故郷や花に続き、黄金裔たちの願いはさらに日常へ近づいてゆく。
アグライアが記したのは、セファリアとファッションショーを楽しむ未来。一方のサフェルは、魚をたくさん食べたいという自由な願いを彼女へ預けていた。
永劫回帰の果てで冷えていた感情が、暖炉のように再び灯り始めたと語るアグライア。二人の短冊が同じ枝で絡み合う様子を見つめ、ヒアンシーは、ささやかな楽しみを願えることもまた、人が未来を生きる証なのだと感じていた。
白い短冊と、猫の印がついた短冊は、風が通るたびに近づいたり離れたりしながら、まだ同じ枝で揺れていた。アグライアとサフェルの言い合いも、しばらくは広場の賑わいへ混じって聞こえていたが、次々と短冊を受け取るうちに、その声も人の波へ溶けていく。ヒアンシーは新しい紐を机へ補充し、空になった筆入れへ何本か筆を戻してから、ふと手元の枚数を数え直した。
午前中には、こんなに早く減るとは思っていなかった。短冊はまだ充分に用意してある。それでも、一束を使い切る速さは最初の想定を明らかに上回っていた。子どもたちだけでなく、大人も、職人も、黄金裔も、それぞれに紙を手に取っているのだから当然なのかもしれない。
ヒアンシーは新しい束を机の端へ置き、ずれた角を両手で揃えた。願いに大きさも格式も必要ないと伝えたつもりではいたけれど、人々が実際にここまで自由なものを書き始めるとは思っていなかった。故郷の工房、まだ咲いていない花、ファッションショー、たくさんの魚――それらはすべて、枝の上で同じ一枚の短冊として並んでいる。
ならば、この先はいったいどんな願いが来るのでしょう。ヒアンシーがそんなことを考えながら顔を上げたところで、人の流れの向こうから見慣れた人物が歩いてくるのが見えた。
「あっ、アナイクス先生!」
思わず声が弾む。アナイクスは片手を軽く上げて応じた。歩き方も表情も普段と変わらないが、手にしているものだけが妙だった。ヒアンシーが目を凝らすと、それは短冊の束だった。端はきっちり揃えられ、折り目ひとつなく、まるで講義資料のように整然とまとめられている。
「アナイクス先生も書いてくださったのですね!」
「ええ。儀礼参加における観測群の偏りを減らすためには、参加者の属性が一定以上多様である方が望ましいでしょう?」
「か、観測群……」
アナイクスは当然のように答えた。七夕の催しで聞くとは思わなかった単語に、ヒアンシーの笑顔がほんの少し固まる。アナイクスは気にする様子もなく、手元の紙束をわずかに持ち上げた。
「それに、何よりファイノンがくれたものです。使わない手はないでしょう」
「ああ……なるほど! ええと……たくさん参加してくださって嬉しいです!」
そこだけは、すぐに分かった。短冊を渡されたから使う。ただし、一枚では終わらない。そのあたりまで含めて、あまりにもアナイクスらしかった。ヒアンシーはまず、企画者として最も無難な感想を選んだ。
「ですが先生、これは……全部、願いなのですか?」
「定義次第ですね」
「定義次第」
「願望、目標、未解決命題、検証対象を、同一形式の紙片へ記載する行為を一括して『願いを書く』と呼ぶのであれば、そうなるでしょう」
ヒアンシーは、なるほど、と言いかけてやめた。分かったような、分からないような。けれど先生が楽しそうならよいのでしょうか、と考えかけたところで、アナイクスが一枚を抜き取った。
「もっとも、私のものは祭り向きの内容ではありません。なるべく人目を避けるか、そもそも結ばないかのどちらかにした方がいいでしょう」
「そんなに危ないことが書いてあるのですか?」
「危険性というより、興味を持たれた場合の説明が長くなることを懸念しています」
「そちらでしたか……」
