白紙の短冊を届けに来たヒアンシーは、まずモーディス特製の五段ハニーケーキをファイノンへ贈る。「夢が叶った」と喜ぶ彼だったが、次の夢を考え直すという言葉には、どこか他人事めいた響きが残った。
短冊を受け取ったファイノンの胸に蘇るのは、かつてキュレネと交わした「互いの旅と物語を聞かせ合う」という約束。
願いがないのではない。彼がかつて望んだ未来は、今なお叶わぬ夢として胸の奥に残されていたのである。
127 記憶より道を探す
星穹列車へ戻ってからも、オンパロスで過ごした時間だけは、どうにも置いて帰ってきた気がしなかった。列車はいつものように星海を進み、見慣れたラウンジには見慣れた机と椅子があり、仲間たちの声も、食事の匂いも、旅の途中で積み重なった日常も、何ひとつ失われてはいない。
むしろ、あの旅を経て、列車組の絆はさらに強固なものとなったようにも思う。それなのに、ふとした拍子に意識を向ければ、心だけがまだあの世界のどこかに取り残されている。
足元の感触や風の温度、隣を歩いていた誰かの声が、現実の記憶というより、手を伸ばせば触れられそうな気配として残っていた。戻ってきたはずなのに、帰ってきたという実感だけが、なかなか追いついてこなかった。
ラウンジの窓外を流れていく星々は、相変わらず遠く、静かで、手を伸ばしたところで指先に触れてくれるような距離にはない。それでも列車が星海を渡るたび、暗い宇宙の向こうには数え切れないほどの世界があって、そこでは今日も誰かが眠り、誰かが起き、誰かが何でもない一日を過ごしているのだろう。
その感覚は開拓者にとってすでに馴染み深いものだったが、机に向かっている今だけは、星々を見ても次の目的地より先に、ひとつの名前ばかりが頭へ浮かんだ。
(……オンパロス。新生の日を待つ、あの世界。)
開拓者は頬杖をつき、もう片方の手に握っていた筆記具をくるりと回した。器用に回せたのは一周半までで、三周目を狙ったところで指から逃げ、机の上をころころ転がってゆく。紙束の端にぶつかって止まったそれを拾い上げながら、彼女は何事もなかったような顔でもう一度ページへ視線を戻した。
そこには、書きかけの一文が残っている。永遠なる黄金の血? 壮大なる神話の世界? ああ、どれもそうであると言えるし、どれも違うとも感じる。
オンパロスで起きたことを整理し、忘れないうちに記録へ残しておこうと始めた作業だった。誰がどこで何を選び、何を守ろうとし、何を失い、それでも最後にはどんな道へ辿り着いたのか。
出来事を順番に並べるだけなら、思っていたより難しくはない。開拓者自身がその多くを見て、聞いて、歩いてきたからだ。難しいのは、その途中にあったものだった。
たとえば、ファイノンが何でもないことのように「相棒」と呼んでくれた声。キュレネが楽しそうに言葉を弾ませた時、その語尾にまで笑みが滲んでいたこと。真面目な話をしていたはずなのに、いつの間にか誰かの一言で話題があらぬ方向へ転がり、それを戻そうとする者とさらに転がそうとする者が現れて、結局まとまりがなくなってしまった時間。
そういうものは、出来事の名前にはならない。楽しかった、苦しくも悲しくも怒りもあったけど、ものすごく楽しかった。思い出そうとした時にいちばん先へ帰ってくるのは、たいていそちらだった。
「……あー! もう、難しい!」
頭を抱えながら吠え、開拓者は筆記具の先で紙を軽く叩いた。戦いについてなら書ける。何が起きたか、誰が何をしたか、結果として何が変わったかを順番に並べればいい。けれど、それだけでは足りない気がした。あの世界を知らない誰かがいつかこの本を開いた時、黄金裔を遠い神話の中だけにいる英雄として覚えてほしくない。
だって、彼らは、自分たちと同じように笑うし、困ることもあるし、怒ったり、呆れたりもする。たまに話が通じなくなるときもあれば、誰かが妙なことを言えば横から訂正が入り、訂正された本人が納得するとは限らないときもあった。強い者もいれば、頭のいい者もいるし、優しい者もいる。けれど、そのどれかひとつだけで出来ていたわけではない。
何より、開拓者にとって彼らは、記録の中で名前を読むだけの相手ではなかった。一緒に歩いた人たちだ。だから、開拓者は何度も書き直した。
