オンパロスの夜空に、星々が瞬いていた。それは神話の天蓋ではなく、無数の世界が息づく宇宙の光。人々はようやく、自分たちもまた星海の一部なのだと知る。
ファイノンは開拓者たちと交わした言葉を思い出した。遠く離れていても、星はお喋りをしているのだと。アナイクスはその光を理で解こうとし、ヒアンシーは今だけはロマンのまま眺めようと笑う。そんな何気ないやり取りの中で、終末を越えた世界には、もう嘆きではない音が戻り始めていた。
けれど、星明かりの下でほどけていく安堵の奥、ファイノンはひとり、誰にも告げない決意を抱く。自分はやはり、往くべきなのだと。
タイタンの星座は、一度灯ってしまえば点滅することなどなかった。消滅したときは、すなわち火種を継ぐ者の死であり、タイタンの不在を意味する。だからこそ、この空に瞬く光は、ファイノンにはどこか新鮮で、まるで誰かが応答しているかのように見えた。
もちろん、それはファイノンの勝手な解釈にすぎない。アナイクスなら眉をひそめるだろう。開拓者なら肩をすくめて笑ってから、「それもまたよし!」って肯定してくれるかもしれない。キュレネなら、きっと少し得意げに「それもまた一つの物語よ♪」と言うはずだ。――だからファイノンは、今だけそれを信じることにした。
理屈はいずれ、誰かが見つける。答えはいずれ、世界が追いつく。そうして誰かが、この瞬きを式に落とし込み、名前を与え、説明できるようになるのだろう。
だが今、ファイノンの胸にあるのは、そうした未来を待つ静かな確信と、それとは別に、この夜をこのまま受け取っていたいという感情だった。
(そっか……。救われた世界を見るのは、初めてだった……)
その実感は、どこか他人事のようでもあり、しかし確かに自分の内側から湧き上がってくるものでもあった。かつての自分は、結末を見届ける側ではなかった。誰かに託し、背を向け、あるいはその場で燃え尽きる側だったはずだ。
ケビン・カスラナとしての記憶が、遠い水面の底から揺らめく。彼は最期に、彼女たちへ試練という形で手を貸し、答えを受け取り、未来を託した。再会という奇跡の中で、薄れゆく意識と魂を砕きながら、地球が崩壊因子に耐えられるよう、自らの抗体を光の粒子へと変えて散布した。
その先を、彼は見ていない。だからこそ今、こうして星を見上げながら「救われた後」を感じている自分が、どこか不思議だった。
ファイノンは、ゆっくりと息を吐く。胸の奥にあるものを確かめるように。今の自分を形作っているのは、あの時宇宙へと放たれた肉体に残っていた魂の残滓だ。ヌースによってオンパロスへ取り込まれ、ケイオスからネイコスへと変じた存在。進化なのか、変質なのか、それともただの延長なのか――自分でも判然としない。
戻ろうと思えば戻れる。だけど、第三者が見れば、別の存在だと断じるかもしれない。あるいは、連続した一つの命だと捉えるかもしれない。
どちらの自分も知るヴェルトは「同じだ」と言った。けれど、その言葉を、ファイノンは否定も肯定もせず、ただ胸の内に置いている。
星は変わらず瞬き続けていた。誰かがそれを見上げ、言葉を探し、やがて笑う。その光景を想像するだけで、胸の奥がわずかに温かくなる。
星を見上げた人々が、遠い光をただの現象ではなく、祝福のように受け取れること。閉ざされていた世界で生きてきた彼らが、ようやく空の向こうへ想像を伸ばせること。――その変化を、今この瞬間に見届けているのだと、彼は静かに理解していた。
そして、その事実だけで、充分だった。
「そういえば、今度、オンパロスで競技大会を開催しようって話が出ているんですが、ファイノン様の方もご存じですか?」
ヒアンシーの声が、星空から現実へと彼の意識を引き戻した。ファイノンは一瞬だけ視線を落とし、それから彼女へと向き直る。
「ああ。そのことで、競技の項目をどうしようかって相談を受けてたんだ。今はモーディスと一緒に、クレムノスに伝わる競技を調べ直して、まとめているところだよ。」
口にしながら、頭の中には石板の文字や古い記録の断片が浮かぶ。曖昧な記述を拾い上げ、形にしていく作業は骨が折れるが、不思議と嫌ではなかった。
「相変わらずお忙しくされてるんですね!」
「そんなことはないさ。」
軽く首を振る。忙しさというよりも、これは――ファイノンにとっては、繰り返しの中で積み重ねてきた記憶をなぞりながら、どこか確かめるような時間だった。
