烈日よ、さざ波を追って   作:夜鷹ケイ

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<前回のあらすじ>
 終末を越えたオンパロスに、人々はようやく明日を得た。
 だが、救われた命をどう生きるべきか、その答えまでは誰も授けてくれなかった。
 店を開く者、畑へ戻る者、剣を置いたあとに立ち尽くす者――彼らは命令ではなく、自ら選ぶための見届け人を求め、白き烈日の名を呼ぶ。
 ファイノンはその声を拒まず、一人ひとりが守ってきたものを思い出させるように、静かに耳を傾けていく。
 その姿を、金織のアグライアは遠くから見守っていた。


025 少年の輪郭の行方

 アグライアの声音は、メーレの香りのようにほのかでありながら、静かに胸へと届く確かな温度を帯びていた。

 それは、白き烈日を讃える者の声ではない。世を背負う英雄を仰ぐ言葉でもなかった。まだ黄金裔でもなく、救世主でもなく、ましてや神話の頁に名を刻まれる者でもなかった頃――エリュシオンから聖都オクヘイマへやって来た、ひとりの少年を知る者の声だった。

 

 白い髪は、今よりもいっそう柔らかく揺れ、青い瞳は聖都の眩しさに戸惑いながらも、どこか麦畑を渡る風のように澄んでいた。礼儀作法も、貴族の距離感も、聖都の入り組んだ道さえ満足に知らない――それでもなお、彼の歩みには不思議な迷いのなさがあったのです。

 己の不安を胸に抱えながらも、彼は誰かが困っていれば足を止めて、その手を差し伸べました。躊躇いというものを知らぬかのように、「大丈夫?」「どうしたの?」と、あまりにも自然に声を掛けてしまう。その無垢な振る舞いを、(わたくし)は幾度となく窘めながらも――胸の奥では、静かに理解が募っていったのです。この子はきっと、誰かのために生きることを選ぶのだろう、と。

 

「ふふ、あの頃から手のかかる子でした。」

「ライアちゃん、嬉しそうね?」

「そういう師匠も。」

 

 そう言いながら、アグライアはわずかに目を細める。微笑みは控えめでありながら、どこか懐かしさを帯びていた。

 思い返せば、手を焼かされた場面はいくつもあった。けれど、その一つひとつを辿るたび、胸に残るのは困惑ではなく、静かな誇りに近い感情だった。未熟で、ひたむきで、あまりにも眩しい。――あの頃の彼は、まだ何者でもなかった。

 それでも、その白さは決して空虚ではない。何にも染まっていないのではなく、誰かのために、何度でも光を受け止めようとする――そんな在り方だったのだと、今なら穏やかに理解が出来る。

 

「誰かの役に立ちたくて仕方がない子でした。」

 

 アグライアは、舞台の水音に耳を預けながら、遠い日の聖都を思い返す。

 市場で荷を運ぶ老人を見つければ、学びの時間も忘れて駆け寄った。迷子の子供が泣いていれば、道を知らぬはずの彼が、なぜか一緒になって保護者を探し回っている。ようやく送り届けたかと思えば、今度は店先で崩れた木箱を拾い集め、気づけば黄昏の刻まで、仔犬のように聖都中を走り回っていた。

 

「使命や自分のことだけでもいっぱいいっぱいだったでしょうに、人の困りごとだけは見逃さないのですから。……あの子のあれには、本当に手を焼かされました。」

 

 言葉だけ聞けば、叱責のようでもあった。けれど、アグライアの唇に浮かぶ微笑みは、叱る者のそれではない。仕立ての悪い布をほどき、丁寧に縫い直す時のような、困り果てながらも愛おしむ者の表情だった。

 

「それでいて、自分が褒められるのは苦手だったのですよ。周りから見れば充分すぎるほど働いているのに……」

 

 あの日の少年は、誰かに礼を言われるたび、ひどく困ったように笑った。

 

『そんな、僕は何もしてないよ。みんなが頑張ってくれたおかげさ』

 

 謙遜と言えば美しい。だが、アグライアには、それが少しだけ恐ろしくもあった。彼は自分の働きを、自分のものとして受け取ることを知らなかったのである。

 

「当初は、どう育てようか迷ったものです。」

「……不思議だよね。」

 

 そう呟いたところで、彼女の隣から小さな声がした。

 隣から聞こえた小さな声に、アグライアはゆるやかに視線を移した。赤い髪を揺らすトリビーが、青い瞳をきらきらとさせながらも、どこか遠いものを見るようにファイノンを眺めている。

 幼い姿。けれど、彼女は当代のタイタンたちの中で最年長の淑女である。その言葉の奥には、ヤヌサポリスの聖女として幾度も人の世を見てきた者の響きがあった。

 

「神殿の中で一緒に育った神官だって、欲に溺れてちまったから。あたちたちも、どんなに清廉な勇者でも、時が経てば人は変わるものだって思ってたの。」

 

 その声は明るく、いかにも幼げに響きながら、どこか底知れぬ歳月の重みを帯びているように感じられた。

 祈りの場に立つ者が、いつしか祈りを己の装いへと変えてしまうこと。善意が賞賛を求め、清廉さが権威を纏い、やがては最初に抱いた願いを見失ってしまうこと――そうした移ろいを、彼女たちは幾度となく見届けてきたのでしょう。

