烈日よ、さざ波を追って   作:夜鷹ケイ

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<あらすじ>
 救われた世界の夜空に、かつて消えることのなかった光が、今はまるで誰かの応答のように明滅している。ファイノンは初めて「救われた後」の景色を見上げていた。
 理屈はいずれ誰かが見つける。名前も、法則も、世界が追いつけば与えられるだろう。けれど今だけは、その瞬きを祝福として受け取りたい――そう思えるほどに、夜は静かだった。
 やがて話題は、オンパロスで開かれる競技大会へ移る。モーディスと共に古い競技を調べ直すファイノンは、開拓者ならきっと未知の種目にも飛び込んだだろうと笑う。
 だが、その笑みの奥に滲むわずかな影を、ヒアンシーとアナイクスは見逃さない。長すぎる吐息、整いすぎた姿勢、半拍遅れる反応。星の下で交わされる穏やかな会話の裏側で、二人は彼を休ませるための静かな相談を始める。


014 天軌の下にて拓く

 ファイノンは草の上に腰を下ろしたまま、そっと息を吐いた。ふう、と零れた呼吸は、夜気に触れてすぐに薄くほどける。

 

 膝の上に置いた手の指先が、無意識に草葉を撫でた。さわさわと細い葉がやわく揺れ、肌にあたるのがくすぐったくて、わずかに指先を動かす。ふいに、触れられるんだ、と思った。

 その感覚は、あまりにも久しく遠ざかっていたものだった。いつからか。この手が触れるものはすべて凍てつき、あるいは燃え尽きるものだと、意識のどこかで思い続けていた。あの繰り返しの輪廻の中で、彼は人と過ごすことをやめた。

 仲間も、守るべき人々も、心を寄せた少女さえも、記憶を保護して輪廻の輪に乗せるためだと自分に言い聞かせて、彼女を象徴する歳月の儀礼剣で傷つけてきた。本当は、誰も傷つけたくなかったのに。そう思っても、銀河の滅亡は迫ってくる。時間もなければ、打開策もない。あの頃の彼には、ただ時間を稼ぐことしかできなかった。

 

 

 

――だから、この手は、何度も血に染まってきた。

 

 

 

 その事実は、消えない。どれほど静かな夜に包まれても、どれほど穏やかな光に照らされても、彼の内側に刻まれたものは、決して薄れはしない。

 どの口が、と思うこともあった。どちらも自分なのに、カスライナ(お前)ファイノン()の大切なものを奪ったのだと責める声がある。

 けれど同時に、ファイノン(お前)ではカスライナ()の世界を守れないのだとも分かっている。何度廻っても、小さな変化の積み重ねしか出来なくて。いったい、いつになれば、世を背負いのタイタン(お前/僕)は世界を救えるのか――この世界は、救われるのか――そんな問いだけが、何度も胸の奥で繰り返されていた。

 

 それでも、かつて剣を握り、火種を抱え、壊れかけた世界の縁を掴み続けた指は、今はただ、柔らかな草を傷つけないように触れている。

 ファイノンは、その感触を確かめるように、ゆっくりと指先を動かした。草は折れない。逃げもしない。ただそこにあり、彼の触れ方を受け入れている。ときおり、ぴょこんと跳ねて戻ってくるが、それだけのことが、妙に現実味を帯びていた。

 離愁の刻から隠匿の刻まで(夕暮れから眠りにつくまで)のあいだ、彼はヒアンシーとアナイクスに連れられて、人々の声を聞きながら、ただここに座っていた。

 ヒアンシーはアグライアやキャストリスから質問を受けたり、質問を返したりして。ときおり、彼の様子を横目で確かめていた。声をかけるでもなく、ただそこにいることを確認するように。彼女の相棒であるイカルンが、妙にファイノンの肩にもっふり乗ってくるのが不思議だった。

 アナイクスはというと、すでに何人かの学者に囲まれ、星の配置や観測記録について語り始めている。難解な言葉が飛び交い、周囲の者たちは首を傾げたり、理解できないまま笑ったりしていた。

 

 その光景を、ファイノンは少し離れた場所から眺めている。

 輪の中心に入ることもできるだろう。呼ばれれば応じることもできる。けれど今は、そこへ踏み込む理由が見つからなかった。ただ、外側から見ている方が、しっくりくる。

 誰かが笑い、誰かが驚き、誰かが空を指差す。その一つ一つが、ぎこちなくも確かな変化だった。夜を知らなかった者たちが、夜の中で過ごしている。

 アグライアが開いた天文観察会(アストロノミキ・ヴラディア)は、どうやら皆に受け入れられているらしい、とぼんやり思った頃。

 

「星穹列車の方々は、あの光の間を渡って来られたのですよね?」

 

