願いが日常へ溶けていく中、アナイクスは短冊へ未知の解明を記す。神へ祈っても答えは得られなかった――ゆえに、願う代わりに自ら解き明かす。
それが学者の選んだ未来だった。一方、トリビーが届けた三枚目には「まだ書けない願いも、ここに来られますように」と綴られていた。
願いは、言葉になる前に迷子になることもある。ヒアンシーは三枚を近くへ結び、まだ名も持たない望みにも、いつか帰ってこられる場所を残した。
トリビーの三枚の短冊は、少し高い枝で寄り添うように揺れていた。
おいしいものを囲む日。この木を見た誰かの元気。そして、まだ書けない願いが帰ってこられる場所。風が通るたび三枚の端が触れ合い、さらり、と軽い音を鳴らす。その中でも余白の多い一枚が、ヒアンシーの目にはいつまでも不思議な存在感を残していた。
何も書かれていない場所は、空っぽなのではない。これから何かが辿り着くために残されているのかもしれない――そう考えながら見上げていると、隣からトリビーの明るい声が弾んだ。
「次はモスちゃんの番ね!」
「モーディス様も? ……まだお見えになっていないのでは……?」
「ふっふっふっ」
ヒアンシーが枝から視線を戻すと、トリビーは何か仕掛けを明かす時のように得意げに胸を張った。
「実はね、広場に入りきれない
「ああ、そうだったのですね!」
言われて周囲を見渡すと、確かに人はさらに増えていた。大講義場の中央だけでは収まりきらず、外周へ続く通路にまで短冊を手にした人々が並んでいる。自分で書いた紙を持って来る者もいれば、足腰の弱い家族から預かったものを大事そうに胸へ抱える者もいる。何枚もの短冊を束ねた子どもが人の隙間を縫って走り、その後ろから親が慌てて追いかけていた。
誰かが書いた願いは、別の誰かの手で運ばれ、最後には若木の枝へ結ばれていく。ヒアンシーはその流れに、薬包や手紙を預かる時とは違う、不思議な温かさを感じていた。
「天空の巫女よ」
「あっ」
低い声が、人混みの向こうから届いた。振り向くと、そこへ向かって人々が自然に道を開けていく。
歩いてきたのはモーディスだった。大柄な身体と重い足取りは、賑やかな祭りの中でもすぐに分かる。けれど今日の彼には、戦場で見慣れた威圧感とは違うものがあった。普段なら籠手に覆われている手が露わになり、指や手首にはきらびやかな装飾が添えられている。金属が陽射しを受けるたび、短い光が肌の上を滑った。
ヒアンシーは、モーディスの手へ目を留めた。戦うために鍛えられ、傷を重ねながら前へ出てきた拳。その手が今は、折れてしまいそうな薄い短冊を、驚くほど静かに持っている。
『この手が、守るために使われ続けますように。』
ヒアンシーは、無意識に短冊を持つ指の力を緩め、もう一度モーディスの手を見た。
戦いの傷や鍛えられた掌を持つその手が、今は薄い短冊を静かに支えている。けれど、そこに記されているのは「もう戦わずに済みますように」ではない。この手がこれからも、守るために使われ続けることへの願いだった。
「……モーディス様らしいですね」
ヒアンシーが言うと、モーディスは僅かに眉を動かした。
「そうか」
「はい。とても」
「そうか」
返事はそれだけだった。けれど、モーディスは短冊から視線を逸らさなかった。
ヒアンシーには、その沈黙以上を勝手に読み取ることはできない。ただ、拳を閉じることなく立っている彼の手は、戦場で見た時より少しだけ静かに見えた。
壊すために鍛えた力であっても、どこへ向けるかは選べる。その選択を、これからも続けたいということなのだろうか。そう考えながら、すぐ近くへ戻ってきたイカルンを呼んだ。
