開発が進む《オンパロス・オンライン》は、実在するオンパロスをそのまま写し取る世界ではない。開拓者は試作された街並みを見直し、黄金裔のアグライアから、建築様式や文化の扱いについて助言を受ける。
大切なのは、懐かしい景色を忠実に再現することだけではなく、そこに込められた意味を尊重しながら、新しい遊びを生み出すこと。過去を知る者には親しみを、初めて訪れる者には発見をもたらす場所として、仮想世界の輪郭は少しずつ整えられてゆく。
まだ誰も歩いたことのない道の先には、これから出会う人々が紡ぐ、未知の物語が待っているのだろう。
開拓者からの提案を受け、早ひと月。列車の一角で試作画面に新しい街並みが保存された頃、オンパロスでは、もうひとつの小さな集まりが開かれようとしていた。
ヒアンシーは手元の端末を閉じ、机の上に並べた記録を改めて見比べながら、窓の外へ目を向けた。午後の陽光は穏やかで、遠くの建物を縁取る白い光も、通りを行き交う人々の足取りも、少なくとも彼女の目には、以前よりずっと平和なものに映っている。
争いのために急ぐ必要もなく、誰かの命を守るために夜を徹することもない日常が、ようやく当たり前のものとして根づき始めて。けれど、その穏やかさを喜ぶたび、ヒアンシーの胸には、どうしても拭いきれない懸念が残った。
机に置かれているのは、ファイノンの最近の様子について、彼女自身が確認できたことをまとめた記録だった。そこには体調の変化だけでなく、会話の内容や食事の進み具合、休息を勧めたときの反応なども、必要な範囲に限って記されている。しかし、どの項目も、それだけを見れば、直ちに深刻な異常を示すものとは言い切れなかった。
以前より食事に時間がかかる日があることも、会話の途中で少し疲れた様子を見せることも、彼の身体が置かれている状況を考えれば不思議ではない。長い戦いを終えたばかりなのだから、回復に時間を要することも、体力が日によって変動することも、充分に考えられることだった。
それでも、ヒアンシーには気になっていることがあった。ファイノンは、誰かに体調を尋ねられると、決まって相手を安心させるような返事をする傾向がある。
救世の宿命を背負ったその日から顕著な傾向であったけれど、今はそれと非にならないくらい。無理をしていないかと聞けば、無理はしていないと笑い、何か必要なものはないかと尋ねれば、今は特に困っていないと答える。彼の言葉は穏やかで、礼儀正しく、以前から知っているファイノンらしいものだったが、その返答のあとに自分の希望を付け加えることは、近頃めっきり少なくなっていた。
以前なら、誰かの話を聞いているうちに興味を持ち、自分も見てみたいとか、いつか行ってみたいとか、そんな言葉が自然にこぼれていたように思う。
それが今では、何かを勧められれば微笑んで頷くものの、彼自身が次に何をしたいのかは、なかなか聞こえてこない。
ヒアンシーは記録の一行に指を添え、そこに書かれた短い返答を見つめた。
『みんなが楽しめるなら、それが一番いいと思うよ』
先日、仲間たちの近況について話したとき、ファイノンが口にした言葉だった。その場では、彼らしい優しさだと感じた。実際、誰かの幸せを自分のことのように喜ぶところは、昔から少しも変わっていない。
彼なら言うだろうなぁ……とは、しみじみ思うけれど、会話を終えてから思い返すと、彼は最後まで、自分がどうしたいのかを語らなかった。誰かが楽しめることと、ファイノン自身が楽しむことは、決して相反するものではないはずなのに。
「……聞き方を間違えてしまったのでしょうか」
ヒアンシーは小さく呟き、記録を伏せるように端末の表示を切り替えた。相手が答えやすいように配慮したつもりだった。負担をかけないよう、無理に予定を尋ねることも避けていたし、体調について話したがらないときには、それ以上踏み込まないようにもしていた。
しかし、彼の負担を減らそうとするあまり、何を望んでいるのかを確かめる機会まで失っていたのだとしたら、それもまた考え直さなければならない。
そうして思案していると、扉の向こうから控えめな足音が近づいてきた。
「ヒアンシーさま、お待たせしてしまいましたでしょうか……。少し早めに伺ったつもりだったのですが、もうお仕事を始めていらしたのですね」