 輪の中から、遠慮がちな声が上がった。

 声がぽつりと落ちたとき、ファイノンはわずかに顔を上げた。問いかけられた相手が誰なのかは分からない。ただ、その言葉が自分の方へも届いていることだけは、はっきりと感じられた。

 ざわ、と人々の気配が揺れる。恐怖ではない。火追いの旅で何度も耳にした悲鳴とも、終末に押し潰される息遣いとも違う。もっと小さく、もっと柔らかい。胸の奥で、まだ名前を持たない感情が、そっと動いたような気配。

 

「本当に、ほかの世界にも人がいるのでしょうか。わたしたちのように、朝を待ったり、家族と食卓を囲んだりする人たちが……」

 

 その問いは、夜気に溶けるように静かだった。

 ファイノンはすぐには答えなかった。視線は空に向けたまま、紫の銀河の流れを追う。あの光の向こうに、同じように空を見上げる誰かがいるのかもしれない――そんな想像は、これまで何度も頭をよぎってきたはずなのに、今この瞬間だけは妙に現実味を帯びていた。

 いるのだろうか、と彼自身も思う。朝を待つ人々。食卓を囲む家族。笑い合い、言い争い、また笑うような、ありふれた営み。

 

「いるんじゃないかな。きっと、僕たちが知らなかっただけで」

 

 気づけば、言葉がこぼれていた。

 ファイノンはわずかに瞬きをする。自分の声が、思ったよりも近くに落ちたことに、少しだけ驚いたように。

 けれど鉄の墓標との決戦前、ほんの一瞬だけ見た異邦の者たちの姿が脳裏をよぎる。黄金裔以外で、オンパロスの外を感じさせた存在。マダムヘルタやスクリューガム――あれらは確かに、この世界の外側を示していた。

 ならば、その先にもまた、誰かがいるはずだ。そう考えることは、決して突飛ではない。けれど、それを口にするつもりだったのか、ただの独り言だったのか、ファイノン自身にも判然としなかった。周囲の数人がこちらを向いたことで、彼は少しだけ肩をすくめる。困ったように、けれどどこか柔らかく笑った。

 星海には、無数の文明がある。

 その言葉は、かつて誰かに向けて口にしたものだったのか、それとも自分自身に言い聞かせたものだったのか、今となっては曖昧だった。ただ確かなのは、その言葉の重みを、彼は身をもって知っているということだ。

 自分たちは、自分たちの星のために戦った。けれどそれだけではなかった。数多の星々の輝きを失わせないために、武器を手に取った。

 その選択が正しかったのかどうかを、彼は今でも完全には言い切れない。ミーム汚染を抹消する矢じりとなったとき、彼は確かに迷わなかった。迷えば、誰かが消えると知っていたからだ。だから進んだ。進み続けた。振り返らずに。

 けれど今、こうして星を見上げていると、あのときの自分の背中が、少しだけ遠く感じられる。ファイノンは、ゆっくりと瞬きをした。白銀の睫毛の先で、星明かりが揺れる。

 

「それでも――僕らは、もう知っているはずだ。開拓者たちのことを。」

 

 その事実を、彼は知っている。彼らは未知から訪れた者たちだった。星々を渡り、幾つもの世界を越え、列車の軌道に沿って旅を続ける人々。彼らの語る銀河は、神話の余白ではない。夢物語でも、祈りの比喩でもない。

 そこには都市があり、海があり、荒野があり、雪に閉ざされた星があり、祝祭に満ちた場所があり、名も知らぬ誰かの朝がある。

 ファイノンは、その一つひとつを思い描こうとした。見たことのない景色ばかりのはずなのに、不思議と輪郭がぼやけない。誰かの言葉や、断片的な記憶や、わずかな実感が重なり合って、確かなものとして胸の内に形を結んでいく。

 出会いがあり、別れがある。救いもあれば、届かなかったものもある。それでも彼らの旅路は続いていく。レールが敷かれ、レールを敷き、汽笛を鳴らして、誰かが次の星へ向かうのだろう。ごとん、と。聞いたことのないはずの音が、ファイノンの記憶の底で小さく揺れた。

 それは幻のようでいて、妙に現実味を帯びていた。まるで、自分もいつかその音を背にして歩くことになると、どこかで知っているかのように。

 

「でしたら、天外の方々は……やはり、皆さん、私たちとはまったく違う暮らしをされているのでしょうか?」

 

 誰かの声がした。

 おずおずとした問いかけだった。

 けれど、その奥にある揺れを、ファイノンははっきりと感じ取っていた。恐れよりも、知りたいという気持ちが勝っている。閉ざされた世界で長く生きてきた者が、初めて外を覗こうとするときの、慎重で、それでも確かに前へ伸びる心。

