烈日よ、さざ波を追って   作:夜鷹ケイ

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<前回のあらすじ>
 少年の日の冒険さえ、すでに叶っていた。最後の未練を確かめ終えたファイノンは、長く支えてきた若木からついに手を離す。
 力が途絶えても木は倒れず、人々の願いを抱いたまま自ら立ち続けた。ポケットの白い短冊にも、結ぶべき言葉は浮かばない。世界も仲間も未来へ進める――そう確信した彼に残るのは、静かな余白だけ。
 ならば終わりが訪れるまで、少しでも壊滅を減らし、誰かの役に立てばいい。彼はただ、叶った未来の中で穏やかに笑っていた。


115 違える糸のその先

 さて、ここでひとつ、物語の視点を空へ引き上げよう。

 

 若木の下では、白き烈日が笑っていた。銀白の髪には木漏れ日が降り、風に揺れる短冊の色が、その頬へ淡い影を落としている。

 胸は痛まず、呼吸も乱れず、長く幹へ添えられていた掌はもう何にも触れていない。それでも木は倒れない。根は大地を掴み、葉は陽を受け、人々の願いを枝いっぱいに結んだまま、彼の手を離れてなお穏やかに揺れていた。

 それは、ファイノンが長い長い旅路の果てに待ち望んだ光景だった。

 諦めを幸福に見せかけたものでもなければ、胸の痛みを隠すために口角を上げたものでもない。世界は滅びず、人々は生き、仲間たちはそれぞれの明日を選び始めている。

 幼い日に抱いた夢さえ、思い返せばすでに叶っていた。ならば嬉しいのは当然で、肩から荷を下ろした者が空を仰ぐように、彼は心から安堵していた。

 だからこそ、この物語には少々厄介な行き違いが生まれる。未来を共に生きようと願う者たちと。未来を共に「開拓」出来たと受け取ったファイノンとでは。同じ景色を見ながら、時間の向きだけが、ほんの僅かに違っていたのである。

 

 たとえばヒアンシーが、ファイノンへ「またあとで確認に来ますからね」と告げた時。彼女にとってその言葉は、今日という一本の糸を次の時間へ結ぶ、ごく当たり前の約束だった。

 あとで診る。明日も体調を確かめる。必要なら休ませる。少しずつ出来ることを増やす。そうして今日の次に明日があり、明日の次にもまた別の日があることを疑わず、その連なりの中へファイノンも当然のように含めていたのだろう。

 祭りの運営に奔走しながらも、彼の顔色を見れば足を止め、呼吸を確かめ、声を聞き、また後で来ると告げる。それは医師として患者を診る以上の何かであったとしても、不思議ではない。少なくとも、その「あとで」の中からファイノンだけを取り除く理由など、彼女にはなかった。

 けれど、同じ言葉を聞いた青年は、それを長い道のりではなく、あとで、今日、そして次の一日へと区切られた余白として受け取っていた。

 明日が訪れれば、その日に出来ることを探せばいい。そこに矛盾はない。ただ彼は、自分の未来だけを、皆のように連なった時間として見ていなかった。

 これは、「明日など要らない」と願った者の考えではない。むしろ逆である。

 明日が訪れることを、彼は喜んでいた。誰かの明日が。オンパロスの明日が。ヒアンシーが患者を診る明日も、アナクサゴラスが新しい謎へ頭を悩ませる明日も、ケリュドラがまだ見ぬ征途を選ぶ明日も、キュレネが物語の続きを紡ぐ明日も、開拓者たちが星々の間に次の道を刻む明日も。

 それらすべての明日を、烈日は確かに願っていた。けれど彼が運ぼうとしたのは、いつも誰かの願いであり、誰かの命であり、誰かの記憶だった。

 自分の命を明日へ運ぶことも、自分の願いを次へ託すことも、彼は考えなかった。世界を滅びの向こうへ押し出せたなら、それで役目は果たされる。長く世界を背負った者にとって、未来とは自らが辿り着く場所ではなく、誰かを届けるための場所だった。

 それらすべてを運び終えた時、自分の手の中に何も残っていなければ、それを仕事の完了だと思ってしまうことがある。

 

