《オンパロス・オンライン》の開発が進む一方、黄金裔たちはファイノンの変化を案じていた。非公開の保護・看護グループに集まったヒアンシー、キャストリス、アナイクスは、彼の身体的な衰えと、未来への希望を語らなくなった様子について意見を交わす。
誰かの幸せを喜びながら、自分自身の願いを口にしないファイノン。彼が何を感じているのか、まだ答えは出せない。
仲間たちは憶測で心を決めつけず、本人の尊厳を守りながら、日常に楽しみを取り戻す方法を探し始める。守るべきものは命だけではなく、その先に続く時間でもあるのだから。
あの日、アナイクスとキャストリスを交えて話し合ってからも、ファイノンの様子に、誰が見ても分かるような変化が現れたわけではなかった。
ヒアンシーが廊下で顔を合わせれば、彼はいつもどおり柔らかな笑みを浮かべ、声をかける前からこちらに気づいて手を振ってくれる。誰かと立ち話をしているときも、背筋は自然に伸びていて、相手の目を見ながら話を聞き、冗談を交えた会話に笑うことさえあった。
歩き方が目立って遅くなったわけでも、何かを持つ手が震えているわけでもない。呼吸を乱して座り込むようなこともなく、むしろ、ひととおりの用事を済ませてから帰ってくる姿などは、以前と変わらない健康な青年そのものに見える。
それが、ヒアンシーにはかえって気がかりだった。彼の身体が以前とは異なる状態にあることは分かっているし、休息の必要性についても、折に触れて話してきた。
しかし、本人の振る舞いからは、どの程度の活動が負担になっているのかを判断しにくい。顔色や表情を注意深く確かめても、疲労を示す明確な兆候は見つからず、声にも歩調にも、普段との違いがほとんど現れないのだ。
これは、つい先日のことである。
昼下がりの廊下で出会ったファイノンの額に、わずかな汗が浮かんでいた。陽光の差し込む廊下は決して暑すぎるほどではなかったから、ヒアンシーは少し気になり、彼が近づいてくるのを待ってから、普段と変わらない調子で声をかけたのだ。
「ファイノン様、こんにちは! あの、少し汗をかいていらっしゃるようですけれど、お身体の具合はいかがですか?」
「? 平気だよ、さっきモーディスと手合わせしてきたから汗はかいてるけど」
ファイノンはきょとんと目を丸くしたあと、額へ手を当てて、ようやく汗のことを思い出したように笑った。
「ああ、そっか。これを見て心配してくれたんだね。ありがとう、ヒアンシー。でも、そんなに激しく動いたわけじゃないし、ちゃんと休憩も挟んだから大丈夫だよ」
「そうだったんですね。それならよかったです! でも、汗をかいたあとは水分も忘れずにお願いしますね。今のファイノン様のお身体は、以前とは少し違いますから」
「うん、分かってる。モーディスにも同じことを言われたよ。あいつ、手合わせを終えた途端に休めって言い出すんだから、ちょっと驚いちゃった」
そう話す彼の声には、特別な無理をしているような響きもなかった。それどころか、高温ピュエロスで我慢比べしたことを忘れてしまったんだろうか、と笑っている。
ヒアンシーが念のため、息苦しさや胸の不快感がないか尋ねると、ファイノンは少し考えてから首を横に振り、今は特に何も感じていないと答えた。彼女が確認できた範囲では、実際に差し迫った不調を示す様子もなく、そのまま軽い雑談を交わしたあと、彼は穏やかな足取りで廊下の向こうへ歩いていった。
去っていく背中を見送りながら、ヒアンシーはしばらく考え込んだ。汗をかいていた理由は明らかだったし、本人も不調を訴えていない。それなのに、どうしてこんなにも気にかかるのだろう。
もしかすると、自分が心配しすぎているだけなのかもしれない。そう思ったものの、気になるからといって何度も体調を尋ねれば、ファイノンはそのたびに足を止め、こちらを安心させようとしてくれるだろう。
