願いで満ちた若木を見上げる中、キャストリスが気づいた小さな違和感は、やがてヒアンシーにも届く。
黄金裔たちの短冊を一枚ずつ思い返しても、ファイノンの願いだけが見当たらない。誰かが預かっているのか、忙しくてまだ書いていないのか――理由はまだ分からない。
ただ、今日ずっと彼が誰かの願いを支える側にいたことを思い返すほど、その一枚だけが思い出せない事実は静かに輪郭を持ち始めていた。
願いで満ちた若木を見上げているうちに、風がまた一度、枝の間を通り抜けました。短冊の群れが一斉に裏返り、光を受けた紙面がちらちらと瞬きます。そこには誰かの食卓も、故郷も、花も、まだ名のない願いもあるのに、わたしの目はもう、それらを一枚ずつ追えていませんでした。
ファイノン様の短冊は、少なくともわたしたちが見た範囲にはない。それ以上のことは、まだ何も分かりません。だから、心配だと決めつけるのも、願いがないのだと考えるのも違うのでしょう。それでも、一度気づいてしまった空白は、見なかったことにはできませんでした。
「ヒアンシー様」
キャストリスの声が、考え込んでいたわたしを静かに呼び戻しました。
「は、はい!」
少しだけ大きな声が出てしまいました。キャストリスは驚いた様子を見せず、机の上へ揃えた短冊へ目を落としてから、わたしの顔を見ます。その声音も表情も穏やかなままでしたが、先ほどから続いていた迷いはもう薄くなっているように見えました。
「短冊を探しましょう?」
「……はい」
返事をしてから、わたしは一度だけファイノン様のいる方角を確かめました。人に囲まれた姿は、さっきと変わりません。誰かの話を聞き、頷き、枝の向きを示している。こちらへ気づいた様子はありませんでした。
「けれど、大げさにはしない方がいいですよね」
「はい。ただ、短冊をお渡しするだけにしましょう」
「そうですね。まだでしたら、一緒に書いていただければいいだけですから!」
なるべく明るく言ってみると、キャストリスは小さく頷きました。わたしも、それくらいでいいと思っています。なくしたのなら見つければいいし、まだ書いていないのなら紙を渡せばいい。それで終わるなら、その方がいちばんです。けれど、机の上の白い短冊を見た瞬間、胸の奥に別の問いがひそやかに浮かびました。
本当に、それだけなのでしょうか。ファイノン様は、まだ書いていないだけなのでしょうか。それとも、書こうとした時に何を書くのか決められなかったのでしょうか。
そこまで考えて、わたしはすぐに首を横へ振りました。さっき自分で決めたばかりです。分からないことを、本人より先にわたしが決めてはいけません。
それでも、願いを書くという行為そのものについては、今日一日でたくさんの形を見ました。故郷へ帰りたいと書いた人がいました。花が咲くことを願った人がいました。美味しいものを食べたい人も、誰かと服を選びたい人も、まだ書けない願いのために場所を空けた人もいました。願うことそのものを選ばず、自分で解き明かすと決めたアナイクス先生もいました。それでも先生は、自分がどこへ向かうのかを言葉にしています。
そのどれも、世界のためだけのものではありませんでした。たとえ誰かを思う願いであっても、その人自身が何を大切にしているのかが、文字の端に残っていました。
けれど、ファイノン様について思い返すと、先に浮かぶのはいつも誰かの姿でした。困っている子どもや短冊を結べない人、枝を見上げる人、未来を書こうとしている人たちのもとへ、ファイノン様はいつも足を運び、その願いが枝へ届くまでそばにいてくださいます。
それが彼の優しさなのだと、わたしは知っています。だからこそ、皆さんが自分の願いを書いた今日くらいは、ファイノン様にも誰かを支える側ではなく、ご自身のために願う側へ立っていただきたい――その気持ちだけが、どうしても胸から離れませんでした。
「キャスたん」
「はい」
わたしは若木を見上げたまま、ゆっくり言いました。
「わたしは、ファイノン様にも、願ってほしいです」
言葉にしてみると、それは思っていたよりずっと単純でした。
キャストリスはすぐには答えませんでした。わたしの方を見るでもなく、同じように若木を見上げています。枝に結ばれた短冊の色が、彼女の瞳の中で小さく揺れていました。
「誰かのためではなくて。世界のためでも、未来のためでもなくて……ファイノン様ご自身のために、何かを」
声にしてみると、わたしが気にしていたことが、ようやく少しだけ見えてきました。ファイノン様が誰かの幸せを願う姿なら、いくらでも思い浮かびます。人々の笑顔や、オンパロスの明日、もう誰も失われない未来――きっと、そんな願いなら迷わず口にされるのでしょう。
でも、それでは今日、この木へ集まった願いとは少し違います。
アグライア様がサフェル様とファッションショーをしたいと書いたように。サフェル様がお魚をたくさん食べたいと願ったように。キャストリスが花の蕾を待っているように。