一行消して、二行足す。二行足したら説明が長すぎる気がして一行消し、読み返してみると今度は肝心なものまで消えた気がして、さっき消した内容を少し違う言葉で戻す。しばらくするとページの余白には小さな追記が増え、矢印が伸び、その先へさらに文字が加わった。
「……本って、
敵なら殴れば反応が返ってくるし、道なら歩けばどこかには着く。しかし文章は、じっとこちらを見返してくるばかりだった。
おお、タイタンよ。わりと本気で
列車の振動が背中へかすかに伝わる。車輪が通常の地面を走っているわけではないのに、長く乗っていれば、不思議とこの揺れが「帰ってきた」という感覚に結びついていた。空調の柔らかな風が灰色の髪を揺らし、机の端へ積んだ紙の一枚がわずかに浮き上がる。慌てて手のひらで押さえた拍子に、少し前に書いたページが目に入った。
そこには、もう終わった出来事が書かれている。終わった、と自分で書いた。その二文字を見ているうちに、開拓者の指が止まった。
オンパロスでの旅には、確かに区切りがついた。終末へ向かっていた長い物語は、そのまま破滅へ落ちることなく、新生を待つところまで辿り着いた。皆が守ろうとしていたものは残ったし、もう一度始められる未来もある。
それ自体は喜んでいいことだし、開拓者自身、何度だって喜びたいと思っている。――なのに、自分の手で「終わった」と書くと、胸の奥に妙な空白ができた。
「…………」
開拓者は紙から手を離した。少し離れたところから見ても、文字は文字のままだった。書き直したところで、起きた出来事そのものが変わるわけではない。記録は、残すためにある。忘れないためにある。いつか誰かへ渡し、その人がまだ知らないものへ触れるための道にもなるだろう。
それは分かっている。だけど、今欲しいものはそれではないような気がした。机の上へ肘を置き、両手で頬を包んだ。そうして数秒じっとしていたが、姿勢を変えたところで答えが勝手に湧いてくるわけでもない。再びページをめくる。先ほど書いたところへ戻る。もう一枚めくる。さらに戻る。
戻れば戻るほど、皆がいる。紙の上に。紙の上にしか、いない。その事実に気づいた途端、書きかけだった文字が急に平たく見えた。
「……、会いたい」
声にしてから、開拓者は瞬きをした。
あまりにもそのままの言葉だったので、自分でも少し驚いた。もっと複雑な理由があると思っていた。記録を完成させたいからとか、聞き忘れたことがあるからとか、新生へ向けて困っていることがないか確認したいからとか。理由をつけようと思えば、いくつでもつけられる。
でも、最初に出てきたのはそれだった。会いたい。開拓者は両腕を机へ重ね、その上へ顎を置いた。紙との距離が近くなり、乾いた紙とインクの匂いが微かに鼻先へ届く。
会うだけなら、方法がないわけではない。永遠の1ページには、皆がいる。新生を待ちながら、あの場所でそれぞれに時間を過ごしている。顔を見に行けばいい。声を聞きに行けばいい。きっと開拓者が訪ねれば、誰かは迎えてくれるだろうし、何をしていたのか尋ねれば話してくれるだろう。――それなら、この胸に引っかかっているものは解決するはずだ。
「……うん、違うな」
開拓者は身体を起こした。窓の外を星がひとつ流れていった。遠ざかっていく光を目で追いながら、彼女は先ほど浮かんだ考えをもう一度、頭の中で並べ直した。
会いたい。それは間違っていない。でも、会って話したいだけではない。ファイノンに会って「元気?」と聞いて、キュレネに会って近況を話して、他の皆にも順番に挨拶をして。
それから列車へ帰ってくる。それはきっと楽しいし、やりたい。けれど、想像した時に感じたものは、求めているものより少しだけ小さかった。
椅子から立ち上がった。考え事をする時、じっと座っている必要はない。むしろ歩いた方がいいこともある。ラウンジの窓辺まで進み、また戻る。机の横を通り過ぎ、二歩行き過ぎてから方向転換する。そのまま狭い範囲を往復していると、いつの間にか足元へ小さなぐるぐると周回路が出来上がっていた。姫子に見られたら、落ち着きましょうとコーヒーを注がれそうなほどに。
(私が欲しいのは何だ? 私は何をしたい?)
