オンパロスは、再創世のただ中にあった。オクヘイマを中心に、人々は失われた街並みを記憶からすくい上げ、かつて祈りを捧げた像を復元し、そして夜の下で眠ることを、少しずつ思い出そうとしている。黎明を背負った神の名は、今も人々の胸に残っていた。
けれど、その名を持つ者は、祈りの前に立つたび、そこに宿るべきものが本当に自分でいいのかを、静かに問い続けていた。
そんな彼の前に、ボリュシアとカリュプソー、そしてゴーナウスが現れる。暗黒の潮に蝕まれていた少女は、壊滅の因子が取り除かれたことで、ようやく自分の足で歩き始めていた。
ひとつ、またひとつ。縺れながらも前へ進むその歩みは、終末を越えた世界が取り戻した、あまりにも小さく、あまりにも尊い奇跡だった。
誘われるまま、ファイノンは彼女たちと共に、吟遊詩人の演目を聴きに行く。題は、“星降る静寂に抱かれて眠る夜”。そこで歌われるのは、昼しか知らなかった人々が、夜の暗さに怯えるのではなく、その静けさに触れ、やがて黎明の光とともに目覚めていく物語。かつて失われたはずの夜は、今、詩となって人々のもとへ還ろうとしていた。
眠る練習と言ったって、僕には不要なものだと思っている。自分に眠りを許すくらいなら、鍛錬を続けている方がいいし、こうして穏やかな日々を眺めている方が、きっと役に立つからだ。
人々の部屋に次々と灯っていた明かりが、ぽつり、ぽつりと消えていく。その一つひとつが、まるで長い戦いを終えた火種が、ようやく掌の中で穏やかに眠るようだった。誰かが眠れる。ただそれだけのことが、こんなにも眩しいものだったのかと、僕は少し遅れて気づく。
カーテンは閉ざされない。窓は夜を拒まない。暗さは人々を呑み込むものではなく、柔らかな布のように肩へ掛かり、疲れた心を包み込んでいく。
それを見ていると、胸の奥がわずかにほどけるような気がした。理由はよく分からない。ただ、こうして誰かが安心して目を閉じられるなら、それでいいと、静かに思う。
オンパロスが真の空を失くしたのは、千年以上前のことだった。
エリュシオンの小さな教室で僕はそう教えられてきた。「天空」のタイタンたるエーグルが目を閉ざし、「世負い」のタイタンたるケファレが黎明のミハニを背負うようになってから、オンパロスに夜は訪れなくなったのだと。
オクヘイマでは朝も昼も夕暮れも、輪郭を変えることなく、ただ眩しい光の中に溶けていく。影はあっても、夜ではない。静けさはあっても、星明かりに抱かれる暗がりではなかった。人々は昼の中で生まれ、昼の中で生き、昼の中で老いていく。
赤子が最初に見る空も、旅人が遠征の果てに見上げる空も、老人が最後に目を細める空も、いつだって黎明のミハニの光を浴びている。だから夜空とは、彼らにとって伝承の中の景色だったのだと思う。
古い石板に刻まれた星の粒。神話の挿絵に散らされた銀の点。祖父母が、さらにその祖父母から聞いたという、遠い遠い昔の話。そんな人々がその話を語る声を幾度も聞いてきた。
星とは、空に穿たれた小さな穴なのだろうか。夜とは、世界がまぶたを閉じる時間なのだろうか。そんな問いを口にする子供の声は、どこか楽しげで、同時に少し頼りなかった。知らないものを想像するとき、人は手探りになる。さらさらと砂の上に星図を描くように、彼らは見たことのない夜を言葉でなぞっていた。
その夜はいま、本当に空の上にある。だからこそ、人々は何度も空を見上げるのだろう。眠る前にも、目覚めた後にも。戸口で足を止め、窓辺で息を潜め、広場の石畳に立ち尽くして。
僕も、気づけば同じように足を止めていた。
しん、と沈んだ夜気の中、衣擦れと吐息だけが淡く揺れている。冷たいはずの空気は、不思議とやわらかくて、胸の奥にゆっくりと染みてくる。少しだけ、息が深くなる。
人々の瞳に映る星の光は、まるで失くしたものを見つけた時の灯に似ている。けれど、それは単なる懐かしさではない。彼らの多くは、本当の夜を知らなかった。知らなかったものを、ようやく自分の目で確かめているのだ。
まるで、本当にそこにあるのかを確かめるように。
もう消えてしまわないかと、そっと見守るように。
夜は戻ってきた。少なくとも今、この瞬間だけは、誰かがそう信じられるほど確かに。ただ、夜空の下で夢まどろむ人々の気配を眺めながら、ほんの少しだけ息を緩めた。
(そういえばオンパロスの空をまじまじ見上げたことなんて、エリュシオン以来だ……)
この空が物珍しいのは、僕にとっても同じだった。まるで、自分だけは最初から知っていたような顔をしているのが、少しだけ可笑しい。けれど本当は、僕もまた、空を見上げれば広がる蒼穹を当たり前のものとして育ったわけではない。
