願いを結ぶ若木は、「大地」と「世負い」の力を受け、すでに大講義場へ枝を広げるほどに育っていた。
ヒアンシーは木へ力を注ぐファイノンの穏やかな姿を見守り、自らの短冊も彼の手で天空高く掲げてもらう。かつてケファレとして世界を支え、砕けるはずだった青年は、続いていくオンパロスをその目で見られる喜びを静かに語った。
そして人波の中には、かつて黄金裔と敵対した元老院の者たちの姿まで現れる。願いの祭りは、過去の隔たりさえ越えようとしていた。
午後の開始を知らせる頃には、大講義場を渡る陽射しも少しずつ角度を変え、若木の枝葉が落とす影は、朝よりも長く石床の上へ伸びていた。
かつて元老院に属していた人々の姿を見つけてからも、ヒアンシーはことさら彼らを気にする様子を見せなかった。声をかければ、かえって来づらくなってしまうかもしれない。遠くから見ていたいのなら、それでもいい。短冊を受け取らずに帰ったとしても、今日はそれで構わないのだと、彼女は次の準備へ手を動かしながら考えていた。
そもそも、この大講義場そのものが、誰かへ気軽に願いを話すための場所ではなかった。オンパロスの行く末について民衆や元老院が意見を交わし、知識を伝える講義が催され、時には罪を問われた者へ断罪が下される
。円形に広がる石床も、段状に設けられた席も、多くの言葉を受け止めてきた場所には違いなかったが、その言葉の多くは、人の命や都市の未来を左右するほど重かった。
それが今では、中央に一本の木が生えて。空を遮る天井はなく、若葉の間から青い空が覗き、風が抜けるたびに色とりどりの短冊がさらさらと鳴る。罪状を記した紙でも、議案を記した書簡でもない。ただ誰かが「こうだったらいいな」と思ったことを書いただけの、小さな紙片である。
同じ場所なのに、ずいぶん違って見えますね。ヒアンシーは準備台に置かれた短冊の束を揃えながら、ほんの少し口元を緩めた。
中央の若木を囲うように、市民たちは思い思いの距離で集まっていた。既に短冊を受け取った者は何を書こうかと紙を裏返し、まだ受け取っていない者は、黄金裔たちが配って回る姿を物珍しそうに眺めている。
そこに立つ黄金裔たちの表情も、エスカトンの最中に人々が見ていたものとはまるで違った。短冊の束を抱えて歩く者がいて、紐の結び方を教える者がいる。子どもに呼び止められれば腰を屈め、質問を受ければ足を止める。武器を携えて先陣を切る姿でもなければ、神託や使命を背負って遠くを見つめる横顔でもない。
黄金裔は、長いあいだ「火を追う者」として知られてきた。世界を救うために旅立ち、タイタンから火種を受け継ぎ、次の時代へ繋ぐ者たち。
けれど、人々がいつでも彼らを英雄として歓迎していたわけではない。終末へ追い詰められ、明日の食事や寝床すら危うくなれば、救済がいつ訪れるのか分からない苛立ちを、目の前にいる黄金裔へ向けてしまった者もいた。
嫌味を言ってしまったのだろう。八つ当たりをしたこともあったのだろう。ヒアンシーはそれを、わざわざ確かめようとは思わなかった。
何人かの市民が、短冊を差し出してくれた黄金裔へ何か言おうとして口を開き、結局、小さく頭を下げるだけに留めている。黄金裔の方も、理由を問いただすことなく笑って紙を渡す。そのぎこちなさを横目に見ながら、ヒアンシーは短冊の残数を数え、足りない筆を別の台から運んできた。
過ぎたことを無かったことにはできない。だけど、今ここにいる人まで、いつまでもあの頃へ縛りつけておく必要もないのだろう。
「ヒアンシー様、こちらの準備は終わりました」
「ありがとうございます! では、そちらはそのままでお願いしますね。子どもたちの区画は――」
振り向けば、午前の部に参加していた子どもたちの多くは、大講義場の外周側へ移動している。
有志が設営してくれた小さな天幕が並び、その下には簡単な遊びや食べ物を扱う店が出ていた。香ばしく焼けた穀物の匂いが風へ混じり、時折、子どもの歓声がこちらまで届いてくる。午後は大人にもこの催しの意味を説明する時間を設けたため、子どもたちが退屈しないよう考えた区画だった。
