烈日よ、さざ波を追って   作:夜鷹ケイ

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<前回のあらすじ>
 皆の願いで満ちた若木に、まだ見えないファイノンの一枚。ヒアンシーとキャストリスは、理由を決めつけることなく、ただ彼にも「自分自身のための願い」を持ってほしいと気づく。
 世界でも誰かでもなく、彼自身が嬉しいと思える未来を。二人は真新しい短冊を一枚だけ手に取り、大げさな問いかけではなく、願いを置ける場所を届けるため、ファイノンのもとへ歩き出した。


126 昔日の夢なお遠く

 白い短冊を胸元に抱えたまま人の間を抜けていくと、ほどなくして、若木の根元から少し離れた場所にファイノン様の姿を見つけました。

 ちょうど最後の一組へ何かを説明し終えたところだったのでしょう。老夫婦が何度も礼を言いながら去っていき、ファイノン様は笑って手を振っています。陽はすでに傾き始めていて、枝いっぱいに結ばれた短冊の影が、彼の白い服の上を風と一緒に滑っていました。

 キャスたんと一度だけ目を合わせます。彼女は何も言わず、ほんの少し顎を引きました。ここまで来たら、変に構えない方がいい。そう決めていた通り、わたしはいつもの調子で駆け寄りました。

 

「ファイノンさまっ、お願い事は決まりましたか?」

「あ、ヒアンシー」

 

 振り返ったファイノン様の顔に浮かんだのは、今日ずっと見てきたものと変わらない笑顔でした。わたしの手元より先に、彼の視線は一度、背後の若木へ向かいます。色とりどりの願いがいっぱいに揺れているのを確かめてから、またこちらへ戻ってきました。

 

「イベントの企画と開催ありがとう、お疲れさま」

「ありがとうございます。でもファイノンさまの助力あってこそ、出来たことなので、わたしからも感謝のお返しを」

「そんな、特に気にしないでくれ。僕はみんなの笑顔が見られてよかったって思ってるんだ」

 

 やっぱり、ファイノン様らしい答えでした。自分の短冊について尋ねたのに、返ってきたのはイベントへの労いと、皆さんの笑顔を見られたことへの喜びです。そのこと自体は何もおかしくありませんし、今日一日の彼の様子を見ていれば、本心からそう思っているのも分かります。

 だからこそ、わたしは胸元の白い紙をすぐに差し出す代わりに、もう一つ用意していたものを先に見せることにしました。

 

「ふっふっふー、だけどこれはファイノンさまもお喜びになるのではありませんか?」

「え?」

 

 キャスたんが後ろからそっと運んでくれていた包みへ手を伸ばします。差し入れに、と道すがらモーディス様よりお預かりした品です。布を外すと、甘い蜂蜜と焼き菓子の香りがふわりと広がりました。

 朝から短冊の紙と若葉、焼いた穀物の匂いに満ちていた広場へ、濃厚な甘さが混ざります。段になって積み重なったケーキが現れた途端、ファイノン様の目がぱっと大きくなりました。

 

「じゃじゃーん、モーディスさま特製のハニーケーキですよ!」

「わあ、五段積みだ!」

 

 反応は、驚くほど素直でした。さっきまで落ち着いて人々の相手をしていた人が、急に珍しいものを見つけた少年のような顔になります。上から下まで何度も眺め、少し横へ回り込んで、崩れず積み上がっている仕組みを確かめ始めました。

 

「すごい、どうやってるんだこれ」

「モーディスさま、すごいですよね! わたしも運ぶ時、ちょっと緊張してしまいました」

「これ、本当に全部食べられるんだよな?」

「もちろんですよ!」

 

 思わず笑ってしまいました。キャスたんも口元へ手を添え、静かに頬を緩めています。

 よかった。ファイノン様は、ちゃんと喜んでいる。驚いた時に目が開き、ケーキを覗き込むために自然と身を屈め、蜂蜜の照りを見て楽しそうに笑う。その反応に作ったものなど一つもないように見えました。

 だから、次の言葉を聞いた時も、最初の一瞬は、ただの冗談だと思ったのです。

 

「ヒアンシー、ありがとう。僕の夢、叶っちゃったな。また考え直さなくちゃだ」

「……え?」

 

 わたしは少し遅れて瞬きをしました。五段重ねのハニーケーキを食べてみたいというようなことを、どこかで口にしていたのでしょうか。

 たしかに、この大きさなら夢と言いたくなる気持ちも分かります。ファイノン様は楽しそうにケーキを眺めています。けれど、その「叶っちゃった」という言葉の置き方だけが、不思議と軽かった。

 夢が叶った人の反応に決まりなどないと分かっているのに、胸の奥へ薄い膜のような違和感が残りました。

 

