少女の赤い短冊をきっかけに、大講義場には願いを結ぶ人の流れが生まれた。互いに手を貸し、笑い合う人々の頭上で、若木は短冊を受け止めるたび枝を広げてゆく。
ヒアンシーは成長する木とともに、力を注ぎ続けるファイノンの顔色や呼吸を確かめるが、無理をしている様子はない。色とりどりの願いが空を彩る中、若木は人の集う方へ腕を伸ばし、まるでかつて世界を抱き続けた誰かのように、賑わいそのものを包み始めていた。
願いを受け止めるたびに枝を伸ばしていた若木の下では、その後も途切れることなく筆が動いていた。
大講義場に満ちる音は、いつの間にか祭りの賑わいだけではなくなっている。遠くでは再建作業の槌音が響き、石材を運ぶ台車が舗道を軋ませ、その合間を縫うように、短冊へ文字を記す筆先の擦れる音が重なっていた。壊れたものを直す音と、まだ形のない未来を書き留める音が、同じ風の中で混ざり合っている。
その一角で、一人の職人が長いあいだ筆を止めていた。
ハートヌスだった。
日頃ならば槌や鑿を握るための太い指が、今日は細い筆を持っている。その姿にはどこか収まりの悪さがあった。柄の重さや刃先の角度ならば、手へ渡された瞬間に良し悪しを確かめられる。鉄の温度なら色を見ればいい。打った時に返ってくる音を聞けば、内部に残る歪みも読める。
だが、短冊へ何を書くべきかとなれば、そうはいかない。白い紙は薄く軽く、火に入れて鍛えることも、槌で叩いて形を整えることも、書いた文字を削って鍛え直すこともできない。
それでも彼は、周囲の喧騒から少しだけ距離を置くように腰を下ろし、短冊の上へ筆を運んでいた。太い指に対して、筆先の動きは意外なほど慎重だった。一文字を書いては止まり、その形を眺め、次へ進む。鍛造の途中で鋼の表情を確かめる時とよく似た間がある。……やがて、最後の文字を書き終えると、ハートヌスは筆を置いた。
「……ふう」
ハートヌスは短冊から目を離さなかった。
彼の手は、多くの武器を扱ってきた。黄金裔が戦いへ持ち出す武具を整え、欠ければ直し、鈍れば研ぎ、次に振るわれる瞬間へ備える。
武器についた傷は、時に持ち主の言葉よりも雄弁だった。刃の欠け方、柄の摩耗、打撃を受けた角度。どのような戦い方をし、どの瞬間に躊躇い、どこで無理をしたのか。鉄へ残された痕跡には、それを使った者の癖が染み込む。
あのエスカトンの渦中で、最後に彼が手を入れたものの一つには、天外から訪れた異邦人の槍もあった。あの時のことを、ハートヌスは鮮明な言葉にしようとはしなかった。
金織によって束の間つなぎ止められた平穏は、押し寄せた暗黒によって踏み潰された。戦える者は武器を握り、戦えない者も生き延びるために手を尽くした。あの時、オクヘイマに満ちていた願いは、紙へ書く必要すらなかった。
生きたい。救われたい。世界に明日があってほしい。――黄金裔たちが、火を追う使命を果たし、この終末を越え、壊滅に脅かされない未来へ連れていってほしい。
誰もが、似た願いを抱えていた。大きすぎる願いだった。一人の人間の暮らしも、故郷も、明日の食卓も、そのすべてを丸ごと呑み込んでしまうほどの願いだった。そしてそれは、多くの代償を払いながらも成し遂げられたのだと、ハートヌスは知っている。
だから今日、「自由に願え」と言われて困った。世界が滅びませんように、ではない。英雄たちが勝ちますように、でもない。それらがひとまず過去へ置かれた後で、では自分一人は何を望むのかと問われた時、答えがすぐに出てこなかったのである。短冊の端を親指でゆっくり撫でた。
「おれは、鉄を打てればどこでもいいと思っていた」
キャストリスは急かさず、続きを待った。
「炉があり、槌があり、素材がある。仕事ができるなら、それでいい。土地など関係ないとな」
彼らしい考えだった。工房や土地が変わっても、炉の癖や鉱石、燃料、空気の違いを読み取り、その場にあるものを活かして鉄を打つ。それが鍛冶師の技術であり、覚悟なのだと思っていた。
ハートヌスは、その技術と覚悟があれば充分なのだと思っていたのだろう。だが、短冊へ願いを書こうとした時、真っ先に浮かんだのは新しい炉でも未知の素材でもなかった。
