烈日よ、さざ波を追って   作:夜鷹ケイ

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<前回のあらすじ>
 願いを未来へ結ぶ人々と、願いはすでに叶ったと短冊を懐へ戻したファイノン。同じ明日を見ているようで、その意味だけは僅かに違っていた。
 皆は彼と「これから」を生きるつもりでいる。けれど彼は、自らの物語を幸福な結末まで運び終え、残された時間をただ誰かのために使う「余白」として数えていた。
 世界を支えなくてもよいことと、その世界に自分がいなくてもよいことは、本来同じではない。その小さな認識のずれには、まだ誰も気づいていない。


15 願いの余白に烈日は夢を辿る
116 若木に夢は宿る頃


 とん、と指先で若木の幹に触れると、春の陽だまりを手のひらへ移したような暖かさが、硬い樹皮の向こうからじんわりと返ってきました。

 昨日も何度か触れたはずなのに、今朝よりも、ほんの少しだけ温もりが増しているような気がします。朝日が高くなったせいでしょうか。それとも、大講義場へ集まった人の熱が伝わったのでしょうか。そんなふうに考えながら、わたしは掌を離さず、ゆっくりと幹の表面を撫でました。

 滑らかな木肌の奥では、生命の脈動とは少し違う、けれど確かに生きものへ馴染んだ力が巡っています。その感触を知ってしまえば、答えはおのずと絞られてしまいました。

 少し離れたところで、また一人、子どもが結びやすいように枝を下げてあげているファイノン様へ目を向けます。彼があれほど自然な顔でこの木へ力を注ぎ続けてくださっているからこそ、この若木は今日という一日を迎えられたのでしょう。

 もちろん、無理をしていないかはずっと見ています。医者としては、そこを見落とすわけにはいきません。顔色、呼吸の間隔、声の張り方、歩幅、立ち上がる時に重心が流れていないか、幹へ触れている手が力みすぎていないか。ついつい視線が追いかけてしまうのは、もう癖のようなものでした。

 けれど、今のところ心配するほどの変化はありません。人に声をかけられれば笑って振り返り、高いところへ飾りをつけたい子が来れば快く手を貸し、枝の様子を確かめる時にも呼吸を乱すことなく腰を屈めています。

 そうして皆さんの様子を見守るファイノン様の横顔には、何かを背負う時の張り詰めた硬さよりも、ただ目の前の賑わいを喜んでいる人の穏やかさがありました。

 

 皆さんのために『壊滅』を燃やし尽くそうとした白き烈日が、今では誰にも隠れず、誰から遠ざけられることもなく、人々のすぐ隣に立っているのです。

 

 それを確かめるだけで、胸の奥に柔らかなものが満ちていきました。あれほど遠く、眩しく、触れればこちらまで燃えてしまいそうだった烈日は、もう空の彼方で孤独に燃えているわけではありません。呼べば振り返ってくれる距離にいて、子どもに袖を引かれては困ったように笑い、頼まれもしないのに傾いた机を直しているのです。

 この景色が見られたのなら、きっと大丈夫です。少なくとも今日という日は、ちゃんと人の願いを受け止められる日になる。そんな確信が、幹から伝わる温もりと一緒に掌へ残りました。

 

「ぷーるるぅ!」

 

 頭上から弾むような嘶きが降ってきて、わたしは顔を上げました。

 

「あっ、イカルン!」

 

 幾重にも重なる枝葉の間から、白くて小さな姿がくるりと身を翻します。わたしが少し感傷にひたっているあいだにも、イカルンは休むことなく働いてくれていたようでした。二枚、三枚と短冊を運び、枝へ結びつけては、また地上へ戻ってくる。昨日までは葉の間を抜けるたびに翼の先を引っかけそうになっていましたが、今日はもう旋回もずいぶん滑らかです。

 得意げに胸を張って高い枝の間を抜けていく姿を追いかけたところで、わたしは改めて木の大きさに気づきました。

 

「……すごいなあ」

 

 近くで見上げていた子どもが、ぽかんと口を開けています。その隣の子も、目いっぱい首を反らしました。

 

「上まで届いたよ」

 

 ほんとうですね、と返そうとして、わたしも同じくらい首を反らすことになりました。最初にこの若木を見た時は、こんなに大きくなかったはずです。

 もちろん、今日まで何の変化もなかったわけではありません。短冊を受け止められるよう枝を増やし、支柱に沿いながら少しずつ背を伸ばしてきました。それでも今は、もはや若木と呼ぶのをためらってしまうほどです。太くなった幹から伸びる枝々が大講義場の外周へ向かって腕を広げ、葉の重なりが陽射しを細かく切り分けて、円形の石床へまだらな影を落としていました。