彼にとっては何でもない日常の一場面が、周囲から繰り返し心配される出来事になってしまうことも、ヒアンシーは避けたかった。
そこで彼女は、本人が普段から行っている健康確認の機会を利用し、活動にかかる時間の変化を、もう少し丁寧に整理してみることにした。
新しく厳しい運動を課すのではなく、診察室へ来てから椅子に座るまでの時間や、簡単な確認を終えるまでの所要時間、短い作業の合間に自然と置かれる間隔などを、条件の揃う範囲で記録する。
時間を測る理由についても、今の身体に合った活動量を考えるためだとファイノンへ説明したところ、彼は特に抵抗を示さず、新しい診療方法か、とむしろ協力的な様子だった。
「時間を測るんだね。それなら、僕も気をつけて動いたほうがいいのかな?」
「いえいえ、いつもどおりでお願いします! 頑張って早く終わらせようとされると、普段のご様子が分からなくなってしまいますから」
「ははっ、それもそうか。じゃあ、いつもどおりにするよ。何か気になることがあったら教えてね」
「それはわたしのセリフですよ?」
「ごめんごめん」
ファイノンはそう答えて、用意された椅子へ自然に腰を下ろした。ヒアンシーも微笑みながら端末の計測機能を開き、いつもの健康確認を始めた。
最初のうちは、特に目立った違いは見つからなかった。その日のファイノンは受け答えも明瞭で、手元のものを扱う動作にも不自然なところはなく、確認を終えたあとには、むしろヒアンシーの仕事の忙しさを気遣うほどだった。
彼が帰ったあと、記録を見直してみても、所要時間は以前と大きく変わっていない。体調についての返答も普段どおりで、彼女が懸念していたような疲労の蓄積を、これだけで読み取ることはできなかった。
しかし、二日、三日と記録を重ね、同じ条件で比べられるものを並べてみると、ヒアンシーは小さな違和感を覚え始めた。
ひとつの動作に必要な時間は、ほとんど変わっていない。椅子から立ち上がるときも、手元のものを受け取るときも、見た目には滑らかで、途中で動きを止めることもなかった。
ところが、いくつかの用事を続けて行った日の記録では、次の動作へ移るまでの間隔が、少しずつ長くなっていた。
最初の確認を終えたあと、次の項目に移るまでの時間。会話を挟んでから立ち上がるまでの時間。作業を終えて帰る支度を始めるまでの、ほんの短い空白。
個々の違いは、計測していなければ気づかない程度の微々たるものだった。ファイノン自身も、その間に苦しそうな表情を見せるわけではなく、声をかければすぐに返事をする。彼の様子を一日だけ見ている限りでは、何ら異常がないように感じられた。
ヒアンシーは記録を日付順に並べ、活動内容や休息時間、前後の予定が異なるものを分けてみた。同じような条件で比較できる日を選び直しても、その傾向は完全には消えなかった。
「……少しずつ、ですね」
机の上で端末を傾けると、計測結果を示す細い線が、緩やかな傾きを描いている。数値の変化はわずかで、これだけで体力の低下を確定できるものではない。日によって活動量も違えば、睡眠や気分によっても所要時間は変わるだろう。
それでも、ヒアンシーには、彼が一日を通して使える力が少しずつ減っている可能性を、無視することはできなかった。
しかも厄介なことに、ファイノンは、ひとつひとつの動作を行うときには以前と変わらないように見える。必要な場面では力を出せるけれど、そのあとに続く余力が、少しずつ乏しくなっているのではないか。
そう考えると、昼下がりの廊下で見た彼の笑顔も、別の意味を持ち始めた。モーディスとの手合わせを終えたあと、彼は確かに平然としていた。けれど、それは疲れていなかったからではなく、疲労が本人にも周囲にも分かりにくい形で蓄積していたからなのかもしれない。
ヒアンシーはその日の記録をもう一度確かめ、深く息を吐いた。自覚できない負担は、本人が休む理由を見つけにくいという点でも心配だった。