「ゆっくりで大丈夫ですよ、時間はまだまだいっぱいありますから!」

 

 だから、わたしは笑って言いました。急かしたくありませんでした。短冊を今日中に書かなければならない決まりなどありません。五段のケーキで一つ叶ったなら、次はゆっくり探せばいいのです。明日でも、もっと先でもいい。今までとは違って、未来は一度きりの期限へ向かって閉じていくものではないのですから。

 ファイノン様は、すぐには返事をしませんでした。ケーキへ向けていた目を少しだけ伏せ、何かを確かめるように一度瞬きをします。それから、いつもの穏やかな笑みを戻しました。

 

「……うん、ありがとう」

 

 ほんの短い間でした。声も普通でしたし、苦しそうなところもありません。呼吸が乱れたわけでも、顔色が変わったわけでもありませんでした。けれど、その返事を聞いたあとも、すぐには白い短冊を差し出せませんでした。

 

「ファイノンさま」

「ん?」

「その……こちらも」

 

 結局、胸元から取り出した短冊は、真っ白なままです。

 

「もし、もう書いていらっしゃったらすみません。でも、まだでしたらどうぞ。今日すぐでなくても構いませんから」

「ああ。ありがとう」

 

 彼は短冊を見ました。驚くでも困るでもなく、ただ一度わたしへ視線を戻します。差し出された手へ渡した短冊は、大きな掌の中へ収まりました。拒まれなかった――それだけなら、安心してもよかったはずです。

 

「何か決まったら、いつでも持ってきてくださいね。イカルンもまだまだ働く気満々ですから!」

「ぷるるっ!」

 

 少し離れた枝の上から、聞こえていたのかイカルンが元気よく鳴きました。ファイノン様が笑います。

 

「それなら、ちゃんと考えなくちゃね」

「はい!」

 

 その場では、それ以上尋ねませんでした。キャスたんも何も言わず、ファイノン様へ一礼しただけです。わたしたちはケーキを彼へ預け、少し離れたところまで歩きました。

 そこで一度だけ振り返ると、ファイノン様はまだ五段のハニーケーキを眺めていました。けれど、もう一方の手には白い短冊があります。風に紙の端が揺れるたび、彼は飛ばされないよう指を添えていました。夢が叶ったと言った。次を考え直すとも言った。

 なのに、その言葉はどこか、今日短冊へ願いを書いた皆さんのものとは違って聞こえました。何かを楽しみにして待つというより、空いた欄へ次の項目を書き足そうとしているような――そんなふうに感じてしまったのです。

 もちろん、わたしの考えすぎかもしれません。ファイノン様が五段のケーキに喜んだことまで疑う理由はありません。あの驚きも、笑顔も、本物だったと思います。

 それでも。彼が「夢」と呼んだものと、今日皆さんが枝へ預けた「願い」との間には、ほんの薄い隔たりがあるような気がしました。わたしはその感覚をうまく言葉にできないまま、キャスたんと広場へ戻りました。

 

 

――……

――…

 ヒアンシーたちの姿が人混みの向こうへ消えてからも、ファイノンはしばらくその場に残っていた。片手には五段に重ねられたハニーケーキ、もう片方には何も書かれていない短冊がある。蜂蜜の甘い匂いは、確かに嬉しかった。

 以前、あれほど豪華に積み上がったものを見て、いつか食べてみたいと思ったことがある。実際に目の前へ現れれば驚いたし、モーディスがこれを作ったという事実まで含めて面白い。

 だから、嘘を言ったわけではない。夢が叶った。たしかに、その通りだった。けれど、「次を考えなくては」と口にした時、自分の中に何か新しいものが湧いたわけではなかった。短冊を持つ手を少し持ち上げる。紙は軽い。さきほどまで皆が書いていたものと同じだ。

 ここへ好きなことを書けばいい。行きたい場所。やりたいこと。食べたいもの。会いたい人。これからの自分にあってほしい未来。何でもいいのだと、ヒアンシーは言っていた。時間もまだまだある、と。

 

「……時間、か」

 

 口にしてみても、その言葉はうまく馴染まなかった。

 時間なら、ある。少なくとも、もうあの頃のように終末へ向かう残り時間を数え続ける必要はない。明日も、その次の日も来る。人々は家を建て、花を育て、店を開き、誰かと食事をする予定を立てている。

 ファイノンも、その未来を見たいと思う。みんなが明日へ進めるのなら、それがいい――それは本心だった。けれど、自分がその明日の中で何をしたいのかと問われると、思考が止まる。

 冒険。その言葉だけが、かすかに胸へ触れた。まだ知らない場所へ行ってみたいと思ったことはある。エリュシオンの外へ広がる世界を見て、自分の足で歩き、帰ってきたらその話を――そこまで考えた瞬間、風に鳴る短冊の音が遠くなった。代わりに、もう存在しない麦畑を渡る風が聞こえた気がした。

