オンパロスが新生を待つあいだ、開拓者はそこで過ごした日々を整理し、一冊の本へ綴っていた。
けれど、文字にすればするほど蘇るのは、英雄たちの偉業だけではない。声や笑み、寄り道や失敗――仲間と過ごした、記録の枠には収まらない時間だった。
過去を書き残すことはできても、新しい思い出までは生まれない。開拓者はようやく、自分の胸に残る空白の正体を知る。ただ会いたいのではない。もう一度、黄金裔のみんなと、まだ誰も知らない場所へ冒険に出たいのだ。
では、その願いを叶えるには、どうすればいいのだろう?
答えになりそうな何かを探していたはずなのに、いつから思考が途切れていたのか、開拓者自身には分からなかった。
星穹列車のラウンジには、先ほどと変わらず一定の駆動音が流れている。車体を伝う微かな振動も、空調から落ちてくる穏やかな風も、窓の向こうを悠然と横切っていく星々も、眠りへ誘うために用意されたものではない。それでも、長く机へ向かい続けた身体にとっては、その変化のなさこそが心地よかったらしい。
閉じた本の表紙へ片手を置いたまま、開拓者の身体はいつの間にか少しずつ傾いていた。頬杖をついていた腕から力が抜け、灰色の髪が肩からさらりと落ちる。最後まで何かを考えようとしていたのだろう、眉間にはほんのわずかな皺が残っていたが、それも呼吸が深くなるにつれて緩んでいった。
どうすれば、もう一度みんなと冒険できる。眠りへ沈む直前まで握っていた問いは、そこで消えたわけではなかった。輪郭を失い、言葉ではなくなり、代わりに淡い光となって意識の底へ沈んでゆく。
そして次に開拓者が目を開けた時、そこには星穹列車の天井がなく、風が吹いていた。頬を撫でるというより、遠くから運ばれてきた記憶そのものが肌をすり抜けていくような、不思議な風だった。
冷たくもなく、熱くもない。花の匂いがした気がするのに、どんな花だったかを確かめようとすると、今度は水面へ落ちる光の匂いだったようにも思えてしまう。
ふと、夢だと思った。同時に、ただ、自分がここを知っているような気がした。正確には、この景色そのものを見た記憶ではない。似た光を見た。似た風を受けた。似た距離に誰かがいた。いくつもの記憶が薄い水の層のように重なっていて、そのどれを掬い上げても、底には同じ温度が残っている。
足元に広がる水面は、踏んでも沈まなかった。一歩進むたびに淡い波紋が広がり、その縁で細かな光が花びらのようにほどけてゆく。遠くに見えるものも定かではない。星空だったようにも、オンパロスの空だったようにも、記憶の底を流れる歳月の長河だったようにも思える。
「変なところ」
開拓者はそう呟き、自分の声が妙に近くへ返ってくるのを聞いた。反響していて、叫んだらもっとおもしろそうだと思った。
不意に、誰かが笑った。すぐ後ろではない。遠くでもない。振り向けばそこにいると最初から分かっていたような距離で、鈴を転がすほど軽すぎず、それでも聞けば自然と肩の力が抜ける笑い声がした。
「そうかしら? あなた、こういう場所は嫌いじゃないでしょう?」
衝動的に振り返る。桃色の髪が、風より少し遅れて揺れていた。長い髪の先は水面の光を掬ったように淡く透け、薄布と星空を思わせる裾も、彼女が立ち止まってからなお僅かに揺れている。キュレネはすぐそばまで来ることも、遠くへ離れることもなく、開拓者が自分から一歩進めば届く場所に立っていた。
「キュレネ?」
「ハーイ、あたしに会いたかった? あなたの相棒、キュレネよ♪」
なぜ確認するように名を呼んだのか、開拓者にも分からなかった。しかし、キュレネはそれを不思議がる様子もなく、むしろ呼ばれたことそのものを楽しむように瞳を細めた。その表情を見た瞬間、開拓者の中で何かが繋がった。
これは、今の出来事ではない。以前、交わした言葉だ。いつだったか。どこだったか。そこまで思い出そうとすると景色が揺れた。
オンパロスを旅していた間、キュレネとは本当にたくさんの言葉を交わした。大切な話ばかりではない。どうでもいい話もあったし、答えが出なかった話もある。誰かについて語ったこともあれば、昔のこと、これからのこと、目の前に咲いていた花や、ちょっとした寄り道について言葉を重ねたこともあった。
いくつもの会話が、開拓者の記憶の中には残っている。忘れていたわけではない。ただ、他の思い出と一緒に大切に抱えているうちに、今の自分が探しているものと結びついていなかっただけだ。夢の中の開拓者は、その時の自分へ重なるようにキュレネを見た。