苦しくなれば立ち止まることができるし、眠くなれば横になることもできる。しかし、疲れていること自体を感じ取れないのなら、どこで休めばよいのかを判断することも難しくなる。
ましてファイノンは、誰かの役に立てることを喜ぶ人だ。身体が以前のようには働かなくなっていても、目の前に何かできることがあれば、まず手を伸ばそうとするだろう。本人に無理をしているつもりがなく、周囲にもそう見えないまま、少しずつ負担を重ねてしまうことだって考えられた。
ヒアンシーは記録を整理すると、アナイクスとキャストリスへ、確認できた範囲の変化を共有した。
アナイクスからは、計測条件の揺れを考慮する必要があるという指摘とともに、同じ傾向が続くか、慎重に見直すべきだという返答が届いた。キャストリスは、最近会ったファイノンがいつもどおり笑っていたことを伝えながらも、その笑顔だけで安心してよいのか分からなくなってきた、と書き添えていた。
まったく同じ気持ちだった。彼の笑顔が偽物だと思っているわけではない。むしろ、誰かと話しているときに浮かべる表情は、自然で、穏やかで、彼自身もその時間を楽しんでいるように見える。だからこそ、休息を勧めることが難しかった。
体調を崩しているように見えない相手へ、何もせず休んでいてくださいと告げることは、本人にとって納得しにくいだろう。ファイノンなら素直に頷いてくれるかもしれないが、それだけで心から休めるとは限らない。
そういえば。以前、彼が休息について尋ねてきたときのことを思い出した。どのくらい動けるようになれば、普通の生活と言えるのだろう。
そんな疑問を口にしたファイノンは、決して焦っているようには見えなかったけれど、その問いには、今の自分の身体をどう捉えればよいのか分からない戸惑いが滲んでいたように思う。
彼はきっと、できなくなったことを数えるより、まだできることを見つけようとする。
それ自体は悪いことではない。けれど、彼にとって「できる」という判断が、そのまま「やってもよい」という判断に結びついてしまうのなら、身体への負担はますます分かりにくくなるだろう。
その後も、ヒアンシーは無理のない範囲で記録を続けた。数日分では曖昧だった傾向も、時間をかけて並べてみると、少なくとも以前より活動の合間に長い休息を必要としている可能性が見えてくる。
彼が明確な不調を訴えていないことは変わらず、普段の振る舞いも、やはり驚くほど自然なままだった。表面的な元気さと、実際に使える余力が、必ずしも一致していないのでは?
そう認識したヒアンシーは、ファイノンに活動を控えるよう伝える際も、以前より慎重に言葉を選ぶようになった。
「ファイノン様、今日は少し予定が続いていらっしゃるようですから、合間にゆっくり過ごす時間も作りませんか?」
「そうだね。じゃあ、次の予定まで少し休んでおこうかな。ヒアンシーも、仕事ばかりしてないでちゃんと休んでね」
彼はそんなふうに笑い、自分のことを気遣われた直後にも、自然と彼女へ気遣いを返してくれた。その優しさに触れるたび、ヒアンシーは嬉しくなると同時に、どうすれば彼が自分のために時間を使うことを、もっと自然に受け入れられるのだろうと考えた。
休むことを勧めれば、彼は休んでくれる。けれど、その時間を彼自身が楽しみにしているかどうかは、また別の問題だった。
そんなふうに思い悩みながら、数週間が過ぎていった。
季節の移ろいを感じさせる穏やかな日差しの下、オンパロスでは新しい暮らしが少しずつ形になり、人々はそれぞれの仕事や楽しみを見つけ始めていた。ヒアンシーも診察や健康相談の合間に街の様子へ目を向け、時折、遠く離れた星穹列車の仲間たちから届く便りを楽しみにするようになっていた。
その日も、仕事をひと段落させて端末を開くと、開拓者から新しい画像が届いていた。