エリュシオンで見上げた空も、オクヘイマで見上げた空も、いつだって黎明のミハニの光を受けていた。あの光は、確かに救いだったと思う。
各地を転々と巡って思ったのは、聖都に近づくにつれて人々の表情に穏やかな色が宿ったことについてだった。暗闇に沈まないというだけで、人はこんなにも安心できるのだと、何度も思った。でも同時に、それは終わらない役目を照らし続ける灯でもあった。
眩しすぎるほどの光の下で、人々は祈り、働き、別れ、また歩き出していく。立ち止まる理由を見失わないように、光はずっとそこにあった。だから、夜がないことを不思議に思うこともなかったし、必要だと考えたこともなかった。
唯一、異郷の夜を知る、ケビン・カスラナとしての記憶でも、景色の細部はもう朧気だ。僕は、あの頃じっとしていたことがあったのかどうかさえ、よく思い出せない。
空や建造物の名前や輪郭も、故郷の手触りも、凍えるような使命の重さも、時折、遠い水底から浮かび上がる泡みたいに胸の奥へ触れるだけで、すぐに消えてしまう。ぱちん、と弾けたあとに残るのは、言葉にならない感覚ばかりだ。
(うーん、……拠点に帰還しても、あまり長く留まってはいなかった気がする……。気づけば、また次の任務に出ていたような……)
だから、僕の記憶の中にある昏い空といえば、永劫回帰の中で何度も訪れたステュクスのものばかりだった。死者の河が流れるあの地の空は、静かで。
冷たく、深く、光を呑み込むような色をしている。水面はさらさらと音もなく流れ、足元から忍び寄る冷気は、肌ではなく魂の奥を撫でていく。見上げるたび、そこには終わりの気配があった。眠りではなく、戻れない沈黙。休息ではなく、誰かを送り出すための静寂。
だから最初にこの新しい夜空を見上げた時、僕は少しだけ戸惑った。同じ暗さのはずなのに、ここには死の匂いがなったから。
星の光は冷たく突き刺さらず、むしろ遠くから瞬いて、迷わないように道を示してくれているようだった。夜気が頬を撫でても、ステュクスのように魂を凍らせることはない。ただ、穏やかに深く息を吸ってもいいのだと告げるように、静かに胸へ満ちていく。なんだか新鮮だな、と。たぶん、そう思ったのだと思う。
やがて、夜の底に沈んでいた街が、黎明のミハニではなく、真の太陽の光を受けて淡くほどけ始めた。白い指先で世界の輪郭をなぞるように、朝が来る。
僕はその光を、少しだけ遠くから眺めていた。眩しい、というよりも、どこか懐かしい感触が胸の奥に触れる。こんなふうに世界が明るくなるのを、僕はちゃんと知っていたはずなのに、どうしてか思い出すのに時間がかかった。
窓辺では、眠っていた人々が一人、また一人と目を開けていく。その顔には、驚きがあった。安堵もあった。けれど何より、今日が昨日の続きとして訪れたことを確かめるような、静かな温もりがあった。
それでいい、のだと思う。特別なことなんて、きっといらない。ただ、昨日の続きが今日に繋がっていると分かるだけで、人はちゃんと前を向けるのだろうから。
ファイノンはそれを見て、ほんのわずかに目を細めた。自分でも気づかないほど、肩の力が抜けていた。
夜の下で眠り、朝とともに目覚める。
そんな当たり前を、オンパロスはようやく取り戻し始めていた。
それから僕は、夜が朝へ変わっていく様子を、何度も見届けるようになった。見守っているというほど大げさなものでも、確かめているというほど疑っていたわけでもない。
ただ、人々が夜の下でまぶたを閉じ、やがて朝の気配に導かれるように起き出してくるまでのあいだ、僕は空の色が少しずつ移り変わるのを眺めていた。
紫の帳が、ほんのわずかに薄くなる。星々の瞬きが、ひとつ、またひとつと遠ざかっていく。夜気に沈んでいた街路の輪郭が、淡い光を受けてゆっくり浮かび上がって、しんと張りつめていた空気が、朝の手に撫でられたみたいにさらりとほどけていく。
それは、朝の気配だった。だけど――もちろん、これがよい習慣だとは思っていない。夜通しずっと起きていたなどと知られれば、ヒアンシーに叱られてしまうだろう。
彼女はきっと、にこにこと笑いながら近づいてきて、穏やかな声のまま逃げ道を塞ぐ。そうして脈を測り、目元を覗き込み、最後には「休息も治療の一部ですからね」と、やわらかいのに絶対に逆らえない調子で告げるに違いない。
それは困る――困る、というより、申し訳ない。誰かに余計な心配をかけるのは、本意ではなかった。だから、見つからなければいいのだと思った。