 アグライアはそっと静かに頷いた。だからこそ、ファイノンの姿に触れるたび、ふと考えてしまうのです。あの子は、本当に変わらずにいられたのでしょうか。

 いいえ、傷を負わずに済んだはずもなく、摩耗を免れたはずもありません。それでもなお、人々の前で膝を折り、誰かの願いを軽んじることなく受け止めるその佇まいには、聖都へと足を踏み入れたばかりの、あの頃の少年の面影が、確かに残っているように思われてならないのです。

 

「……案外、近すぎると分からないものかもしれませんね。」

 

 水音を帯びた舞楽の合間に、ひどく涼やかな声が差し込んだ。

 アグライアは、グラスを持つ指先をわずかに止める。聞き慣れた声音である。柔らかな情緒に浸る場へ、鋭利な針を一本差し込むような、あの理知の響き――振り返ると、薄緑を帯びた白銀の髪が祝祭の風に揺れ、黒い眼帯の金装飾が淡く光を返していた。

 

「アナちゃん!」

「……ヒュポクリテス」

 

 アグライアは静かにその名を呼んだ。口調こそ穏やかであったが、そこには少しばかりの警戒と、同時に旧知へ向ける親しみが滲んでいる。

 アナクサゴラス――否、アナイクスは、二人の反応を受けても大きく表情を変えなかった。ただ、片方だけ露わになった瞳で、人々に囲まれるファイノンを観察している。

 腰から流れる青緑の布が一拍遅れて揺れ、その佇まいは、祝宴の客というより、講義の途中で別の教室へ立ち寄った学者のようだった。

 

「何故、あなたがここに?」

 

 アグライアが問いかけると、アナイクスはわずかに顎を上げた。責められた者の仕草ではない。むしろ、問われることを想定していた講師が、ようやく本題へ移れるとでも言いたげな間である。

 

「私も招待を受けたのですよ。もっとも、祝祭を楽しむためだけに来たわけではありませんが」

「そうでしょうね」

 

 アグライアは静かに返した。彼がただ杯を傾け、舞楽を眺めに来たのだと言われたなら、その方がよほど不自然であっただろう。

 アナイクスは舞台へ視線を向ける。セイレンスたち人魚姫の衣が水音を含んで翻り、白い布と薄水色の装飾が、見えない潮の流れを描いていた。

 

「スティコシアの女王直々の依頼です。人魚たちが乾かぬよう、舞台に簡易の加湿機能を組み込みました。水霧を一定間隔で循環させるだけの、小さな仕掛けです。」

「小さな、ですか……」

「今の我々にとっては、単純とは言い切れませんから。記憶の中に残る設計通りに起動するのか。亜空間で再現された物質環境に、どの程度作用するのか。その経過を観察する許可を得て、ここに」

 

 言いながら、彼の指先がわずかに動いた。空中に術式を描くでもなく、ただ目に見えぬ機構の位置をなぞるような仕草。冷静な声とは裏腹に、その動きだけが、かすかに舞台役者めいている。

 アグライアは小さく息を吐いた。

 

「つまり、祝祭ではなく観察に来た、と?」

「両立しないとは言っていません。」

 

 その返答に、トリビーがくすりと笑う。その微かな笑みには、どこか懐かしさと諦観が滲んでいるように見えた。相変わらずね、とでも言いたげな眼差しに触れ、二人は言葉を交わす代わりに、そっと視線を外す。

 こうした沈黙さえも、彼らの関係を物語っているのだろう。だが次の瞬間、アナイクスの視線は舞台から離れ、静かにファイノンへと向けられていた。

 

「それと、一つ、訂正しましょう。」

 

 アナイクスの声は、祝祭のざわめきの中でも不思議とよく通った。講義室の空気を、そのまま舞台脇へ持ち込んだような響きである。

 

「あの子も変わっていますよ。」

 

 その言葉に、アグライアは返事を急がなかった。金糸を扱う者は、糸が強く引かれすぎる瞬間を知っている。ここで感情に任せて引けば、かえって大切なものを断ってしまう。だから彼女は、静かに耳を傾けた。

 

「初めて見た頃より、ずっと強くなりました。賢くもなった。判断も、忍耐も、痛みの隠し方も。――あのザンダー・ワン・クワバラと名乗った鉄塊(元凶)記憶(頭の中身)を見た私だからこそ言いますが、彼は私たちの知らない傷も多く抱えています。」

 

 薄緑の髪が、風にわずかに揺れる。黒い眼帯の奥に隠されたものまで動いたように見えて、アグライアは胸の奥を小さく締めつけられた。

 変わらないはずがない。あれほどの時間を越え、あれほどの痛みを潜り抜けて、ただ無垢なままでいられる者などいない――それでも、……それでも。

 

「ですが、幸か不幸か……根の部分は変わらなかったようだ、と」

 