「イカルン、こちらをお願いできますか?」
「ぷるっ!」
イカルンが短冊を受け取って飛び立つ前、モーディスの前でほんの一瞬だけ顔を上げた。大きな男と小さなペガソースが向かい合う。その体格差が少し可笑しくて、ヒアンシーの頬が緩む。
「どこでも構わん。枝が耐えられる場所ならばな」
「でしたら、しっかりした枝を選びましょう!」
イカルンは一声鳴くと、幹から外側へ伸びた太めの枝へ向かった。短冊が結ばれると、風を受けても大きく暴れず、葉の間で静かに揺れ始める。
守るための手。その短い言葉が枝へ加わった直後、別の方向から空気がわずかに変わった。ざわめきが消えたわけでも、誰かが人々へ静かにするよう命じたわけでもない。それなのに、周囲の背筋が自然と伸びていく。
ヒアンシーも、振り向く前に誰が来たのか分かった。
「ケリュドラ様!」
オクヘイマのうら若く、いと尊き方が歩いてくる。小柄な身体でありながら、彼女が進む先には一本の道ができる。人々は畏れて逃げるのではなく、そこに統治者がいることを身体が覚えているかのように一歩ずつ場所を空けていった。
彼女はその反応を特別気にする様子もなく、真っ直ぐヒアンシーのもとへ来る。
「僕の分だ」
差し出された短冊を、ヒアンシーは自然と姿勢を正して受け取った。
「はい」
紙そのものは、他の者と変わらない。けれど、そこに記された文字には一画たりとも迷いがなく、命令書のように明瞭でありながら、読み終えた後には不思議な静けさが残った。
『民よ。明日を恐れず、己の名で歩め。』
その文字を追っただけで、ヒアンシーは背筋がもう一段伸びたように感じた。ケリュドラは、かつて黄金戦争を終結へ導き、火を追う旅の地盤を築いた人物である。
他国の侵攻によって追い詰められていたオクヘイマへ軍勢を率いて現れ、敵を退け、その実績と力によって都市の統治者となった。内部へ巣食う反乱分子を粛清し、元老院を抑え、乱れた世論を統制し、最初の火を追う旅を始めた。ヒアンシー自身が、その時代のすべてを直接見ていたわけではない。けれど、黄金裔として受け継がれてきた記録や、当人たちから聞いた言葉を通して、その歴史がどれほど苛烈だったのかは知っている。
命じなければ人が動かなかった時代。誰か一人が進む方向を決めなければ、国そのものが砕けかねなかった時代。その頂点に立った人が、いま願っている。
自分に従え、ではない。明日を恐れるな。己の名で歩け。
「カイザー……」
「願いというものは、命令とは違う。そう聞いた――……だが、僕が願うのは、ただそれだけだ」
「はい……!」
胸の奥で、何かが静かに締まった。
かつてなら、ケリュドラの言葉は命令として民へ届いたのだろう。進め。戦え。従え。生き残れ。都市を守るために、誰かが進む方向を示さなければならなかった。けれど今、彼女が願っているのは、自分に従わせることではない。人々が自ら明日を選び、統治者に道を敷かれなくても、己の名で歩いていける未来だった。
「きっと、皆さんに届きます」
ケリュドラは、ふっと口元を愉快そうに吊り上げた。威風堂々としたその笑みには、かつて国を率いた者だけが持つ揺るぎない自信と、ヒアンシーの言葉を面白がるような親しみが滲んでいる。
「届かせるのではない」
「え?」
「彼らが、自らそこへ至るのだ」
その声は、言葉は、ひどくケリュドラらしかった。最後の一歩まで手を引いて連れていくのではなく、自分の足でそこへ至らなければ意味がない。
「……はい。そうですね」
書かれている言葉は強いけれど、それは命令ではなかった。その違いが、これほど大きなものに見えるとは思わなかった。