ヒアンシーには、そちらの方が妙に納得できた。アナイクスへ一つ質問をすれば、答えが十返ってくることも珍しくない。しかも本人には長話をしている自覚が薄いこともある。
それでも、聞かずにはいられなかった。アナイクスは、よくぞ聞いたと言わんばかりにわずかに顎を上げた。
「何を願ったのです?」
「無論、未知の解明です。私は黄金裔である以前に、一学者なのですから、当然に持ち得る願いでしょう」
「やっぱり先生らしいです!」
ヒアンシーは短冊を受け取った。細く読みやすい文字で、神話性の検証やタイタンの権能が残した現象の再分類、既存理論では説明できない事象の仮説と再検証、反証可能性など、研究項目が紙面いっぱいに並んでいる。これでは一枚で収まらないのも当然だった。
「……先生」
「何でしょう」
「これはもう、願いというより研究計画書なのでは?」
「分類上の名称に拘泥する必要がありますか?」
「ありませんけどぉ……」
アナイクスは、ほんの少しだけ口元を上げた。からかわれたような気がする。ヒアンシーが短冊を両手で持ち直すと、隣へ来ていたキャストリスもそっと文字へ目を向けた。
「アナイクス先生らしい願いですね」
「願い、という呼称には若干の異論がありますが」
「では、目標でしょうか」
「そちらの方が適切でしょう」
キャストリスが静かに微笑む。そのやり取りを見ながら、ヒアンシーはもう一度、短冊へ目を落とした。
冒涜者と呼ばれ、神話へ疑問を投げかけ、処刑台へ立たされることになっても、それでも問いを手放さなかった学者。神がそう定めたから、昔からそう語られているから、誰も疑ってこなかったから――そんな言葉だけで納得せず、自分の目で確かめ、解き明かそうとした人である。
そう考えると、この文字の並びは確かにアナイクス自身の未来だった。
「……アナイクス先生らしい、目標ですね」
「そうでしょう」
「でも、先生もやっぱり願いはあるのですね」
何気なく口にした。すると、アナイクスの視線が短冊からヒアンシーへ移った。
「そこは訂正しておきましょう」
「え?」
「私にとって、願うことは無意味です」
声音に冷たさはなく、誰かの願いを否定する響きもなかった。ただ、学術用語を訂正する時のように淡々としていた。ヒアンシーは黙って続きを待った。
「願うこと自体が悪いとは言いません。心理的効用もあるでしょうし、目標の言語化が行動へ影響を与える場合もある。ここへ来ている者たちが、それによって未来を思い描けるのであれば、なおさら否定する理由はありません」
そこまで話してから、アナイクスは少しだけ目を細めた。
「ですが、私はどれほど祈っても、懇願しても、神に答えてもらえたことがなかった」
広場の喧騒の中で、アナイクスの声だけが不思議なほど静かに響いた。
「ですから、自分で解明してやろうと学者になったわけですが……どうやら天職だったようでして」
重くなりかけていた空気が、最後の一言でいかにもアナイクスらしい場所へ着地する。ヒアンシーは一瞬だけ目を丸くした後、ふっと息を吐いた。
「ふふっ。はい。わたしもそう思います」
「でしょう?」
自信に満ちた返事だった。その横で、キャストリスがわずかに頬を緩めた。
「かつてのオンパロスにおける、生と死についての見識もお見事でした」
「……貴女の協力もあってこそです。よく最良のタイミングで補足してくれました」
「まあ」
アナイクスはキャストリスへ視線を向けた。キャストリスの目が少しだけ丸くなり、それから花が静かに開くように微笑む。ヒアンシーは、その言葉をアナイクスなりの素直な肯定なのだと受け取った。
