烈日よ、さざ波を追って   作:夜鷹ケイ

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<前回のあらすじ>
 人々の願いを受け止めるファイノンの姿を見つめながら、アグライアは遠い日の聖都を思い返していた。まだ救世主でも黄金裔でもなかった少年は、困っている誰かを見つければ迷わず手を差し伸べ、礼を言われるたびに自分の働きを否定するように笑っていたあの子を。
 トリビーは、人が時と共に変わることを語り、アナイクスは彼が確かに変わったのだと告げる。けれど、その根に残ったものは変わらない。かつて教室で問われた「あなたの願い」に、少年は胸を張って答えた。

――みんなの夢を叶えることだ、と。


026 青年の輪郭を返す

 彼にとって、それは叱責ではなかった。補習である。誤った解答を責めるためではなく、設問そのものを組み直させるための時間。

 

「だからこそ、私は一度、別の問いを与える必要があったのです。」

 

 アナイクスは、そう言って指先をわずかに持ち上げた。何かを指し示すための手。講義で概念を切り分け、反論で誤謬を摘み取り、生徒の思考に輪郭を与えるための手である。

 あの少年は、いつも解を急ぎすぎた。誰かが泣いていれば駆け寄り、傷ついていれば庇い、失われかけたものがあれば己の手で掬い上げようとする。

 その行動の速さは美徳であり、同時に欠陥でもあった。ゆえに、かつて彼は、あまりにも救世主然とした生活を送り続けるファイノンを見かねて、補習という名目で呼び止めたことがある。

 

『肩書きを取り払って、もう一度、自分の行動を思い返しなさい』

 

 救世主として。黄金裔として。人々に望まれた者として。そうした名札が、彼自身の感情を覆い隠してはいないかと。

 その言葉に、少年は首を傾げた。叱られているのか、試されているのか、少し困ったように瞬きをする。だが逃げようとはしなかった。彼はいつもそうだった。問いを向けられれば、たとえ答えが痛みを伴うものであっても、真面目に向き合おうとする。

 

『救世主だから、そうするのですか。黄金裔だから、手を伸ばすのですか。あるいは、人々があなたにそれを望むから?』

 

 アナイクスは、あえて冷たく問いを並べた。肩書きと感情を結び付けていないか。期待を己の願いと取り違えていないか。彼自身の意志が、役割という衣に覆い隠されていないかを確かめるために。

 ファイノンはしばらく黙っていた。窓の外から差す光が、白い髪の輪郭を淡く照らしていたのを覚えている。

 

『うーん、先生が言うように、“救世主としてそうするべき”だからという理由も、無きにしも非ずだけれど』

 

 やがて彼は、少しだけ照れたように笑った。

 

『肩書きをなくしたとしても、きっと僕はそうするだろう。――僕が、そうしたいと思うから。』

 

 アナイクスは、その時の沈黙を覚えている。

 模範解答ではない。危うさも残る。自分を勘定に入れぬ者の答えであることも、否定できない。だが同時に、それは洗脳された役割の言葉ではなかった。

 誰かに命じられたからではない。英雄譚に縛られたからでもない。彼は本当に、自分の意思で、誰かのために手を伸ばしていたのである。

 

「……あなたの言うように、厄介な生徒でしたよ。」

 

 薄緑の髪が、風に揺れる。

 

「否定すれば壊れる。肯定すれば燃え尽きる。だから、問い続けるしかなかった。」

 

 そして今も、答えは同じ場所にある。

 否定して救えるほど、単純な問題ではなかったのである。

 

 アナイクスは、遠くのファイノンを見た。

 人々に囲まれた青年は、誰かの言葉に耳を傾け、時折うなずき、必要な時だけ短く答えている。白い衣の裾と青い布が祝祭の風に揺れ、胸元の金装飾が黎明の光を拾っていた。英雄譚に描かれる姿としては、あまりにも穏やかだった。

 

「人々は時折、順序を取り違える。」

 

