市民たちの願いは途切れることなく集まり、若木の枝は色とりどりの短冊で満ちていった。家族、仕事、故郷、謝罪、まだ見ぬ楽しみ――願いは未来だけでなく、過去を拾い、今を守ろうとする思いでもある。
ヒアンシーとキャストリスは、人々が願いを持たなかったのではなく、語る場所を待っていたのだと知る。朝には空白の多かった若木は、今や無数の望みを実のように抱えていた。
色とりどりの短冊が風に揺れる若木を見上げながら、キャストリスは枝から枝へ視線を巡らせていた。ヒアンシーが声をかけると、彼女は黄金裔たちの短冊が増えたことを口にする。二人で願いを一つずつ思い返すうち、ヒアンシーはファイノンの短冊だけが見当たらないことに気づいた。
ファイノンは今日ずっと、人々を手伝い、若木を整え、皆の願いを支えていた。誰かが預かっているのか、まだ書いていないだけなのかもしれない。けれど、彼がいつも自分のことを後回しにして誰かのもとへ向かう姿を思い返すほど、その一枚だけが思い出せないことへの違和感は強くなっていく。
机の上や枝を探しても、ファイノンの短冊は見つからなかった。まだ何も決めつけられないと分かっていながら、ヒアンシーは、皆の願いで満ちた木の中にファイノン自身の願いだけが見えないことを、静かに気に留めるのだった。
風が一度、二人の髪を揺らした。遠くでは子どもの笑い声が響き、誰かが「もう一枚書いてもいい?」と尋ねている。イカルンは高い枝から低い枝へ移動し、結び目の緩んだ短冊を鼻先で器用に押さえていた。
祭りの空気は、何も変わっていない。だからこそ、キャストリスの沈黙だけが、ヒアンシーの意識へ少しずつ浮かび上がってきた。
「……キャスたん?」
キャストリスは一度瞬きをしてヒアンシーへ顔を向けた。呼びかけられたことに気づくまで、ほんの少しだけ時間がかかったように見える。
すぐに返事はなかった。淡い光を宿した瞳がヒアンシーを捉え、それから何かを確かめるように、もう一度若木の方へ揺れる。まるで、見つめていたものを言葉にしてよいのか迷っているようだった。
ヒアンシーは、彼女の横顔に残るわずかなためらいを見逃さなかった。キャストリスは普段、考えをまとめてから話す。言葉を選び、相手を不安にさせないように、できるだけ穏やかな形へ整えてから口にする。だからこそ、今の沈黙がただの聞き逃しではないことも分かったので、急かさず、彼女の返事を待った。
風が短冊の束を揺らし、紙同士が触れ合う音が二人の間へ流れ込む。キャストリスの髪先が頬へかかり、彼女はそれを指先でそっと払う。その仕草を終えてから、ようやく彼女はヒアンシーへ向き直った。
「はい」
「どうかしましたか?」
「いえ……」
そう答えながらも、キャストリスの視線はもう一度、若木へ戻った。何でもない、と言い切る時の声音ではなかった。眉間にしわを寄せているわけでも、呼吸が乱れているわけでもない。ただ、何かひとつだけ形の合わないものを見つけた時のように、目元へごく薄い迷いが残っている。
やがて彼女は、枝から視線を外さないまま静かに口を開いた。
「……ヒアンシー様」
「はい?」
「黄金裔の皆さまの短冊は、だいぶ集まってきましたね」
「そうですね」
言われて、ヒアンシーは改めて木を見上げた。黄金裔たちの短冊は、すでにかなりの数が枝を彩っている。
アグライアを筆頭に、サフェル、アナイクス、トリビーたち三人、モーディス、ケリュドラ、セイレンス。キャストリス自身の願いも、黄金裔ではなけれどハートヌスの願いも、どこかで風に揺れている。ヒアンシーは指を折りながら、受け取った短冊と、それぞれに込められた願いを一つずつ思い返していった。
「アグライア様、サフェル様、アナイクス先生、トリビー様、モーディス様、ケリュドラ様、セイレンス様……」
ヒアンシーの中で、短冊と人の姿が一つずつ結びついていく。大きな願いもあれば、小さな願いもある。誰かのためのものもあれば、自分のためのものもある。それぞれの願いが、あまりにも本人らしい形で胸へ浮かんできた。だからこそ、数えながら楽しくなってくるはずだった。
