閉ざされていた空が開かれ、オンパロスの人々は初めて本当の夜を見上げていた。
星々の輝き、月の静寂、昼と夜の巡り――それらは単なる美しい景色ではなく、世界が星海の一部であることを示す失われた基準だった。アナイクスは教師として、そして神悟の樹庭の学者として、ケファレの暦と黎明のミハニが果たしてきた役割を語りながら、閉ざされた箱庭の生活と、これから始まる新たな観測の意味を明らかにしていく。
その講義の先で、ファイノンはようやく、自分へ向けられていた答えに気づくのだった。
見上げれば、そこに宇宙がある。
そのあまりにも当然の事実が、この夜のオンパロスでは奇跡に等しかった。剣で勝ち取ったものでも、神託として授けられたものでもない。誰かが命を燃やし、誰かが記憶を繋ぎ、誰かが歩みを止めなかった末に、ようやく開かれた景色。
頭上の星々は、凱旋の太鼓を鳴らしはしない。代わりに、ぱち、ぱち、と遠い焚き火のように瞬きながら、彼らがここにいることを静かに認めていた。
「……あれも、どこかの世界なのですね。わたしたちが知らなかっただけで、ずっと、あそこにあったのですね……。」
零れた声は、夜気に溶けた。誰もすぐには答えない。ただ、いくつもの頷きが、星明かりの下で小さく揃う。
アナイクスとファイノンのやり取りで滲んだ世界の輪郭を、そうして人々は理解していく。自分たちは、神話の内側に閉じ込められた民ではない。宇宙に浮かぶ無数の世界のひとつに生き、これからも星海の一部として名を刻んでいく存在なのだと。
いま頭上にあるものは、誰かが生きている証のように瞬き、消えず、また灯る。ファイノンはその光を、ただの現象としてではなく、誰かの息遣いのように感じていた。遠く離れた場所で、誰かが笑い、誰かが語り、誰かが明日を思い描いている。その気配が、夜空いっぱいに広がっているように思えた。
だから彼は、開拓者の言葉を思い出したのだ。星は、お喋りをしているのだと。そうしてその言葉は、ファイノン自身も意識しないまま、夜気の中へこぼれ落ちた。
「
独り言にしては少しだけ明るく、誰かへ向けた言葉にしては行き先が遠かった。いや、遠いというか、たぶん僕の中で誰に語りかけようか迷子になってるだけだ。こういうとき、ちゃんと相手の顔を思い浮かべて話せばいいのに、どうしても空に向かってしまう。
僕は首を少し傾けて、星を追う。瞬きみたいに光るやつと、やけに堂々と居座ってるやつがいて、見ていると妙に性格がありそうで困る。あれは絶対おしゃべりしてくれるタイプで、あっちは無口なタイプだ。見知った顔を勝手に当てはめていた自覚はあるけど、まあ、誰にも怒られないだろう。
そんなふうに、どうでもいいことを考えていると、胸の奥に別の景色が浮かんでくる。今見上げている夜とは違う、もっと遠くて、もっと騒がしくて、でもどこか似ている旅路。その瞳の奥では、いま見上げている夜とは別の旅路が、静かに瞬いていた。
『私たちみたいに、お喋りしてるんじゃない? 遠くにいたって、私はファイノンやキュレネの言葉を聞き逃さない自信があるよ!』
『さすがに、物理的な距離までは縮まらないんじゃないかな……?』
『もう、あんたって子は! そういう嘘は言わないの!』
『嘘じゃないもん! なのかも丹恒も、そう思うでしょ!』
『そういう気概だ、という話だろう。』
『それならうちだって負けないんだから! もちろん、あんたたちが助けを求めてくれたら、うちらが絶対に助けに行くよ。歳月の祝詞だって、カンペキに覚えておくからね!』
『なら君たちが困ったときは、僕らが助けに行くよ。いつでも呼んでくれ。』
『だから……はぁ』
それは、星穹列車の窓辺で交わされた、束の間の会話だった。
黄金裔の旅路。オンパロスの物語。“紡がれた物語”を綴じる前。キュレネが黄金裔たちを呼び集め、わずかな猶予を彼らへ手渡してくれた時のことだ。あの短い時間の中で、ファイノンは相棒と呼んだ少女の隣に立ち、窓の外に広がる銀河を見上げていた。
あのとき彼女は、いつもの調子でそれを語った。遠く離れていても、声が届かなくても、光が瞬くなら、そこにはきっと誰かの合図があるのだと。理屈として正しいかどうかなど、彼女は気にしていなかった。ただ、そう信じているという確かさだけが、その言葉にはあった。