「だが、あの山岳の……故郷の工房で再び鉄を打てれば」
そこで声がわずかに途切れ、風が吹き抜けて短冊の角を揺らした。彼は飛ばされぬよう紙を押さえ、それから低く続けた。
「そう思えた自分に、驚いた」
キャストリスはすぐに慰めの言葉を挟まず、ハートヌスの短冊へ一度視線を落とした。それから大講義場の外へ目を向ける。
広場の向こうでは、組み直された足場や、まだ壁のない建物の間を、材木や石材を運ぶ人々が行き交っていた。完成には遠い。それでもそこに響くのは、壊すためではなく、これから人が暮らす場所を築くための音だった。
「そう、ですね」
キャストリスの声は静かだった。
「あの旅路では、なかなか考える時間がありませんでしたが……わたくしも、エイジリアの小さな花を思い出すことがあります」
「花を?」
「ええ」
彼女の口元に、ごく淡い微笑が浮かんだ。故郷という言葉は、かつての彼女にとって、失われた土地や戻れない場所、そこへ置いてきたものを意味していた。
「私たちはいま、故郷を懐かしむ気持ちを……ようやく抱けるようになったのでしょう」
ハートヌスは返事をせず、しばらくその言葉を受け止めていた。
故郷を思い出すことは、失ったものを数えることだと思っていた。戻れない場所を振り返れば、そこに残してきたものまで、否応なく胸の内へ引き戻される。だから彼は、これまで故郷について多くを語らなかった。語ったところで、崩れた炉が元に戻るわけでも、失われた道が開くわけでもない。ならば、いま手の中にある鉄と、目の前の仕事へ意識を向けていればいい。そう考えていた。
だが、キャストリスの言葉を聞いていると、それだけではなかったのだと思えてくる。
故郷を懐かしむことは、過去へ縋ることではない。そこにあった暮らしを、そこで過ごした時間を、自分の中へもう一度迎え入れることだ。失ったものを失ったまま認め、それでもなお、いつかその場所へ足を運べるかもしれないと考えること。戻れないかもしれない場所を思い浮かべながら、それでも明日を生きること。それは、戦いの最中には持てなかった感情だった。
あの頃は、振り返る余裕などなかった。背後から迫る暗闇を見ないために、前だけを見ていた。槌を振るい、刃を整え、次に戦う者が少しでも長く立っていられるようにする。それだけで一日が終わり、また次の日が来た。故郷を思い出す暇があるなら、誰かの武器を直せばいい。失ったものを惜しむ暇があるなら、まだ残っているものを守ればいい。
そうしているうちに、思い出すことそのものを、自分から遠ざけていたのかもしれない。やがて、短冊へもう一度目を落とす。
そこに記された文字は、相変わらず不格好だった。筆を扱うことに慣れていないせいで、線の太さも揃っていない。けれど、書き直そうとは思わなかった。
この文字もまた、いまの自分が残したものだ。炉の火に晒され、槌に打たれ、幾度も形を変えてきた鉄と同じように、願いもまた、ここへ至るまでの時間を抱えている。迷い、ためらい、ようやく形になった。その痕跡まで消してしまえば、願いはきっと、別のものになってしまう。
ハートヌスは短冊の端を親指でなぞった。故郷を思い出せるようになった。そして、そこへ帰りたいと思えるようになった。その二つは、似ているようでいて、少し違う。前者は過去へ向けた感情であり、後者は未来へ向けた願いだった。
「……そうか」
太い指が紙を折らぬよう、わずかに力を緩めた。
「そうかもしれない」
故郷へ帰れるかどうかは、まだ分からない。昔と同じ工房が残っている保証もない。炉が崩れているなら直さなければならず、道が失われているなら切り拓かなければならない。実際に戻れたとしても、記憶の中と同じ景色が迎えてくれるとは限らない。
それでも、「もう一度そこで鉄を打ちたい」と考えられた。そのこと自体が、昨日までとは違っていた。生き延びることだけで埋め尽くされていた未来へ、ひとつの場所が現れたのである。