 そういえば、以前に先生がおっしゃっていました。「大地」のタイタンと「世負い」のタイタン。その力は、きちんと抑えて扱ったとしても、わたしたちの感覚からすれば規格外なのだと。最盛期であれば瞬きするほどの間に大地を整え、森林ひとつを丸ごと芽吹かせることさえできたのだそうです。

 あの時は、先生の説明を聞きながら「森林ひとつ」と言われても、あまりに規模が大きすぎて上手く想像できなかったのですけれど。

 今なら、ほんの少し分かる気がしました。力を抑えて、加減を重ねて、それでも人の暮らしの中へ持ち込める大きさまで小さくして――その結果が、これなのです。

 

「ずいぶん立派になりましたねえ……」

「オンパロスの市民たちの声を結ぶなら、これでもまだ不足しているんじゃないかい」

 

 感心するあまり、声まで上へ抜けていきました。横から聞こえた穏やかな声には、少しだけ可笑しそうな響きが混じっていました。

 ファイノン様の視線を辿ると、少し先で一人の子どもが短冊を両手に持ち、お母さまへ熱心に何かを訴えています。

 どうやら願いごとをひとつに決められなかったらしく、食べたい夕ご飯を端から順番に並べ立てているところでした。焼いたお肉に、甘いパンに、果物をいっぱい使ったお菓子。それから、と息を継いだところで、お母さまに「短冊が足りなくなるわよ」と止められています。

 わたしも堪えきれず、くすくすと笑ってしまいました。

 

「確かに。あの調子ですと、ひとりで枝一本分くらい必要になってしまうかもしれませんね」

「それは大変だ。もう少し育ってもらわないと」

「でも、食べたいものがいっぱいあるのは元気な証拠ですから。わたしとしては、とっても嬉しいお願いですよ!」

「医者らしい答えだね」

「ふふっ、そうでしょう?」

 

 そこで、ぱたぱたと軽い羽音が近づいてきました。

 戻ってきたイカルンがわたしの肩の高さまで降りてくると、鼻先を袖へすり寄せます。よく見ると、翼の先には細かな紙の粉がついていました。何枚も短冊の間を行き来した証拠なのでしょう。

 

「おかえりなさい、イカルン。よく頑張ってくれましたね」

「ぷる!」

 

 わたしが鼻先を撫でると、イカルンは「もっと褒めてもいいですよ」とでも言いたそうに胸を反らしました。その仕草にまた笑いながら顔を上げれば、枝先の短冊が風を受けて、ふわりと翻ります。

 誰かが結んで、誰かが見上げて、別の誰かが「あれは私のだ」と隣の人へ教えている。風が通り抜けるたび、紙と紙が擦れ合う音が少しずつ増えていました。まだ数えられるほどの枚数ではありますけれど、その一枚一枚が違う高さで光を受け、若葉の緑の中へ小さな色を添えています。

 

(もっと、いっぱいになってほしいな。)

 

 平和で、穏やかで、日常に満ちたお願いごとで。今日の夕ご飯でも、明日遊びたい場所でも、もう一度会いたい人でも構わないのです。

 叶えられるかどうかを考えるより先に、まず「こうなったらいいな」と思えること。それ自体が、人々が明日を生きようとしている証になるのですから。

 それなら、わたしたちもその輪へ加わらなくてはいけません。

 

「わたしたちも短冊を飾っちゃいましょうか、イカルン?」

「ぷるるっ!」

 

 元気いっぱいのお返事に、わたしは笑って用意しておいた短冊を取り出しました。

もちろん、イカルンにも願いがあります。

 空高く飛べますように。まだ小さな翼で、今よりもっと高い空へ。雲の近くまで昇って、好きな場所へ自由に飛んでいける未来を――そんな願いです。いずれ本当に叶えてしまいそうなところが、なんともイカルンらしいのですけれど。

 わたしの短冊も一緒に結ぼうと思ったところで、ファイノン様が「貸して」と手を差し出してくださいました。

 

「えっ、お願いしてもいいのですか?」

「もちろん。せっかくだから、君のは高いところにしよう」

 

 受け取った短冊の紐を、ファイノン様は近くの若い枝へ丁寧に結びつけます。指先が離れる前に、もう一方の手が幹へそっと添えられました。

 次の瞬間、枝が静かに持ち上がります。

 

「わあ……!」

 

 勢いよく跳ね上がるのではなく、芽吹きの時間だけを早めたような伸び方でした。細かった枝が少しずつ長さを増し、葉を開きながら空へ、空へと昇っていきます。結ばれた短冊も一緒に高く運ばれ、やがて、わたしが背伸びをしたくらいでは到底届かない場所で風を受けました。

