かつて議論と断罪を担った大講義場は、いまや人々が未来を語る場所へ姿を変えた。
ヒアンシーは午後の部を開き、救われた後にも残る不安を自らの言葉で明かしながら、「どんな願いでもいい」と市民へ呼びかける。神ではなく、自分たちの明日へ願いを掲げるために。
笑いと筆音が戻る中、一人の少女が差し出した赤い短冊をイカルンが枝へ結ぶ。すると若木は、その小さな願いを受け止めるように、ほんの少しだけ枝を広げた。
最初の赤い短冊をきっかけに、人々は次々と願いを若木へ託し始めた。短冊を結ぶために互いに手を貸し、広場には自然な人の輪と賑わいが生まれてゆく。
願いが増えるたび、若木は人の集まる方へ枝を伸ばし、木陰を広げていった。ヒアンシーは成長する木と、力を注ぎ続けるファイノンの様子を見守りながら、色とりどりの短冊が空を彩る光景に胸を打たれる。若木はまるで人々の願いを受け止めるように、静かにその腕を広げ続けていた。
「……じゃあ、私も」
少し離れた机から、そんな声が聞こえる。筆を置いた女性が短冊を胸元へ引き寄せ、隣にいた男性と目を合わせ。その男性も、何か言いかけてから照れたように鼻の下を擦り、自分の短冊を持って立ち上がった。
それを境に、一人、また一人と人が動き始めた。書き終えた人が前へ進み、後ろから続く人へ自然に道を譲るうち、若木を中心とした人の輪が形を整えていく。靴底が石を踏む音、衣擦れ、筆先の乾いた音、短冊へ紐を通す音、名前を呼ぶ声、そして高い枝へ結びたいとイカルンへ頼む声が、広場に重なっていった。
先ほどまでヒアンシー一人の言葉へ耳を傾けていた大講義場は、いつしか無数の小さな会話で満たされていた。その真ん中に立つヒアンシーは、次から次へと差し出される短冊へ目を配りながら、つい頬を緩ませてしまう。
エスカトンの後、ヒアンシーは、道端で声をかけても返事を返せず、治療を終えても先を見失い、家を失って瓦礫を見つめ続ける人々の姿を、医師として何度も見てきた。だからこそ、再び人々の声と笑いが広場を満たす日が来るとは、なかなか信じられなかった。
こうして筆を動かし、短冊を見せ合いながら枝を選ぶ人々の姿が胸に沁み、ヒアンシーは涙より先に笑みを浮かべていた。
「ここ、まだ空いてますか?」
「ええ、もちろんですよ!」
「もうちょっと上のほうがいいかなぁ……」
「でしたら、イカルンにお願いしましょうか。ね?」
「ぷるっ!」
呼ばれたイカルンは、待っていましたとばかりに翼を広げる。けれど、すべてを任せるわけではなかった。背丈の低い子どもが届きそうな枝を見つければ、近くの大人が腰へ手を添えて支える。短冊の紐を枝へ回した指が絡まり、「あれ?」と困っていれば、見知らぬ人が横から「ここを通せばいい」と手を貸した。
「あ、ありがとうございます」
「いやいや。俺もさっき教えてもらったばかりだからさ」
そんな会話が、あちこちで生まれていた。
ほんの少し前まで名前も知らなかった者同士が、一枚の短冊を結ぶためだけに並んで手を動かし、結び終えると一緒になって枝を見上げる。願いを掲げるというより、人と人の間へ細い紐を一本ずつ渡しているようにも見えた。
ヒアンシーは手元へ残った紐を揃えながら、ふと若木を見上げた。中央の幹は変わらず落ち着いた色合いを保っている。けれど、先ほどよりも枝がわずかに左右へ広がっているように見えた。
「……あれ?」
午前から何度も見てきたため、ヒアンシーはおおよその枝ぶりを覚えている。生きた木なのだから、姿が寸分違わず同じであるはずはない。まして、この木には「大地」と「世負い」の力が注がれている。それでも、先ほどまでより少しだけ、左右へ広がっているように見えた。
短冊が結ばれるたび、若木はその方向へわずかに枝を伸ばし、葉の重なりまで変化させていった。風の通る方、人のいる方、短冊が揺れる方へ――まるで枝の方から願いを受け取りに行くようだった。
ヒアンシーは何度か瞬きをしてから、小さく頷いた。短冊が増えるたび、若木もまた願いを受け止めるように、必要な方へ枝を伸ばしているのだろう。ファイノンが先ほど少女へ話していた通りだ。そう考えれば、何も不思議ではなかった。
「ぷるるっ!」
「あっ、おかえりなさい、イカルン」
ぱたぱたと羽音を鳴らしながら、白い小さな身体がヒアンシーのもとへ戻ってきた。鼻先には紙の粉がつき、柔らかな毛には糸くずが絡んでいる。
「あらあら。ずいぶん頑張ってくださった証拠がついていますね」
「ぷる?」
「ここです、ここ」
