願いの枝には、戦いを知る英雄たちの言葉も加わった。
モーディスは「守るために使われる手」を、ケリュドラは「民が己の名で明日を歩くこと」を願い、セイレンスは「砕ける前の波を誰かが抱きとめる未来」を託す。
命じるのでも、すべてを背負うのでもない。相手が立ち、歩き、助けを受け取れる余白を残す三つの願いを見上げ、ヒアンシーは、過去の痛みを知るからこそ選べる優しい未来の形を胸に刻んだ。
高い枝で揺れる淡い青の短冊を見上げていたヒアンシーの耳へ、すぐ近くから新しい呼び声が届いた。
「聖女さま、これもお願いしていいかい?」
「あっ、はい! もちろんです!」
振り返れば、両手で短冊を持った年配の男性が立っている。その後ろにも二人、三人と人が続き、さらに遠くでは机へ身を寄せ合いながら筆を動かす家族の姿があった。
セイレンスたちの願いが枝へ加わった後も、人の流れは止まらなかった。むしろ時間が経つほど広場を訪れる者は増え、遠巻きに眺めていた者も知人に誘われて筆を取り、書くつもりはなかったと言っていた者まで、いつの間にか紙へ向かっていた。幼い子どもから短冊を渡され、困ったように笑っていた大人が、しばらくすると自分の分まで手にして戻ってくることもある。ヒアンシーは、そんな人々から差し出された短冊を一枚ずつ受け取っていった。
「ありがとうございます。ご自分で結ばれますか?」
「いやあ、この膝じゃ高いところまではね。あの白い子に頼んでもいいのかい?」
「はい。もちろんですよ! イカルーン!」
「ぷるるっ!」
短冊を咥えたイカルンが再び舞い上がると、男性は眩しそうに目を細めてその姿を追った。そこから先も、家族の無事、閉めた店の再開、壊れた家の修繕、新しい靴、遠くにいる兄弟との再会、喧嘩別れした相手への謝罪、畑への種蒔き、故郷の歌をもう一度聞きたいという願いなど、さまざまな短冊がヒアンシーの手へ渡ってゆく。
文字を覚えたばかりの子どもが何度も書き直したものもあれば、達筆な文字で事情まで綴られたもの、大きな一文字だけを記して裏返されたものもあった。
ヒアンシーは、相手が見せてくれたものだけを読むようにしていた。願いを口にしたい人もいれば、胸の内にしまっておきたい人もいる。だから短冊を受け取る時は、相手の手元を見る。表を向けていれば自然に目を落とし、伏せられていればそのまま預かる。
医師として患者と向き合う時と同じように、話したいことまで隠させてはいけないが、話したくないことまで聞き出してはいけない。人が差し出してくれる分だけを受け取ればいいのだ。
「こちらも、お願いできますか?」
「はい!」
「高くなくてもいいよ。見えるところで」
「でしたら、この辺りはいかがでしょう?」
そうして人々の願いを受け取るうち、ヒアンシーは、願いとは未来だけでなく、過去に置いてきたものを拾い直すことや、いま手元にあるものを守ることも含むのだと気づいた。
新しく始めたいことも、失った場所へ戻りたい思いも、これ以上何かを失いたくない気持ちも、短冊に記されれば同じように風へ揺れる。枝の上では、未来と過去と現在の区別などないかのようだった。紙片は同じ風を受け、同じ陽射しを透かしている。
ヒアンシーは、また一枚をイカルンへ預けたところで、ようやく自分の肩が少し固くなっていることに気づいた。両腕を後ろへ回して軽く伸ばすと、肩口の布が引かれ、小さく息が漏れる。
「んーっ……」
朝から立ち続けていたからだろう。受け取って、話して、振り向いて、また受け取る。楽しくて忘れていたけれど、身体の方はきちんと時間の経過を覚えているらしい。
「ヒアンシー様」
声に振り向くと、キャストリスがすぐ隣に立っていた。彼女の手には、新しい短冊ではなく、細い紐が一本ある。
「少し緩んでいたので、直してまいりました」
「あっ、ありがとうございます、キャスたん!」