その様子まで見届けると、ヒアンシーは胸元へ手を添え、静かに息を吸った。話す内容は決めていたし、午前の部も無事に終わっている。
それでも壇上へ向かうにつれ、指先にはわずかな緊張が残った。治療ならば身体を楽にする方法や手順を考えられるが、今日扱うのは願いだった。「願ってください」「未来を思い描いてください」と言うのは簡単でも、それを難しく感じる人がいることを、ヒアンシー自身も知っている。だからこそ、彼女はいつものように明るく笑った。
雲ひとつない日に見上げる空のような、明るい笑顔で一歩前へ出る。それから胸の前で両手を合わせ、ぱん、と一度、軽快な音を鳴らした。
広場に散っていた視線が、ゆっくりと中央へ集まっていく。短冊を眺めていた青年が顔を上げ、年配の女性が会話を止め、少し離れた元老院の旧所属者たちもこちらへ目を向けた。若木の葉だけが、変わらず風に揺れていた。
「こほん。みなさま、本日はお集まりいただきありがとうございます!」
柔らかな声が、大講義場の石壁へ触れながら空へ抜けていった。声を張り上げているわけではない。それでも、不思議と広い場所の端まで届く。
患者へ難しい治療を説明する時も、泣いている子どもへ声をかける時も、ヒアンシーは相手へ届く言葉を選んできた。その声には、人を押さえつけて黙らせる強さではなく、聞いてみようと思わせる柔らかさがあった。
石床を滑った風が彼女の裾をさらりと持ち上げる。ヒアンシーは一度ゆるやかに礼をしてから、人々を見渡した。
「皆さんもご存じの通り、オンパロスはエスカトンを乗り越え、ようやく銀河に並ぶ星々の一員となることができました」
すぐには歓声は上がらなかった。代わりに、あちらこちらで小さく頷く姿が見えた。勝利というひと言では括れないものを失い、そのうえで迎えた今日だったからこそ、ヒアンシーは明るい言葉だけを並べるつもりはなかった。
「わたしたちが思い描いていた明日とは、少し違うのかもしれません。ずっと昔に想像していた未来とは、もう同じ形ではない方もいらっしゃるでしょう」
人々の間を風が抜けると、短冊を握る指がわずかに動き、伏せられていた顔がいくつか上がった。その小さな変化を確かめ、ヒアンシーは声を明るく持ち上げた。
「それでも――自分の願いを自由に思い描ける明日を、わたしたちは手にしたのです!」
ヒアンシーの呼びかけに、広場からいくつもの声が返った。大きな喝采ではなかったが、ぱらぱらと始まった拍手は次第に重なり、円形の広場全体へ広がっていく。
その反応に、彼女の肩からわずかに力が抜けた。黄金裔の一人としてここまで歩んできたからこそ、素直に嬉しかったのだ。やがて拍手が収まると、ヒアンシーは胸へそっと手を当て、少し困ったように眉を下げた。
「ですが……わたしたち、いざ『願ってみてください』と言われると、困ってしまうこともありますよね?」
いくつかの顔が見合わせられた。先ほどまで勢いよく拍手していた男性も、握っている短冊へちらりと目を落とす。
「願いを言葉にすることも、文字にすることも、つい躊躇ってしまう。本当に明日へ続いていくのだろうか、とか。救われたとしても、失ったものは戻ってこないのだ、とか」
その言葉が落ちるにつれ、大講義場の空気が少しずつ静かになっていった。ヒアンシーはそこで無理に笑みを深めなかった。
「……わたしも、そういうことが頭によぎってしまいます」
ざわめきが広がる中、ヒアンシーは動じずに立っていた。けれど、人々の多くは、彼女も不安を抱えているという事実に驚きを隠せなかった。
医師として多くの者を診てきた彼女を『天空の聖女』と、そのように呼ぶ人々は少なくない。患者を前にすれば柔らかく笑い、不安をひとつずつほどき、エスカトンの最中でさえ治療の手を止めなかった黄金裔。その印象を強く持っている者ほど、「ヒアンシーも不安を抱く」という事実をすぐには飲み込めないらしい。
ひとりの女性は短冊を握ったまま何度か瞬きをし、別の男性は隣へ小さく何かを尋ねている。ヒアンシーのすぐ近くにいた少女は、母親の袖を引いた。
「聖女さまも、こわいことあるの?」