『見て見て! 仮フィールド、ちょっといい感じになってきた! まだ実際には入れないけど、景色だけなら前よりだいぶそれっぽいでしょ?』
添付されていたのは、《オンパロス・オンライン》の開発画面を記録したスクリーンショットだった。
以前送られてきたものよりも地形の起伏がはっきりしており、石造りの建築物が並ぶ街路の向こうには、なだらかな丘と、遠くまで続くように見える草地が広がっていた。画面上で組み立てられた仮の景色であることは分かっていたが、陽光を受けた石壁の質感や、建物の間に落ちる影の表現が加わったことで、以前よりもずっと奥行きが感じられる。
別の画像には、ダンジョンの入口らしい建築物が写っていた。柱の装飾や階段の形にはオンパロスの面影が残されているものの、周囲の地形には遊びやすさを意識したと思われる変更が加えられており、実在する場所をそのまま写したものではないことが窺える。
ヒアンシーは思わず微笑み、画像を一枚ずつ拡大した。
「わあ……素敵ですね。こんなところを皆さんと一緒に歩けるようになったら、きっと楽しいでしょうね」
画面を指先で滑らせると、今度は街の広場を見下ろした画像が現れた。小さな建物が並び、その一角には木が植えられ、近くには長椅子が置かれている。開拓者が以前から街並みを作っていることは聞いていたけれど、こうして細かな配置まで見るのは久しぶりだった。
その長椅子を眺めながら、ふと指を止めた。冒険のための世界に、休憩するための場所がある。……考えてみれば当然のことなのに、今までの彼女は、開拓者から教わって覚えたばかりのダンジョンRPGという言葉から、迷宮を探索したり、強い敵と戦ったりすることばかりを想像していた。
けれど、開拓者が送ってきた画像には、誰かと待ち合わせたり、景色を眺めたりするための空間も用意されている。
まだ誰も歩けない模型の世界であっても、そこには、戦わずに過ごす時間を思い描ける余地があった。
「……あれ?」
ヒアンシーはもう一度画像を拡大し、広場の端に置かれた長椅子を見つめた。
もしも、こうした場所を、ファイノン自身が作れるとしたら。誰かが用意した休憩場所へ案内されるのではなく、彼自身が気に入った景色を選び、建物や道を並べ、好きなように場所を整えていけるのなら。――そこで過ごす時間は、ただ休息を命じられることとは、少し違う意味を持つのではないだろうか。
胸の奥で小さな期待が膨らむのを感じ、すぐに端末の開発資料を開く。《オンパロス・オンライン》では、ダンジョンを攻略するだけでなく、作り手となって構造を組み立てることも想定されている。開拓者から聞いていた「ダンジョンマスター」という役割は、迷宮の地形や部屋の配置を考え、ひとつの場所を作り上げていく遊び方だった。
今のところ、できることは端末上でのシミュレーションが中心であり、完成した世界へ入って暮らせるわけではない。それでも、もしもファイノンが、この作る側の楽しさに興味を持ってくれたなら。
彼は、もともと何かを工夫したり、新しいことを学んだりするのが好きな人だった。樹庭に通っていた頃も、知らないことに出会えば目を輝かせ、自分で確かめようとしたことを、ヒアンシーはよく覚えている。
誰かに教えられるだけでなく、自分の手で試し、できることを増やしていく時間は、今の彼にも楽しめるかもしれない。
ただし、ひとつ懸念もあった。
ダンジョンマスターという言葉は、何かを管理する責任を連想させる。ファイノンがその役割を、誰かのために働かなければならない仕事として受け取ってしまえば、また自分の身体を後回しにするかもしれない。
完成させなければならない、誰かを楽しませなければならない、そんな義務が生まれてしまえば、休息のために始めたことが、かえって負担になってしまうだろう。
ヒアンシーは画像を閉じずに、しばらく考えた。大切なのは、作ることを目標にしすぎないことなのかもしれない。
