りない時間を幾度も繰り返し、ようやく望んだ未来へ辿り着いたのだ。ならば、残された時間が尽きるまで、できるだけ誰かの役に立てばいいのだろう。
―― そうしよう。
――
そう考えても、胸に大きな決意が生まれたわけではなかった。長い一日の終わりに、残った時間で身の回りを整えるような、静かで自然な考えだった。
必ず果たすべき使命ではない。それでも、まだ動けるのなら、目についたものを片づけておけば、誰かの負担を少し減らせるだろう。
ファイノンは木から離れたまま、もう一度だけ枝を見上げた。若木は彼の掌を失ってもなお根を土へ張り、数え切れない願いを結んだ枝を風の中で揺らしている。短冊の色が陽射しを弾き、葉擦れの向こうでは誰かが笑い、その声にまた別の笑い声が重なった。
木漏れ日は頬と銀白の髪を淡く照らし、草木と紙、どこかで用意されている食べ物の匂いを含んだ穏やかな風が、痛みのない身体を静かに満たしてゆく。
こんな日が来ればいいと思っていた。その日が本当に来たのなら、もう十分なのだろう。ファイノンはそれ以上の言葉を探さず、人々の願いが揺れる木の下で、心から穏やかに笑った。
壊滅の行人って、
たとえ自分がどうなろうとも、目的のために、誰かのために、的な思考が根元にドスンと刺さってるような気がするんですよね。幼女だから分かりづらいかもしれませんが、フックちゃんもわりとそうかなって思うことがしばしば……。