願わない。けれど、何も望んでいないわけではない。答えがほしいから調べる。分からないから歩く。未知があるから、明日もまた問い続ける。願いを神へ預けず、自分の足でそこへ行く――それが、アナイクスの選んだ道なのだろう。
「では、この短冊はどうしましょう?」
「研究内容が読める位置へ掲げて、後から質問攻めに遭う事態さえ避けられれば、どこでも構いません」
「それは結ぶということでよろしいのですよね?」
「ファイノンから渡された紙ですからね。形式上は参加しておきましょう」
「形式上!」
思わず声を上げたところで、遠くから明るい呼び声が飛んできた。
「アナちゃーん! ヒアちゃーん! キャスちゃーん!」
「あらっ」
その声音には聞き覚えがある。ヒアンシーが振り返ると、人の間を縫うように、小さな姿がこちらへ駆けてきていた。
「トリビー様!」
短い足でぱたぱたと石床を駆け、こちらへ手を振っている。その手には、短冊が三枚あった。
「あら、トリビー様! トリアン様やトリノン様はいかがなさったのですか?」
「いまは向こうのお手伝いをしてるの!」
トリビーはヒアンシーたちの前まで駆けてくると、弾んだ呼吸を整えながら、三枚の短冊を両手で掲げた。一枚は淡い色、一枚は星模様入り、そして最後の一枚は少し斜めに折れていた。
「三枚になっちゃったけど、いいかちら?」
「もちろんです!」
ヒアンシーが頷くと、トリビーは嬉しそうに三枚を広げた。
「ひとつは“トリスビアス”としてのものなの。ひとつは、あとで読む人がにこにこするものでね」
「はい」
「もうひとつは、迷子になった願いがここに来られるようにするものなの!」
「迷子になった願い……ですか?」
「うん!」
ヒアンシーは、最後の言葉に瞬きをした。トリビーは大きく頷き、説明するように短冊を胸元へ抱え直す。
「願いってね、言う前にどこかへ行っちゃうことがあるでちょう?」
「言う前に……」
「うん。あったはずなのに、言おうとしたら分からなくなっちゃったり。ずっとしまってたら、どこに置いたか分からなくなっちゃったり」
トリビーは困ったように眉を寄せる。けれど、その表情は悲しいというより、本当に迷子を心配している子どものようだった。
「だから、帰ってこられる場所があった方がいいと思ったの」
ヒアンシーは、返事をする前に一度息を止めた。可愛らしい言い方だった。願いが迷子になる。願いが帰ってくる。けれど、その意味を考えると、胸の奥へそっと触れられたような感覚が残る。
願いは、最初から言葉の形をしているとは限らない。何かがほしい、どこかへ行きたい、誰かに会いたい――そこまで輪郭を持てば短冊へ書ける。けれど、忙しさに沈んだり、叶わないと諦めて見えなくしたり、願う余裕がないと胸の奥へ押し込んだりして、言葉になる前に消えてしまうものもある。
医師として人と向き合う中で、ヒアンシーは何度もそれを見てきた。苦しくないと言いながら衣服の端を強く握る指。平気だと笑いながら浅くなる呼吸。自分でも説明できない不調を、身体だけが先に訴えていること。言葉にならないものは、存在しないわけではない。ヒアンシーには、それがよく分かっていた。
「見てもいいですか?」
「もちろん!」
差し出された三枚を、ヒアンシーは丁寧に受け取った。一枚目には明るい筆跡で、『みんなで、おいしいものを食べる日がたくさんありますように!』と書かれている。
「あっ、素敵ですね!」
「でちょう?」
トリアンのものだろうか。読んでいるだけで、丸い卓を囲む賑やかな食事の景色が浮かんでくる。
二枚目には、少し大きめの文字で、『この木を見た人が、ちょっとだけ元気になりますように。』と記されていた。
ヒアンシーは思わず若木を見上げる。たくさんの願いを抱え、風に枝を揺らしている木。それを見て、ほんの少しだけでも元気になれる人がいるなら――それもまた、この木がここに立つ意味になるのだろう。