 アグライアは、遠くの青年を見つめた。誰かの願いを受け止めるたび、彼は少しだけ困ったように笑う。その根が、今も誰かのために伸びている。

 ああ、確かに。変わらなかったのではないのでしょう。幾度も傷を負いながら、それでもなお静かに残り続けたものが、あの子の内に息づいている――そう思わせるほどに、あまりにも自然な在り様だった。

 

「かつて、私は彼に問いかけたことがあります。」

 

 アナイクスの言葉は、遠い教室の扉を静かに開くようであった。

 アグライアは、グラスの縁に添えていた指先を緩める。祝祭の水音も、人々の笑い声も、すぐそばにあるはずなのに、ふと薄い帳の向こうへ遠ざかっていく。

 金糸も捉えていた、その瞬間の光景。代わりに胸裏へ浮かぶのは、終末の気配がまだ日常のすぐ隣にあった頃の聖都。石造りの学び舎。窓の外に差す、どこか頼りない光――そこには、子供たちがいた。未来を教わるには、あまりに未来が不確かな時代の子供たちである。

 

「あなたの願いはなんですか」

 

 アナイクスは、そう問いかけたのだという。

 それは慰めではなかった。夢を語らせるための、甘やかな遊びでもない。絶望期の只中で生きる者にとって、願いとは、進むべき先を見失わぬための灯火である。己が何を望み、何のために明日へ足を進めるのか。その言葉を持たぬ者は、終末の影に容易く輪郭を奪われてしまう。

 

「あの頃は、誰もが絶望と隣り合わせにあった。教師としての問いです。あるいは……かつて最愛のもの(故郷と姉)を失った者としての問いでもあったのでしょう。」

 

 淡々とした声だった。けれどアグライアには、その平坦さの奥に、刃を布で包んだような痛みがあることが分かった。

 そして、その問いを受けたファイノンは、あまりにも迷いのない声だった。

 

『僕の願いは、みんなの夢を叶えることだよ!』

 

 教室には、しばし沈黙が落ちた。石造りの壁も、窓辺に差す頼りない光も、その言葉を聞き届けるために息を潜めたようだった。問いを投げたアナイクスでさえ、その一瞬だけは次の言葉を急がなかったのかもしれない。

 やがて、同級生たちの間に小さな笑みが零れる。

 それは嘲りではない。あまりの“彼らしさ”に、張り詰めていた糸がふっと緩むような笑みだった。誰かが肩を揺らし、誰かが「ファイノンらしい」と呟いた。絶望期の学び舎とは思えない、ささやかで、少しだけ気楽な空気が教室を満たしていく。

 アグライアは、その情景を思い浮かべながら、胸の奥が静かに痛むのを覚えた。きっと、あの少年は胸を張っていたのだろう。白い髪を陽に透かし、青い瞳をまっすぐに輝かせて。まるでそれが、自分にとって一番自然な願いであるかのように。

 けれど、今になって思えば、その答えはあまりに危うかった。みんなの夢を叶えること――そこには、彼自身の夢がなかった。少なくとも、自分だけの幸福を掴み取ろうとする欲は、驚くほど見当たらない。それでも彼は、きっと笑っていたのだ。美しく、明るく、あまりにも彼らしく。

 世界を救いたい、ではない。英雄になりたい、でもない。ましてや、自分自身が幸福になりたいという願いですらなかった。

 あの少年が口にしたのは、あまりにも素朴で、あまりにも当たり前で、それゆえに見落とされがちな願いだった。誰かが笑ってくれたらいい。誰かが明日を楽しみにしてくれたらいい。届かなかった夢が、今度こそ届く場所へ行けたなら、それでいい。

 言葉にしてしまえば、まるで子供の理想のように聞こえる。だが、その場にいた者たちは知っていたのだろう。アナイクスも、同じ教室にいた子供たちも。

 彼の言葉が、聞こえのよい綺麗事ではないことを。彼は、本当にそう思っていた。胸を張るほど自然に、疑うことすら知らぬほど真っ直ぐに。

 だからこそ、教室の空気は少しだけ和らいだのかもしれない。終末の気配に縁取られた日々の中で、誰かがまだ他者の夢を願える。その事実は、幼い灯火のように小さく、けれど消えがたかった。

 

 あの頃の彼を思えば、誇らしさがある。だが同時に、胸の奥へ細い針が沈むような痛みもあった。みんなの夢を叶えたいと願う少年は、では、自分自身の夢をどこへ置いてきたのか。




誤字報告ありがとうございます。
学生になってました。
誤:白い髪は、今よりもいっそう柔らかく揺れ、青い瞳は聖都の眩しさに戸惑いながらも、どこか麦畑を渡る風のように澄んでいた。礼儀作法も、貴族の距離感も、生徒の入り組んだ道さえ満足に知らない――それでもなお、彼の歩みには不思議な迷いのなさがあったのです。
正:白い髪は、今よりもいっそう柔らかく揺れ、青い瞳は聖都の眩しさに戸惑いながらも、どこか麦畑を渡る風のように澄んでいた。礼儀作法も、貴族の距離感も、聖都の入り組んだ道さえ満足に知らない――それでもなお、彼の歩みには不思議な迷いのなさがあったのです。
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