オンパロスは、千年以上ぶりに夜を取り戻した。かつて黎明のミハニの光だけを浴びて生きていた人々は、窓を閉ざすことなく暗さを迎え、星の下でまぶたを閉じ、真の太陽とともに目覚めるという、あまりにも当たり前で、あまりにも遠かった営みを少しずつ思い出していく。
ファイノンもまた、その夜を見上げていた。人々が安心して眠れること。朝になっても誰も失われていないこと。そんな静かな事実を確かめるように、彼は夜通し街を見守り続ける。眠る練習など自分には不要だと考えながら、それでも星の光へ手を伸ばし、届かないものを届かないまま見つめていた。
夜は死者の国ステュクスの暗さとは違っていた。魂を凍らせる沈黙ではなく、疲れた心を包み、朝へ導くための静けさ。けれど、休息を知らない英雄にとって、そのやさしさはまだ少し遠い。彼は夜明けを見届けるたび、オンパロスが昨日の続きとして今日を迎えられることに安堵する。そして気づけば、幼い日のキュレネと星を追いかけた記憶のように、届かない光へ手を伸ばしていた。
もう朝か、とぼんやり思った。結局、一睡もしなかったらしい。ヒアンシーに知られたら、きっと困ったように眉を寄せて、それから少しだけ厳しい声で叱られるだろう。
けれど、半神の身であれば、そう簡単に隈なんて出来ない。顔色も、たぶん普段と変わらないはずだ。現場さえ見つからなければ、きっと気づかれない――なら心配をかけることもないだろう。そう考えて、少しだけ肩の力を抜いた。
アグライアが開催したイベントで描かれる夜は、眠りを誘う色をしている。夕立のあと、濡れた石畳に残る水の匂いと、雲間から差し込む淡い光。
そのあとに訪れる、しん、とした穏やかな夜。激しく降ったものがようやく過ぎ去り、世界が傷口を冷ますように息を整えている時間。今のオンパロスの人々が黒を見上げて感じるのは、きっとそういう夜なのだろう、と静かに思った。
黒を見れば、自然とフレイムスティーラーを思い出してしまう。
炎と、絶望と、血と。焼け焦げた空気。崩れていく大地。誰かの声が途切れる瞬間。そうした死に塗れた記憶は、あの頃の僕がまとった黒という色に結びついている。目を閉じれば、いつでも奥底から浮かび上がってくる。ぱきん、と硝子に皹が入るような感触と一緒に。
それは、たぶん、僕の中で簡単には消えないものだと思う。それでも、夜が更ける空を見上げる人々の顔に、恐怖の色はほとんど見られなかった。
広場の端で肩を寄せ合う親子がいる。窓辺で星を数えようとしている老人がいる。眠る前にもう一度だけ空を見ようと、戸口から顔を出す子供もいる。誰もが少し戸惑っていて、けれどその瞳には、逃げ出したいほどの怯えはなかった。
それが、不思議だった。けれど同時に、どこかで納得している自分もいる。彼らにとって、黒はもう壊滅だけの色ではないのかもしれない。暗さは、奪うためだけにあるものではないのかもしれない。
そう思うと、胸の奥で燃え続けている焔が、ほんの一瞬だけ音を潜めた。ぱち、と小さく火の粉が弾けるような感覚がして、それきり人々の囁きのあわいに溶けていく。
まだ、この空を夢なのかもしれないと、うまく信じきれてはいない。それでも、人々が怖がらずに見上げているのなら。誰かがこの夜に安心して目を閉じられるのなら。それが、一番だろう。
「さて、と……今日は、学者たちの検証に付き合うんだったかな。集合場所は、神悟の樹庭の……此処ってアナイクス先生の教室じゃあ……?」
ヒアンシーに止められた天外の天体に関する研究だろうか、と首を傾げる。けれど約束もしたし、と僕は先生のところへ足を運ぶことにした。
オクヘイマから神悟の樹庭まで、徒歩で行けば数週間はかかる。かなり距離はあるはずなのに、空を飛べるようになってからは、その遠さの実感が少しずつ薄れていった。
風を切る感覚にも、いつの間にか慣れてしまったらしい。以前なら燃え滾る熱に圧倒されて少し息が上がっていたはずなのに、今はただ、身体が静かに応えてくれるだけだ。自然と前へと運ばれていく。