ファイノンは、その横顔を見ていた。説明ではなく、感覚で世界を掴むその在り方を、どこか眩しいもののように感じながら。彼女がそう言うなら、そうなのだろうと、自然に思えてしまう自分にも気づいていた。
星穹列車の窓に映る銀河は、彼女たちにとっては旅路の景色だったのだろう。だがファイノンにとって、それはまだ遠いものだった。オンパロスの民にとっても同じだ。絵本のページよりも遠く、神話の余白に描かれ、祈りの果てに想像するしかなかったもの。
ファイノンは、少し目を細めた。白銀の睫毛に星明かりが触れ、淡い影を落とす。視界の奥で、紫の光がゆっくりと流れている。その動きを追いながら、彼は自分の内側に意識を向けた。疲れきった魂の奥で、永く、長く、凍っていた何かが、わずかに軋む。
ぎい、と小さく扉が開くような感覚。確かにそこにあるのに、触れれば壊れてしまいそうで、彼は無意識に息を浅くした。壊滅の炎ではない。すべてを焼き尽くす終焉の残滓でもない。これは、何だという問いは浮かぶが、答えはまだ形を持たない。ただ一つ分かるのは、この光が、自分の知る終わりの色ではないということだった。
ファイノンは、もう一度空を見上げる。紫の銀河は、静かに、しかし確かにそこに在り続けている。誰かの意思で灯されたもののように、消えずに。
その光を見つめながら、彼はふと、開拓者たちの言葉を思い出した。遠く離れた場所からでも、声は届くのだと。見えない距離の向こうにも、確かに生きている誰かがいるのだと。――だからだろうか。この夜の光は、彼には、どこかから返ってきた返事のように思えた。
「どれのことです?」
「アナイクス先生」
隣から届いた声に、ファイノンは視線だけを少し下ろした。
先ほどまでの会話の流れからして当たり前ではあるけれど、声の主はアナイクスだ。神悟の樹庭の教師は、感動を感動のまま抱いておくには、少しばかり理に忠実すぎる人物だった。ただの人のように感動したり、憂慮したり、センチメンタルになる時はあったとしても、その熱はすぐさま理知で解こうとする。回帰の記憶をいくつか引き継いだ今でも、その性質は相変わらずだった。
彼の瞳にも、確かに星空は映っている。だが、その奥ではすでに、光度、距離、熱量、観測条件、再現性――そうした無数の言葉が、静かに並び始めているのだろう。なんだか安心するなぁ、とファイノンは思った。
「あれと、あれだよ。ほら、先生から見て左側の……少し遅れて、ちかちかしてて、――まるで、光で返事してるみたいに見えるやつ」
恩師の肩を抱き、出来るだけ視線を合わせてから誘導する。夜空の一点を示すその手つきは、剣を構える時よりもずっと慎重だった。まるで、強く指し示せば星が驚いて隠れてしまうとでも言うように。彼の指先の先で、紫の渦に沈んだ小さな光が、またひとつ瞬く。
「ああ、あれですね。見えました。――なるほど、興味深い現象です。スクリューガム氏から聞き及んだ一説によると、熱による光源が発生することで遠方まで光が届き、観測者の位置や空の揺らぎによって明滅しているように見える可能性が、」
やっぱり、そう来るよな、とファイノンは内心で苦笑した。言葉が理へと滑り出す、その癖のようなものが、どこか懐かしくて、少しだけ心が軽くなる。
「――っ待ってください、アナイクス先生! それじゃあロマンがありませんよ。今はただ、この星空の景色を堪能したいので、考察や検証は神悟の樹庭が再生してから存分に行ってください。わたしも及ばずながら、“助手教授”として先生の研究のお手伝いをしますから!」
ヒアンシーの声が、ころん、と夜の中で弾んだ。制止というには柔らかい。けれど勢いだけは見事なものだった。
彼女は両手を胸の前でぎゅっと握り、アナイクスの講義が本格的に始まる前に、まるで薬瓶の蓋を締めるような素早さで言葉を差し込んでいる。桃色の髪が肩先でふわりと揺れ、近くにいたイカルンも、分かったような顔で小さく羽を震わせた。
そのやり取りに周囲から、小さな笑いがこぼれた。
くす、くす。ふふ、と誰かが息を漏らす。
少し遅れて、別の誰かの肩が揺れた。
ファイノンは、その笑い声を聞いてわずかに息を止めていた。