キャストリスは、先ほどから枝の低い部分を見て回っていた。結び目が浅いものや、反対に強く締まりすぎて枝へ食い込みそうなものを見つけても、元の形を崩して結び直すことはしない。書いた者の手跡を残すよう、必要な箇所だけをそっと支え、少し曲がった結び目も無理には正さなかった。ヒアンシーには、そのやり方がいかにもキャストリスらしく見えていた。
「キャスたん、少し休まなくて大丈夫ですか?」
ヒアンシーが尋ねると、キャストリスは少し意外そうに瞬いた。細い指に残っていた紐の端が、かすかに揺れる。
「ヒアンシー様こそ。ずっと受け取っていらっしゃいます……」
そう言いながら、キャストリスはヒアンシーの肩越しへ視線を向けた。そこでは今も人々が列を作り、誰かが短冊を差し出し、誰かが枝の下で結び目に苦戦している。広場のざわめきと紙の擦れる音が重なり、休む間もなく続いていた。
ヒアンシーは自分の手元を見下ろした。いつの間にか、指先には紐の跡が薄く残っている。けれど、それに気づいた様子もなく、次の短冊を受け取ろうと手を伸ばしかけていた。
「わたしは平気です! 皆さんの願い、どれも素敵なので、元気をいただいているのです!」
言いながら胸の前で拳を握ると、キャストリスの目元が柔らかくなる。
「ふふ……それなら、わたくしも同じです」
その笑みにつられて、ヒアンシーも笑った。けれど医師として、二人とも後で一度は座って休むべきだと、頭の片隅に留めておく。楽しさは疲労を消してくれるわけではなく、元気な時ほどそのことを忘れやすい。それでも今だけは、もう少しこのままでいたかった。
キャストリスは低い枝へ手を伸ばし、緩んだ結び目を指先で確かめた。紐を引きすぎて紙や枝を傷めないよう、片方の輪へ指を差し入れて元の形を崩さず整え、最後に短冊の端をそっと撫でる。その間も頭上では、風に揺れる葉と紙片がさらさらと乾いた音を重ねていた。キャストリスは手を下ろし、幾重にも響くその音へ静かに耳を澄ませた。
最初にこの催しの話を聞いた時、キャストリスは、ここまで多くの人が集まるとは思っていなかった。願いを書いて枝へ結ぶ――聞けば簡単な習慣に思える。けれど、簡単であることと、実際に自分の願いを書けることは別なのだと、今日一日で何度も目にしてきた。
紙の前で長く止まる筆。途中まで書いて消す者。恥ずかしそうに短冊を隠す子ども。人へ見せるつもりなどないのに、書き終わっただけで少し肩の力を抜く大人。それぞれが胸の内から何かを取り出し、文字の形へ変えていった。
キャストリス自身も、その一人だった。彼女が自分の手で書いた願いは、「大きな蕾がつきますように」という短いものだ。いま、その短冊は少し離れた枝で風に揺れている。
花を育て、蕾を待ち、咲いた花を皆で見に行く――かつてなら未来の予定と呼ぶにはあまりにも些細だったかもしれない。けれど今のキャストリスには、その些細な約束こそが大切だった。世界を救うためでも、誰かが命を賭けるためでもない。ただ花が咲いたら見に行く。そんな約束を持てることが、何よりも嬉しかった。
「キャスたん?」
呼びかけに、キャストリスは枝先からゆっくりと顔を向けた。風に揺れる短冊の隙間から差し込んだ光が、その横顔を淡く照らしている。けれど彼女の視線はまだ若木の上に残っており、何かを見定めるように、色とりどりの紙片の間を静かにさまよっていた。
「はい?」
「何か探していました?」
「いいえ。……私の短冊はどの辺りだったでしょう、と少し思っただけです」
「あっ! ふふっ、探してみます?」
「ふふ。大丈夫です」
キャストリスは、わずかに目を伏せてから、静かに首を横へ振った。否定するというより、胸の内に浮かんだ考えをそっと払いのけるような仕草だった。長い髪が肩の上でさらりと揺れ、指先に残っていた紐の端が、その動きに合わせて小さく震える。
「ここまで増えたのでしたら、見つからないくらいがちょうどいいのかもしれません」
「ちょうどいい、ですか?」
「ええ。私の願いも、皆さまの願いの中に混ざっているということですから」