石板を共有しながら顔を突き合わせる相手。モーディスが、眉間に皺を寄せ、「これは競技ではなく軍事訓練だ」と断じた場面を思い出し、ファイノンはわずかに口元を緩めた。あの時の真剣な声音や、譲らない視線まで、はっきりと蘇る。
戦うためではなく、楽しむために力を競って。勝敗が命を奪わず、拍手と笑い声だけを残すために。そんな発想に本気で頭を悩ませていた彼の姿を思うと、胸の奥に静かな温かさが広がる。軍事国家クレムノスの王子が、ああして唸っていたのだ。それはきっと、彼らの世界が少し変わった証なのだと、ファイノンは思った。
「こういうお話ほど、グレーたんに聞けたら……って思ってしまいますね! きっと色々な場所で、色々な大会を見てきたでしょうし」
ヒアンシーの言葉に、ファイノンは小さく息を吐いた。確かに、あの相棒ならこういう話題に食いつかないはずがない。むしろ、聞いた瞬間に「それ、今からやろう!」と無茶を言い出す未来まで容易に想像できる。
「彼女、イベントが大好きだって言ってたからね。参加するだけじゃなくて、知らない種目を見つけたら真っ先に飛び込んでいそうだ。ルール説明の途中でスタートして、あとから怒られるタイプだと思う。」
「”ぽよよん!アザラシ大作戦”のように?」
「”ぽよよん!アザラシ大作戦”のように! ……あれ、結局どういう競技だったんだろうね。最終的にはサフェルさんを追いかけてた気がする。」
思い出そうとして、ファイノンは一瞬だけ真顔になった。確か、トロフィーを盗んだサフェルを追いかけて、最後は全員で転がっていた気がする。
所要があって途中イベント会場から離脱することになった彼は、結局その後の展開を知らない。けれど、後日、相棒たちの
競技というより事故に近かったのではないか、と今さらながらに思うが、当の本人は満面の笑みで「大成功!」と言っていたのだから、あれはあれで成立していたのだろう。
ファイノンの口元が、わずかに緩む。遠い旅路のどこかで、彼女が笑っている姿が浮かぶ。見知らぬ土地の広場で、ルールも分からないまま人々の輪に混ざり、あとから「こういうものは楽しんだ者勝ちだよ」と胸を張る姿。たぶん、周囲も巻き込まれて笑っていたに違いない。
きっと、そういう人だったのだろう。きっと、たくさんの場所で、たくさんの楽しいものを見つけてきたのだろう。
「ご当地種目とかも、たくさん知っていそうだ。……うん。相棒からそういう話を聞けたら、きっと面白かっただろうね。たぶん半分くらいは再現が難しいかもしれないけれど」
最後に付け足した一言は、軽口のつもりだったが、声の奥に残るものまでは隠しきれなかった。ほんの少しだけ、夜に沈む。
それでもファイノンは、すぐに空を見上げ直した。紫の銀河が、何も急かさずそこにある。届かないものはある。もう聞けない声もある。それでも、誰かが残した楽しみ方を想像しながら、新しい催しを作っていくことはできる。
むしろ、そうやって少しずつ形を変えていくのが、あの相棒らしい気もした。星々が、ぱち、と瞬いた。まるで、遠い誰かが「それでいいのよ♪」と笑ったように。
ファイノンは草の上に腰を下ろしたまま、そっと息を吐いた。ふう、と零れた呼吸は、夜気に触れてすぐに薄くほどける。
ヒアンシーは、ふと耳に触れた呼吸の違和感に、わずかに首を傾げた。夜気に溶ける吐息の長さが、ほんの少しだけ、彼女の知る「安らぎ」のそれと違っている。視線を向けるより先に、医師としての感覚が先に反応する。疲労を抜くための呼吸ではない。むしろ、何かを押し流すために、意識して整えられたもの。
(……あら? 吐く息が、少々長いような……)
ヒアンシーは瞬きを一つしてから、さりげなく視線を戻した。笑い声の輪の中にいるファイノンは、いつも通り穏やかに笑っている。
アナイクスの講義が止められなかったことに困ったような顔をして、ヒアンシーの制止にも反応があった。周囲のやり取りにもきちんと応じている。けれど、その「きちんと」が、ほんのわずかに整いすぎているように見えた。
(気のせい……では、なさそうですね。)
膝の上に置かれた手。その指先が、草の葉を一本だけ押さえている。強く握っているわけではない。ただ、そこに触れていることをやめていない。離す理由を見失っているような、そんな静かな留まり方。
ヒアンシーは小さく息を吸い、隣へと視線を滑らせた。声は低く、周囲に紛れる程度に抑えられている。
「……先生」