「ねえ、キュレネ」
「なあに?」
「オンパロスって……変わるの?」
問いかけた自分が、なぜそんなことを訊いたのか。その前後にどんな話をしていたのかは曖昧だった。ただ、目の前の少女が一度だけ瞬きをしたことは、妙にはっきり覚えている。
キュレネはすぐには答えなかった。否定するでも、安心させる言葉を急いで差し出すでもなく、何を尋ねられているのか確かめるように開拓者の顔を見つめた。淡い光が瞳の表面を滑り、その奥へ小さな星を沈めていく。
「変わるって、たとえば、どんなふうに?」
「分からない」
当時の自分も、たぶん本当に分かっていなかった。
「同じ場所に来ても、前と同じじゃないことってあるでしょ。人も、景色も、起きることも」
「ええ」
「じゃあ、私がまたオンパロスに来ても、知ってるオンパロスじゃなくなってるかもしれない」
口にしてから、少し変なことを言った気がした。
だって、開拓者にとって旅とは、本来そういうものだ。星穹列車で一度訪れた場所へ再び行けば、そこに住む人々はその間も生きている。町が変わり、関係が変わり、季節が移り、昨日までなかったものが増えることだってある。変わらない方が不自然なのに、その時の開拓者は、なぜかオンパロスだけを特別に考えていた。
もしかすると、この世界で見たものがあまりにも大きく、あまりにも失いたくないものばかりだったからかもしれない。けれど、それは今の開拓者が後から付け足した理由だった。
彼女は少しだけ首を傾けた。桃色の髪が肩から滑り、淡い光を帯びた毛先が水面すれすれで揺れる。その仕草には、問いの意味を測りかねているというより、開拓者がどんな答えを求めているのかを静かに見極めようとする気配があった。
すぐに言葉を返すこともできたはずなのに、キュレネはあえて沈黙を選び、今度は開拓者自身の中から答えが浮かび上がるのを待っているようだった。
「あら。それって、困ること?」
「……困らない?」
「どうして困るの?」
逆に尋ねられ、開拓者は黙った。
キュレネは笑っている。しかし、からかわれているわけではなかった。答えを知っているから相手へ教える、という立ち方でもない。ただ、自分で考えるまで、その場所を空けてくれているように見えて、開拓者は言葉を探した。
「だって、……せっかく会えたのに、次に来たら違うかもしれない」
「ええ」
「同じことが起きないかもしれない」
「そうね」
「同じようには会えないかもしれない」
そこまで聞いたキュレネは、ようやく小さく息を漏らして笑った。水面へ淡い光が降り、その足元から広がった波紋が開拓者の靴先へ届く。
「だったら、今度は違うふうに会えばいいじゃない」
「違うふうに?」
「ええ」
キュレネは一歩だけ近づく。すぐ手を取るのではなく、掌を上にして差し出す。開拓者が取っても、取らなくてもいい距離だった。
「同じ出会いを何度も繰り返さなきゃいけないなんて、誰が決めたの?」
「誰も」
「でしょう?」
開拓者は差し出された手を見た。細い指先。その上へ舞い落ちる淡い光。触れてみれば温度があることを、なぜか知っている。
「でも、違ったら……別のものになる」
「別のものになったっていいじゃない」
あまりにも自然に返され、開拓者は顔を上げた。キュレネは、少し考えるように視線を上へ向けた。言葉を選ぶための短い間。その横顔には、何かを惜しんでいるような影も、過去を軽く扱う色もなかった。
「前にあったことが消えるわけじゃないわ。あなたが覚えていて、あたしが覚えているなら、それはちゃんとそこにあるもの」
彼女の声に合わせて、水面のどこかへ旅の記憶が映った。開拓者が目を向けると、誰かの背中や遠くへ伸びる道、風に揺れる衣、揺らめく火の光が一瞬だけ浮かび上がる。しかし、追おうとした次の瞬間には別の景色へ移り変わり、やがて水面には何も残っていなかった。
「それなのに、次まで同じにしなくちゃって思ったら――せっかくこれから起きることまで、昔のお話に閉じ込めちゃうでしょう?」
キュレネの声に振り返った開拓者は、彼女の言葉を聞いて瞬きをした。「昔のお話に閉じ込めちゃう」という表現が胸のどこかに小さく引っかかる。今の自分なら、その意味がよく分かる。机の上へ積んだ紙、何度も書き直した文章、「終わった」と自分で記したピリオド。終止符。そして、紙の上にしか皆がいないと感じた、あの瞬間。
「……でも、忘れたくない」
夢の中の開拓者がそう答えた。それは過去の自分の言葉だったのか、それとも今の自分が口にしたものなのか、もう境目が分からなかった。