母親はすぐには答えられなかった。小さな声だったが、ヒアンシーには届いていた。彼女は少女へ一瞬だけ目を向け、いつもの笑顔を返すと、ぴんと人差し指を一本立てた。沈みかけた空気を、今度は自分の手で軽やかに持ち上げる。
「ですから、今回のイベントを企画しました! これは、星穹列車の開拓者さんから教わった文化です。願いを書いて、高い場所へ結ぶのです。そうすることで、その願いを未来へ託すのだそうですよ」
視線が一斉に若木へ集まった。枝に結ばれた短冊が風を受けて翻り、紙の音が静かに響く。人々は空や手元の短冊を見上げ、隣同士で何を書くかを相談し始めた。
広場にはざわめきが広がっていたが、誰もヒアンシーの次の言葉を聞き逃さないよう、中央には柔らかな静けさが残っていた。
「高い場所へ結ぶのは、神さまのためではありません」
その言葉に、何人かがもう一度ヒアンシーへ顔を向けた。タイタンを信仰してきたオンパロスで、高いところへ願いを掲げると聞けば、神へ捧げる儀礼を想像する者もいただろう。だからこそ、彼女ははっきりと続けた。
「わたしたち自身の未来のために掲げるのです。今日ここで結ばれた願いは、風に揺れて、光に照らされて、空を渡って――これから先の明日へ続いていくのだと、そう教わったんです」
若木は広場の中央で静かに立っていた。まだ空を覆うほどではないものの、午前のあいだに幹は太く成長し、多くの短冊を受け止める強さを備えている。支柱も残っていたが、今では木を支えるというより、その成長を見守るように寄り添っていた。
その根元近くには、ファイノンがいた。ヒアンシーの言葉を静かに聞きながら幹へ手を添え、人々の視線が若木へ集まると、彼もまた穏やかに頷いた。
世界の終わりを越えるまで、誰より長く人々の記憶と願いを運び続けた青年が、今は願いを掲げる木の根元に立っている。その姿を見た何人かが、手元の短冊へ視線を戻した。
ヒアンシーの言葉を受け、広場の空気がわずかに動いた。筆を取る者がひとり現れ、まだ迷いを残す者もいる。視線が、午前中に夕食の品を山ほど挙げていた親子の辺りへ向かって。そんな人々の様子を見渡しながら、ヒアンシーは最後に残していたとっておきの一言を口にした。
「どんな願いでも構いません。大きな夢でも、小さなお願いごとでも……もちろん、今日の夕飯のお願いだって大歓迎ですよ!」
くすっ、と誰かが吹き出すと、それを皮切りに笑い声が広がっていく。
「ああ、あの子の話か」
「全部食べるつもりなのかしら」
「育ち盛りなんだろうよ」
午前の出来事は思いのほか広く知られていたらしく、肩を強張らせていた男性も笑い、短冊を持て余していた女性も筆を取った。小さな笑いが張り詰めた空気を少しずつ和らげ、人々はようやく願いを書き始めた。
人々は次々に筆を取り、さらさらと願いを書き始めた。書かれている内容は実にさまざまである。アグライア様のお顔をもっと近くで見てみたい。たくさん絵を描きたい。ファイノン様と遊んでみたい。筋力をつけたいけれど、モーディス様はいったいどんな鍛錬をしているのだろう。あの方の話も一度聞いてみたい。
黄金裔へ向けられた素朴な興味もあれば、自分自身の暮らしについて書き始める者もいる。隣から覗かれそうになって慌てて短冊を伏せる青年がいて、それを見た友人が笑う。筆を持ったまま長く考え込む年配の男性もいれば、迷うことなく何行も書き込む女性もいた。
願いに大きさの決まりはない。世界の救済を願った昨日の続きに、今日の夕飯を願ってもいい。そんな空気が広がる中、短冊を書き終えた人々の間から小さな足音が響き、子どもたちがヒアンシーのもとへ駆けてきた。
「ヒアンシーさま!」
「はい?」
「これ、むすんで!」
「お父さんたち、ハズカシイんだって!」
「ぼくらが持ってきたの!」
後方を見れば、確かに数人の大人が気まずそうにこちらを見ていた。目が合った途端、一人は咳払いをし、もう一人は横を向いてしまう。
「あら。ふふっ。もちろんです。持ってきてくださってありがとうございます!」
ヒアンシーは事情を追及することなく、子どもたちの高さまで少し腰を屈めた。それから顔を上げ、少し離れた場所で待機しているイカルンへ視線を送る。