ヒアンシーが指先で糸くずを取り除くと、イカルンはくすぐったそうに首を振った。そこへ休憩を勧める間もなく、新しい短冊が差し出される。
「これも、お願いできますか?」
「もちろんです!」
「おつかれさまです、イカルン。……まだまだお願いしちゃいますよ〜?」
「ぷるるぅっ!」
ヒアンシーは受け取った短冊を一度確かめ、イカルンの方へ向き直った。疲れたどころか、ますますやる気らしい。
前脚までぱたぱたと動かして胸を張る姿に、ヒアンシーは笑いながら短冊を託した。イカルンはそれを慎重に咥えると、再び枝葉の間へ舞い上がる。
午前中は葉へ触れそうになるたび不器用に身体を傾けていたイカルンも、今では枝の間の細い隙間を見つけ、翼幅ぎりぎりで身を翻しながら、上へ左へと自在に飛び回っていた。一度だけ枝を避けて降下したものの、すぐにふわりと浮かび上がり、狙った枝へ向かっていく。
「わあ、上手になったなあ」
そのまま狙った枝へ近づき、短冊を結び終える。枝葉へ羽音が触れると、さわ、と木全体が柔らかく鳴った。すると、枝の先がほんのわずかに外側へ広がった。
人々の多くは、自分の短冊や隣人との会話に夢中で、若木の変化にはまだ気づいていなかった。けれどヒアンシーには、石床へ落ちる葉影が、朝の支柱近くから円を描くように外側へ広がっていく様子が見えていた。光の中へ伸びた新たな影では、白や赤、青、淡い黄色の短冊が細長く揺れ、色が増えるほど地面には複雑な模様が重なっていった。
「……本当に、大きくなっていますね」
思わず呟いてから、ヒアンシーは木ではなく、その根元へ視線を下ろした。そこにはファイノンが立ち、幹へ片手を添えて静かに目を伏せている。大仰な仕草はなく、ただ木の成長へ寄り添っていた。
ヒアンシーは自然と医師の目で彼を観察した。顔色や唇の色に問題はなく、呼吸も一定している。胸郭の動きに浅さはなく、肩へ余計な力も入っていない。立ち姿は安定し、幹へ添えた指先にも過剰な震えは見られなかった。少し離れた場所から様子を確かめていると、ファイノンがふと目を開け、二人の視線が重なった。
「……?」
ファイノンが小さく首を傾げる。何かあったのかと尋ねるような顔に、ヒアンシーは一瞬だけ迷ってから、にこりと笑って片手で小さく丸を作った。
大丈夫です。声にはしなかったが、意味は伝わったらしい。ファイノンも少し笑って肩をすくめる。それだけで、ヒアンシーの胸からわずかに力が抜けた。
今のところ、無理をしている様子はない。とはいえ、楽しいことに夢中になっている時ほど疲労を後回しにする人もいる。特に、目の前の青年はそうなりかねない。だからこそ、ヒアンシーは視界の端へ彼を捉え続けることにした。楽しそうにしている彼が、そのまま楽しんでいられるように。
「……すごいなぁ。もう、こんなに増えてる」
ヒアンシーも改めて枝々へ目を向けた。短冊はいつの間にか数十枚まで増え、午前中に数枚がぽつぽつと揺れていただけの景色とは、もうまるで違っていた。
短冊はいつの間にか数十枚まで増え、午前中に数枚がぽつぽつと揺れていただけの景色とは、もうまるで違っていた。色とりどりの紙が枝葉のあちこちで風に翻り、手前の一枚が裏返ると、その奥で二枚が触れ合い、さらに高い場所の短冊が遅れて揺れる。見えない波が願いから願いへ渡っていくようだった。
それだけの紙片を抱えていても、若木は少しも頼りなく見えない。まだ若木であることに変わりはないはずなのに、幹はしっかりと地面へ根を下ろし、まっすぐ空へ伸びている。横に添えられた支柱も、今では木を立たせるためのものというより、ともに成長を見届ける古い友人のようだった。
人の流れを確かめてから若木へ歩み寄った。ヒアンシーは木陰へ入ると、顔や肩へ葉影が落ち、照り返していた陽射しも柔らかくなって、空気が少し涼しく感じられた。
幹へ指先を伸ばし、そっと触れた。朝から感じていた、陽だまりに似た温もりがそこにある。熱いわけではない。それでも、ただ日光に温められただけではなく、木の奥からじんわりと滲み出してくるような温かさだった。
「この調子でしたら、まだまだ大丈夫そうですねぇ」
「木の方かい? それとも僕?」
「もちろん両方です!」
「それなら、医者のお墨付きってことで安心だ。……さっきも同じようなやり取りしたよね?」
「ですが、無理をしていいという意味ではありませんよ! それに、さっき、といっても朝からお昼にかけてなので時間がすっごく立てるんですからね?」
「あはは、分かってるよ」