扉を開けたキャストリスは、室内にいるヒアンシーの姿を認めると、ほっとしたように肩の力を緩めた。彼女の手には薄い記録帳があり、表紙の端を指で押さえている様子から、ここへ来るまで何度か中身を確かめていたことが窺えた。
「いいえ、キャスたん、わたしも今ちょうど整理していたところなんです。来てくださってありがとうございます、どうぞこちらへ座ってくださいね」
ヒアンシーが椅子を勧めると、キャストリスは小さく会釈し、向かい側へ腰を下ろした。
その動きはいつもどおり丁寧だったが、記録帳を机へ置くまでにわずかな間があり、ヒアンシーは彼女もまた、話す内容を慎重に選ぼうとしているのだろうと感じた。
「……ファイノンさまのこと、ですよね。わたくしにも分かることがあればと思って、最近お会いしたときの様子を、覚えている範囲で書いてまいりました」
「ありがとうございます、キャスたん。無理に思い出していただく必要はありませんから、実際に見聞きしたことだけを、ゆっくり教えていただければ嬉しいです」
キャストリスは頷き、記録帳を開く。彼女が話してくれたのは、ファイノンと交わした何気ない会話についてだった。
以前よりも声が静かに聞こえたこと、話している途中で呼吸を整えるために間を置いたこと、椅子へ座るよう勧めた際には素直に応じたものの、自分から休みたいとは言わなかったこと。
どれも大きな出来事ではなく、知らない人が聞けば、体調を崩した人によくある変化だと受け取るかもしれない。けれど、ヒアンシーには、そのひとつひとつが気にかかった。
「それから……わたくしが、近いうちに皆さまと何かご一緒できたら嬉しいですね、と申し上げたときなのですが、ファイノンさまは、皆さまが楽しく過ごせるならよかった、とおっしゃって……」
キャストリスはそこで言葉を止め、開いた記録帳へ視線を落とした。
「わたくし、てっきり、ファイノンさまもご一緒してくださるものと思っていたんです。ですから、どんなことをなさりたいか伺おうとしたのですが……彼は、皆さまのお好きなようになさってください、と微笑まれて」
ヒアンシーは返事を急がず、キャストリスが続けるのを待った。
「……あのとき、わたくしがもう少しお誘いしていれば、違うお返事をいただけたのでしょうか。それとも、お疲れだったのに、余計なことをお尋ねしてしまったのでしょうか……」
キャストリスの指先が、記録帳の端をそっと撫でた。ヒアンシーは彼女の手元を見つめながら、同じような場面を自分も経験していたことを思い出した。
ファイノンは誘いを拒んだわけではない。誰かと過ごすことを嫌がっているようにも見えなかった。ただ、彼自身がその場にいる未来について、言葉を選ばなくなっているように感じられるのだ。
「キャスたんが悪かったわけではありませんよ。ファイノン様のお返事だけでは、どういうお気持ちだったのか、まだ分かりませんから」
ヒアンシーはそう答えながら、机の上の記録を一枚ずつ重ねた。
「わたしも、似たようなことがあったんです。皆さんの近況をお話しすると、とても嬉しそうに聞いてくださるのですが、ご自分のことになると、あまりお話しにならなくて……。ですから、もう少し丁寧に様子を確かめたいと思っています」
キャストリスは静かに頷いたものの、その表情から不安が消えたようには見えなかった。死の権能を身に宿し、その権能に振り回されてきた彼女は、ようやく人並みの生活をはじめたばかりで、こうした細々としたやり取りも未知のもの。だから、ヒアンシーもまた、簡単な言葉で安心させられる問題ではないことを理解していた。
ファイノンの身体には、長い戦いが残した負担がある。休息を必要としていることは確かであり、今までと同じように動けないことを、本人も少しずつ受け入れようとしているのかもしれない。
けれど、身体が疲れていることと、これから生きていく時間に何を望んでいるのかは、同じ問いではない。ヒアンシーが気にしているのは、むしろ後者だった。
以前のファイノンなら、どれほど困難な状況にあっても、目の前の誰かへ手を伸ばそうとした。樹庭で過ごしていた頃も、彼は自分のことを後回しにしがちだったけれど、学ぶことや仲間と過ごすことへの関心まで失っていたわけではない。
知らないことを教われば目を輝かせ、友人の話には身を乗り出し、時には先生を困らせるほど真剣に質問を重ねることもあった。