わたしは、この人が命令ではなく願いとして未来を語るところを、ずっと見ていたかったのかもしれません。ふと浮かんだ思いに、ヒアンシー自身が少しだけ驚く。
カイザーが、もう誰かの運命を背負って道を決めなくてもよい未来。その先で、人々が自分の名前を持ったまま歩いていける未来。それは、今日ここでヒアンシーが見ている景色にも重なっていた。誰にも命じられず、それぞれが自分の言葉で短冊へ願いを書くこと。
「イカルン。こちらもお願いします」
「ぷ、ぷるっ」
いつもよりわずかに慎重な鳴き方だった。
イカルンはケリュドラを一度見上げ、それから短冊を受け取る。ケリュドラの言葉に、イカルンが翼をぴんと張った。
「そんなに緊張するな」
「ぷる……!」
「ふふっ。イカルン、大丈夫ですよ」
ヒアンシーが背を撫でると、イカルンの小さな身体から余分な力が抜けた。イカルンは飛び上がり、幹に近い太く安定した枝へ短冊を結ぶ。風が通っても紙は大きく乱れず、守るためではなく送り出すための言葉が、他の短冊を見守るような位置で静かに揺れた。
その光景を見上げていると、大講義場の入口側から淡い黒が近づいてきた。足取りは静かで、人混みの中を進む彼女の周囲だけ、水面のような穏やかさが生まれていた。
「セイレンス様」
淡い青を帯びた短冊が、彼女の手にあった。
角度が変わるたび、紙の表面へ波紋のような模様が浮かぶ。
「ドクターフィッシュ」
艶やかな深海の夜を閉じ込めたような髪をなびかせながらやってきたセイレンスが、いつもの呼び方でヒアンシーを呼んだ。
「ワタシも短冊とやらを書いてみた」
「セイレンス様。短冊、書いてくださったのですね」
「ああ。どうだろうか」
差し出された短冊を受け取ると、紙はひんやりしているように感じた。本当に温度が低いわけではないのかもしれない。ただ、淡い色と、水を思わせる模様のせいで、指先へ海風の記憶が触れたような気がした。
『砕ける前の波を、誰かが抱きとめられますように。』
短冊に記された願いを読み終え、ヒアンシーは顔を上げた。セイレンスは若木の向こう、枝葉の隙間から覗く空か、さらに遠くの海を見ているようだった。悲しげでも微笑んでいるわけでもない静かな横顔。その指が短冊からゆっくり離れる時だけ、ほんの少し名残が残っているように見えた。
「……セイレンス様らしい願いです」
わたしが言うと、セイレンス様はゆっくり瞬きをしました。
「波は、壊れてからでは遅いことがある」
「はい」
医師として、その意味はよく分かります。
身体も同じです。倒れてから治すより、倒れる前に休ませる方がいい。呼吸が完全に崩れてから支えるより、浅くなり始めた時に気づけた方がいい。痛みに耐えきれなくなってからではなく、「少し痛い」と言えた時に手を伸ばせた方がいい。
人の心についても、壊れる前にしかできないことがあるのだと、わたしには痛いほど分かりました。
「だが、砕ける前なら、まだ」
セイレンス様の声が、風の中へ静かに落ちる。
若木の葉が、さわりと揺れました。
「……あの青と金色のサンフィッシュにも、もうお前もワタシも、何処でだって泳げるようになったのだと伝えてやりたかったんだ」
胸の奥が、ごく小さく詰まりました。わたしはすぐには返事をできませんでした。
青と金色。その色を思い浮かべただけで、幾つもの記憶が輪郭を持ちかけます。けれど、ここでわたしが勝手にセイレンス様の言葉へ別の意味を加えてはいけないと思いました。
わたしが見たのは、彼女の視線が一瞬だけ遠くへ移ったこと。声の最後が、ほんの少しだけ柔らかくなったこと。そして、言い終えた後に、また短冊へ目を戻したことだけです。