 ファイノンにとって、未来とは長いあいだ「自分が辿り着く場所」ではなかった。

 未来とは、誰かを、何かを届けるべき場所だった。

 

 エリュシオンの麦畑から始まった少年の時間は、やがて数え切れぬ回帰を抱えた。誰が倒れるのかを覚え、何が滅びるのかを覚え、どの道なら一日長く残せるのかを覚えた。やがて彼自身の身体さえ、一歩先へ進むための足場となった。

 その旅路で彼が覚えたのは、自らを守って先へ進む術ではなかった。己を燃やし、砕き、差し出すことで、誰かの明日を残す術だった。剣が折れて道が拓けるなら、それでいい。盾が砕けて誰かが生きるなら、それでいい。烈日が燃え尽きた後にも麦が揺れるなら、それこそが勝利なのだと、彼は幾度も身をもって知った。

 だからエスカトンを越え、いよいよ本当に明日が残った時、彼は心から喜んだ。明日が残った。人々がそこへ歩ける。ならば成功だ。

 その結論の中へ「自分も歩く」という一文が抜けていても、彼の目には欠落として映らなかった。何しろ、願いは叶っている。誰かが笑えること。皆の願いが叶うこと。大切なものを守れること。

 そして、まだひとりの少年だった頃に抱いた、英雄のような人と共に旅をするという願いさえも――……その少年へ、運命は少々大仰すぎる答えを返した。

 空の向こうから開拓者(英雄)が来た。共に歩み、共に戦い、終末の中へ道を拓いた。世界の外へ続く一頁に自らの名を刻み、幼い少年が草原で夢見た冒険さえ、遥かに超える旅を果たしたのである。

 ならば、もう叶っている。ファイノンはそう受け取った。それは間違いと呼ぶには、あまりに誠実な答えだった。だからこそ、誰もその奥に潜む危うさへ気づけなかった。

 

 もし彼が泣いていれば、誰かが手を取っただろう。

 もし「消えたい」と口にしていれば、ヒアンシーは祭りを放り出してでも彼の前へ立っただろうし、黄金裔たちも黙ってはいなかったはずだ。

 もし苦しそうに胸を押さえ、未来を拒み、世界から背を向けていたなら、その異変は誰の目にも明らかだった。

 

 だが実際の彼は、木漏れ日の下で笑っている。食事を出されれば食べるつもりでいる。誰かに誘われれば出掛けるだろう。

 モーディスがハニーケーキを焼けば、美味しいと言って笑うだろうし、キュレネが本を開けば、その隣で続きを聞くこともあるだろう。相棒が帰ってくれば、旅の話を楽しみに耳を傾けるに違いない。

 明日を拒んでいるわけではない。彼は誰かの明日を心から願い、自分も必要とされればその一日を過ごすつもりでいた。

 ただ、自分から明日へ席を予約してはいなかった。皆が連なる時間の中へ自然に彼を数える一方で、彼だけが自分をその列へ加えていない。その違いは、ごく小さい。小さいからこそ、誰にも見つからなかった。

 

 七夕の若木には、多くの願いが結ばれていた。

 またここへ来たい。遠くへ行きたい。病が良くなってほしい。もっと上手になりたい。誰かと会いたい。まだ知らないものを知りたい。――そうした言葉は、一本一本が未来へ伸びる糸である。

 人は願いを書く時、知らず知らず「その時の自分」を想像する。願いが叶う日を見届ける者として。誰かと笑う者として。まだこの世界のどこかにいる者として。

 ゆえに短冊を枝へ結ぶという行為は、願いだけでなく、願った者自身を未来へ結びつける小さな契約でもあった。

 けれどファイノンの短冊は、白いままポケットへ戻った。願いがなかったからではない。願いは、もう叶っていたからだ。

 彼だけが未来へ糸を伸ばさなかったのではない。すでに糸の先へ辿り着いたと思っていたのである。それは外から眺めれば、あまりに似ていて、そして決定的に違う。若木から手を離したことも同じだった。