 彼は淡々と言った。だがその言葉は、ただの断定ではない。幾度も観察し、問いを投げ、答えの矛盾を見つめ続けてきた者の結論だった。

 

「救世主だから優しいのだと。世界を救った英雄だから、他者を想えるのだと。……実に分かりやすい誤読です。」

「誤読、ですか……」

 

 アグライアが静かに問い返す。

 

「ええ。肩書きから人格を推測するから、そうなる。実際は逆です。」

 

 彼はそこで一度言葉を切った。祝祭の音、水霧を含んだ舞台、願いを祈る人々。そのすべての中心に、誰かの夢を自分の願いとしてしまった青年がいる。

 

「誰かのために願うことをやめられなかったからこそ、彼は救世主になってしまった。」

 

 アナイクスの片目が、静かに細められる。だから尊く感じる。だから危うく思う。だからこそ、目を離せない。そしてその逆転こそが、ファイノンという少年の在り方だった。

 ライコスの見た記憶の中に、彼の半生があった。オンパロスという世界を背負う以前から。火を追う旅へ出るよりも前から。もっと、ずっと前から。あの子には、ファイノンとなる前。ケイオスと呼ばれる前。さらに遡れば、そこには別の名を持つ男の記憶がある。

 アナイクスは、あの鉄塊(ライコス)記憶(頭の中身)に触れた時の感覚を、完全には忘れていなかった。知識というには生々しく、記録というには熱を帯びすぎている断片。灰の匂い、白い静寂、終わりへ向かう世界の冷たさ。その中に、名だけが違う同じ願いが沈んでいた。

 誰かのためになりたい。

 そんな言葉にしてしまえば、あまりに単純である。だが単純なものほど、時に最も深く根を張るものだ。理論で解体できる善意なら、まだ扱いようもあった。使命に縛られただけの献身なら、役割を剥がせば救える余地もある――けれど、彼の場合は違った。

 

「……世界を背負う以前から。火を追う旅へ出るよりも前から。英雄と呼ばれる遥か昔、まだ一人の少年だった頃から」

 

 アナイクスは淡々と続ける。開拓者の計らいで、画面越しにお互いに顔を合わせることとなった折に、列車で泣き崩れていた(ヴェルト)の姿を思い浮かべながら、その名を口にする。

 

「もっとずっと前(ケビンの頃)からでしょう」

 

 瞬間、風がわずかに布を揺らした。祝祭の音は変わらない。舞台の水霧も、人々の笑い声も、遠くで相談に応じるファイノンの柔らかな表情も、そのままだ。

 だがアナイクスの片目には、同じ輪郭が見えていた。白い髪の青年。灰を帯びた記憶の男。名も時代も違うのに、誰かのために手を伸ばすことだけは、当たり前のように選んでしまう存在。

 

「本当に、厄介な置き土産です。……ですが、その献身のおかげで世界は救われたのですから、彼の人柄に根差す性質だと思って、我々が受け入れる(フォローする)しかありません。」

 

 しょうがないなあ、この子は――そんなふうに肩をすくめるような、皮肉めいた優しさを滲ませた、ほとんど祈りに近い呟きだった。

 

 アナイクスの言葉を受け、アグライアは静かに思いを巡らせた。

 人々の声を受け止める彼の横顔には、いまだ聖都へ来たばかりの頃の、あどけない面影がほのかに残っている。エリュシオンという辺境の村からやって来たあの子は、当時から人の話を聞くことにかけては、実に優れていた。けれど、その言葉を自らのために用いることは、驚くほど控えめであったように思われる。

 助けを求められれば、ためらいなく手を差し伸べる。休むよう勧められれば、穏やかに微笑んで頷く。けれど、その休息はいつも、誰かの用事や涙にそっと譲られてしまうのだった。

 やさしいあの子は人の願いを受け止めることには長けていながら、自分へ向けられた優しさを受け入れることには、どこか不器用なところがあった。

 