例えば、今日は木を一本置いてみるだけでもよいし、気に入らなければ配置を変えてもよい。何も作らず、以前の設計図を眺めて過ごす日があっても構わない。
自分で場所を育てていく楽しさと、何も急がずに過ごせる時間。その両方が同じところにあれば、ファイノンも少しずつ、自分のために時間を使うことへ馴染んでいけるのではないだろうか。ええい、考えてばかりでは何も始まらない。ぎゅうと端末を持ち直し、開拓者へ短い返信を送った。
『とっても素敵です! あの、ダンジョンマスターというのは、自分で作った場所を、あとから少しずつ変えていくこともできるのでしょうか?』
返事を待つあいだ、彼女はもう一度広場の画像を眺めた。しばらくして、開拓者から元気のよい文章が届いた。
『うん! 今は設計図を編集するだけだけど、配置を変えたり保存したりできるよ! 何回もやり直せるから、作ってるだけでも結構楽しい!』
ヒアンシーは思わず頬を緩めた。その返答は、彼女が考えていた可能性を、ほんの少し現実に近づけてくれた。
もちろん、実際にファイノンが楽しめるかどうかは分からない。身体への負担についても、端末の操作なら必ず安全だと決めつけることはできず、集中しすぎれば疲労につながる可能性もあるだろう。
それでも、少なくとも、戦ったり走ったりすることを前提としない活動として、検討する価値はありそうだった。端末を閉じると、以前の話し合いで残した記録を開いた。
『本人の希望を確かめながら、日常の中で楽しめることを探す』
あの日、三人で共有した一文が、そこに残されている。ヒアンシーはその文字を見つめ、思いついたことを、ひとつずつ整理していった。
ファイノンに何かを作ってもらうことが目的ではない。彼が自分で選び、自分のペースで楽しめる時間を増やすことが目的なのだ。そのための手段として、ダンジョンマスターという遊び方を提案する。
しかし、彼に新しい責任を背負わせないよう、完成を急がせず、成果を求めず、いつでも休めることを大切にする。そして、何よりも、本人が興味を示さなければ、無理に勧めない。
そうした条件をひとつずつ確認してから、ヒアンシーはアナイクスとキャストリスへ連絡を送り、改めて相談の時間を設けてもらった。
数日後、三人が顔を合わせたとき、ヒアンシーは開拓者から届いたスクリーンショットを机上の端末に映し出した。
アナイクスは画像を一瞥すると、建築物の配置や地形の構造へ目を向け、キャストリスは街の広場に置かれた木と長椅子を、興味深そうに眺めていた。
「……ヒアンシー、これは例の仮想世界の設計図ですね。以前より開発が進んでいるようですが、今回の相談とどのような関係があるのですか?」
アナイクスの問いに、ヒアンシーは頷いた。
「はい、先生。実は、開拓者さんから送っていただいた画像を見て、ひとつ考えたことがあるんです。まだ思いついたばかりなので、実際にできるかどうかも分からないのですが……」
彼女は一度呼吸を整え、二人へ向き直った。
「ファイノン様に、ダンジョンマスターとして、ご自分の好きな場所を作っていただくのはどうでしょうか。迷宮を攻略する側ではなく、作る側になっていただいて、少しずつ景色を整えながら、のんびり過ごせる場所を見つけていただけたらと思うんです」
キャストリスは目を瞬かせ、端末に映る街並みを見直した。
「……ファイノンさまが、ご自分で場所をお作りになるのですか? それは、とても素敵なお考えだと思いますが……ダンジョンを管理なさるとなると、またお仕事が増えてしまうのではありませんか?」
「はい、わたしも、そこが気になっているんです。ですから、誰かのために完成させる必要はなくて、ファイノン様が好きなときに、好きなところだけ作れるような形がいいなと思っています」
ヒアンシーは広場の画像を拡大し、木のそばに置かれた長椅子を指した。