けれど。指が止まった。
胸の内で、何かが一拍遅れて引っかかった。誰かの名前を忘れている。人数を数え間違えたのかと思い、ヒアンシーはもう一度、最初から思い返した。
アグライア、サフェル、アナイクス、トリビー、モーディス、ケリュドラ、セイレンス、キャストリス、ハートヌス。ほかにも運営を手伝っていた仲間たちは、時間を見つけて短冊を書いていた。誰かの願いを読んで笑った記憶や、受け取った紙の感触、イカルンへ渡した時の色まで一つずつ辿っていく。けれど、一枚だけ、どうしても思い当たらなかった。
「……ファイノン様の短冊」
口にした声は、自分で思っていたよりも小さかった。名前を呼んだだけなのに、胸の奥へ小さな石が落ちたような感覚が残る。ヒアンシーは無意識に若木の根元へ視線を向けた。
少し離れたところでは、ファイノンが人々に囲まれていた。誰かに声をかけられれば笑って応じ、枝の高さを確かめ、短冊が増えた場所へ木の成長が偏りすぎていないか確認している。つい先ほども、子どもが背伸びしても届かなかった枝を少し下げてやっていた。その前には、運ばれてきた机の脚が石床の継ぎ目へ引っかかっているのを直し、さらにその前には、短冊を結ぶ紐が足りなくなりそうだと聞いて、新しい束を運んでいた。
今日一日、ヒアンシーは何度その姿を見ただろう。ファイノンはずっとここにいる。それなのに――、ヒアンシーは、自分がファイノンの短冊を受け取った記憶を探した。
ない。イカルンへ預けた記憶もなければ、誰かが「これはファイノン様のです」と持ってきた記憶もない。
だからといって、すぐに何かがおかしいと決めつけることはできなかった。運営を手伝っている者が、自分の短冊を後回しにすることなど、いくらでもある。誰かへ預けたのかもしれないし、開拓者が持っている可能性もある。書き終えていても、まだ結んでいないだけかもしれない。あるいは単純に、忙しくて忘れているだけなのかもしれなかった。
「わたくしも、まだ見ていないように思います」
隣でキャストリスが言った。ヒアンシーは彼女を見る。不安そうに顔を曇らせているわけではなかった。ただ、先ほどまで短冊を探していた視線が、今は少し低い場所へ落ちている。
「どなたかが預かっているのでしょうか」
ヒアンシーは、なるべく普通の調子で言った。
「開拓者さんとか……それとも、まだ書いていらっしゃらないだけかもしれません」
「ええ。そうかもしれません」
キャストリスも静かに頷いた。否定する理由は何もない。それでも、その返事を聞いても胸の引っかかりは消えなかった。
ヒアンシーは、自分が余計に考えすぎているのではないかと思った。医師として些細な変化を拾う癖はあるが、今回のことは短冊が見当たらないというだけで、具合が悪いわけでも、悲しんでいる様子でもない。
むしろファイノンは今日ずっと楽しそうで、人々が短冊を書くたびに目を細め、若木が枝を伸ばせば笑い、ヒアンシーの短冊を高い場所へ結んだ時も、いつもの明るい調子だった。少なくとも、ヒアンシーの目にはそう見えていた。
「おかしい、と言い切るほどではないのですけれど……」
ヒアンシーは自分の胸へ手を添えた。服越しに伝わる鼓動は速くも苦しくもない。ただ、ささやかな違和感だけが、そこへ静かに残っていた。
キャストリスはすぐには答えず、ヒアンシーと同じ方角へ視線を向ける。ファイノンは高齢の男性から何かを頼まれ、少し屈んで話を聞いていた。やがて男性の指差す方へ目を上げ、何かを理解したように頷いて笑う。
その一連の仕草に不自然なところは何もなく、ヒアンシーがよく知るファイノンそのものだった。誰かに呼ばれれば向かい、困っている者がいれば手を貸し、自分にできることがあるなら迷わず身体を動かす。だからこそ、ヒアンシーは少しだけ困った。