「本当に、人の話はよく聞く子でした。……聞きすぎるほどに」

 

 アグライアは、細やかな吐息をひとつ、胸の奥に落とすようにして呟いた。

 指導者たるもの、時には一歩退き、全体を見渡す静けさを持たねばならない――そう諭したことが、いったい幾度あったことでしょう。前に立つことだけが救いではなく、誰かを信じて委ね、帰るべき場所を整えておくこともまた、上に立つ者の責務であると。

 あの子は、そのたびに真摯に頷いてくれた。まるで織り目を確かめるように、言葉のひとつひとつを丁寧に受け止めて。

 それでも翌日には、息を切らして会議へ駆け込んでくるのです。理由を問えば、迷子の子を送り届けていたとか、傷ついた者の荷を肩代わりしていたとか、道端で涙する人の傍らに寄り添っていたとか――いつも、そうしたことばかりで。

 困っている者を見かければ、自然と歩みを緩める。涙に暮れる者がいれば、そっと隣に腰を下ろす。答えの見えぬ問いに出会えば、急かすことなく共に思い巡らせる。

 それが、アグライアが不変と見定めた、あの子に宿る変わることのない気質であったのだろう――そう思い至った瞬間、彼女は静かに息を整え、目の前の学者へと視線を向けた。

 

「結局、あなたも変わらぬものをあの子に見ているのではありませんか。」

「否定はしません。」

 

 アグライアは、遠くにいるファイノンの横顔を静かに見つめながら、胸の奥でほどけてゆく糸の感触を、どこか他人事のように受け止めていた。

 かつての自分は、もっと張り詰めていたはずだと、今になって思い至る。カイザー亡き後に、黄金裔の指導者として選ばれた者は、常に正しく、強く、美しくあらねばならない――その信念に、疑いを差し挟む余地などなかった。力ある者たちのみで火を追い、力なき者を守り導き、勝利へと至るべきなのだと、そう信じて疑わなかったのである。

 けれど、あの少年は違っていた。誰かが弱さを見せれば、彼はためらいなくその傍らに膝を折る。足りぬ力を責めることなく、まずはその声に耳を傾ける。遅れた歩みを咎めることなく、静かに隣へと並び、歩幅を合わせる。

 その在り方は、アグライアがいつしか凍てつかせていた人間性(希望)に、そっと温もりを灯していった。力ある黄金裔(自分たち)のみで進むべきだと固く信じていた心を、知らぬ間にやわらかく解きほぐしていたのも、また彼であったのだ。

 

「何度も手を焼かされた記憶があります。」

 

 アグライアは、ほのかに笑った。だがその声には、懐かしさだけではない、深く柔らかな感謝が滲んでいた。

 

「けれど、それ以上に、(わたくし)は嬉しかったのです。“オンパロスの希望はここにある”……そう、人間性が摩耗した(あの頃の)私が、そう思えたのですから。」

 

 トリビーは言葉を挟まず、アナイクスもまた静かにその場に佇んでいた。その穏やかな沈黙の中で、アグライアは胸の奥に芽生えた想いを、ようやく静かに受け入れていくのだった。

 

 思えば、彼が先に救世主であったわけではありません。順序は、やはり逆であったのだと、演者の言葉に今なら静かに頷けます。

 誰かの願いを見過ごすことができず、誰かの涙の前では足を止めずにはいられず、他者の明日をまるで自らのことのように案じてしまう――そのような少年であったからこそ、いつしか人々は彼を希望と呼び、英雄と称え、やがて救世主と仰ぐようになったのでしょう。

 それでもなお、ファイノンは救世主となった後も、その本質を変えることはなかった。世界の重みを背負い、炎を追い、取り返しのつかぬ傷をその身に刻みながらも、彼の内奥に宿るものは揺らぐことなく在り続けている。幾度となく削がれ、痛みに晒されながらも、なお他者の声に耳を傾けるその姿は、静かな気高さを帯びていた。