そして三枚目は、余白が多かった。ほかの二枚より文字がずっと少なく、その一文だけが広い紙の中央に静かに残っているように見えた。
『まだ書けない願いも、ここに来られますように。』
ヒアンシーの指先が、ほんの少しだけ止まった。風に揺れる短冊の感触が、先ほどより鮮明に掌へ残る。まだ書けない願い。
書かないのではない。ないのでもない。まだ、書けないのだ。その違いが、胸の内へゆっくり沈んでいく。隣を見ると、キャストリスは三枚目へ目を落としたまま、まつ毛をわずかに伏せていた。アナイクスも軽口を挟まず、紙へ静かに視線を向けている。
二人の表情からそれ以上を決めつけようとはしなかった。ただ、三人の沈黙を不安に感じたのか、トリビーが少し首を傾げた。
「だめかちら?」
ヒアンシーはすぐに顔を上げた。
「いいえ!」
思っていたより大きな声が出た。自分でも驚き、少しだけ声を和らげる。
「……とても素敵です。とても、とても素敵な短冊です」
「よかった!」
トリビーの顔がぱっと明るくなる。ヒアンシーも笑った。けれど、三枚目を持つ指だけは、いつもより少し慎重になっていた。
トリビーは、絶望の淵にあったオンパロスで預言を伝え、火を追う旅の始まりへ人々を導いた聖女である。その小さな身体で誰かへ言葉を届け続けた人だからこそ、言葉になる前に消えてしまうものにも目を向けるのだろうか。ヒアンシーには断定できない。ただ、その願いを軽く扱ってはいけないと思った。
「イカルン」
「ぷる?」
「この三枚は、少し近くに結んでもらえますか?」
「迷子の願いが、見つけやすいように」
「ぷるるっ!」
枝の近くで待機していたイカルンが、ぱたぱたと翼を動かして近づいた。任せてください、と言うように胸を張るイカルンへ、ヒアンシーは三枚の短冊をまとめた紐を持ちやすいよう整えて、そっと渡した。イカルンはそれを慎重に咥え、翼を広げた。
「いってらっしゃい!」
トリビーが両手を振る。白い身体は若木の枝の間へ入り、短冊が密集している場所を避けながら、少し高い位置へ上っていった。
「そこそこ! うん、いいところ!」
トリビーの声を頼りにしたのかどうかは分からない。けれどイカルンはちょうどよい場所で身体を止め、一枚ずつ、近い枝へ三枚を結んでいった。
食事の日。木を見た人の元気。そして、まだ書けない願い。三枚は、同じ風を受けられるほどの距離へ並んだ。風が吹くと、紙の端が互いへ触れる。寄り添っているようにも、迷子にならないよう互いを確かめ合っているようにも見えた。
「わあ……!」
トリビーが嬉しそうに見上げる。ヒアンシーもその隣で、ゆっくり息を吐いた。
アナイクスのように、願う代わりに自分で答えを求める人がいる。トリビーのように、まだ答えどころか願いの形さえ持てないものへ、戻ってこられる場所を作ろうとする人もいる。
願い方は一つではない。書ける人だけの祭りでも、願う人だけの木でもない。いつか自分の中に何かがあったと気づいた時、その願いが帰ってこられる枝がここにあればいい。
ヒアンシーは、三枚の短冊が風に揺れるのを見上げた。特に三枚目の広い余白が、なぜかいつまでも目に残った。何も書かれていないのは空っぽだからではなく、まだ言葉になっていない何かが、いつかそこへ辿り着くためなのかもしれない。そう思うと、短冊の余白まで少しだけ優しく見えた。
若木の葉が揺れ、木漏れ日が短冊の上を滑っていく。ヒアンシーは胸に残ったものをゆっくりと息へ溶かした。迷子になった願いも、まだ名前を持たない望みも、今日でなくていい。今すぐでなくてもいい。いつか言葉になった時、ここへ帰ってこられればいいのだ。
わしの想像する先生なんでこんなに