願いで枝を広げる若木のもとで、ハートヌスとキャストリスも自らの未来を短冊へ託した。
世界を救うことだけを願っていた日々を越え、鍛冶師は故郷の工房でもう一度鉄を打ちたいと知り、生と死の聖女は植えたばかりの花に大きな蕾がつくことを願う。故郷へ帰ることも、小さな花の成長を待つことも、明日が続くからこそ抱ける望みだった。
ヒアンシーは枝に揺れる二枚を見上げ、人々が「生き延びた先の時間」を取り戻し始めたことを感じていた。
故郷の炉と、まだ咲いていない花。先ほど結ばれた二枚の短冊は、若木の枝先で風に揺れながら、ほかの願いに混ざっていった。
ヒアンシーはしばらくその二枚を見上げていたが、広場へ新しい声が重なると、すぐに視線を戻した。短冊を手にした人々の列は途切れず、イカルンは休む暇も惜しむように枝と地上を往復している。
「ぷるるぅ!」
「はいはい、次はこちらですね!」
戻ってきたイカルンから空になった紐を受け取り、ヒアンシーは新しい短冊を預ける。とても忙しい。けれど、不思議と疲れている気はしなかった。
人の声が増えるたび、広場の空気が柔らかくなっていく。誰かが自分の願いを隠すように胸へ抱え、別の誰かは見せびらかすように高く掲げ、その隣では何を書けばいいのか分からないまま筆を持って笑っている。
同じ「願い」でも、その形や向き合い方は人それぞれなのだろう。願いが叶うかどうかは分からない。医術のように治療計画を立てられるものでも、薬を処方すれば届くものでもない。それでも、願えるということ自体が、人を少しだけ明るくする。そう考えていた時だった。人の流れの向こうから、ひときわ華やかな色彩が近づいてくる。
「あっ」
ヒアンシーは、すぐにその姿へ気づいた。アグライアだった。整えられた衣装の裾が歩みに合わせて静かに揺れ、陽射しを受けた装飾が柔らかな光を返している。
彼女が近づくと、市民たちは自然に道を空けた。それは恐れというより、長いあいだ黄金裔の中心に立ち続けた者へ向けられる、染みついた敬意に近いのかもしれない。けれど今日のアグライアには、統治者として場を制する硬さはほとんど見えなかった。
若木の近くまで来ると、彼女は衣装の裾を軽く払い、指先に持っていた白い短冊を持ち直す。その仕草ひとつまで端正で、何かの式典へ臨む前のようでもある。
「では、ヒアンシー。私の短冊もお願いします」
「はい! もちろんです!」
ヒアンシーは両手で受け取った。紙の質そのものは、ほかの短冊と変わらない。けれど、そこに記された文字には一目でアグライアらしさがあった。流れるように整い、文字と文字の間隔まで美しい。急いで書いた様子など微塵もなく、それでいて飾りすぎてもいない。ヒアンシーは、その内容へ視線を落とした。
『セファリアがファッションショーに付き合ってくれますように』
「……ふふっ」
世界の行く末でも都市の復興でもなく、アグライアが願ったのは、サフェルとファッションショーを楽しむことだった。その意外なほどささやかな願いに、ヒアンシーは思わず笑みをこぼした。
「何かおかしいですか?」
「いいえ! とってもアグライア様らしいなと思いまして」
「そうでしょうか」
「はい。とっても」
ヒアンシーが頷くと、アグライアは短冊へ一度だけ視線を落とした。目元には、ほんの少しだけ柔らかなものが浮かんでいる。
普段のアグライアにとって、衣服や装いは品格や印象、都市を代表する者としての責任を示すものだった。けれど、この短冊に込められているのは、誰かを安心させるためでも、黄金裔としての使命を果たすためでもない。ただ、大切な人と一緒に楽しみたいという、ささやかで私的な願いだった。
「サフェル様、付き合ってくださるでしょうか?」
ヒアンシーが尋ねると、アグライアは小さく息を吐いた。
「そこは、願いに頼るしかないのかもしれませんね」
「えっ?」
「誘っても逃げますから」