胸の奥に、わずかに鈍い重さが残っている気もするけれど、飛んでいる間はそれも風に紛れてしまう。気にするほどのものでもないものだろう、と判断して、そのまま高度を上げた。自分でも便利になったな、とぼんやり思う。
やがて視界の先に、神悟の樹庭の輪郭が見えてきた。
巨大な樹々が幾重にも重なり合い、その中心に広がる庭は、遠目にも静かな気配を湛えている。枝葉の隙間から差し込む光が、淡く地面を照らしていて、どこか現実から切り離されたような場所だと改めて思う。オクヘイマとも異なる空気に、来たばかりの当初は、理由もなく足が向くままに歩き回っていた気がする。
アナイクス先生との邂逅は、そんな折、迷子ですかと声を掛けられたときだった。高度を落としながら、ゆっくりと降下する。
風の音が次第に弱まり、代わりに葉擦れの音や、遠くで誰かが話す声が耳に届いてきた。さっきまでの空の広さが、少しずつ遠ざかっていく。代わりに、足元の確かさが戻ってくる。そのはずなのに、胸の奥に残っていた浮遊感だけが、なかなか消えてくれなかった。
「? ……っ、!?」
足が地面に触れた瞬間、ふっと身体の力が抜けた。飛んでいる間は感じなかった重さが、遅れて戻ってくるような感覚がある。ほんの一瞬、膝が頼りなく揺れたけれど、すぐに持ち直した。立っていられるなら、それで十分だろう。
「……びっくりしたぁ。……えっと、おーい、アナイクス先生?」
見慣れた建物――というより、樹と一体化したような教室を見上げて、恩師の名を呼ぶ。声は思ったよりも穏やかに出て、少しだけ安心する。
入口のあたりには既に何人かの学者が集まっていて、何やら資料を広げながら話し込んでいるようだった。紙の擦れる音と、抑えきれない興奮を含んだ声が、静かな庭の中でやわらかく広がっている。その熱は、遠くからでもはっきりと伝わってきて、胸の奥に残っていた違和感を、ゆっくりと押し流していく。どうやら、自分が最後というわけでもなさそうだ。
目的の人物を見つけると、胸の奥でそっと息を整えた。ほんの少し足元が揺れただけだ、と自分に言い聞かせる。そうして、気に留めるほどのものではないと判断して、何事もなかったように、その輪の方へと歩き出した。
「おーい、先生! アナイクスせんせーい!」
「来ましたか、ファイノン。こちらです。」
未知のものを前にすれば、本来ならば警戒や不安が先に立つはずだった。ましてオンパロスの民は、長らく閉ざされた世界で生きてきた。天外の星々など、つい最近まで神話の向こう側にある存在で、古い記録や旅人の言葉を通じてしか触れられないものだったのだから。
夜空を見上げて、あの光の先にも世界があるのだとすぐに信じろと言われても、戸惑う方が自然だったのだと思う。けれど、その恐怖は長く続かなかった。
やあ、先生。と挨拶もほどほどに、目の前で熱烈とした口論が繰り広げられていたからである。胸の奥に残っていたはずのざらつきが、いつの間にか別の熱に押し流されていくのを、僕は少し不思議な気持ちで眺めていた。
「つまり、あの光一つ一つが別の惑星なんですよ! ただの点の集まりじゃない、それぞれが独立した世界で、もしかしたら大地や海や、私たちと同じように空を見上げる存在がいるかもしれないんです! もし観測角度と周期を正確に測ることが出来れば、位置関係や運動の法則も導き出せるはずですし、そうなればオンパロスも天外の地図だって作れるはずです!」
隣で小さくため息をつく声に、思わず苦笑が漏れる。
「先ほどからこれです。」
「あ、はは……すごいね、なんだか。」
言葉を選びながらそう返すと、学者はさらに身を乗り出してきた。近づいた分だけ、瞳の奥の光がはっきり見える。怖さよりも先に、知りたいという衝動が溢れている目だった。
「アナクサゴラス教授も想像してみてくださいよ、この!