 ファイノンにとっては、喜ばしい証明である。木は自ら立った。ならば、もう支えなくてもいい。オンパロスも同じだろう。人々は自ら願い、学び、手を取り合い、世界の外へまで歩き始めた。ならば、自分がいつまでもそこへ力を流し続ける必要はない。

 これは、少なくとも半分までは、疑いようもなく正しい。子が歩けるようになれば、抱き続ける必要はない。苗が根を張れば、いつまでも棒へ括りつけておく必要はない。船が港を出れば、岸から手で押し続けることはできない。世界が自ら進めるのなら、救世主は退いていい。

 ただし――支えなくてよいことと、そこに居なくてよいことは、本来、同じ意味ではない。木を育てた人間が、木陰で昼寝をしてはいけない理由はない。誰かを岸まで送り届けた者が、その船へ客として乗ってはいけない理由もない。

 英雄でなくなった青年が、ただ一人の青年として祭りに残り、明日の食事を楽しみにし、誰かとの約束を増やしていけない理由など、本当はどこにもなかった。

 けれどファイノンは、それを自分へ当てはめる方法を知らなかった。彼にとって「必要なくなった」という言葉は、あまりにも長く「役目を終えた」と同じ意味を持っていた。

 剣は戦いが終われば鞘へ戻り、盾は攻撃が止めば置かれ、兵器は必要とされなくなれば使われない。自分が兵器でなくてもよい未来を心から願いながら、彼はその未来で何者になるのかを問う前に、役目を終えた道具と同じ場所へ、自らを置いてしまった。

 誰も、彼を未来から外そうとしたわけではなかった。むしろヒアンシーは、これからも彼を診るつもりでいたし、仲間たちも当然のように次の食卓へ彼の席を用意していた。誰かが旅立つなら誘い、祭りがあればまた共に楽しみ、体調が戻れば出来ることも増える――皆はそうして、彼を続いてゆく時間の中へ数えていたのである。

 彼らにとって、ファイノンの回復とは、道具が再び使えるようになることではない。一人の人間が、これからの時間を取り戻していくことだった。

 けれど当の本人だけが、そこへ別の名前をつけていた。皆が「これから」と呼ぶ時間を、彼は「役に立てる間」として受け取り、その先に続く日々を「残された余白」と数えていたのである。

 そして、この認識差は、誰かの悪意から生まれたものではなかった。誤解を企てた者も、彼を追いやった者もいない。ただ、あまりにも長い物語が、一人の青年へ染み込ませた癖にすぎない。

 何千、何万と終末を繰り返す中で、彼は明日を勝ち取る術を覚えた。けれど、勝ち取った明日に自分自身を置く術までは、ついに学べなかった。炎は誰かの夜を照らせても、自らが朝日の下でどう過ごすかを知らない。麦畑を守る烈日は、収穫を終えた午後、木陰で眠るただの青年となった自分を、まだうまく想像できなかった。

 

 そのため、白き烈日は静かだった。

 絶望しているのではない。満たされているからこそ、自分の物語をひとまず幸福な結末まで読み終えたと思っていたからこそ、その余白へ、わざわざ次の頁を求めようとはしなかった。

 彼が「もう十分だ」と微笑んだその傍らで、ヒアンシーはまた後で診るつもりでいた。モーディスは、いつか本当にハニーケーキを食べさせるつもりでいた。ケリュドラは、次の征途でも彼を伴に選ぶつもりでいた。黄金裔たちは皆、それぞれのやり方で、ファイノンを続いてゆく未来の風景へ置いていた。

 そして何より――幼い日から彼と同じ物語を夢見た少女なら、物語が幸福な一頁へ辿り着いたからといって、そこで彼だけが頁の外へ降りることを、果たして「めでたし」と呼ぶだろうか。

 それを問う声は、まだこの場には響かない。いまはただ、願いを結んだ若木が風に揺れている。枝には数え切れない未来があり、幹の下では人々が笑い、空はどこまでも晴れていた。

 ファイノンもまた、その光の中に立っている。誰の目にも、そこにいる。だから皆は、明日もそこにいると思っていた。

 彼だけが、自分の明日を約束していないことに、まだ誰も気づかないまま。




場所とかの説明シーン抜けてたので、追加したいなー……
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