あまりにも淡々と言われたので、ヒアンシーは一瞬だけ返事に迷った。アグライアの口調には、サフェルを責める響きがほとんどなかった。まるで何度も同じやり取りを繰り返し、そのたびに同じ結論へたどり着いているかのような、妙に慣れた諦めが滲んでいる。逃げる、と言っても、本当に遠くへ行ってしまうわけではないのだろう。
誘われた瞬間だけ姿を消し、別の場所から様子を窺い、頃合いを見て何食わぬ顔で戻ってくる。そんなサフェルの姿が、ヒアンシーの脳裏に浮かんだ。
もしかするとアグライアは、すでに何度も彼女を捕まえようとして、そのたびに取り逃がしているのかもしれない。それでも懲りずに誘い続けるアグライアと、逃げると言いながら結局は近くにいるサフェル。二人の間には、ヒアンシーがまだ知らない長い積み重ねがあるようだった。
アグライアはあくまで静かだった。その落ち着きが、かえって事態の常習性を物語っている。ヒアンシーが何か続けて尋ねようとした、その時だった。
「誰が逃げるって?」
すぐ背後から、軽い声が飛んできた。ヒアンシーが振り返ると、いつの間に近づいていたのか、サフェルがすぐそこに立っていた。足音をほとんど感じなかったのは、さすがと言うべきなのだろうか。本人は驚かせたことなど気にもしていない様子で、にやりと笑っている。
「サ、サフェル様! いつからそこに……?」
「んー? 『逃げますから』くらい?」
「ほとんど全部ではありませんか!」
「あははっ」
サフェルは楽しそうに笑った。アグライアはそんな彼女を見ても驚かず、ただわずかに目を細めた。
「聞いていたのなら、ちょうどよいですね。セファリア」
「えっ、なに?」
「今度、ファッションショーに付き合ってください」
「やだ」
「即答なのですね……」
ヒアンシーは思わず呟いた。サフェルは肩をすくめる。
「だってさぁ、あたし、ずーっと立って着せ替え人形にされるんでしょ?」
「そんな言い方をすると、まるで私が無理やり衣装を着せているようではありませんか」
「違うの?」
「違います。あなただって、鏡を見るとき顔は満更でもなさそうに――」
「わー! わー! わー! わー!」
迷いのない返事だった。サフェルが慌てて声を上げ、アグライアの言葉を遮った。ぐぬう、とサフェルは、図星を突かれたことの方を気にしているらしい。しかし、すぐさま口元ににやにやとした笑みを浮かべながら、アグライアの手元を覗き込む。
「で? 短冊にまで書いたわけ?」
「ええ」
「うわあ。本気じゃん」
「願いとは本気で書くものでしょう?」
「そうだけどさぁ」
そう言いながら、サフェルはどこか楽しそうだった。断固拒否するなら離れてしまえばいいのに、アグライアの隣から動こうとはしない。その距離感が、ヒアンシーには妙に可笑しく見えた。その時、手元でさら、と紙の擦れる音がした。
「あら?」
アグライアから受け取った白い短冊の下に、もう一枚が重なっていることに気づき、ヒアンシーはそっとめくった。現れたのは、先ほどとはまるで違う短冊だった。紙の端には小さな猫の印があり、丸く勢いのある文字が並んでいる。アグライアの整った筆跡とは対照的で、同じ紙に書かれたとは思えないほど雰囲気が違っていた。
『たまにならいいけど? お魚いっぱい食べられますよーに!』
「……あっ」
ヒアンシーは短冊とサフェルを交互に見た。
「こちらは、サフェル様の?」
「そうそう」
サフェルは悪びれもせず頷いた。
「ふふっ、サフェル様らしいです。お魚、いっぱい食べられるといいですね!」
「でしょでしょ? 願うだけならタダだし、叶ったらもっといいし。ね、アグライア?」
話を振られたアグライアは、わずかに間を置いた。
「……私の短冊と一緒に持ってくる必要はなかったでしょう、セファリア」
「えー?」
サフェルが不満そうに声を伸ばす。
「だってアグライアが持ってくれた方が、落とさないでしょ?」
「自分で持っていてください」
「でもさ、短冊ってひらひらするじゃん?」
「紐があります」
「なくすかも」
「なくさないように持ちなさい」
「盗られるかも」
「あなたから?」
アグライアが静かに返す。一拍遅れて、サフェルが吹き出した。
「それはあるかも!」
「ご自分でおっしゃるのですね……」
