終末を越えたオンパロスに、夜が訪れた。
かつて闇は、滅びの兆しであり、壊滅の気配であり、人々の頭上に重く垂れ込める恐怖だった。けれど、星々の光を仰いだ人々は、その暗さに別の名を与えはじめる。終わりではなく、眠りへ向かう時間。明日へ続く静けさ。夜という、生活の中に戻るべきもの。
その変化を見守るファイノンの胸には、安堵と痛みが同時に灯っていた。救われた世界に自分が立っていることへの戸惑い。届かなかった祈りへの記憶。だが、人々は彼を責めず、ただ同じ空を見上げる者として受け入れる。
やがて誰かが「おやすみなさい」と告げる。その言葉は夜の中へ広がり、別れではなく、明日を信じるための合図となった。ヒアンシーとアナイクスに促され、ファイノンもまた静かに立ち上がる。滅びの夜ではない。星々を抱き、新たな朝を待つ、長く優しい夜が始まっていた。
017 夜にほどける歩幅
僕の目には、オンパロスの再創世は、オクヘイマを中心に、渦を描くように緩やかに進んでいるように見えた。
遠くから眺めているだけのはずなのに、不思議とその流れの中に自分も含まれているような気がするのは、きっと雄大な景色の中に佇む巨大な像のせいだろう。多少なりとも思うところはあるけれど、人々にとっては信仰の象徴だったのだから、ああやって記憶から復元されてしまうことは、仕方のないことだと思うしかない。
「ケイオスお兄さん!」
「あれ。おはよう、ボリュシア。カリュプソーも。今日はキャストリスさんは一緒じゃないんだね。」
「ああ、おはよう。ケイオス。」
「おはよう、ケイオスお兄さん。お姉ちゃんは今日、ヒアンシーと一緒にバザーの企画を練ってるんだよ。だから、カリュプソーに介助を頼んだの。」
暗黒の潮の影響を受けたことで病に罹ったボリュシアは、病の原因となる壊滅の因子がオンパロスから取り除かれたことで、少し前から病を克服し始めたのだそうだ。今は車椅子から降りて、歩く練習を始めたとキャストリスから聞いていた。
これは、その成果なのだろう。若干縺れながらではあるけれど、ボリュシアは懸命に足元を見ながら歩いていた。転ばないように、ひとつひとつ確かめるように進むその姿に、胸の奥が締めつけられる。
あの小さな一歩一歩が、どれほどの痛みと努力の上に成り立っているのかを思うと、思わず息を詰めてしまう。周囲の人々も同じように息を潜めて見守っているのが分かり、その静けさが、彼女の歩みをより尊いものにしていた。そんな彼女の手を引いてやって来たカリュプソーが、ケファレの神像を見て硬直する僕の肩を、からかうように軽く叩いた。
そして、両の目が見えるようになった彼女たちは、両手を叩き喜んだ。人々の目にケファレ――ケイオスは、あのように見えていたのだと。あれが、偉大なるケファレの神像なのだとも。
どうやらケファレの神像は、人々の心の支えになっているらしい。空っぽの石像としてだけれど、それでも確かにそこに在るものとして、記憶の中から丁寧に再現されていた。誰かがその前で立ち止まり、静かに祈る姿を見かけるたびに、胸の奥に小さな灯がともるような感覚があった。同時に、その祈りに応えられているのかという不安が、かすかに影を落とす。
あのとき、
マダムヘルタ曰く、おそらくは、ケビン・カスラナが持つ精神汚染などの非浸食体質を見抜き、壊滅の星神へ対抗するための
何かの手違いで空っぽになってしまったデータの格納庫――素体が奇跡的に合致する
気づけば、カリュプソーやゴーナウスたちのいた時代へと、僕は静かに紛れ込んでいて。はっきりとした輪郭を持たないままでも、人を助けようとする癖だけは残っていて、そんな“ケイオス”の姿に、彼らは呆れながらも手を貸してくれた。仕方ないな、とでも言うように笑ってくれるその様子に、胸の奥がじんわりと温かくなったのを覚えている。同時に、その優しさに甘えてしまっている自分への後ろめたさも、確かにあった。
再創世に踏み出す前、僕らはオンパロスを脅かす
