黒は、かつて壊滅と死の色だった。
フレイムスティーラーとして纏った記憶は、炎と絶望と血の気配を伴って、今もファイノンの奥底に沈んでいる。けれど、終末を越えたオンパロスの人々は、夜を恐怖だけのものとして見上げてはいなかった。眠りを誘う暗さ、傷口を冷ます静けさ、明日へ進むために目を閉じられる時間――その夜を前に、ファイノンはほんの少しだけ焔を潜める。
だが、一睡もしないまま迎えた朝、神悟の樹庭へ向かった彼を待っていたのは、天外の星々を巡る学者たちの熱狂と、アナイクスの変わらぬ苛烈さだった。
議論は白熱し、怒声は響き、場は一時騒然となる。そんな中で、アナイクスはファイノンの消耗を見逃さなかった。本人が隠し通せると思っていた疲労は、誰よりも鋭い知性によって静かに見抜かれていたのである。
昼食後も学者たちは、やはり学者たちだった。
恒星に関する議論は尽きず、絶え間なく質疑応答や考察が進められていく。ああした理論の応酬は、嫌いではない。むしろ、普段の僕なら、とっくの昔に輪の中へ歩み寄っていたはずだった。
けれど僕は、その様子を少し離れた場所から眺めている。ヒアンシーに言われた通り、午前中は樹庭で横になっていなければならないからだ。時間だけが、やけに静かに余っている。木陰に身を預けながら、遠くで交わされる声を聞く。
言葉の端々に混じる熱や、紙をめくる音、誰かが思いついた瞬間のわずかな高揚。それらが風に乗って届いてくるたび、胸の奥が少しだけ疼いた。
「だめですよ、ファイノン様は熱があるんですから。」
「えっ、そうなの? 僕の平熱って、わりと高めなんだけど……見間違いとかじゃなくて?」
「平熱より高いから熱ですね~。」
「ぷるる!」
「そう、なのか……じゃあ、昼には手伝えるように大人しくしておくよ。」
「じゃあ、わたしは飲み物を取ってきますね。ちゃんとゆっくりしてくださいよ~?」
「はは、わかってるよ。」
ほっとする反面、直面する問題にひやりとする。ヒアンシーが熱だと言ったこれは、おそらく僕が自分で感知できないほどに内側から吹き零れた壊滅の熱気だろう。
息を吸うたびに、胸の奥で何かが軋む。燃える火焔が、内側から押し上げてくるのを、無理やり押し返す。喉の奥が焼けるように乾いて、呼吸が浅く、細くなる。
胸の奥へ意識を沈める。呼吸をゆっくり整えながら、パールヴァティーの力で、そっと蓋を重ねていく。逃がすな。漏らすな。ここで緩めたら、きっと取り返しがつかない。ここは少し強引でも抑え込むしかない。歯を食いしばり、ゆっくりと息を吐く。
「――っ、……は、……っ……。」
吐き切る前に、また吸ってしまいそうになるのを、意識で押さえつける。一定に、一定に――そう言い聞かせながら、乱れかけた呼吸を無理やり整えていく。
フレイムスティーラーのときだって、似たようなことをし続けてきたのだから出来る。僕なら耐えられる。これで、ある程度時間が過ぎれば、平熱にまで落ち着くはずだ。
しばらくそうして呼吸を整えていると、胸の奥で暴れていた熱は少しずつ輪郭を失っていった。完全に消えたわけではないけれど、少なくとも今すぐ溢れ出すような気配はない。
ゆっくりと目を開ける。視界の端で、木漏れ日が揺れていた。葉の隙間から差し込む光が、地面にまだらな影を落としている。その穏やかな明暗をぼんやりと眺めながら、浅く息を吐いた。もう大丈夫だ。そう自分に言い聞かせるように、もう一度だけ呼吸を整える。
遠くから聞こえてくる議論の声は、相変わらず途切れることがない。誰かが何かを思いついたらしく、少しだけ声が弾んだのが分かった。
その音に、ほんのわずかに口元が緩む。怖がるより先に、知ろうとする人たち。ああいう人たちがいる限り、この世界はきっと、思っているよりも簡単には止まらないだろう。
どこかで聞き覚えのある熱量だった。アナイクス先生も、きっと同じような顔をしているのだろう。未知を前にして眉をひそめるより先に、目の奥へ鋭い光を宿す人たち。怖がるよりも、測りたい。逃げるよりも、名づけたい。そういう困った人たちだと、少しだけ苦笑したくなる。
けれど、その騒がしさは不思議と嫌ではなかった。むしろ、胸の奥に残っていたわずかなざわめきが、静かにほどけていくような気がした。