幹越しにそう声をかけると、反対側からファイノンが顔を覗かせた。迷いなく返すと、ファイノンは一瞬だけ目を丸くした後、小さく笑う。本当に分かっている人の返事でしょうか、とヒアンシーは少しだけ目を細めた。――すると先回りするように、ファイノンが降参を示すような仕草で空いている手を上げる。
「本当に。今のところは何ともないから」
「……でしたら、よいのですけれど――……それにしても、かなり増えましたね。午後の部は始まったばかりなのに」
「……まだ、始まったばかりだからね」
ファイノンは穏やかな表情で人々を見つめ、嬉しそうな光を目に宿したまま、再び幹へ手を添えて空を仰いだ。
今もなお、木は静かに成長を続けていた。右へ、左へ、そしてより高いところへ。急激に姿を変えて周囲を驚かせるのではなく、人の流れに合わせるように、ゆっくりと枝を広げてゆく。その様子は、広場そのものを抱き込もうとしているようにも見えた。
短冊の色も、枝の広がりに合わせて少しずつ視界を満たし。初めは幹の近くへ集まっていた紙片が、今では外側へ伸びた枝にも結ばれている。結び目が増えるたび枝はわずかにしなり、葉と葉の隙間から落ちる光の形まで変わっていった。
空を見上げれば、青一色だった景色の中へ赤や白、黄色の短冊が入り込み、まるで空の縁へ人々の願いで模様を描いているようだった。
「うーん……上、もういっぱいかな?」
「まだいけますよー!」
「ほんと?」
「はい! まだまだ余裕がありますから、好きな場所を選んでくださいね!」
実際、若木にはまだ短冊を受け止める余地が充分に残されていた。百枚ほどを想定して育てられた木であり、結び目が増えても幹は揺るがず、枝も人の手で無理に引っ張られることなく、それぞれの重さを自然に受け止めている。――ただ。
ただ、ヒアンシーは、ほんの一瞬だけ足元へ目を落とした。数刻前まで支柱の近くへ収まっていた木の影が、もうその外側まで伸びている。
朝に見た時より広く、先ほど見た時よりもさらに枝葉が広がっている。葉が増え、枝が伸び、短冊を受け止めるために木そのものが育っているのだ。
理由は分かっている。ファイノンが無理をしているようにも見えない。だからヒアンシーは、その変化を異常とは考えなかった。ただ、ずいぶん元気な木ですね、と心の中で少しだけ笑う。頭上では、増えた葉が陽射しを細かく砕いている。その光が短冊の表面で跳ね返り、風が吹くたび、赤や白の光がヒアンシーの頬や衣服の上を滑った。
綺麗だった。本当に、綺麗だった。終末へ向かっていた頃のオンパロスでは、空を見上げても、その先にあるものを考える余裕などほとんどなかった。けれど今は、人々が手をかざして木の高さを測り、空の中に自分の短冊を探して笑っている。
「……綺麗だね」
すぐ近くから聞こえた声に、ヒアンシーは振り向いた。ファイノンも空を見上げている。木漏れ日がその横顔へ落ち、風に揺れる葉影が頬をゆっくりと横切っていた。彼の視線の先には、力を注ぎ続ける若木と、その枝へ結ばれた人々の願いがある。
「ええ、とても!」
ヒアンシーは大きく頷いた。ちょうどその時、また新しい短冊が一本の枝へ結ばれる。枝はゆっくりと外側へ伸び、今度は短冊を手に順番を待つ人々が集まる方へ向かった。別の枝も、笑い声の弾む方角へ葉を広げていく。まるで人の気配や声を聞き取り、誰かが来る場所を知っているかのように、人が集まり、足音が重なり、笑い声が生まれる方へ――若木は静かにその腕を伸ばし続けていた。
それを見つめていたヒアンシーの胸へ、どこか懐かしい感覚が触れた。誰かを拒まず、近づいてきたものを受け止め、重みが増えても振り払わずに、必要とされる方へ手を伸ばして皆を迎え入れる。その姿が、なぜだか一人の青年と重なって見えた。
ヒアンシーは木から視線を下ろした。根元に立つファイノンは、声をかけられれば笑って応じ、低い枝を望む子どもがいれば枝の様子を確かめ、高い場所へ短冊を結びたいと言われればイカルンの飛ぶ先を見守っている。彼が見つめているのは自分ではなく、木と人々だった。けれど、そのことに特別な意味を見いださなかった。
今日のファイノンは、誰かの願いが枝へ増えるたびに目元を緩め、子どもの歓声へ笑顔を向けていた。自分が支えてきた世界の人々が、自らの手で未来を言葉にしていく光景を、彼は心から喜んでいるようだった。
だからヒアンシーも、今はそれでよかった。広がり続ける木陰の下で、願いの数だけ短冊が揺れている。人々の願いを受け止めるように、若木は賑わいの方へ静かに枝を伸ばし続けていた。