その後、オンパロスは太陽を失い、昼も朝も失われた世界で、誰もが絶望の暗夜に凍えなくて済むように――僕は自分の魂を砕いた。その瞬間、確かに恐怖はあった。消えてしまうかもしれないという本能的な拒絶と、それでもやらなければならないという覚悟がせめぎ合っていた。大半は黎明の種火として灯し、零れ落ちた純粋な部分だけを、次の輪廻へとそっと乗せた。それが、今の僕だった。
アポニアの戒律のおかげで、精神干渉にはある程度耐えられる。もし、うまく記憶と能力を引き継げれば、解決策を見つけるかもしれない。最悪、それまでの時間くらいは稼げるだろう――そんなふうに、僕は考えていた。
結果としては、そうなったのだと思う。そうとしか、ならなかったのだ。結局、救世の名を背負う身でありながら、僕はどこまで行っても、誰かにとっての
憧れは憧れのまま――それでも、オンパロスには本物の英雄が訪れた。流れ星のように現れて、確かにこの地を歩き、旅をしてくれたのだと、遠くからそれを見ていた人々も、きっと同じように感じていたはずだ。
「ところで、ケイオス。そなたは随分と早朝から活動しているようだな?」
そう声をかけられて、僕は少しだけ首を傾げた。
今のオンパロスにも困りごとは山のようにあるから、聞き込んだうえで優先事項を確認して。人々が活動を始める少し前から作業を始めたって言っても、自分では、いつも通りに動いているつもりだったから。
「そうかな……? 僕には、あまり変わっていないように感じるけど。」
「む、そうか? 私の目から見ても、貴殿は忙しないように思うが」
「そうだよ!」
重なる声に、思わず苦笑が漏れる。
「ゴーナウス。おはよう……って、ボリュシアとゴーナウスまでそんなことを言うのか? ……うーん、僕としては、朝の活動なんて、こんなものじゃないかなって思うんだけど。」
「ふむ――……察するに、これは相当に深刻な損傷状態にあると判断せざるを得ないようだな。」
「同感だ。」
大げさな言い方に、思わず肩の力が抜ける。そこまで言われるほどのことじゃない、と言い返したくなるけれど、皆がそう感じているなら、少しは気にしたほうがいいのかもしれない。
「うんうん、絶対に違うからね! ねえ、ケイオスお兄さん。今日は、私たちと一緒に吟遊詩人の詩を聞きに行こうよ。“星降る静寂に抱かれて眠る夜”って演目が、いま話題になってるみたいなんだよね。」
ボリュシアの瞳がきらきらと輝いている。その純粋な期待に触れた瞬間、胸の奥がちくりと痛む。今まで出来なかったことや、僕が制限させてしまったこと、タイタンになるために残酷な役目を背負わせてしまったことも、きっと彼女は全部わかっている。それでもなお、こうして笑って誘ってくれる。
その事実が、嬉しくて、同時に申し訳なくて、言葉にできない感情が胸に溜まる。すべてを終えたいま、こうして期待を向けてくれるのだから、僕がそれを無下にするなんて、できるはずがなかった。
「君たちまでアナイクス先生たちみたいなこと言うなぁ……。でも、いいよ。僕が案内するから、ボリュシアの見に行きたいものを見に行こうか。近年オクヘイマの会場とか、あまり馴染みがないだろう? 今日はモーディスたちがクレムノス式の野営食を売り出してくれているようだし、食べ歩きもしてみるかい?」
そう言いながら、僕はほんの少しだけ肩の力を抜いた。誰かのために歩くことは、ずっと当たり前だったはずなのに、こうして隣に並んで同じものを見る時間を思い描くと、不思議と胸の奥がやわらかくほどけていく。
きっと、僕がいなくても彼らは楽しめるのだろう。それでも、今日くらいは僕がそばにいてもいいのかもしれない。そんなふうに思えたことが、少しだけ嬉しかった。
「こら、ケイオス。ボリュシアにそんなことを教えるな。キャストリスに叱られるぞ。」
「大丈夫だよ、お姉ちゃんが怒るのは私だけだもん。」
「えっ、ごめんやめとこうか。」
「だーめ!それにお姉ちゃんだって、このあいだ焼き鳥を食べ歩いてたんだから私だってするの! クレムノス式ってことは、ゴーナウスさんも店員さんとして売ってくれるの?」
「ふむ。昨日まで販売員を努めさせてもらったが、――さて、今日も立たせてもらえるかどうか。」
結局、屋台でいくつか買っていくことになった。