今の彼にも、その面影は残っている。だからこそ、ヒアンシーには、笑顔の奥にある静けさが気になって仕方なかった。
やがて、廊下の向こうから少し速い足音が響き、扉が二度、規則正しく叩かれた。
「失礼しますよ、ヒアンシー、キャストリス。予定より少々遅れましたが、こちらで間違いありませんね」
入ってきたアナイクスは、片手に資料を抱え、もう片方の手で眼鏡の位置を整えていた。室内へ目を向けると、机に並べられた記録と二人の様子をひととおり確認し、挨拶もそこそこに空いている椅子へ腰を下ろした。
「さて、今回の議題はファイノンの近況について、ということでしたね。先に申し上げておきますが、観察した事実と、そこから導いた推測は明確に分けてください。彼の状態を憂慮することと、憶測によって結論を急ぐことは、まったく別の問題ですから」
ヒアンシーはその言葉に頷き、手元の記録をアナイクスのほうへ向けた。
「はい、先生。ですから、わたしが直接確認したことと、キャスたんから伺ったことは、別々に整理してあります。まだ断定できないことも多いので、先生にもご意見をいただければと思いまして」
「結構です。……では、順番に確認しましょう。まず、彼の身体的な負担について、以前と比較できる記録はありますか」
ヒアンシーは用意していた資料を開き、確認できた範囲での変化を説明した。今までは気のせいだと思っていた部分を、もっと深く掘り下げたのである。
ファイノンは日によって疲労の程度に差があり、短い会話でも呼吸を整えるために間を置くことがある。休息を勧めれば応じるものの、自分から不調を訴えることは少なく、調子を尋ねても、周囲を心配させまいとするような返答が多かった。
ただし、身体の変化については、既に知られている負担との関係も考えられるため、目に見える衰えだけで心理状態まで判断することはできない。
アナイクスは途中で何度か質問を挟み、記録された状況や時間帯を確かめた。
「……なるほど。少なくとも、あなたが確認した範囲では、活動の負荷に対して疲労が大きく見える場面がある、ということですね。しかし、それが直ちに新しい異常を意味するわけではありません。彼の身体は、一般的な回復過程だけで説明できる状態ではないのですから」
アナイクスの指摘はもっともだった。ヒアンシーも、その点について異論はなく、むしろ、身体の状態を正確に捉えようとするほど、ファイノン自身が何を感じ、どのように日々を過ごそうとしているのかを、別の問題として考える必要があるように思えた。
「はい、先生。ですから、わたしが気になっているのは、体力のことだけではないんです。ファイノン様が、ご自分のこれからについて、あまりお話しにならなくなっていることも……」
アナイクスの指先が、資料の上で止まった。ヒアンシーは少し迷った末、先ほどキャストリスと確認した会話についても説明した。
誰かの幸福を喜ぶ言葉は変わらないこと、誘いを受けても自分の希望を口にしないこと、そして、未来の予定について話しているはずなのに、そこへ自分自身を含めようとしないように見えること。ひとつひとつを言葉にしていくうちに、ヒアンシーは胸の奥が少し冷えていくのを感じた。
彼女が知っているファイノンは、もともと他人のために行動することを厭わない人だった。誰かの願いを聞けば力になろうとし、自分にできることがあるなら迷わず引き受けようとする。
その優しさを、ヒアンシーは何度も目にしてきた。しかし、今の彼が語る「みんなのため」という言葉には、ときおり、彼自身の居場所が抜け落ちているように聞こえることがある。
アナイクスはしばらく資料を見つめていたが、やがて眼鏡の位置を直し、ゆっくりと口を開いた。
「……彼は昔から、自分の負担を過小評価する傾向がありました。もっとも、それを単純な自己犠牲と片づけるのは不正確です。彼には彼なりの判断があり、その判断を支えてきた経験もあるのでしょう」
そこで一度言葉を区切ると、アナイクスはヒアンシーとキャストリスを順に見た。
「ですが、以前の彼には、自分が成し遂げたいことについて語る熱意もありました。困難な問題を前にすれば、理解しようとし、解決のために学ぼうとする。少なくとも、私が樹庭で教えていた頃のファイノンは、そういう学生でしたよ」
その言葉を聞いた瞬間、ヒアンシーの脳裏に、懐かしい教室の景色が浮かんだ。