 白い紙が青空を背負って揺れています。

 

「君のはやっぱり『天空』になきゃ、そうだろう?」

 

 ファイノン様がこちらを向きました。

 言われてしまえば、とても嬉しいです。天空の民であることは、わたしにとって誇りですし、何より虹が大好きですから。つい嬉しくなって、わたしは胸の前で手を合わせました。

 

「ふふっ、ありがとうございます。ケファレさまっ!」

「なんのこれしき、エーグルのためあらば――」

 

 そこでファイノン様は妙に凛々しい顔を作りましたが、ほんの一拍も経たないうちに崩れました。

 

「……なんてね。冗談だから、君たちも本気にして僕をケファレって仰がないでくれないか……」

「ぷる?」

 

 最後の方は、本気で困っているような声音です。

 事情を知ってか知らずか、イカルンが首を傾げます。わたしは口元へ手を添えました。笑ってしまったのをごまかしたわけではありません。本当に、ほんとうのところを言えば、笑いごとだけではないからです。

 ファイノン様が、ほんとうにケファレであったこと。それは、黄金裔の内々に留めている秘密でした。秘密にした理由は複雑そうに見えて、案外単純でもあります。市民の皆さんへいきなりお伝えするには、少々……いえ、かなり強すぎる事実なのです。

 なにしろ、その話を初めて知った時には、黄金裔であるわたしたちでさえ、しばらく何を言われたのか理解できなかった人が何人もいました。わたしも、その一人です。

 だって、仕方がないと思うのです。天空の模様を変えるエーグルが目を閉ざし、太陽も月も映さなくなってしまってから、それでもオンパロスの空には光がありました。終末へ向かう暗い時代の中でも、人々はその光の下で朝を知り、日々を数え、生き続けることができたのです。

 その太陽を掲げ続けてくださった存在こそ、ケファレ。虹が大好きで、空を見上げることも大好きなわたしにとって、ケファレなくして希望は生まれなかったと言っても過言ではありません。それどころか、オンパロスが今日まで存在できた理由を辿れば、ケファレの権能を引き継ぎ、あまりにも長い時間、この世界を支え続けてくださったカスライナ様へ行き着いてしまいます。

 そう考えれば、今のファイノン様を当代のケファレと呼んだところで、それほど不思議ではないようにも思えるのです。けれど、それもまた、少し違うのでしょう。

 永劫回帰の果てに、ファイノン様はその座を抱え込んだままにはなさいませんでした。世界の未来を託すため、その先へ歩いていくため、開拓者さんへ渡したのです。

 だったら今は、本当にケファレではない。そう考えるべきなのでしょうか。わたしが答えの出ないまま短冊を見上げていると、隣から小さな笑い声が聞こえました。どうやら、顔に出てしまっていたようです。

 

「そんなに難しい顔をしなくてもいいよ、ヒアンシー」

「えっ。わ、わたし、そんな顔をしていましたか?」

「少しだけね」

 

 ファイノン様はそう言ってから、わたしの短冊ではなく、もっと高い空へ視線を移しました。

 枝葉の向こうにあるのは、赤黒くひび割れた終末の空ではありません。壊れかけた世界を照らすため、誰か一人が無理に掲げ続けなければならない太陽でもありません。澄んだ空のさらに向こうには、オンパロスがようやく知ることのできた広い星海があります。

 

「本当なら、砕けたはずの僕はいま存在していないはずだからね」

 

 穏やかな声でした。

 あまりにも穏やかで、わたしはすぐには返事をできませんでした。

 彼の言葉の中には、わたしが簡単に測ってはいけない時間があります。「砕けたはず」という言葉を、ほんの少し昔の失敗談のように扱ってしまえるほど軽いものではありません。それでもファイノン様は、こちらへ心配させるような表情を浮かべることなく、空を見たまま続けました。

 

「……でも、この世界がこうして続いていくんだってことを、この目で見られてよかったって思ってるよ」

 

 その横顔へ何かを言いたくなって、けれど、すぐに適切な言葉は見つかりませんでした。代わりに、わたしも空を見上げます。

 枝葉の隙間では、人々の願いを宿した短冊がいくつも揺れていました。そよ風が通ると、離れていた紙片同士がそっと寄り合い、かさり、さらりと小さな音を鳴らします。誰かの願いと誰かの願いが、ほんの一瞬だけ触れ合って、それからまた別々の方向へ揺れていく。