僕はそのやり取りを、少しだけ後ろから眺めていた。止めるべきだったのかもしれないし、もう少しうまく収める言葉もあったのかもしれない。でも、楽しそうに笑う声を聞いていると、どうしても口を挟む気にはなれなかった。
先代と当代のニカドリーが、クレムノス式とはいえども、食べ物を売っている姿は見慣れないものだ。二人とも稀代の英雄であり、ゴーナウスは剣闘士だったし、モーディスはクレムノスの王子様だから――少し不思議で、少しだけ可笑しくて、それでも確かにここにある日常の一部として、静かに受け入れられるものだった。僕が守りたかったものは、きっとこういうものなんだろうと、胸の奥でそっと思う。
だから、ほんの少しだけなら、僕が叱られる側に回ってもいいのかもしれない。そんなふうに考えてしまう自分に、苦笑しながら。
“
どうしてだろう。彼女の足取りには迷いがなくて、まるで最初から僕らがここに来ることを知っていたみたいだった。僕はほんの一瞬だけ足を止める。
「青と金色のサンフィッシュも演目を見に来ていたのか。他の仲間たちも一緒のようだな。……では、おすすめの席がある、案内しよう。」
「こんにちは、セイレンスさ――ってちょっと待っ……えっ」
そう言って差し出された言葉は、いつも通り簡潔で、けれどどこか気遣いを含んでいるようにも聞こえた。
挨拶のあとの言葉がうまく続かない。呼び止めるべきか、それともこのままついていくべきか、ほんの一瞬だけ迷う。けれど、迷っている時間は思っているよりも短くて、気づけば彼女はもう歩き出していた。
その背を見送るように一歩遅れて足を動かす。追いつかなければ、と思うのに、どこかでその距離を保とうとしている自分もいる。
「おお、では言葉に甘えよう。ほれ、ケイオス。」
「……カリュプソー」
浮足立ったカリュプソーが、軽く僕の背を押した。その力は強くないのに、不思議と前へ進ませるには十分で、僕は小さく息を吐いて歩みを速める。
ボリュシアはゴーナウスに抱えられて、セイレンスの後に続いている。その様子を横目に見ながら、僕はただ、皆の後ろをついていく。本当にいいのだろうかと思いながら。
……………
……
< さあ、どうか耳を澄ませておくれ、旅人よ――絶望の彼方を越え、やがて新たな明日へと歩み出すオンパロスの物語を、静かに紡いでゆこう。 >
リラを抱えた吟遊詩人は、指先で弦をそっと撫で、やがて胸の奥から言葉をすくい上げるように歌い始めた。声は夜気に溶け、揺れる音色はやがて柔らかな波となって、聴く者のまぶたを静かに閉じさせるように広がっていく。
オンパロスは、もう厚いカーテンで黎明のミハニの光を拒むことはしない。眩しさを恐れて窓辺に布を重ねることもないのだと、古い歌がそっと語る。
彼らは夜空の下に身を横たえ、星々のやさしい瞬きに見守られながら、静かにまぶたを閉じる。そしてやがて、黎明の光に導かれるように、ゆるやかに目覚めていくのだという――けれど、それを「思い出した」と呼ぶには、あまりにも長い時が流れていたのだと、吟遊詩人は低く、やわらかに詠う。
眠りにつく前に空がやさしく暗くなることも、目覚める前に世界が静かに息を潜めることも、そして夜明けがほんとうに夜の向こうから訪れることも――それらはいつしか、人々の胸の奥で、古い歌や昔話の調べとして、かすかに揺れているだけのものになっていたのだ。
< だからね、最初のうちは、誰もがちょっぴりぎこちなかったのさ。 >
子供たちは寝台の上でころころと寝返りを打ち、薄布の隙間から空を覗き込む。まるで星に呼びかけるように、小さな瞳をきらめかせながら。
大人たちは眠るために灯りを消したあとも、しばらく窓辺に立ち尽くしていた。夜の深さを確かめるように、そっと息をひそめて。誰かが小さく息を呑み、誰かが「本当に暗いのだな」と、まるで古い歌の一節をなぞるように呟く。
< それは恐ろしさゆえではなく、 >
ただ、あまりにも久しく忘れていた静けさが、やさしく胸に触れたからなのだ。
Q.吟遊詩人にモデルはいるの?
A.風だぁ~! ――いやだって吟遊詩人ってったら、FFと原神しか分からんのです。弦楽器もって、ぽろろん~♪ ってことは、まさか――!って思うことはありますが。