そう考えて、僕は人の気配が薄い場所を選ぶようになった。誰もいない高台。まだ足音の少ないケファレの神像の隅っこ。記憶の庭園の片隅。花弁が風に揺れて、かさ、と小さく鳴る場所へと腰を下ろし、膝に手を置いて、ただ空を見上げることにした。
本当は、ヒアンシーやアナイクス先生が言うように、眠るべきなのだろうとは、自分でも分かっていた。けれど、目を閉じるよりも、こうして朝が来るのを見ている方が落ち着く。
自己も自我も焼き尽くした僕は、人間としての機能を取り戻すために人一倍、生活のサイクルを気を付けなくてはならない――らしい。
みんなはどうしてだかオンパロスに僕のことを引き留めてくれているけれど、こうして生きている限り、僕の内側で燃え続ける焔の矛先は、きっとまた壊滅の星神へと向いてしまうのだと思う。絶滅大君に覚醒してしまわぬよう、マダムヘルタが調整してくれたとはいえ、この魂にはあの神の神血が混ざってしまった。
いずれ均衡が崩れてしまうのだとしても、こうして人々が眠り、街が静かに息をしている今を見ていると、少しだけ安心できる。夜が明けても、誰も失われていない明日がやって来る。それを確かめられるなら。
(もう少しだけ……)
そう思って、僕は空を見上げたまま、ゆっくりと片手を持ち上げていた。
かざした指先が、夜気を掬って、さらりと冷たい風が手のひらを撫でていく。その感触がどこか遠くのものみたいに感じられて、少しだけ不思議だった。星々はその向こうで瞬いていて、遠いはずなのに、不思議と近く見える。
高台の静けさのせいかもしれない。人々の寝息が街の底に沈んで、世界が息を潜めているからかもしれない。あるいは夜というものが、距離の感覚を少しだけ曖昧にしてしまうのだろうか。
そんなふうに考えながら、僕は指先をわずかに動かした。ほんの少しだけ、力が入りにくい気がしたけれど、それもきっと気のせいだと思った。
(手を伸ばせば、掴めそうだ……。)
そんなことを思って、ほんの少しだけ指を広げた。星の光が、指の隙間に散る。小さな光は、まるで手のひらへ落ちてくる火の粉みたいだった。けれど熱はないし、音もない。ただ、瞬きをするたびに、掴めたはずの光がするりと位置を変えていく。
不思議だな、と思った。こんなに近くに見えるのに、触れられない。触れられないと分かっているのに、どうしてか手を伸ばしてしまう。
(キュレネと一緒に星と追いかけっこしたときみたいに……)
幼い頃なら、もっと素直に信じられたのかもしれない。
あの光まで走っていけると。丘を越え、谷を越え、知らない道をどこまでも進めば、いつか空の端に辿り着けるのだと。星のひとつくらい、両手で受け止められるのではないかと――そんなふうに思って、笑っていられた時間が、きっとどこかにあったのだろう。
けれど今の自分はもう、知っている。近く見えるものほど、遠いことがある。手を伸ばせば届きそうなものほど、本当は遥か彼方にあることも。願いも、未来も、誰かの明日も、掴んだと思った瞬間に指の間から零れていくことがある。
それでも――だからといって、伸ばした手をすぐに下ろす気にはなれなかった。
星々を掴むことはできない。けれど、かざした手の向こうに光があると確かめることくらいはできる。今夜も空はそこにあり、朝が来るまで消えずに瞬いている。それだけで、少しだけ胸の奥が静かになる気がした。
ゆっくりと息を吐けば、白くもならない吐息が夜に溶けていく。かざしたままの指先がわずかに震えたのは、冷えのせいだろうか。それとも、気づかないうちに力が入っていたのかもしれない。どちらでもいい、と思った。
(……僕には、届かないや。)
かざした手のひらの隙間から見えるこの紫色の銀河を抱いた空は、どこか柔らかい。触れればほどけてしまいそうな、そんな頼りなさと優しさが同時にある。まるで、幼馴染の少女のように。
そう思ったら、指先に入っていた力が、気づかないうちに少しだけ抜けていた。張りつめていたものが、ほんのわずかに緩む。キュレネが聞いたら、きっと嬉しそうに笑って、それから少しだけ得意げな顔をするのだろう。
あるいは、こちらの反応を確かめるように覗き込んできて、「ふふっ。ねえ、それって誰のことかしら?」なんて、わざとらしく首を傾げるかもしれない。
そんな光景を思い浮かべるだけで、胸の奥に沈んでいた重さが、ほんの少しだけほどける気がした。どうしてなのか、自分でもうまく言葉にはできない。ただ、君がそこにいると想像するだけで、呼吸が少しだけ楽になる。気づけば、横になって空を見上げていた。