ハートヌスは腰を上げ、短冊を握ったまま、周囲で願いを結ぶ人々へ目を向けた。少し離れた枝では子どもの書いた紙が風に舞い、その下では大人が結び目を直している。誰かが願いを声にして笑い、誰かは人に見られぬよう紙を伏せていた。世界を救うほどの願いでなくとも、ここへ持ってきていいのだ。
「せっかくですから、一緒に結びに行きませんか。ハートヌス様」
キャストリスは自分の短冊を胸元へ抱き、ハートヌスはその手元へ一度目を向けた。
「お前も書いたのか」
「はい」
「何を?」
問われると、キャストリスは紙をわずかに自分の方へ寄せた。
「結んでからのお楽しみにいたしましょう」
「ああ。ご同道に与ろう、生と死の聖女よ」
その答えに、ハートヌスは低く喉を鳴らした。笑ったのかもしれない。二人が若木へ近づくと、それを見つけたイカルンが枝の間から舞い降りてきた。
「ぷるるっ!」
忙しく飛び回っているというのに、まだ元気は有り余っているらしい。石床へ降り立つ直前に翼を大きく広げ、ふわりと減速すると、二人の前で胸を張る。短冊を結ぶ役目なら任せてください、とでも言いたげだった。
「ふふ。お願いいたしますね」
キャストリスが微笑み、ハートヌスも自分の短冊を差し出した。イカルンはまずハートヌスの紙を受け取り、若木へ向かって舞い上がる。
広がり続ける枝のうち、まだ短冊の少ない場所を探し、何度か小さく旋回する。やがて太さの充分な枝を見つけると、鼻先と前脚を器用に使って紐を回した。結び目が締まり、風を受けた短冊がゆっくりと揺れる。大きな音も、炉へ鉄を入れた時のような炎も、槌で打った時のような手応えもない。それでもハートヌスは、枝へ結ばれた紙から目を逸らさなかった。
「……いいものだ」
「……ええ。本当に、その通りですね」
ハートヌスの願いは、風に揺れる他の短冊と触れ合い、紙と紙が擦れるかすかな音を立てた。キャストリスもその様子を見上げ、二人の願いが同じ枝の上で静かに並んでいることを確かめるように、目を細めた。
故郷の工房で再び鉄を打ちたいという願いは、世界の命運を左右するものではない。叶わなくても、明日すぐに誰かが困るわけではない。だからこそ、それを願えることには、別の重さがあった。生き延びた後のことを考え、いつか戻りたい場所を思い描き、終末の向こうに自分自身の暮らしを置ける。その変化を証明するように、短冊は陽射しを受けて静かに揺れていた。
広場では、再建の音と願いを書く筆の音が重なり、新しい暮らしの響きが生まれていた。その頃には、ヒアンシーの手元へも次々と短冊が集まっていた。
「こちら、高いところでお願いします」
「はい! イカルン、もう一枚お願いできますか?」
「ぷるっ!」
「これは自分で結んでもいいのかい?」
「もちろんですよ。届きそうな枝でしたら、お好きな場所へどうぞ!」
人々が何を書いたのかを、すべて読むつもりはなかった。見せたい者は自分から話してくれるし、見せたくない者は、そのまま結べばいい。
それでも短冊を受け取る一瞬、指先からは、その人なりの迷いが伝わってくるようだった。紙の端を何度も撫でた跡。強く握りすぎてついた小さなしわ。墨が乾くのを待ちきれなかったのか、わずかに滲んだ文字。どの紙にも、その一枚を書くために費やされた時間が残っていた。
「叶えて差し上げる力までは、わたしにはありませんけれど……お話でしたら、いつでも聞けますからね!」
ヒアンシーがそう言うと、短冊を差し出した女性が一瞬驚いた顔をした後、ふっと肩を下ろして笑った。
「それだけでも、ありがたいよ」
その言葉を受け取りながら、ヒアンシーは短冊を大切に預かった。意図して始めたことではなかったが、願いを聞き、短冊を預かり、枝へ送る役目を続けるうちに、いつしか人々は彼女へさまざまな話をするようになっていた。
新しい店を開きたい。故郷へ帰ってみたい。畑をもう一度作りたい。今度は家族へきちんと謝りたい。大きなものも小さなものも、そのどれにも、昨日より少し先の時間が含まれていた。
「語る場所がなかっただけで、皆さんの胸には、こんなにもたくさんの願いがあったのですね!」
ヒアンシーが思わず声を弾ませると、すぐそばで一本の枝を整えていたキャストリスが振り向いた。
「ええ……そうなのかもしれません」