 金色の穂を柔らかな陽射しが照らしていた。まだ世界の終わりなど知らず、遠くへ行くことを冒険と呼べた頃、ひとりの少女が笑っている。

 

『ねえ、カスライナ』

 

 その名前を呼ぶ声は、今もひどく鮮明だった。振り返れば、そこには、風に髪を揺らしながら楽しそうに笑うキュレネがいる。ファイノンでも、救世主でも、世負いでも、烈日でもない。ただエリュシオンで育った、ひとりの少年を呼ぶ声だった。

 

『エリュシオンから出たら、きっとあたしたちうんっと長く会えなくなっちゃうでしょう? だから約束しましょ、あなたが辿った冒険を聞かせてちょうだいね♪』

 

 あの時の自分は、外へ出てさまざまな場所を巡り、見たものを覚えて帰ってきたら、それを彼女へ話せばいいのだと思っていた。キュレネにも、同じように彼女の物語を聞かせてほしいと願った。

 

『うん、じゃあ君も約束だ。君の綴ってきた物語を、きっと聞かせてくれよ』

 

 約束したのは、互いが歩いた道を、いつか言葉にして交換することだった。ただ、それだけのことだった。――だけど、その「いつか」は来なかった。

 旅に出たあと、再びオクヘイマで顔を合わせることはできた。それでも、約束を果たすための時間にはならなかった。語るべきものは増えるばかりだったのに、それをのんびり聞かせ合う余白だけがなかった。

 次の戦い。次の火種。次の喪失。そして、永劫回帰。語り終えるより先に世界は巻き戻り、積み上げたものはまた次の一周へ運ばれていった。

 冒険そのものがなくなったわけではなく。むしろ、数だけなら数え切れないほどの旅をした。歩き、戦い、出会い、別れた。空を見て、海を見た。滅びる街も、再び築かれる街も見た。けれど、幼い頃に思い描いた「冒険」は、きっとそういうものではなかった。

 あの約束に含まれていたのは、ただ遠くへ旅をすることだけではなかった。帰る場所があり、話を聞いてほしい相手がいて、互いの物語を「今度は君の番だ」と笑いながら語り合えること。そのすべてが、ファイノンにとっての夢だったのだ。

 彼は手の中の短冊へ視線を落とした。真っ白な紙には、書こうと思えば何でも書ける。もう一度冒険がしたい――そう記すこともできる。

 けれど、それを今の自分の願いだと言い切るほど、気持ちは動かなかった。知らない景色を見てみたい気持ちは、まだどこかにある。実際に旅へ出れば、きっと楽しいだろう。それでも、今すぐ荷物をまとめて飛び出したいほどではない。また、かつて夢見た冒険を、そのまま取り戻せるわけでもなかった。

 あの約束には、キュレネと互いの物語を聞かせ合う未来が含まれている。願いとして書けばいいのかもしれない。けれど、ファイノンには書けなかった。願ったところで、もう叶わないものを未来へ掲げる意味が、分からなかった。

 だから五段のハニーケーキを見た時、「夢が叶った」と笑えた。あれは本当に嬉しかったし、叶ったと口にしても痛くない夢だった。けれど、いざ白紙の短冊を渡されれば、そこへ置くものがない。願いそのものが消えたわけではない。ただ、未来へ向けて伸ばせる形を失っているのだ。それを、今のファイノン自身もまだ上手く説明できなかった。

 風が吹き、手の中の短冊が小さく鳴る。その向こうでは、皆の願いを抱えた枝が揺れていた。ファイノンはしばらく白い紙を見つめてから、折れないよう丁寧に持ち直す。書けないからといって、捨てる気にはなれなかった。ヒアンシーがくれたものだ。

 

 

 

――時間はまだまだいっぱいありますから。

 

 

 

 そう笑っていた彼女の言葉を、今すぐ信じ切れなくてもいいのかもしれない。少なくとも今日は、この空白を空白のまま持って帰ろうと思った。

 いつか、この白紙へ未来のことを書ける日が来るのかもしれない。けれど、そう信じて待てるほど、ファイノンはまだ遠くを見つめられなかった。

 それでも、短冊を捨てることはできない。ヒアンシーがくれたものだからだ。彼は紙を折れないよう丁寧に持ち直し、胸元へしまった。蜂蜜の甘い香りの向こうで、記憶の中の少女の声だけが、今も鮮やかに残っている。

 

『あなたが辿った冒険を聞かせてちょうだいね♪』

 

 その約束に返事をした少年もまた、自分の奥深くにまだいる。けれど、その少年が夢見た未来へ戻る道だけは、もうどこにも見つけられなかった。

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