「えっと、本物、かな。こんにちは。」
急に名前を呼ばれて、少しだけ瞬きをする。どうやら気づいていなかったらしい。悪いことをしたかな。軽く手を上げて応じると、相手は一瞬固まってから、妙な声を上げた。
「オホッウッ!?」
「オンパロスが地図を作ることへの興奮――理解できなくはありませんが、まずは少し落ち着きなさい。議論は整理してからでも遅くはないでしょう。」
「いや待て、その理論には飛躍がある。確かに、個々の光を独立した惑星と仮定するのは魅力的だが、それだけでは銀河全体の構造を説明しきれないだろう。」
割って入ったのは、鋭利な眼差しの学者だった。
声は落ち着いているのに、言葉の端々が研ぎ澄まされている。教室の中で、その響きだけが少しだけ硬質に感じられた。
「あの帯状に広がる光は、単なる点の集合ではなく、より大きな秩序や流れを持っているように見える。もしそれぞれが個別の世界だとしても、それらがどのような配置や運動の規則に従っているのかを考えなければ、全体像は掴めないはずだ。観測角度や周期の測定も重要だが、それをどう解釈するか、どの枠組みで理解するかが同じくらい重要になる。安易に結論へ飛びつくのではなく、まずは現象そのものを丁寧に捉えるべきではないか?」
「第一に、議論は整理してからでも遅くはないと――」
ぴき、と空気が一瞬だけ凍りついた気がした。アナイクス先生のこめかみに、わずかに青筋が浮かぶのが見える。
言葉を遮られた瞬間、何かが引っかかったまま止まってしまったような、そんな違和感が胸の奥に残った。先生はその続きを飲み込むように、ゆっくりと息を吸い込む。その静かな仕草が、かえって周囲の緊張をじわりと引き上げていくのが分かった。
「ひとまず誰か僕に状況を教えてくれないか、さっき到着したばかりなん――」
「だから言ったでしょう! 天外にも星はあるって! あの光はただの飾りじゃない、ちゃんと世界として存在しているんです。神話の外側にも、私たちと同じように空を見上げる場所がある――そう考えた方が、ずっと自然じゃないですか!」
あっ、と小さく息を呑むような表情をしたヒアンシーと、ファイノンは目が合った。どうやら今来たばかりらしい。彼女が自分の額に手を当てる仕草を見せた、その瞬間、アナイクスの怒気を帯びた叱責が響き、すべてをかき消してしまった。
「第二に、私の話を遮るなと言ったはずですッ!!!」
「あ、アナイクス先生ー! 落ち着いて、落ち着いてくれ、みんな!」
ファイノンは今にも銃を乱射しかねない恩師を羽交い締めにしながら、どうどう、と大地獣を落ち着けるように声を掛ける。
少しでも刺激しないようにと選んだ言葉だったが、結果としてはどこか煽っているようにも聞こえてしまう。それでもファイノンは、ただ場を収めたい一心で、善意から、真摯に、そして不器用なほど真面目にそれを続けていた。
アナイクスは、背後から腕を絡めてくる力を感じ取り、わずかに眉を動かした。さて、抑え込むという選択ですか。随分と直接的だ。常であれば弁の立つ饒舌で阻止しただろうに。
振りほどくことは難しくない。だが、無理に動けば余計な混乱を招くだろう。何より、この腕の主が誰であるかは、触れられた瞬間に理解していた。
背後から聞こえる呼吸は浅く、わずかに乱れていた。胸元に伝わる鼓動も一定ではない。消耗している、と感じた。いずれにせよ、好ましい状態ではない。この子は、いつもそうだ。自分の状態を後回しにして、場を収めようとする。