隣にいたキャストリスの指が、膝の辺りでかすかに動いた。彼女も何かを思い出したのかもしれない。けれど、ヒアンシーには分からなかった。ただ、それ以上誰も急いで言葉を足さず、静かな時間だけが流れていった。
今日この木へ集まる願いは、美味しいものを食べたい、花が咲いてほしい、誰かと服を見たい、故郷へ戻りたい――そんな明るいものばかりだった。けれど、その中には、過去に触れた願いも混じっている。もう同じことが起きませんように。誰かが壊れる前に気づけますように。それは不吉だからではなく、失う痛みを知っているからこそ、今度はその手前で誰かへ手を伸ばしたいという願いなのだ。
「大切に結びますね」
やっと出た声は、思っていたより小さくなりました。
「ああ、頼む」
セイレンス様が頷く。
「イカルン」
「ぷるるっ」
イカルンは淡い青の短冊を受け取ると、どこへ結ぶか迷うように一度旋回した。それから、モーディスの短冊より高く、ケリュドラの短冊から少し離れた枝へ向かう。青い紙が結ばれると、風の中でほかの短冊よりゆっくり揺れ始めた。紙の重さや枝の向きが違うだけかもしれない。それでもヒアンシーには、波が砕ける直前の一瞬を、長く引き延ばしているように見えた。
三人の願いは、それぞれ異なる形をしていながら、誰かのために力を使い、その人自身が歩める余地を残し、壊れる前に手を伸ばすという一点で重なっていた。戦い、統治し、誰かの前に立ってきた彼らは、未来を自分だけで背負おうとはせず、守る手と歩く人と支える手が共にあることを願っていた。
モーディス様は、守るために力を使い続けたいと願っている。ケリュドラ様は、民が誰かに命じられるのではなく、自らの名で明日へ歩むことを願っている。セイレンス様は、誰かが砕けてしまう前に、手を伸ばして抱きとめられることを願っている。
三人の願いは、どれも誰かのためのものだった。けれど、相手の人生を奪ってまで救おうとするものではない。守る手は、相手が立ち上がる余地を残す。導く言葉は、相手が自分の足で歩く余地を残す。差し伸べる手は、「助けて」と言えない時でさえ、相手を抱きとめる余地を残す。
風が広場を渡り、無数の短冊が一斉に揺れた。紙の擦れる音が若葉の響きと重なる中、ヒアンシーは三人の願いを順に見上げる。
力強く記された文字。命令のようでいて、命令ではない言葉。淡い青の紙に残された、静かな祈り。英雄と呼ばれてきた人たちも、未来のすべてを自分だけで決めようとはしていない。ただ、守りたい、歩いてほしい、壊れる前に誰かが気づいてほしい――その願いだけを、枝へ預けている。
ならば、この若木はきっと、英雄の命令を掲げる木ではない。誰かが誰かへ残した、小さな余白を集める木なのだ。
ヒアンシーは胸元へ手を添え、ゆっくり息を吸った。紙と葉の匂い。石床の熱。遠くで焼かれている穀物の香ばしさ。人々の笑い声。そのすべてが、同じ午後の中にある。
戦いを知る願いが混じっても、この場所は暗くならなかった。むしろ、痛みを知る人が、それでも次は違う形を選びたいと願えることが、ヒアンシーには何より明るく見えた。
高い枝では、淡い青の短冊がもう一度ゆっくりと翻った。砕ける前なら、まだ。その言葉を胸の奥で繰り返しながら、風に揺れる三人の願いを、しばらく静かに見上げていた。
人格の根っこが虚無の運命を歩むセイレンスだからこそ、いち早く何かを察知するのではなかろうかと――こう、虚無虚無プリンしてるところとか。
個人的に思ってる、黄金裔お兄ちゃんお姉ちゃんのターン。サフェルさんもコッチ入れたかったんですけど、それはそれとしてそれ以上になんかもうアグライアとセットにしたかった(欲望に忠実)