キュレネは差し出していた手を下ろさなかった。柔らかな声で言葉を紡ぎながら、深い感謝と暖かな情を湛えた、どうしようもないひとを見つめる慈雨のようなまなざしを、まっすぐに開拓者へ注いでいる。その優しさは、胸の奥へ静かに染み込んでくるようだった。
嬉しいのに、どこか落ち着かない。そんなふうに見つめられると、自分の考えも弱さも、何もかも見透かされているようで、開拓者は少しむずがゆくなった。
「忘れなくていいのよ。覚えていることと、同じ場所へ留まり続けることは、きっと同じじゃないもの」
その言葉だけは、妙にはっきりと届く。開拓者はしばらく何も言わず、やがてキュレネの掌へ自分の手を重ねた。触れた瞬間、光が揺れた。記憶でも夢でも、その温度だけは本物のようだった。
「じゃあ……次は違ってもいい?」
「もちろん」
「みんなと会う場所が違っても?」
「ええ」
「最初から知り合いじゃなかったりしても?」
開拓者がそう尋ねると、キュレネは一度目を丸くしてから、楽しそうに笑った。驚きはすぐにほどけ、代わりに瞳の奥へ悪戯っぽい光が宿る。まるで、開拓者がようやく自分でその可能性へ手を伸ばしたことを、ずっと待っていたかのようだった。
「それも素敵ね。あなた、今度は誰から声をかけるつもり?」
「もちろん、キュレネとファイノン!」
「即答なのね?」
「何せ、自慢の相棒たちだからね」
「ふふっ、そうね」
「でも、ファイノンが私を知らなかったら困る」
「あら。だったら、もう一度仲良くなればいいじゃない?」
「
「それも含めて冒険なんでしょう?」
「……確かに」
言われてみればそうだった。最初からすべてを知っていて、道も、人も、出来事も変わらず、結果まで分かっているなら、それは開拓者が欲しがっていたものとは少し違う。
新しい冒険をしたい。なのに、新しいものが起きることを怖がる。それは矛盾していた。夢の中の開拓者は、考え込むようにキュレネの手を握ったまま俯いた。
水面に二人の姿が映っている。けれど波紋が通るたび、輪郭はゆっくり崩れた。開拓者の姿が少し違って見え、キュレネの衣装も別の色へ変わり、次の波紋では立っている場所すら違ってしまう。それでも、手だけは繋がったままだった。
「今のオンパロスには無限の可能性があるもの、訪れるたびにみんなに会えるし、何なら出会い方だって自由なのよ♪」
キュレネが言った。その声には、先ほどまでの静かな諭しとは違う、弾むような明るさがあった。まるで、開拓者がようやく見つけた答えを祝福するように、あるいはこれから始まる新しい冒険を、誰よりも先に楽しみにしているように。
最後の声音が楽しげに跳ね、開拓者は顔を上げた。キュレネの瞳には、淡い星の光が宿っている。その輝きは水面に映る光よりも近く、夢の景色よりも確かなものに見えた。彼女は差し出した手をわずかに揺らしながら、開拓者の反応を待っている。急かすことも、答えを決めつけることもなく、ただ「あなたはどうするの?」と問いかけるように。
その表情を見ていると、胸の奥に残っていた不安が、少しずつほどけていくのが分かった。自由という言葉は、何もかもを自分ひとりで決めなければならないという意味ではない。
誰かと出会い、言葉を交わし、その時々の選択を重ねながら、まだ知らない道を歩いていくことなのだ。開拓者は、キュレネの手を握ったまま、ほんの少しだけ目を細めた。
「自由?」
「そう。自由よ」
「それって、何でもあり?」
「あなたの『何でも』は、ときどき心配になる言い方ね」
「じゃあ、だいたい何でもあり?」
「少しだけ安心したわ」
くすくすと笑うキュレネを見ながら、開拓者はもう一度その言葉を考えた。自由。訪れるたびに、みんなに会える。出会い方だって自由に。
過去をなぞる必要はなく。前に歩いた道を、寸分違わず歩き直す必要もない。知っている人と、知らないふりをして出会う必要すらない。まったく別の場所で出会ってもいい。前にはなかった出来事を起こしてもいい。以前なら選ばなかったことを選び、行かなかった場所へ行き、まだ見たことのない誰かの表情を見ることだってできる。
その可能性を考え始めると、開拓者の胸の奥へ、少しずつ熱が戻ってきた。ファイノンと別の土地を歩く。キュレネと知らない景色を見る。皆が、それぞれ前とは違うことをする。
想像の中で続きを勝手に決めてしまうのではなく、本人たちがその場で選ぶ。そういう時間なら。それなら、自分が欲しかった「次の一ページ」に近いかもしれない。