呼ばれたアナイクスは、口を閉ざしたまま彼女を見た。先ほどまで星の明滅について説明しかけていた教師の目は、もう空ではなく、ファイノンの横顔へ向いている。講義を中断された不満は、そこにはなかった。代わりに、黒板に不自然な空白を見つけた学者のような静けさがある。
「先生も、お気づきですか? 今の呼吸、わたしには、少し……深すぎるというか、整えようとしているように聞こえました。」
「ええ。それには私も同意見です。肩の下がり方も、あの子の場合あれでは不自然です。単なる気の緩みではないのでしょう。あの子の身体が無意識に、負荷を隠すために、力を抜いた姿勢を作っているのです。」
ヒアンシーは小さく息を呑み、すぐに唇を結んだ。近づいて脈を診りたい。呼吸音を確かめたい。今すぐ休ませたい。胸の奥で、医師としての自分が強く前に出ようとする。
けれど、この場でそれをすれば、ファイノンはきっと笑って「大丈夫」と言うだろう。そして、その言葉を支えるために、さらに姿勢を正してしまう。ヒアンシーはその未来をはっきりと想像してしまい、動きかけた足を、そっと草の上に留めた。
「先ほどから、ほんの少しだけ反応が遅れています。笑うのも、返事をするのも、いつものファイノン様より半拍ほど遅く感じます。」
「観察としては、相変わらず的確ですね。問題は、本人に自覚がない、もしくは、自覚していても申告する意思がない、ということでしょう。」
「……後者、でしょうか?」
「両方でしょうね。彼の場合、その二つが分離していない可能性が、大いにあります。」
ファイノンは空を見上げていた。紫の銀河を、遠い誰かの返事のように見つめている。星明かりが白銀の髪に触れ、柔らかな輪郭を作る。その姿は、少し離れて見れば、救われた世界に安らぐ英雄そのものだった。
けれどヒアンシーには、別のものにも見えた。灯火を守り続けた者が、火を消さないように、最後の芯を指で支えている姿にも。
「先生。今ここで止めた方がいいのでしょうか?」
「止め方を誤れば、あの子は理由を作って立ち上がります。競技大会の準備、天外の知識提供、黄金裔への説明。まだほかにも抱えているようですから、口実には困らないでしょう。」
「……困りますね。患者さんが、休まない理由ばかり上手になってしまうのは」
「医師の前で一番厄介な患者ですね。本人に治療を受ける意思がない――いえ、患者である自覚すら危ういのか。……どちらでもある、と断言したばかりでしたね。」
アナイクスの言葉に、ヒアンシーは困ったように眉を下げた。けれど、すぐに小さく頷く。夜気の中、桃色の髪がふわりと揺れた。
「では、今は追及しません。けれど、会の終わり際に自然に座っていてもらえるようにします。温かい飲み物も用意して、イカルンにも近くにいてもらいます!」
「妥当です。私は会話の流れを少し鈍らせます。質問を増やせば、彼は答えるために意識を保とうとする。むしろ、こちらが黙る時間を作った方がいい」
「アナイクス先生が、黙る時間を?」
「今だけです。」
短い返答に、ヒアンシーは思わず小さく笑いかけた。だが、その笑みはすぐに夜へ溶ける。ファイノンがこちらを見たからだ。
「二人とも、どうかした?」
穏やかな声だった。何も知らないような、あるいは知っていて何も差し出さないような声。ヒアンシーは一拍だけ置いてから、ぱっと表情を明るくした。
「いえ! 先生が今だけ講義を我慢してくださるそうなので、これは歴史的瞬間だと思っていたところです!」
「失礼ですね。私は必要に応じて沈黙を選べる人間ですよ。今までは、」
「その必要が、今まであまり発生しなかっただけですよね?」
「……私の話を遮るなと言ったはずです。」
ファイノンが、ふ、と笑った。
その笑いは確かに柔らかかった。けれどヒアンシーは、その直後に彼の睫毛がほんの少し伏せられるのを見た。たった一瞬。星が瞬くよりも短い間。けれど、その一瞬で十分だった。
今夜の星空は、奇跡だった。だからこそ、その下にいる彼を、奇跡の一部として眺めるだけではいけない。ヒアンシーは胸の前でそっと指を握り、声には出さずに決めた。今は笑う。今は星を見る。今は、この場の穏やかさを壊さない。けれど、見逃さないようにもしませんと。
アナイクスもまた、何も言わずに視線を空へ戻した。紫の銀河がゆるやかに流れ、星々が、ぱちぱち遠くで瞬いている。その光の下で、三人の沈黙だけが、そっと形を変えていった。
前回のあらすじを入れ忘れてたので、追加しました。