「……ファイノン様の筆跡なら、きっとすぐに分かると思ったのですが」
そう呟きながら、ヒアンシーは若木を見上げた。枝いっぱいの短冊へ目を走らせ、ファイノンの筆跡を探す。
強すぎず弱すぎない筆圧、急いでも崩れない文字、誰かへ渡す時に自然と整えられる書き方――彼女が覚えているその特徴に似た短冊を、白や赤、薄青、黄色の紙の中から探した。けれど、少なくとも目の届く範囲には、それらしい一枚は見つからなかった。
「高いところへ結ばれているのでしょうか……?」
「その可能性もありますね」
「イカルンへ直接お願いしていたのでしたら、わたくしたちが見ていないこともあるでしょうし」
「あっ、そうですよね!」
自分たちがすべての短冊を管理しているわけではない。直接枝へ結ぶ人もいれば、イカルンへ自分で頼む人もいる。ファイノンなら、誰にも言わず高い枝へ結ぶことだって簡単にできるだろう。
そう考えると、胸の引っかかりは少しだけ薄くなった。けれど、完全には消えない。ヒアンシーはその理由を確かめるように、机の方へ歩いた。
「一応、こちらも見てみましょうか」
「はい」
キャストリスも後へ続いた。机の上には、まだ使われていない短冊の束や予備の紐、墨のついた筆、使いかけの染料、紙を飾る金糸や小さな花飾り、誰かが置き忘れた小皿や木製の飾りなどが雑然と並んでいる。
ヒアンシーはその中から短冊を一枚ずつ確かめていった。白紙のもの、端に子どもの落書きがあるもの、途中で書くのをやめたように文字が二つだけ残されたもの、裏面に試し書きがあるもの――けれど、どれだけ探してもファイノンの文字は見つからなかった。
「こちらにもないですね……」
「ええ」
キャストリスは机の反対側から、短冊を一枚ずつ丁寧に揃えていった。けれど、紙を持ち上げるたびに、ほんのわずかな確認の間が生まれる。二人とも探していた。何を探しているのか、大げさに口にしないまま。
「もしかすると、本当にまだ書いていないだけかもしれませんね。……今日ずっと忙しくしてくださっていますし」
そう考えながら、ヒアンシーは今日のファイノンの姿を思い返した。若木へ力を注ぎ続け、枝を整え、人々へ短冊を渡し、子どもたちの相手をしていた。ヒアンシーの短冊を高い場所へ結び、質問されれば答え、困っている者がいれば迷わず手を貸していた。
忙しかった。確かに、ずっと忙しくしていた。だから、自分の分が後回しになっていても不思議ではない。むしろ、それはあまりにも自然なことのように思えた。
そう考えた瞬間、ヒアンシーの指が止まった。
自然。その言葉が、胸へ妙な形で残る。ファイノンが誰かを助けること。人の願いを支えること。そして、自分のことを後へ回すこと。それらがすべて、あまりにも自然に見えてしまう。だから今まで、気づかなかったのではないか。
ヒアンシーは白紙の短冊を一枚持ったまま、少し離れた場所にいるファイノンへ視線を向けた。ちょうど彼は、短冊を結び終えた子どもへ何か声をかけているところだった。子どもが笑い、ファイノンも笑う。それから子どもが走り去ると、すぐに別の人から呼ばれ、そちらへ向かっていく。
次から次へ。誰かから誰かへ。彼の周囲だけ、手渡される用事が途切れない。けれど、それを嫌そうにしている様子はなかった。むしろ、楽しそうだった。今日、人々が自分の未来を短冊へ書く姿を誰より嬉しそうに見ていたのは、ファイノンだったのではないかと、ヒアンシーは思う。そのことまで疑う理由はない。だからこそ、余計に分からなかった。
「ファイノン様って……」
声が漏れると、キャストリスが顔を上げた。ヒアンシーはすぐには続けなかった。言葉にしてしまえば、大げさになってしまう気がしたからだ。
ファイノンには願いがない――そんなことは、まだ何も分かっていない。書いていないだけかもしれないし、誰かが預かっているのかもしれない。後で書くつもりなのかもしれなかった。それでも、ひとつだけ確かに思い当たることがあった。