彼らは空を見上げては議論を始め、議論を始めては仮説を立て、仮説を立てては周囲を巻き込んでいく。石畳の上に簡易の星図が描かれ、卓上には紙片が積まれ、誰かが慌てて角度を測る道具を持って走ってくる。かつかつ、と靴音が響き、紙の擦れる音と興奮した声が枝葉を揺らした。
「ファイノン様……あの、お伺いしたいことがあって。ご無理は、されていませんか?」
控えめにかけられた声に、僕は一度だけ呼吸を整えてから振り返った。心配をかけさせてしまった自覚はある。だからこそ、ここで曖昧な顔は見せたくなかった。
「うん、大丈夫だよ。もう落ち着いたから。それで、どんなことかな?」
そう答えると、相手の肩からわずかに力が抜けるのが分かる。できるだけ穏やかに促すと、相手は一瞬ためらい、それから意を決したように顔を上げた。
「はい、あの、では……星穹列車から見たオンパロスの形状についてなのですが!」
「ええと、相棒が言うにはオンパロスは外から見ると――」
「でしたら私も!あの、ピノコニーという星についてなのですが!」
「ピノコニーは、その……夢と現実が――」
「ちょっと待ってください、その前に重力の違いについても教えていただけますか!」
「あっ、重力は星ごとに異なっているらしくて、例えば――」
「航路はどうやって決めているんですか!? 星と星の間に道標のようなものがあるんでしょうか!」
「航路は、姫子さんに聞いた話だと星穹列車の場合は――」
「燃料は何を使っているんです!? やっぱり星の力とか……!?」
「燃料は、その……ええと、星の力というよりは開拓の――」
「はいはいはいはい、そこまでですよ~」
柔らかな声だったのに、不思議とその場の空気がぴたりと止まった。
いつの間にか戻ってきていたヒアンシーが、にこりと微笑んでいる。けれどその笑みは、逃げ場を与えない種類のものだった。助かった、と胸の奥で小さく息をつく。自分ではどうにもできなかった流れを、あっさりと断ち切ってくれるその手際に、少しだけ申し訳なさも混じる。
「質問は一人おひとつ、順番に。ファイノン様は今、休養中です。囲んで詰め寄るのは、いけませんよ~?」
言葉は穏やかで、語尾も柔らかい。けれど一歩踏み出しただけで、学者たちは反射的に距離を取った。その様子を見て、やっぱりヒアンシーはすごいな、と思う。僕が同じことを言っても、きっとここまで綺麗には収まらない。
「で、ですがこれは極めて重要な――」
「重要なのは分かります。でも、だからって相手を潰していい理由には、なりませんよね?」
にこ、ともう一度笑う。
その瞬間、反論しかけた学者の口がぱたりと閉じた。
「それとも、皆さんは“観測対象を壊してでもデータを取りたい”タイプの研究者なんでしょうか?」
「い、いえ……!」
「ですよね~。でしたら、まずは落ち着いてください。深呼吸、はい」
促されるままに、何人かがぎこちなく息を吸う。
ヒアンシーは満足そうに頷くと、軽く手を叩いた。
「では、質問は整理して紙に書いてください。優先順位もつけて。ファイノン様が対応できる範囲で、順番にお答えします。それ以外は――」
すっと視線を横に流す。
「アナイクス先生にどうぞ?」
「……当然でしょう。」
片側だけがのぞく瞳が、話を遮るなと訴えている。いつの間にか背後に立っていたアナイクス先生が、静かに言い切った。その一言で、学者たちは一斉に背筋を伸ばす。
「さあ、散ってください~。はい、解散です」
ぱん、と軽く手を打つと、まるで合図でもあったかのように人の輪がほどけていく。先ほどまでの熱気が嘘のように、各々が資料を抱えて持ち場へ戻っていった。押し寄せていた波が、すっと引いていくみたいに、あっという間の出来事だった。
「……すごいね、ヒアンシー」
ぽつりと呟くと、彼女はくすりと笑った。
「ふふ、皆さん素直なんですよ~。ちょっとだけ方向を整えてあげれば、ちゃんと動いてくれますから」
そう言いながら、そっとファイノンの肩に手を置く。
「それより、無理はしていませんか?」
先ほどまでの有無を言わせぬ気配は消えて、いつもの柔らかな声音に戻っていた。肩に触れられたところから、じんわりと熱が広がる気がした。