彼女は、先ほどから結ばれた短冊の紐を確認していた。少し緩んだものは直し、枝へ食い込みそうなものは位置をずらす。人の結び方を尊重しながら、元の形をなるべく残したまま、落ちないようそっと支えていた。その指先の動きを見ていたヒアンシーは、彼女の手元にまだ一枚、短冊が残っていることに気づいた。
「あっ、キャスたんのもまだでしたね!」
「はい。ハートヌス様のお話をしているうちに、少し後になってしまいました」
「では、見せていただいても?」
「もちろんです」
キャストリスはためらうことなく短冊を差し出した。そこに並んでいる文字を読んだ瞬間、ヒアンシーの口元が自然と綻ぶ。
『大きな蕾がつきますように』
「ふふっ、キャスたんらしいですね!」
からかっているわけではなかった。本当に、キャストリスによく似合う願いだと思ったのだ。世界を救うことでも、死を遠ざけることでもない。ほんの小さな植物がきちんと育ち、大きな蕾をつけてほしい――そんなささやかな願いを、彼女は静かに見つめていた。
「大きなことではありませんが……きちんと育ってほしくて」
「この前植えた苗ですよね?」
「はい。とてもうつくしい、淡いピンクのお花が咲くのだそうです」
大講義場から少し離れたところに、その苗はある。
再建の合間に植えられたばかりで、まだ茎も細い。風が強ければ頼りなく揺れ、葉もそれほど多くない。それでも土へ根を下ろし、陽の当たる方へ小さな葉を伸ばしている。
「あの苗は、朝の光が一番よく当たる場所を選んだのですよ」
キャストリスの声は穏やかだった。花を咲かせることだけを願っているのではない。光の当たり方を確かめ、根を張れる場所を選び、水を与え、育つ時間を待つ。
ヒアンシーはその姿勢に、キャストリスらしさを感じていた。物を置く時も、人を支える時も、彼女は先の余白を残そうとする。今すぐ完成させるのではなく、この先で形を変えられるように。傷んでも直せるように。育つものが、育っていけるように。だから彼女の願いもまた、未来に残された小さな蕾のようだった。
「蕾がついたら、皆で見に行きましょうか」
ヒアンシーがそう言うと、キャストリスは一瞬だけ目を丸くした。それから、花が開くよりも控えめに、けれど確かに頬を緩める。
「ええ。その時にはきっと、もっと賑やかな広場になっているでしょうね」
「楽しみです! ちゃんと咲いたら、お祝いもしちゃいましょう!」
「お祝い、ですか?」
「もちろんです。せっかくの初めてのお花ですから!」
ヒアンシーの勢いに、キャストリスがくすりと笑う。その笑い声へ呼ばれたように、イカルンが足元まで戻ってきた。
「ぷるるっ!」
「あら、イカルン。キャスたんの短冊もお願いできますか?」
「ぷる!」
キャストリスは短冊を両手で持ち直し、名残惜しそうに文字へ目を落としてから、イカルンへ預けた。白い小さな翼が開き、短冊を受け取ったイカルンは、色とりどりの願いが揺れる枝の間へ舞い上がっていく。ヒアンシーはその姿を目で追った。
少し先には、先ほど結ばれたハートヌスの短冊がある。故郷で、もう一度鉄を打ちたいと願った者。その近くへ、いつか花が大きな蕾をつけることを願う紙が加わる。
どちらも、かつてなら後回しにされていたかもしれない。世界が滅びようとしていた頃なら、あまりにも小さく思えたかもしれない。
けれど今は違う。故郷へ帰りたいと願っていい。工房の火をもう一度灯したいと願っていい。一輪の花が育つことを待ってもいい。その花が咲いた時、皆で見に行こうと約束してもいい。
ヒアンシーは枝へ結ばれていく二枚の短冊を見上げながら、胸の奥へ満ちてくる温かさを、そのまま笑顔へ変えた。明日を迎えるためだけに生きるのではなく、明日の中で何をしたいのかを考えられるようになった。人々が取り戻しつつあるものは、きっと、そういう時間なのだろう。
風が若木を渡り、ハートヌスとキャストリスの短冊を揺らした。故郷の炉と、まだ咲いていない花。異なる二つの願いが同じ枝に並ぶ光景を、ヒアンシーは嬉しそうに見上げた。どちらも、この世界が続いていくことを信じているからこそ抱ける願いだった。