誰かの役に立たなくても、立派でなくても、叶ったところで世界が変わらなくてもいい。ただ本人が「それが嬉しい」と思える願いを、ファイノン様にも持っていてほしいのです。
それは英雄だからでも、誰かを救ってきたからでもなく、今日ここにいる一人の人として、明日を楽しみにできる場所を置いてほしいということでした。キャストリスの指が胸元で静かに重なり、彼女はしばらく枝を見つめたあと、ほんの少しだけ目元を和らげました。
「……ええ。――わたくしも、そう思います」
その返事を聞いて、胸の中に残っていた引っかかりが、ようやく少しだけほどけました。わたしたちはファイノン様を問い詰めたいのでも、書かなかった理由を聞き出したいのでも、願いを持つべきだと押しつけたいのでもありません。
ただ、皆さんへ用意したものと同じ一枚を彼にも渡し、書くかどうかは、そのあとで決めていただければいいのです。
風が吹き抜けると、枝いっぱいの短冊が一斉にささやきました。笑い声も、足音も、筆の擦れる音もまだ近くにあるのに、その瞬間だけ、わたしには若木の音がひどく鮮明に聞こえました。
机の上へ視線を戻すと、未使用の短冊がまだ充分に残っていました。わたしはその中から一番上の一枚を手に取ります。飾りも文字もない真新しい白い紙は驚くほど軽く、強い風が吹けば飛んでしまいそうでした。両手でそっと挟み、端を傷めないよう指を添えながら見つめていると、ふとトリビー様の短冊が脳裏に浮かびました。
『まだ書けない願いも、ここに来られますように。』
トリビー様の短冊にあった「まだ書けない願いも、ここに来られますように」という言葉が、ふと胸に浮かびました。願いは最初から言葉になっているとは限らないのです。
もし、ファイノン様の願いがまだ形を持たないのなら、今日すぐに書けなくても構いません。ただ、この白い紙を手元に置いていただければいい。いつか何かが浮かんだ時、その言葉を預けられる場所として。
「……これをお渡ししましょう」
わたしが言うと、キャストリスは短冊へ目を落としました。
「はい」
「もしもう書いていらっしゃったら、わたしたちの早とちりですね」
「ふふ。その時は、どこへ結ばれたのか教えていただきましょう」
「はい! それなら一件落着です!」
少し笑うと、キャストリスの口元にも小さな笑みが浮かびました。そのくらいの軽さでいいのだと思います。心配を顔に出して近づけば、ファイノン様も余計に気を遣ってしまうでしょう。
いつものように話し、いつものように短冊を渡す。もしもう書いていらっしゃるなら一緒に探し、まだなら「どうぞ」と差し出せばいい。何を書こうか迷っていらっしゃる時だけ、その時になって一緒に考えればいいのです。そう思うと、胸の内にあった小さな影も、少しだけ輪郭を失いました。
「行きましょう、キャスたん」
「はい」
わたしは白い短冊を胸元へ持ち直しました。紙が折れないように両手で支えると、さっきまでただの予備だった一枚が、不思議と大切なものに見えてきます。キャストリスも若木から視線を離し、わたしの隣へ並びました。
「ファイノン様の短冊を、お迎えに!」
「ふふ、はいっ」
わたしたちは若木のそばを離れ、ファイノン様のもとへ向かって歩き出しました。まだ声をかけるところまでは進んでいません。それでも、二人で立っていた場所を離れたことで、どうするかだけは決まったように思えました。
背後では、誰かの未来や祈り、小さな楽しみを託した短冊が風に揺れています。叶うかどうかは分からなくても、皆さんはそれぞれの「こうなったらいい」を一枚の紙へ預けていました。いつかその枝へ、ファイノン様自身の言葉も加わればいい。短冊を失くしたのなら一緒に探し、まだ書けないのなら書ける時まで待ち、願い方が分からないのなら、その時に一緒に考えればいいのです。
わたしは、ファイノン様の代わりに願いを決めたいわけではありません。ただ、彼自身の口から生まれた言葉を、いつかこの木の上で見てみたいと思いました。白い短冊を胸元へ持ち直すと、紙の向こうへ自分の体温が移っていくように感じられます。
一度だけ振り返りました。傾いた陽射しの中で、願いに満ちた若木が静かに揺れています。枝に空いた場所はほとんど見えませんでしたが、それでも、きっと一枚くらいなら結べるでしょう。どんな願いも受け止められるように、枝はこれまで何度も伸びてきたのですから。
だから今は、まだ何も書かれていない紙を大切に運びます。白い短冊を胸元へ持ち直すと、紙の向こうへ自分の体温が移っていくように感じられました。わたしは一度だけ振り返ります。傾いた陽射しの中で、願いに満ちた若木が静かに揺れていました。枝に空いた場所はほとんど見えません。
それでも、きっと一枚くらいなら結べるでしょう。どんな願いも受け止められるように、枝はこれまで何度も伸びてきたのですから。
だから今は、まだ何も書かれていない紙を大切に運びます。どうか、あなたの願いもここへ来られますように。そう胸の内で願いながら、わたしはキャストリスと並んで、ファイノン様のもとへ歩みを進めました。