星のおしゃべりよりも、今はそちらの方が鮮明だった。終末の最中には聞こえなかった音。剣戟でも、崩落でも、嘆きでも、祈りでもない。
妖精たちの歌声も、かわいらしい音階も、すべてはさざ波の向こうに置き去りにして。ファイノンの中に反響していたのは、絶望と憎悪が渦を巻き、身を焦がす音ばかりだった。だからこそ、今ここにあるこの音が、ひどく不思議に思えた。
誰かが誰かを止め、誰かが少し不満そうに黙り、周囲がそれを見て笑う。ただそれだけの音。それだけのはずなのに、胸の奥に、静かに触れてくる。
胸の奥には、いつも火がある。壊滅の熱も、ナヌークの血がファイノンの魂に融けてしまった以上はもう消えたことはないだろう。だが今、その熱は彼を焼くものではなく、ただそこに在るものとして静かに揺れていた。神話の重圧も、いつの間にか肩から少しずつ離れている。誰かに剥がされたのではなく、長く握りしめていたものを、ほんの少しだけ緩めるような感覚だった。
砂を掴んでいた手のひらから、さらさらと力が抜けていく感覚がある。こぼれ落ちたものは、もう戻らない。それでも、空になったはずの掌に、かすかな光が残っている気がした。
「ごめんよ、ヒアンシー。先生も、またあとで話そう。僕でよければ、付き合うよ。天外の話も、いくらかは出来そうだし。」
ファイノンは笑った。困ったように、けれどどこか嬉しそうに。
彼にとって、アナイクスの説明が嫌だったわけではない。むしろ、知ろうとすることは尊い。空に理を求める者がいるなら、オンパロスはもう神話の中に閉じてはいないということでもある。だが、この夜ばかりは、まだ答えを急がなくてもいい気がした。
星がなぜ瞬くのか。
光がどれほどの時間をかけて届くのか。
宇宙の彼方に、本当に誰がいるのか。
それらはいずれ、誰かが机に向かい、黒板に線を引き、論文を書き、議論し、時には喧嘩をしながら明らかにしていくのだろう。神悟の樹庭が再び枝葉を伸ばしたなら、アナイクスはきっと真っ先にその問いを拾い上げる。ヒアンシーは助手教授として目を輝かせ、分からないところに付箋を貼り、イカルンは資料の山に埋もれて鳴くに違いない。
そんな光景を思い浮かべながら、ファイノンは静かに息を吐いた。自分がそこに立つ必要は、もうないのかもしれない。それでも、彼らがその場所へ辿り着くまでの道筋を、ほんの少しだけ照らせるなら、それでいいと思えた。
(――そうだろう? キュレネ)
すう、と夜気が胸に入る。冷たいはずの空気は、少しだけ甘い。どこかで供された果実水の香りが混じっているのかもしれない。あるいは、救われた世界にだけ漂う錯覚のようなものかもしれなかった。
ファイノンは、その甘さを確かめるようにもう一度息を吸い、ゆっくりと吐いた。胸の奥に残っていた緊張が、わずかにほどけていくのを感じる。
「む……」
生徒たちの言葉を受けて、アナイクスは短く唸った。
薄緑を帯びた髪が、星明かりの下でかすかに揺れる。納得したわけではない。譲っただけだ。彼の沈黙には、後日三倍の密度で講義を返してくる気配があった――と、ファイノンもヒアンシーも半ば確信していた。
「先生、今だけですから!」
「今だけ、ですか」
「はい! 今だけです。今夜の星空は、まずみんなで綺麗だと思うところから始めたいんです」
ヒアンシーの言葉に、また笑いが重なった。ファイノンはそのやり取りを見守りながら、肩の力を抜いた。今この場に必要なのは、きっと彼女の言葉のほうなのだと、静かに思う。
ファイノンは、そっと指を下ろした。空を示していた手が膝の上へ戻る。指先に残るわずかな震えを、彼は見ないふりをした。まだ離したくはない。けれど、握り続けるには少しだけ力が足りない――そんな感覚が、胸の奥に静かに沈んでいる。誰もそれを咎めない。誰も気づかない。あるいは、気づいていても、この夜はあえて触れないでいるのかもしれない、と彼は思った。
度重なる火を負う旅の後遺症。それを危惧して何度も黄金裔たちを診察している医者――ヒアンシーに言えば、きっと叱られるだろう。
分かっている。分かっているからこそ、口には出さない。僕はやっぱり、往くべきだ。一度芽生えた思考は、彼自身の手の届かない場所で静かに根を張り続けている。だからファイノンは、誰にも言わないと決めていた。自分が砕け散る、その瞬間にさえ。