ヒアンシーも耐えきれず笑ってしまった。サフェルはまるで気にした様子もなく、笑いながらアグライアの肩へ軽く寄りかかろうとする。
アグライアはそれを避けなかった。その代わり、ヒアンシーの手元にある短冊へ指を伸ばし、猫の印がついた紙の端をそっと整えた。少しだけしわが寄っている。
「せっかくの願いなのですから、しっかり綺麗に伸ばしておかなくてはいけませんよ」
「えー、読めるじゃん」
「読めればいいというものではありません」
「そう?」
「そうです」
アグライアの指先が短冊の上を滑る。押し潰すのではなく、紙を傷めないよう何度か端を撫でる。その仕草はあまりにも自然だった。
ヒアンシーは、ふと口元の笑みを深める。アグライアがサフェルの願いを持ってきて、サフェルはそれを当然のように預けている。内容は「魚をたくさん食べたい」。ほんのそれだけのことなのに、なぜだか胸が温かくなった。
永劫回帰の中で、人々が抱く願いはいつも大きすぎた。世界を救う。火種を継ぐ。都市を守る。生き残る。明日をつなぐ。そこに「一緒に服を見たい」とか「魚をいっぱい食べたい」といった、ささやかな願いが入り込む隙間など、ほとんどなかったのだろう。
けれど今は、こんなささやかな願いを短冊へ託し、誰かの願いを別の誰かが一緒に持ってきて、それを見て笑える。その変化は、若木が伸びる様子よりも静かで、それでもヒアンシーにはとても大切なものに思えた。
「では、こちらも大切に結ばせていただきますね」
ヒアンシーは二枚を揃え直した。
「アグライア様の短冊は……少し高いところがよろしいでしょうか?」
「ふふ」
アグライアが微笑む。
「私は何処でも構いませんよ」
「本当ですか?」
「ええ」
彼女は若木を見上げた。枝には、子どもの丸い文字や職人の力強い筆跡、震えた線、整った文字で記された短冊が、願いの大きさや形、書いた者の身分に関係なく、同じ風の中で揺れている。アグライアの視線も、そのうちのどれか一枚だけに向けられているわけではなかった。
「今こうしているだけでも、永劫回帰の中で薄れて、冷え込んでしまったと思っていた
彼女はそこで一度、静かに息をついた。
「それだけで充分です」
ヒアンシーは、すぐには返事をしなかった。アグライアの言葉よりも、話している時の表情に目を向けていた。大きく笑うわけでも、涙ぐむわけでもない。ただ、目元にはわずかな柔らかさが浮かんでいる。
永劫回帰について語る黄金裔たちは、いつもどこか遠くを見るような顔をしていた。繰り返された時間。失われたもの。同じ使命へ戻り続けた日々。ヒアンシー自身、それらをまだうまく言葉にはできない。
それでも、アグライアの言う「冷え込んでいた」という表現だけは、胸の奥へ静かに馴染んだ。暖炉の火は、世界を救わない。都市を照らす太陽ほど強くない。けれど、冷えた手を差し出せば温かい。誰かと同じ部屋で囲めば、少しだけ近くに座れる。たぶん、いま目の前で交わされている会話も、そういうものなのだろう。
「……はい。わたしも、そう思います」
声が、少しだけ柔らかくなった。その時、サフェルが横から顔を出した。
「なになに? なんか急にいい話になってない?」
「セファリアが魚の願いをアグライア様へ預けたところから始まったお話ですけれど」
「それ言われると締まらないなあ!」
サフェルが笑うと、重くなりかけていた空気はすぐにほどけた。その軽やかさが、今のヒアンシーには心地よかった。
「イカルン!」
「ぷるるっ!」
ヒアンシーが呼ぶと、枝の上で休んでいたイカルンが勢いよく降りてきた。
「こちらの二枚、お願いできますか?」
「ぷるっ!」
まず白い短冊を受け取り、それから猫の印がついた一枚も慎重に咥える。
「一緒の枝でいいよー!」
サフェルがすぐに言った。
「え?」
「だって一緒に持ってきたんだし」
アグライアが彼女を見る。
「……先ほどは、自分で持つのが面倒だっただけでは?」
「そうとも言う!」
「まったく」