机に広げられた教材、窓から差し込む光、先生の説明に耳を傾ける同級生たち。ファイノンは難しい話になるほど真剣な顔をして、理解できない部分があれば、納得するまで問いかけようとしていた。
その姿を思い出すと、今の彼が何かを尋ねられるたび、穏やかに微笑んで話を終わらせてしまうことが、いっそう気にかかった。
「わたくしも……覚えております。ファイノンさまは、皆さまのお話を聞くのがお好きでしたし、何か面白いことがあると、ご自分でも確かめようとなさっていました」
キャストリスは記録帳を閉じ、両手を膝の上へ重ねた。
「今も、お優しいところは変わっていらっしゃいません。ですけれど……あの方が、何かを楽しみにして待っていらっしゃるところを、最近はあまり拝見していないような気がするんです」
ヒアンシーは彼女の言葉を聞きながら、机の端へ視線を落とした。同じことを、考えていた。ファイノンは、今日を過ごすことには応じてくれる。
誰かに会えば笑い、声をかければ返事をし、必要なことがあれば手伝おうとさえする。けれど、明日になったら何をしたいのか、来週にはどこへ行ってみたいのか、もう少し身体が楽になったら何を楽しみたいのか。そうした問いに対して、彼自身の願いが聞こえてこない。胸元で手を重ね、慎重に言葉を選んだ。
「……先生、わたし、少し怖いんです。ファイノン様は、皆さんが元気になったことを、本当に喜んでくださっていると思います。でも、それだけでご自分の役目は終わったと感じていらっしゃるのだとしたら……」
そこまで話したところで、声がわずかに揺れた。一度呼吸を整え、目の前の二人へ視線を戻した。
「わたしたちは、ファイノン様にも、これから先を生きていただきたいんです。誰かのために何かを成し遂げるだけではなく、ご自分が嬉しいと思うことや、楽しいと思うことを、もっと見つけていただきたいんです」
キャストリスが小さく頷いた。アナイクスはすぐには答えず、机の上に置かれた資料をもう一度見直していた。彼の指先が、ファイノンの発言を記録した箇所で止まり、そこからしばらく動かなかった。
「……あなたの懸念は理解しました。しかし、彼が生きる意欲を失っていると、現時点で断定することはできません。疲労によって関心を表現する余裕がなくなっている可能性もありますし、今までと異なる生活に適応しようとしている最中なのかもしれない」
「はい、先生。わたしも、決めつけたくはありません。だからこそ、ファイノン様のお気持ちを、もっと知りたいんです」
「であれば、なおさら慎重であるべきでしょう。心配しているからといって、本人の言葉より先に、周囲が答えを決めてしまっては意味がありませんからね」
アナイクスの声は落ち着いていたが、ヒアンシーには、その言葉の端々に、教え子をよく知る者ならではの厳しさが感じられた。
それはファイノンに向けられたものではなく、むしろ、彼を案じるあまり判断を急ぎそうになる自分たちへ向けられているように思えた。
ヒアンシーは机の上の資料を整理し、非公開の連絡先として登録されている仲間たちの名前へ目を向けた。
この集まりは、ファイノンを保護し、必要なときに看護や支援を行えるようにするため、彼には知らせず結成されたものだった。黄金裔たちを中心に、事情を理解している者だけが情報を共有し、彼の身体に過度な負担がかからないよう、可能な範囲で協力している。
しかし、本人に知らせていないという事実は、ヒアンシーにとって決して軽いものではなかった。心配しているからといって、彼の行動をすべて把握してよいわけではない。善意から始まった集まりであっても、気づかないうちに、本人の意思を確かめずに物事を決めるようになってしまえば、それは彼を守ることとは違ってしまう。
「……先生、キャスたん。わたし、ひとつ確認しておきたいことがあります」
ヒアンシーは端末を閉じ、二人の顔を見た。
「この集まりで共有するのは、ファイノン様の健康や安全に関わることと、必要な支援を考えるための情報だけにしたいんです。お話しになりたくないことまで聞き出したり、どこで何をしていらっしゃるのかを、ずっと確かめたりするようなことは、したくありません」
キャストリスは顔を上げ、ゆっくりと頷いた。
「……はい、わたくしも、そう思います。ファイノンさまが安心して過ごせるようにしたいのであって、何もかもを知っていたいわけではありませんから」