「例えば、こういう場所です! 何かを攻略しなくても、ただ景色を眺めたり、少しずつ建物を増やしたりできるなら、それだけでも楽しいかもしれませんよね。もちろん、実際の機能については、これから開拓者さんたちに相談しなければなりませんけど」
アナイクスは腕を組み、しばらく考え込むように画面を眺めていた。
「……なるほど。つまり、活動の内容そのものよりも、活動に対する彼の認識を変えたいわけですね。休息を命じられる時間ではなく、自分の意思で選んだことに取り組む時間として、穏やかな活動を生活へ取り入れる、と」
「はい! ファイノン様は、何かを学んだり工夫したりすることがお好きですから。もしも楽しんでいただけるなら、少しずつ場所を作ることが、自然な休息につながるかもしれないと思ったんです」
ヒアンシーはそこで言葉を区切り、慎重に付け加えた。
「でも、先生、わたしは、これを療養のためのお仕事にはしたくありません。ファイノン様が、頑張って完成させなければならないと思ってしまったら、またご自分のことを後回しにしてしまうかもしれませんから」
アナイクスは小さく頷いた。
「その点は重要ですね。彼の性格を考えれば、目的を与えるだけでは不充分でしょう。何をどこまで行うか、あるいは何もしないかを、本人が選べることが前提です。もっとも、実際にどの程度の活動が適切かについては、今後も確認が必要ですが」
キャストリスも、少し安心したように表情を和らげた。
「……それでしたら、わたくしも賛成です。ファイノンさまが、何かを完成させるためではなく、ただ好きだからという理由で、ひとつの場所を作っていけるのなら……きっと、それは素敵な時間になると思います」
ヒアンシーは二人の言葉を聞き、胸の奥にあった緊張が少しずつほどけていくのを感じた。
まだ、できると決まったわけではない。ファイノンが興味を持ってくれるかどうかも分からなければ、ゲームの完成までにどれほど時間がかかるのかも分からない。現段階では、ただひとつの可能性を見つけただけにすぎなかった。
それでも、今までとは少し違う方向から、彼のこれからを考えることができたように思う。
休むことを目的に、何もさせないのではない。彼が楽しめることを見つけ、その楽しさの中で、自然と身体を休められるようにする。
ヒアンシーは端末に映る仮の街並みを見つめながら、ふと、ファイノンがその場所を眺める姿を想像した。
気に入った景色を見つけたら、彼はどんな顔をするだろう。建物の配置を考え始めたら、どんなことを試してみたくなるだろう。もしかしたら、昔のように、知らない仕組みについて質問を重ねることもあるかもしれない。そんな姿を思い浮かべると、口元には、自然と微笑みが浮かんだ。
「……ファイノン様が、明日も続きをやってみたいって、思ってくださったら嬉しいですね」
キャストリスが静かに頷き、アナイクスもまた、机上の記録へ目を向けた。ヒアンシーは画面を閉じずに、三人で確認した内容を新しい提案として書き留めた。
ダンジョンマスターとして場所を作ることを通じて、ファイノンが自分のために過ごせる時間を増やせないか。
その提案には、まだ具体的な答えも、実現の保証もなかった。けれど、ヒアンシーには、彼が誰かを守るためだけではなく、自分自身の楽しみのために明日を待つことができたなら、それだけでも、今までとは違う一歩になるように思えた。
端末の中では、まだ誰も歩けない小さな街が、静かな光をまとっている。その景色は、誰かを救うために作られたものではない。離れた仲間たちが集まり、好きなように遊ぶための世界である。
だからこそ、ファイノンにも、何かを背負うためではなく、ただ楽しむために、そこへ関わってほしかった。
ヒアンシーはそんな願いを胸に、もう一度、机上の提案へ目を落とした。彼がどのような場所を作りたいと思うのかは、まだ分からない。けれど、その答えを彼自身の言葉で聞ける日が来るなら、今はそれを楽しみにしていたかった。