「ファイノン。力を抜きなさい。あなたが消耗してどうするのですか。」
「っ……え、僕そんな、消耗なんて、うわっ」
最も優秀な
「せ、先生?」
抑え込まれたままの姿勢では、自然と生徒の胸に頭部を預けることになるから、心拍をはかるにはやりやすかった。多少強引ではあるが、そうでもしなければファイノンは隠し通すだろう。
まったく、この子は昔からそうだ。痛みも疲労も、自分のものだと抱え込んで、平然とした顔をする。ふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向けば、ファイノンは困ったように眉を落とした。少し力を入れすぎたかもしれない。不安そうに囁く青年から伝わってくる心音はやや不規則で、どこか落ち着かない。アナイクスは小さく息を吐く。やはり、無理をしていますね。
仕方なしに冷静さを取り戻してやることにした。とにかくこの子に気づかれないように、休ませなければ。ほんの少しだけでもいい、力を抜かせてやる必要がある。そう思いながら、預けた体重をほんのわずかに増やした。まるで、大地獣の子をあやすように。
「生徒たちも落ち着いたようですし、我々も朝食にしましょうか。エリュシオンのファイノン、あなたも来たばかりでまだ何も口にしていないのでしょう?」
アナイクスは周囲を一瞥した。先ほどまでの騒ぎが嘘のように収まりつつある教室を確認し、内心で小さく頷く。多少の混乱はあったが、致命的な問題には至っていない。ならば次に優先すべきは、日常の流れを取り戻すことだ――そう判断しての言葉だった。
「生徒たちが落ち着いたっていうか、落ち着かざるを得なかったっていうか、むしろ先生こそ落ち着い――てるな……? ?? ???」
ファイノンの戸惑い混じりの声に、アナイクスはわずかに視線を向ける。驚くのも無理はない。だが、追撃とばかりにヒアンシーも容赦なく切り込んでいった。
「はいはい、お気持ちは分かりますが、ファイノン様はこちらですよ~。先生はひっくり返した机を戻してから、トレーを運んであげますね!」
「分かっていますよ。」
言葉通り、アナイクスは淡々と机を起こし始めた。倒れた脚を正しい位置に戻し、散らばった紙束を手際よく揃えていく。その動きには無駄がなく、先ほどまで怒気を帯びていた人物と同一とは思えないほど整然としていた。
周囲の学者たちも、どこか気まずそうにしながら手伝い始める。誰かが椅子を戻し、誰かが落ちた筆記具を拾い上げる。さっきまでの熱気はまだ残っているのに、不思議と空気は落ち着きを取り戻していた。
「先生も相変わらずだなぁ……」
「ふふ、切り替えが早いですよね~。ビックリしちゃうの、すごく分かります。わたしも慣れたかと思ったら、どきっとするときがありますから!」
苦笑しながらも、ファイノンは差し出された手に軽く引かれて歩き出した。ほんの少しだけ足取りが重い気もしたが、ヒアンシーは気づかないふりをして、そのまま歩調を合わせる。
背後では、アナイクスが最後の机を整え終え、静かに息を吐く気配がした。
Q.学者A、学者B、学者Cにモデルいる?
A.スメールところに住めーる人たち。
※誤字修正:報告ありがとうございました。これじゃあ、撃ってましたな。
誤:ファイノンは今にも銃を乱射しかねない恩師を羽交い締めにしながら、どうどう、と大地銃を落ち着けるように声を掛ける。
正:ファイノンは今にも銃を乱射しかねない恩師を羽交い締めにしながら、どうどう、と大地獣を落ち着けるように声を掛ける。