ヒアンシーは、重くならないよう、少し笑って言った。
「いつも、誰かの方へ先に行ってしまいますよね」
キャストリスの視線も、またファイノンへ向いた。
「……そうですね」
「お願いすれば、きっと短冊も書いてくださると思うのです。楽しそうだね、って笑ってくださって。何を書こうかなって、一緒に考えてくださる気がします」
ヒアンシーは手の中の白紙を見下ろした。そこまで言うと、妙にその場面が簡単に想像できた。ファイノンが笑い、短冊を受け取り、ヒアンシーたちの話へ耳を傾ける。けれど、その途中で誰かに呼ばれれば、困っている人のもとへ行くために短冊を一度置き、「ちょっと行ってくるよ」と立ち上がる。そして、そのまま別の人を手伝い始めるのだ。
あまりにも彼らしい。想像の中ですら、そこに違和感はなかった。ヒアンシーの笑みが、ほんの少しだけ弱くなった。
「……自分の短冊を持つ前に、誰かの短冊を結びに行ってしまいそうです」
キャストリスは何も言わなかった。ただ、手元の短冊を揃える動きが一度だけ止まった。その反応を見て、ヒアンシーは、自分と似たことを感じたのかもしれないと思ったが、それ以上は決めつけなかった。
風が机の上へ入り込み、白紙の短冊の角を揺らす。ヒアンシーは飛ばされないよう、その上へそっと手を置いた。
真っ白な紙には、何を書いてもいい。アナイクスなら未知を、トリビーならまだ書けない願いのための場所を、モーディスなら手を、キャストリスなら花を。誰かなら夕食を、誰かなら故郷を――それぞれの願いが、すぐに思い浮かぶ。
けれど、ファイノンがそこへ何を書くのかだけは、どうしても想像できなかった。アナイクスなら未知を、トリビーならまだ書けない願いのための場所を、モーディスなら手を、キャストリスなら花を。誰かなら夕食を、誰かなら故郷を――それぞれの願いはすぐに思い浮かぶのに、ファイノンのものだけは、どれだけ考えても形にならない。
では、ファイノンは何を書くのだろう。ヒアンシーは、そこまで考えてから、自分の思考を止めた。分からない。分からないことを、勝手に埋めてはいけない。それは医師としても、友人としても同じだ。本人が何も言っていないのに、「きっとこうだ」と決めつけることはできない。
二人の間に、短い沈黙が落ちた。けれどそれは重苦しいものではなく、まだ確かめられていないことを、分からないまま置いておくための静かな時間だった。
ヒアンシーは白紙の短冊を束へ戻し、もう一度、願いで満ちた若木を見上げた。風に揺れる幾百もの紙のどこかに、ファイノンの短冊が隠れているのかもしれない。高い枝の向こうか、人々の短冊の陰か、それともまだ彼の手元にあるのか。そうであればいいと思いながらも、ヒアンシーは初めて、その願いがどこにあるのかを気に留めた。
今日ずっと、ファイノンは皆の願いを支えていた。若木を育て、枝を広げ、人々の短冊が落ちないよう見守り、願いが増えるたびに嬉しそうに笑っていた。その姿を思い返すほど、彼自身の短冊だけが思い出せないことが、かえって鮮明になってゆく。
ヒアンシーは、まだ何も決めつけてはいけないと自分に言い聞かせた。けれど、皆の願いで満ちた木の中に、ファイノン自身の願いだけが見えないことを、静かに気に留めていた。
「……見つかりませんね」
「はい。少なくとも、わたくしたちが見た範囲には」
キャストリスはゆっくり頷いた。断定しない言い方だった。それが今はありがたかった。ない、とはまだ言わない。見つかっていないだけ。それだけだ。
ヒアンシーも同じように頷いた。風の中で、一枚の短冊が裏返る。その向こうから、さらに何枚もの願いが現れた。食卓。花。故郷。手。波。名も知らない誰かの未来。それらすべてが枝にあるというのに、ファイノンの文字だけが、ヒアンシーの記憶にも視界にもまだ現れなかった。
彼女はしばらくその木を見上げたまま、胸に残った小さな違和感を、無理に名前へ変えずに抱えていた。