「あ、うん。少しだけなら答えられそうだと思ったんだけど……予想以上にたくさん来て、ちょっと驚いただけだから」
言いながら、頭の奥でまだいくつかの問いが渦を巻いているのを感じる。整理すれば形になるはずだ、とどこかで冷静に判断している自分もいる。
「後日、資料にまとめて、アナイクス先生に提出しておくよ。そっちの方が、きっと皆にも分かりやすいだろうし」
そう付け足して、小さく息を整えた。ほんの少しだけ、呼吸が浅くなっていたことに、そのときになってようやく気づいた。
やがて、その熱は市井にも広がっていった。
子供たちは自由に星座を探し始める。指先で光を結び、「これは翼のあるキメラみたい」と笑う子がいた。大人たちは天外の文明について語り合い、職人たちは見たこともない星々を模した装飾品を作り始める。
夜の色を映した硝子玉、銀河を閉じ込めたような髪飾り、星明かりを模した小さな灯。その様子を眺めながら、ファイノンはゆっくりと息を吐いた。
恐怖は好奇心へ。不安は期待へ――言葉にすれば簡単だが、こうして目の前で形を変えていくのを見ると、不思議と安心する。黒はもう、ただ怯えるための色ではなく、誰かが顔を上げ、何かを知りたいと願うための色にもなっていく。
星を指差して笑う子供たちの声が、やけに遠くまで届く気がした。
耳を澄ませば、ひとつひとつの笑い声が夜気に溶けていく。その音を追うように視線を上げると、星々は変わらずそこにあった。
「……。」
僕は、しばらく何も言わずに空を見上げていた。子供たちの笑い声も、学者たちの議論も、職人が硝子玉を磨く小さな音も、少しずつ夜の中へ溶けていく。
ざわめきはある。けれど、それは怯えが生むものではなかった。逃げ場を探す足音でも、誰かに縋るための震えた声でもない。むしろ、これから先に何があるのかを知りたがる、柔らかな熱だった。
終末を越えた世界に訪れた最初の夜は、きっと、誰もが怯えて身を寄せ合うような夜ではなかったのだと思う。
もちろん、不安がなかったわけではない。分からないものは、いつだって少し怖い。夜の暗さも、天外に広がる無数の光も、昨日までのオンパロスにはなかったものだから。
けれど人々は、それをただ恐れ続けることを選ばなかった。顔を上げて、指を伸ばして、ひとつひとつに名前を与えようとしている。星の並びに物語を見つけて、光の向こうに別の世界を思い描いて、まだ見ぬ誰かの暮らしにまで想像を巡らせている。
壊滅の前触れでも、死者を送り出すための暗がりでもない。長い昼の時代を越えたオンパロスが、ようやく宇宙へ繋がったのだと、静かに確かめるための夜。閉ざされた天蓋の内側で祈り続けてきた人たちが、初めて外側へ目を向けるための時間。
星々の光は遠い。手を伸ばしても、きっと届かない。それでも、見上げることはできる。語ることも、測ることも、いつか辿り着くための道を考えることもできる。届かないからといって諦めるんじゃなくて、歩き出すための目印に変えていく――そう思えたことが、少しだけ嬉しくて。同時に、どこかでほっとしている。
僕は、空にかざしていた手を、ゆっくりと下ろした。もう先があるかどうか、分からないものに手を伸ばし続ける必要はなくなったんだ。
指先には何も掴めていない。それなのに、なぜか空っぽだとは思わなかった。むしろ、見えない何かが、静かに満ちているような感覚がある。
長い昼の時代は、終わったんだ。遠くで誰かがまた星を指差して、笑い声が弾ける。ぱちん、と夜気の中で小さな火花が散るような音がして、それがやけに心地よく耳に残った。
そう思うと、胸の奥が少しだけ軽くなる。ずっと張り詰めていたものが、ようやく緩んだみたいに。けれど同時に、どこかで力を抜ききれない自分もいる。まだやることがある気がして、立ち止まってはいけないような気がして――でも、それが何なのかは、うまく言葉にできなかった。
(相棒なら、分かるんだろうか……)
そしてオンパロスは今、新たな歴史の最初のページを開こうとしている。
そのページに、どんな言葉が書き込まれていくのか。ファイノンにはまだ分からない。ただ、その白紙を前にして人々が怯えていないことが、少しだけ嬉しかった。