開拓者は歩きながら、書き残していた場面を思い出していった。
知らない土地へ入った時は? まず何があるのか確かめる。道が分かれていたら? とりあえず気になる方へ進む。止められたら理由を聞く。危険なら危険なりに方法を探す。何か変なものが落ちていれば調べる。誰かが困っていれば話を聞く。強い敵が出れば戦うし、一人では無理なら仲間を頼る。そうして歩いていれば、予定になかったものが増えてゆく。
見たことのない景色。知らなかった話。その土地に住む人。途中で立ち寄った場所。誰かの失敗。どうでもいい寄り道。あとから思い出すと、なぜそんなことをしていたのか自分でもよく分からない時間――うんうん頷きながら、開拓者はそこで足を止めた。
「……そっか、私、冒険したいんだ」
今度の言葉は、口に出した瞬間、胸の中へきれいに収まった。会いたいだけではない。また、一緒に歩きたいのだ。
すでに知っている道をなぞるのではなく、まだ誰も知らない場所へ行きたい。以前と同じ敵を倒し、同じ出来事を繰り返したいわけでもない。次はどうなるのか分からないところへ、皆と一緒に踏み込んでみたい。
ファイノンが隣にいて、キュレネがいて、黄金裔たちがそれぞれ好き勝手なことを言いながら歩いている。道に迷うかもしれないし、迷わないかもしれない。誰かが行き先を決めても、その通り進む保証はない。途中で別のものを見つけたら、開拓者自身が脇道へ入る可能性はかなり高かった。
そういう、まだ記録されていない時間が欲しい。開拓者は机へ戻ると、開いたままだった本のページを見下ろした。
ここにあるものは、大切だ。だから残したい。けれど、残すことと、続けることは違う。どれほど丁寧に思い出を書き残しても、ページの中のファイノンが太陽のように表情を輝かせて新しいことを言い始めるわけではないし、キュレネが紙の端からひょっこり顔を出して、次はどこへ行こうかと尋ねてくれることもない。皆の言葉を覚えているからといって、自分で続きを作ってしまえば、それは開拓者の想像でしかなくなる。
過去は書ける。でも、新しい思い出は、本人たちとしか作れない。そこまで考えたところで、開拓者は筆記具を置いた。
先ほどまでどうしても続きを書かなければならない気がしていたのに、今は少しくらい止まっていても構わないと思えた。本は逃げない。文字も消えない。それに、思い出を書くためだけに皆と出会ったわけではないのだ。
「また、みんなと冒険したい」
もう一度言ってみる。うむ、しっくり。やはり、これだった。開拓者は椅子へ座り直し、今度は何も書かずに頬杖をつく。考えたいことがひとつに絞れたおかげで、さっきより頭の中はすっきりしたが、その代わり、新しい問題が真正面へ座っていた。
どうやって。会いに行くだけなら分かる。けれど、もう一度冒険するとなれば話は別だった。オンパロスは新生を待っている。皆にも、それぞれこれからがある。開拓者の「遊びたい」に付き合わせるためだけに、その時間を好き勝手使っていいわけではない。
それに、同じ世界へ行ったところで、以前のような旅が都合よく始まるとは限らないし、そもそも、始まってほしいのは以前と同じ旅ではない。
「うーん……」
机へ伏せそうになり、途中で思い直して頬だけを紙束へつける。冷えた紙が肌へ当たり、そのまま横向きに視線を泳がせると、窓の外には変わらず星が流れていた。
知らない場所へ行くのがナナシビトなら、まだない方法を探すのも、たぶん開拓のうちだ。けれど、その方法が分からない。開拓者は目を細め、机の上に散らばった思い出のページを眺めた。
会いたい。遊びたい。また一緒に冒険したい。どうすれば、それができる。……自覚したばかりの答えはまだない。それでも、自分が何を求めているのかだけは、もう分かった。
開拓者は伏せていた身体を起こし、書きかけの本を丁寧に閉じた。表紙へ置いた手のひらには、紙越しの静かな硬さしか返ってこない。それを確かめるように一度だけ撫でてから、彼女は椅子へ深く座り直した。
思い出を残す手は、ひとまず止めてもいい。今は、その続きについて考えたかった。まだどこにも書かれていない、皆との次の一ページをどうやって作ればいいのか。その問いを抱えたまま、開拓者は流れていく星々を見つめ、答えになりそうな何かを探してゆっくりと思考を巡らせ始めた。
開拓者くんちゃんって、みんなって言うっけ? 皆って言うっけ? って疑問を未解決のままに進めてしまった……。
シリアス系統の場面では漢字表記っぽそうなんだよな……。でも、スコートくんを躾けてるときに民衆の目を向けてもらうときなんかは「みんなぁー!」(皆ぁー!かもしれないけど……)とか言ってそう。――魔法の言葉:「時と場合による」って、こと……!?