「……それ、素敵ですね!」
ヒアンシーの顔がぱっと明るくなった。その表情を見て、キャストリスもわずかに頬を緩める。黄金裔の願いも市民の願いも、この枝の上では同じ一枚の紙片だった。
英雄だからといって高い場所へ結ばなければならないわけではないし、誰かの願いより目立つ必要もない。子どもが願った夕食の隣に統治者の願いがあり、花の蕾を待つ短冊の上で、知らない誰かの商売繁盛が揺れていてもいい。その雑多さこそが、いまの景色を豊かにしているのだ。
キャストリスは枝から手を離し、ヒアンシーの隣へ並んだ。そこへまた、市民の女性が短冊を持って近づいてくる。
「すみません、これを……」
「はい!」
ヒアンシーが受け取ると、その女性は紙を隠す様子がなかったため、短冊に書かれた文字が二人の目にも入った。
『娘と一緒に、新しい家の窓から朝日を見たい』
ヒアンシーの目元が柔らかくなる。短冊に記された願いの向こうに、まだ完成していない家と、そこから朝日を眺める母娘の姿を思い描いたのだろう。叶うまでには、きっといくつもの困難が待っている。それでも、東向きの窓を選ぶところまで話せるようになったことが、彼女には嬉しかった。
「素敵ですね」
「家はまだ壁も半分しかないんだけどね」
女性は少し照れたように笑った。けれどその笑みには、まだ完成していない家の話をしてもいいのだという安堵と、いつか娘とその窓辺に立てるかもしれないという、ささやかな期待が滲んでいた。
「でも、窓をどこにつけるかは決めたんだよ。東向きにするんだ」
「では、きっと綺麗な朝になりますね!」
「そうだといいなあ」
女性はそう言って、自分で届く低い枝を選んだ。紐を回し、少し手間取りながら結ぶ。キャストリスは手を出さなかった。助けを求める様子がなかったからだ。女性は二度ほど結び目をやり直し、最後には少し不格好な輪を作った。それでも満足したように手を離し、枝を見上げる。
女性が立ち去ってから、キャストリスはその短冊へ近づき、結び目にそっと指を触れた。ほどけるほどではない。なら、このままでいい。少し傾いていることも、その人が自分で結んだ形の一部なのだろう。
「このままにしておきますか?」
「はい。充分しっかり結ばれていますから」
キャストリスは手を戻した。その短冊の隣では『新しい靴がほしい』という小さな願いが元気よく揺れ、さらに向こうでは『もう一度、故郷の歌を聞きたい』という願いが風に舞っている。その上には、内容を見せないよう裏返された一枚もあった。どれも、それぞれの時間を背負って、ここへ来たのだ。
ヒアンシーもまた、次から次へと受け取る願いの中で、その違いを楽しむようになっていた。最初は、世界の再建に関する願いが多いのではと思っていた。
家、仕事、食べ物、家族――もちろん、そうしたものも多い。けれど実際には、それだけではなかった。歌を聞きたい。誰かへ謝りたい。友達を作りたい。料理が上手くなりたい。知らない土地へ行きたい。もう一度笑って話せるようになりたい。
日常は、必要なものだけで出来ているわけではないのだ。人は、生きるためだけではなく、生きた先で何かを好きになり、誰かを恋しく思い、失敗を悔やみ、次を楽しみにする。その一つ一つが、枝の上へ増えてゆく。
「語る場所がなかっただけで、皆さんの胸には、こんなにもたくさんの願いがあったのですね!」
キャストリスが振り向く。ヒアンシーの声に応じたものの、その表情にはいつもの穏やかさに加え、どこか考え込むような色が浮かんでいた。視線はヒアンシーへ向けられているのに、意識の一部はまだ、風に揺れる短冊の向こうへ残っているようだった。
「ええ……そうなのかもしれません」
朝の時点では、短冊を前に戸惑う人も多く、願えと言われても、未来を考えろと言われても、まだそんな気分にはなれないという様子だった。