アグライアは呆れたような声を漏らした。けれど、その口元はほんの少しだけ上がっている。イカルンは二枚の短冊を運び、若木の中ほどにある枝へ近づいた。白い短冊が先に結ばれ、そのすぐ隣へ猫の印の紙が続く。
風が吹くと、二枚の短冊は揺れた。アグライアの端正な短冊が比較的静かに揺れる一方、サフェルの紙は軽やかにくるりと向きを変え、隣の短冊へ触れる。さら、と紙の端同士が擦れ、もう一度風が吹くと、今度は紐が少しだけ絡んで二枚が近づいた。その様子を見上げ、ヒアンシーは小さく笑った。アグライアがそれに気づく。
「何を笑っているのです?」
「いいえ。ただ……短冊同士も仲良しさんだなと思いまして」
「仲良し? どれどれ~?」
三人で若木を見上げる。
風に揺れる二枚の短冊。白い紙と、猫の印。書かれている願いも、筆跡も、雰囲気もまるで違う。それでも、紐だけは仲良く絡み合っていた。アグライアは一度目を細めると、やがて小さく笑った。
「本当ですね。ふふ……紐が絡んで」
そこで、彼女の視線がサフェルへ移った。
「まるで、毛糸で遊んでいたら絡まってしまった時のセファリアのよう」
「ちょっ」
サフェルの耳が、目に見えてぴくりと動いた。
「いったいいくつの時の話してるのさ!」
「さあ。いつだったでしょう」
「覚えてるでしょ絶対!」
「どうでしょうね」
「アグライア!」
広場にサフェルの声が響くと、周囲にいた何人かが何事かと振り向いた。事情を知らないまま、それでも楽しげな二人の様子に笑みをこぼす。ヒアンシーも、つられるように肩を揺らした。
笑いながら見上げた枝では、二枚の短冊がまだ一緒に揺れている。ファッションショーに付き合ってほしい。魚をいっぱい食べたい。世界を救う使命と比べれば小さく、未来を左右する願いと比べれば些細なものだ。けれど、だからこそいいのだとヒアンシーは思った。
毎日を生きる人が抱く願いは、本来こういうものなのかもしれない。誰かと出かけたい。好きなものを食べたい。綺麗な服を着たい。笑ってほしい。また遊びたい。そんな小さな望みがいくつも積み重なった先に、「生きていたい」という気持ちは形を持つのだろう。
壮大な使命だけが人を未来へ連れていくわけではない。今日より少し楽しい明日を思い浮かべられること。来月の約束を考えられること。まだ見ていない服や、まだ食べていない料理を楽しみにできること。
それだって、充分に未来だった。ヒアンシーがそんなことを考えている間にも、サフェルはまだアグライアへ抗議していた。
「あの話は忘れてって言ったじゃん!」
「忘れるとは申し上げていません」
「ひどくない!?」
「可愛らしかったですよ」
「それが一番やだ!」
「ふふっ」
アグライアが笑う。その笑いは、統治者として人前へ見せる優雅な微笑みよりも、少しだけ柔らかく見えた。ヒアンシーは二人の間へ口を挟まず、その様子を眺めていた。
少し離れた枝では、ハートヌスの故郷とキャストリスの蕾が揺れている。こちらでは、服と魚。願いはどんどん違う形になっていく。けれど、不思議と若木の中ではどれも浮いて見えなかった。同じ枝に結ばれ、同じ風を受ければ、どれも一枚の願いになる。ヒアンシーは、それが嬉しかった。
願いには、格も優劣もない。誰かから見れば些細でも、その人が明日を楽しみにできるなら、それでいい。
若木を渡る風が、四人の黄金裔の短冊を順番に揺らしていく。故郷の工房。大きな蕾。ファッションショー。たくさんの魚。世界を救った英雄たちの願いとは思えないほど、日常的で、ささやかで、けれど確かにその人自身のものだった。
ヒアンシーは、胸の前でそっと手を組んだ。こんな願いがもっと増えていけばいい。明日の食事や、季節の花や、誰かと遊ぶ予定や、まだ知らない楽しみで枝がいっぱいになればいい。
世界を背負わなくても、誰かを救わなくても、自分のために未来を思い描ける。それこそ、この祭りで見たかった景色なのかもしれなかった。
頭上では、絡んだ二本の紐が風にほどけそうでほどけず、白い短冊と猫の印の短冊が、さらさらと小さな音を立て続けていた。まるで、二人の会話がまだ終わっていないことを知っているように。