「もう大丈夫そうね」
「ねえ、キュレネ」
「ふふっ、なあに?」
「そういうのって――」
言いかけたところで、風が強くなった。桃色の髪が大きく揺れ、二人の間を光の花びらが横切る。開拓者は反射的に目を細め、それでも繋いだ手を離さないよう指へ力を込めた。けれど、感触が遠ざかってゆく。
「相棒、また明日♪ 今度は缶詰状態で行き詰った
ざァっと花吹雪に見舞われた次の瞬間、頬に硬いものが当たった。
「……ん」
開拓者は眉を寄せた。冷たい。だけど水ではない。紙だった。なにしてたっけ。薄く目を開けると、視界いっぱいに白い紙束の端が見えた。鼻先には乾いた紙とインクの匂い。片方の頬は机へ押しつけられ、腕はいつの間にか枕のように折り畳まれている。
「…………」
数秒。開拓者はそのまま動かなかった。窓の向こうを星が流れ、星穹列車の駆動音が耳に届く。ここはラウンジだ。どうやら机に突っ伏したまま眠っていたらしい。身体を起こすと、肩から灰色の髪がばさりと落ち、固まった首が軋んだ。頬には紙束の角が当たっていたらしく、指で触れるとうっすら跡が残っていた。
「寝てた……」
事実確認を口にしてから、開拓者は瞬きをした。夢。キュレネ。たくさん交わした言葉の中の、ひとつ。眠りから覚める時、夢は指の隙間から零れるように消えてしまうものだ。けれど今回は違った。ひとつの言葉だけが、ひどく鮮明に残っている。
自由。開拓者は閉じた本へ手を置いた。先ほどまで、「もう一度みんなと冒険する」方法を考えていた。その考え方自体が、少し狭かったのかもしれない。「もう一度」という言葉には、無意識のうちに前と似たものを求める響きがある。けれど、自分が欲しかったのは同じ旅ではなかったはずだ。
まだ知らない場所。まだ起きていない出来事。まだ誰も選んでいない選択。だったら、必要なのは過去を取り戻す方法ではない。
開拓者は椅子へ座ったまま背筋を伸ばした。眠気はまだ目の奥に残っていたが、思考だけが妙に鮮明だった。指先で机を一度叩き、もう一度。今度は紙へ何かを書くためではなく、自分の中で形になりかけているものを逃がさないために。
「……新しい出会い方」
開拓者は小さく呟いた。キュレネが、出会い方だって自由なのだと言っていた。なら、オンパロスへ行って以前と同じ旅が始まるのを待つ必要はないのだろう。皆と新しい時間を作りたいなら、今ある方法にこだわらず、「新しい出会い方」そのものを考えればいい。まだ存在しないのなら、自分たちで作ればいいのだ。
「……作る?」
口から零れた自分の声に、開拓者はぴたりと止まった。
何を。どうやって。そこはまだ何ひとつ分からない。けれど、先ほどまで真正面に座っていた壁へ、ほんの小さな穴が開いたような気がした。過去を完全に再現しなくてもいい。同じ場所で、同じ順番で、同じ言葉を交わさなくてもいい。
黄金裔たちは記録の中だけにいる人々ではない。新しい場所で、新しい役割を担い、新しい何かを選んでいい。そして開拓者自身も、その新しい物語へ入っていっていいのだ。
机の上には、過去を書き残すための本がある。開拓者はその表紙へ目を落とし、今度は少しだけ口元を緩めた。これを書き終えることと、続きを作ることは両立する。過去を大切にすることと、そこから離れて歩くことも、きっと両立する。
キュレネが夢の中で教えてくれたのは、具体的な答えではなかった。だからこそ、開拓者には都合がよかった。答えをもらってしまえば、それを実行するだけになる。けれど今、手元に残っているのは「自由に考えていい」という余白だ。開拓者は椅子へ座り直し、乱れていた紙束をざっと揃えた。まだ筆記具は取らない。
今度書くのは思い出の続きではない気がする。何をどうすれば皆と新しく出会えるのか。以前とは違う場所で、違う形で、それでも確かに本人たちと同じ時間を過ごすにはどうすればいいのか。
答えはない。けれど、問いの形は変わった。開拓者は窓外の星々へ目を向ける。先ほどまで遠く見えていた光は、やはり同じ距離にあるはずなのに、今は少しだけ違って見えた。
オンパロスへ戻って同じ冒険を探すのではない。みんなと冒険できる、新しい出会い方を作る。そんなことが本当にできるのかは、まだ分からない。それでも、できるかどうかを考えるところからなら始められる。
開拓者は机へ肘を置き、今度こそ眠らないよう片手で頬を支えながら、夢から持ち帰ったその小さな可能性を、逃がさないよう静かに転がし始めた。
生まれて