ヒアンシーはそんな反応を理解し、無理に書かせようとはしなかった。けれど、一人、また一人と筆を取り、誰かの願いを見て笑ううちに、少しずつ書き始める人が増えて。願いがなかったのではないのだと知った。
贅沢だと思われるかもしれない、こんな時にと咎められるかもしれない、叶わなかった時が怖い、笑われたくない――そんな思いから、胸の奥へしまい込んでいただけなのだろう。そう考えていると、キャストリスは結び終えた短冊をそっと撫で、それから少し低くなり始めた枝先を見上げた。
「ずいぶん、増えましたね」
キャストリスが、風に揺れる短冊を見上げながら呟く。もう何度目になるか分からない言葉だったが、ヒアンシーも同じ気持ちだったので、今度も嬉しそうに頷いた。
「はい。最初は、こんなに集まるなんて思いませんでしたけど、実は、皆さんも語る場所を待っていたのかもしれませんね!」
キャストリスの視線が、枝から広場へ移る。短冊を書く人、結び終えた紙を見上げる人、他人の願いを読んで笑う人、読まずにそっと隣へ立つ人。誰かの願いが叶うようにと、本人とは別の人が手を合わせている姿まであった。
「ええ、……そうですね」
キャストリスは、小さく息をついた。その吐息は、安堵にも似ていた。けれど同時に、胸の奥へ積もっていた何かを、ほんの少しだけ外へ逃がすようでもあった。
彼女はすぐには言葉を続けなかった。広場には、今も人々の声が満ちている。誰かが願いの内容を語り、誰かが笑い、誰かが結び目を直している。風が吹くたび、無数の短冊が揺れ、紙の擦れる音が重なっていた。
そのすべてを聞きながら、キャストリスは静かに目を細める。指先に残った紐の感触を確かめるように、ゆっくりと手を握った。
「ずっと、胸の奥にしまっていたのかもしれません」
その声音は、誰か一人について語るものではなかった。キャストリス自身も含めているように、ヒアンシーには聞こえた。ヒアンシーは何も問い返さず、その隣へ立つ。二人で若木を見上げた。
朝には、まだ空白の方が多かった。葉の緑が主役で、そのところどころへ数枚の短冊が揺れていただけだった。
いまは違う。白、青、薄紅、黄、赤。金糸を通したもの、子どもの手で切られて端が少し歪んだもの、飾りをつけたもの、何も飾らず文字だけを書いたもの。人によって形も大きさも少しずつ違う紙片が、枝の至るところを満たしている。
どれも軽いはずなのに、若木はまるでたくさんの実をつけたように豊かだった。
風が吹くと、無数の願いが一斉に揺れた。紙と紙が触れ、葉と紐が擦れ、幹の奥で枝が小さく軋む。その音は騒がしいはずなのに不思議と耳障りではなく、まるで人々がそれぞれの声で語り合う広場そのものが、木の上へ移ったようだった。
ヒアンシーは目を細めた。朝に思い描いた「願いでいっぱい」の景色は、実際には少し違っていた。そこにあるのは、綺麗に整えられた願いや前向きな願いばかりではない。過去へ戻りたい願い、今あるものを守りたい願い、まだ書けない願い、自分の足で叶えに行く目標、誰かのための祈り、そして明日の夕食のようなささやかな楽しみ。さまざまな思いが一緒に揺れているからこそ、この木はこんなにも豊かに見えるのだろう。
「……綺麗ですね」
「はい」
キャストリスも、同じ高さに視線を置いたまま頷いた。西へ傾き始めた光が短冊の隙間を通り抜け、石床へ色のついた影を落としている。紙が揺れるたび、その影もまた形を変えた。明日は同じ形にはならない。それでも、明日もここに木があり、人が歩き、誰かがまた新しい願いを持ってくるのかもしれない。
ヒアンシーはそう思いながら、胸の前で両手を重ねた。その隣で、キャストリスは枝から枝へと静かに目を巡らせていた。低い場所、幹の近く、少し高い枝、さらにその先へ。それまで穏やかだった視線が、ほんのわずかに行き来する。
何かを数えているようにも、何かを探しているようにも見えたが、ヒアンシーはまだ声をかけなかった。キャストリス自身も、それが何なのか確かめている途中なのかもしれない。