 ファイノンは少しだけ視線を落とした。どう答えるべきかを考えるより先に、自分が見てきたものを思い返す。列車の中で聞いた話、窓の外に広がっていた景色、相棒たちの何気ない言葉の端々。

 

「違うところも多いと思う。けれど、全部が違うわけじゃないんじゃないかな。」

 

 それは、簡単に言い切れるものではない、と分かっている。自分の中にある記憶を、ひとつひとつ確かめるように言葉を選びながら、ファイノンはゆっくりと続けた。

 

「僕たちと同じように、自分たちの星が好きで、誰かを守りたくて……それで立ち上がる人たちも、きっといる。」

 

 相棒の姿が、ふと脳裏をよぎる。迷いなく前へ出る背中。危うさと隣り合わせで、それでも止まらない足取り。あれは特別な誰かの話ではなく、星海のどこかで繰り返されている選択なのだと、ファイノンは思った。

 言い終えてから、彼は自分の声が思っていたよりも遠くへ届いていたことに気づいた。周囲の人々が、静かに耳を傾けている。ヒアンシーも、アナイクスも、何も言わない。ただ、夜の中に置かれた言葉が、人々の胸へ沈んでいくのを見守っている。

 ファイノンは膝の上で指をゆるく組んだ。草の葉が袖口に触れ、さわ、と揺れる。その感触が、ここが確かにオンパロスであることを思い出させる。

 

「星穹列車の人たちは、そういう場所を渡ってきたんだと思う。」

 

 彼は空を見上げたまま言った。紫の銀河の向こうに、いくつもの景色を重ねるように。

 

「知らない世界へ行って、知らない人と出会って、時にはその世界の問題に巻き込まれて……それでも、また次の星へ向かって行くんだ。」

 

 それは、ただの旅ではない。誰かの物語に触れて、時にはその中へ踏み込んでしまうような歩みだ。ファイノンは、自分がその一端を見てしまったことを、今さらのように実感していた。

 

「怖くは、ないのでしょうか。知らない場所へ向かい続けるなんて、私なら途中で足がすくんでしまいそうです。」

 

 問いかけが耳に届いたとき、ファイノンは一瞬だけ視線を落とした。胸の奥に、かすかな重みが触れる。怖さを知らないわけではない。むしろ、その感触をよく知っているからこそ、軽々しく否定することはできなかった。

 

「怖いことも、あったと思うよ。」

 

 短く言ってから、彼は小さく息を吐いた。

 

「でも……それでも止まらないんだと思う。怖さより先に、誰かの声を聞いてしまうから」

 

 そう言いながら、ファイノンの意識は自然と遠くへ引かれていく。

 助けを求める声。見過ごせない光景。あのとき、あの場所で、天外へと逃したはずの彼女たちがオンパロスへ振り返ってくれた理由。引き返すという選択肢が、いつの間にか後ろへ押しやられていた瞬間。

 自分ならどうするだろう、と考えかけて、ファイノンは小さく息を吐いた。答えはまだ、はっきりとは形にならない。

 それでも、彼はほんのわずかに口元を緩めた。どこか呆れたようで、それでいて誇らしげな、複雑な表情だった。

 面倒ごとに自分から片足を突っ込んで、あとから「なんとかなる!」と言い切る姿。結果的になんとかしてしまうところまで含めて、少し呆れるほど彼女らしい。けれど、その無鉄砲さは軽さではなかった。誰かの困りごとを見なかったことにできない者だけが持つ、真っ直ぐな重さがあったから。

 

 オンパロスは、ずっと閉ざされた神話の舞台だった。

 ファイノンは、その内側で生きてきた。タイタンの名が生活の隅々に息づき、暦も、昼も、夜も、祈りも、すべてが神話の内側で巡っていた。門はあっても、その先に続く道を人々は知らなかった。世界は終わり、再び始まり、また終わる。その環の中で、彼らは火を追い、願いを運び、失ったものの名を数えてきた。

 けれど今、その神話の縁に、外へ続く光が差していた。閉じた物語のページが、風にめくられるような気配。ぱらり、と音がしたわけではない。それでも、長く固く閉ざされていた本の背が、ようやく少し緩み、次のページを受け入れようとしているのだ。

 

(僕の旅は終わりを告げた。……だけど、それでも、オンパロスの終着点ではなかった。)

 

 その事実が、ファイノンには眩しかった。

 すべてが終われば、静かになると思っていた。役目を終えた世界は、穏やかに眠るものだと、どこかで信じていた。けれど違った。終末を越えた先にあったのは、終わりではなく、さらに先へ続く道だった。誰かが歩くための道。誰かが迷い、誰かが帰り、誰かがまた出発するための道。

 それは、彼にとって少しだけ残酷で、けれどひどく美しい答えだった。

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