「イカルン、出番ですよ!」
「ぷるぅー!」
呼ばれたイカルンが弾むように翼を広げた。普段なら患者のそばへ寄り添い、柔らかな身体を触れさせて癒やす小さなペガソースである。けれど今日は、何度も短冊を枝へ届けてきたためか、翼を張った姿が妙に頼もしく見える。
「高い場所へ結びたい時は、わたしたちがお手伝いしますね。もちろん、手が届く場所でしたら、ご自分で好きなところへ結んでいただいても大丈夫です!」
「ぷるぅ!」
「やった!」
「どこにしようかなあ」
子どもたちが一斉に若木を見上げる中、一人の少女だけが少し遅れて顔を上げた。大人たちよりもずっと小さな身体で、巨大になりつつある若木の全体を見定めるように目を凝らし、赤い短冊を胸元へ抱えたまま眉を寄せる。
「でも……ぜんぶ結べるのかな?」
近くにいた人々の視線が、再び若木へ集まった。午前のあいだにも短冊は増えており、これからさらに人が集まれば、枝が足りなくなるようにも見える。ヒアンシーが答えようと口を開くより早く、木の根元から穏やかな声が届いた。
「大丈夫だよ」
声の持ち主は、ファイノンだった。彼は若木の根元に立ち、片手を幹へ添えたまま、少女の方へ顔を向けている。陽射しを受けた横顔には、いつもの穏やかな笑みが浮かんでいた。けれど、その視線は少女だけでなく、彼女が抱える赤い短冊と、その先に広がる枝々へも静かに注がれている。
まるで、少女の不安を木そのものへ伝え、答えを確かめているようだった。ファイノンの指先が幹の表面をわずかになぞると、若木の葉が風もないのにかすかに揺れた。
「この木は、君たちの願いに応えるみたいに、少しずつ成長していくと思うから」
少女が瞬きをする。ファイノンの言葉を聞いても、すぐには信じきれないようだった。赤い短冊を抱く腕にはまだ力がこもり、視線だけが彼の顔と若木の枝先のあいだを行き来している。彼は大げさな身振りもせず、そのまま続けた。
「だから、気にせず好きな場所へ結ぶといいよ」
その声には、自分の力を誇示する響きも、少女を安心させるために話を盛ったような軽さもなかった。ただ本当にそうなるのだと、静かに伝えているだけだった。少女はしばらくファイノンと若木を見比べていたが、やがて赤い短冊を握っていた手の力を少しだけ緩めた。
「……ほんと?」
「ああ、ほんとうだよ」
ファイノンの返事には、笑みを含んだ柔らかな響きがあった。少女の不安を急かすことも、無理に信じさせようとすることもなく、ただその願いを受け止めるような声だった。
その言葉を聞いた途端、少女の顔がぱっと明るくなる。赤い短冊を抱えていた腕から力が抜け、代わりに瞳の奥へ期待の光が灯った。雲ひとつない空をそのまま映したような顔で、少女は赤い短冊を高く差し出した。
「じゃあ、これ! お願いします!」
「ぷるっ!」
イカルンは少女の指から赤い短冊を慎重に受け取ると、翼を広げて若木へ飛び立った。広場の人々がその姿を見守る中、低い枝先へ近づき、鼻先と前脚で紐を器用に回す。やがて結び目がきゅっと締まり、赤い短冊が枝から静かに垂れ下がった。
その瞬間、枝の先端が風とは異なる動きでわずかに揺れ、若い枝は自ら伸びる方向を探るように外側へ広がった。指先ほどの小さな成長だったが、少女は見逃さなかった。
「あっ……!」
声に呼ばれ、周囲の者たちも枝へ目を向けた。そこには大げさな奇跡など起きていない。ただ、先ほどより少しだけ広がった枝に、一枚の赤い短冊が結ばれている。白い雲を背に赤い紙が風へ揺れ、さらりと小さな音を立てた。
それは神へ届いた証でも、願いが叶った合図でもない。それでも、躊躇いながら差し出された一枚を若木が確かに受け止めたことで、その場にいた人々の視線はしばらく枝先から離れなかった。
少女は嬉しそうに赤い短冊を見上げ、ヒアンシーもその横顔と揺れる紙を交互に見つめながら、そっと頬を緩めた。
世界を救うような大きな願いでなくてもいい。誰かに託された使命でなくてもいい。自分の胸に生まれた想いを、自分の言葉で未来へ置いてみる――午後の部で最初に結ばれた一枚は、風を受けながら静かに揺れ続けていた。