アナイクスもまた、資料を重ねながら言葉を添えた。
「当然でしょう。観察と監視を混同してはなりませんし、保護という名目で本人の判断能力を奪うことも避けるべきです。彼が何を望んでいるのかを知りたいのであれば、まず、その意思を尊重する姿勢を失わないことです」
ヒアンシーは胸の奥に残っていた緊張が、わずかに緩むのを感じた。
自分たちができることには限りがある。ファイノンの身体を以前のように戻す方法も、彼が何を考えているのかを確かめる簡単な手段も、今のところ見つかっていない。だからといって、焦って何かを押しつければ、彼がますます自分の希望を語りにくくなるかもしれなかった。
大切なのは、彼の代わりに未来を決めることではない。彼が自分で何かを選べるように、必要なときに手を差し伸べられる距離で見守ることなのだろう。
窓の外へ視線を向けた。陽光に照らされた街では、人々がそれぞれの用事を抱えて行き交っている。誰かは買い物へ向かい、誰かは知り合いと立ち話をし、また別の誰かは、日陰に腰を下ろして穏やかな時間を過ごしていた。
その光景を見つめているうちに、ヒアンシーはふと、ファイノンがこうした日常の中で何を楽しみにしているのか、まだほとんど知らないことに気づいた。
かつての彼についてなら、いくつもの思い出がある。けれど、長い戦いを終えた今のファイノンが、どんな一日を心地よいと感じるのか。何を見れば興味を持ち、誰とどのような時間を過ごしたいと思うのか。――その答えは、昔の記憶だけでは分からない。
「……わたしたち、ファイノン様が休めるようにと、ずっと考えてきましたけれど」
ヒアンシーは窓辺から机へ視線を戻し、言葉を続けた。
「休んでいただくことと、ファイノン様がご自分の時間を楽しめることは、きっと同じではないんですよね。身体を休めることは必要ですけれど、それだけでは、明日を楽しみにする理由まで見つけられるとは限りませんから」
アナイクスはその言葉を聞き、しばらく考えるように顎へ手を添えた。
「……そうですね。身体の回復と、日々の生活に意味を見いだすことは、互いに関係していても同一ではありません。少なくとも、彼に必要なのは、単に活動を制限することだけではないのでしょう」
キャストリスも、膝の上で重ねていた手を少し緩めた。
「わたくし、ファイノンさまが何かを楽しそうにお話しになっているところを、また拝見したいです。昔とまったく同じでなくても……今のファイノンさまが、嬉しいと思えることを見つけてくださったら、それだけで、とても嬉しいです」
ヒアンシーは二人の言葉を胸に留め、端末の記録欄へ新しく一行を書き加えた。そこに記したのは、診断でも、結論でもなかった。
『本人の希望を確かめながら、日常の中で楽しめることを探す』
その一文を見つめていると、ヒアンシーには、まだ何も解決していないことがよく分かった。ファイノンが本当に何を感じているのかは、彼自身の言葉を聞かなければ分からない。身体の衰えについても、これから慎重に見守っていく必要があるし、仲間たちが望むような変化がすぐに訪れる保証もなかった。
それでも、今日の話し合いには意味があったと思う。彼を心配するあまり、何かをしてあげなければと急ぐのではなく、彼が自分で望めることを、どうすれば増やしていけるのか。その問いを、三人で共有することができたのだから。
ヒアンシーは端末を閉じ、向かい側に座るキャストリスとアナイクスへ、静かに微笑みかけた。
「ありがとうございます、先生、キャスたん。わたし、もう少し考えてみます。ファイノン様が、誰かのためだけではなく、ご自分のためにも、明日を楽しみにしてくださるような……そんなことが、何かできないかって」
窓の外では、穏やかな風が街路の木々を揺らしていた。遠く離れた場所で、新しい仮想世界の設計図が少しずつ形になっていることを、ヒアンシーは知っている。
今、彼女が見つめているのは、まだ完成していないゲームの未来ではなく、目の前にいる友人が、これからの日々をどのように過ごしていけるのかという、もっと身近で、答えの見えない問題だ。ファイノンが何を望んでいるのかを、彼女にはわからない。
だからこそ、彼の代わりに願いを決めてしまうのではなく、いつかその言葉を聞けるように、今は慎重に手を伸ばしていたかったのである。