 その光景を見つめているファイノン様の表情が、ほんの少し柔らかくなったように見えました。それなら、今はそれでいいのだと思います。

 この先も世界が続いていくことを、彼自身がその目で確かめられる。誰かから聞かされるのではなく、遠くから見送るのでもなく、この人混みの中に立って、笑い声や紙の音を聞きながら確かめられる。それだけでも、わたしにはとても大切なことに思えました。

 

「ぷるるぅ」

 

 イカルンの鳴き声に促されて、わたしはようやく視線を地上へ戻しました。

 午前から続いていた人の流れは、いつの間にかさらに太くなっています。円形の石床を囲むように親子連れが歩き、遠巻きに若木を見ていた人も少しずつ近づいてきていました。設けられた机では、新しい短冊や筆の準備が進められています。

 午後へ向けて、もっと多くの人がやって来るのでしょう。その顔ぶれを何気なく眺めていたわたしは、ふと、見覚えのある装いを見つけました。

 

「……あれ?」

 

 思わず声が漏れます。

 何度か瞬きをして確かめても、見間違いではありません。人波の向こう、少し距離を置いて大講義場の様子を眺めている方々の中に、かつて元老院へ属していた人の姿がありました。

 元老院。オクヘイマを拠点に司法を執り行い、罪状を審理し、時には法廷で裁きを下していた国家機関。その役割だけを見れば、聖都に欠かすことのできない組織だったと言えるのでしょう。

 けれど、黄金裔にとって、その名はそれだけでは終わりません。議員たちの多くはタイタンを信仰していながら、神に選ばれた黄金裔を強く敵視していました。アグライア様が当代の黄金裔を率いていた頃には、幾度となく妨害を仕掛け、時には刺客まで差し向けたと聞いています。

 アナイクス先生から教わったところによれば、元老院の源流そのものは、黄金戦争時代にまで遡るそうです。

 当時は、神の力を手にしたからといって、すべての黄金裔が英雄だったわけではありません。力を悪用し、民を苦しめた者もいた。だからこそ各都市国家の正義ある戦士たちが水面下で集まり、横暴な黄金裔へ対抗するための組織を作ったのだと聞きました。

 ファイノン様も、それは事実だと補足してくださいました。彼らはタイタンの聖遺物や錬金術を用い、暴走した黄金裔を粛清し、民を守る者として立った。

 その始まりだけを聞けば、むしろ必要とされた組織だったのでしょう。けれど、長い時間の中で何かが変わってしまいました。

 使命はいつしか執着へ置き換わり、後継者へ記憶の欠片を強制的に融合させてまで憎悪を継承し、黄金裔を排除することそのものが目的になっていった。黄金裔というだけで野蛮だと決めつけ、殺すためなら手段を選ばない――そんな恐ろしい噂が、都市伝説めいて市民の間へ広がっていたことも覚えています。

 以前、カイニスのことを聞いた時、ファイノン様は困ったような顔で話してくださいました。彼らが妄執から抜け出せなかったのは、彼ら自身の問題が何ひとつ解決されていなかったからなのかもしれない、と。

 正しかった始まりが、長すぎる憎しみに削られて別のものになってしまう。その話を思い出すと、今でも胸の内側が少し重くなります。

 オンパロスが救われた今、かつてと同じ形の元老院はもうありません。だからと言って、そこへ属していた一人一人の記憶まで消えてなくなるわけではありませんし、黄金裔との間に積み重なった歴史が最初から存在しなかったことになるわけでもありません。

 

 それなのに。

 

 かつてあれほど黄金裔を警戒し、敵視し、時には抹消しようとまでした組織へ属していた人たちが、黄金裔の側から始めた催しへ足を運んでいるのです。

 まだ若木へ近づこうとはしていません。離れた場所から様子を窺い、隣同士で何か小声を交わしているだけです。短冊を受け取るのかどうかさえ、今のわたしには分かりませんでした。

 それでも、ここへ来た。その事実だけは確かです。

 わたしは彼らを見つめすぎないよう、そっと視線を若木へ戻しました。枝先では、先ほどより一枚増えた短冊が風に揺れています。誰がどんな気持ちでここへ来たのか、今はまだ分かりません。分からないものを勝手に決めつけるのは、お医者さんとしても良くないことです。

 

 それでも、少しだけ気になりました。

 

 いったい、どんな心境の変化があったのでしょう。その疑問を胸の片隅へ置いたまま、わたしは次の短冊を運んできたイカルンへ手を伸ばしました。

 午後になれば、きっと今よりもっと多くの人がここへ集まります。その時、この若木がどんな願いを受け止めることになるのか――まだ空いている枝々を見上げながら、わたしは静かに楽しみにしていました。

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