 アグライアは、手にしていたグラスを静かに卓へと戻した。指先に残るわずかな緊張が、ゆるやかにほどけていく。繊細な金糸を扱う折と同じく、過度な力を加えてはならぬものがあることを、彼女はよく心得ていた。

 あの子は、もはや庇護のもとに置かれるだけの存在ではない。けれども、孤独に立たせ続けてよい者でもない。師として。同志として。そして時に、過ぎた情を抱いてしまう者として。

 今こうして、人々の輪の中にある彼を見つめることができる。その事実だけで、長き旅路の果てにようやく辿り着いた朝の気配が、胸の奥へと静かに満ちていくのを感じていた。

 

「立派になりましたね……」

 

 それは、誰に届けるでもない、胸の内にそっと落とすような独り言であった。

 そこには、静かな感慨があった。控えめな誇らしさもまた、確かに息づいていた。そして何より、彼がなお人々の中で穏やかに笑っていられるという事実に対する、長く深い安堵が、静かに心を満たしていた。

 トリビーが隣で柔らかく微笑み、アナイクスは言葉を挟むことなく、ただ静かに目を伏せる。その視線の先で、当の本人はまだ、自らへ向けられている想いに気づくことなく、変わらぬ様子で人々の中に在り続けている。

 

 その視線の先で、当の本人はまだ、自らへ向けられている想いに気づくことなく、変わらぬ様子で人々の中に在り続けていた。

 目の前の相談者に身を屈め、言葉の端々を拾い上げるように耳を傾けている。相槌は短く、けれど軽くはない。迷いを抱えた者が自分の声を見失わぬよう、そっと道の縁を照らすような聞き方だった。

 アグライアは、その横顔を見つめながら、ほんの少しだけ笑みを深める。立派になった。そう思った矢先であるにもかかわらず、彼の仕草には、まだ聖都中を仔犬のように走り回っていた頃の名残があった。凛々しく、頼もしく、けれどどこか放っておけない。

 やがて、相談者との話が一区切りついたのだろう。ファイノンは「うん」と小さく頷き、相手を安心させるように微笑んだ。

 

 そして、ふと顔を上げる。

 

「あっ」

 

 蒼穹のような瞳が、少し離れた場所に立つアグライアたちを捉えた瞬間、その表情がぱっと明るくほどけた。まるで陽だまりが一面に広がるような笑顔だった。

 先ほどまで人々の迷いを受け止めていた青年は、次の瞬間には、見知った仲間を見つけて嬉しさを隠しきれない少年の顔をしている。大きく手を振った彼に尻尾があれば、きっと遠慮なくぶんぶんと揺れていたことだろう。

 

「アグライア! トリビー先生、アナイクス先生!」

 

 その無邪気な声に、アグライアは一瞬だけ目を瞬かせる。それから、凛とした微笑みを浮かべて、静かに片手を上げた。

 

「ええ、こちらにおりますよ。ファイノン」

 

 アグライアが静かに応えると、その声に気づいた相談者が、はっとしたように姿勢を正した。

 

「あ……申し訳ありません。長くお引き止めしてしまって」

「え? いや、そんなことないよ。まだ何かあれば――」

 

 ファイノンはそう言いかけて、きょとんと蒼穹の瞳を瞬かせる。どうやら、彼自身はまだ話を切り上げるつもりなどなかったらしい。

 その顔には、もう少し一緒に考えようか、とでも言いたげな誠実さが、あまりにも自然に浮かんでいた。けれど、相談者は小さく首を横に振った。

 

「いいえ。もう、十分です。ファイノン様に聞いていただけただけで、随分と心が軽くなりました。」

 

 その言葉に続くように、周囲にいた人々も、一人、また一人と会釈をする。

 

「ありがとうございました」

「また改めて、ご報告に伺います」

「お仲間の方々と、どうかごゆっくり」

 

 それは、拒絶ではなかった。遠慮とも少し違う。彼らは、ファイノンに見捨てられたから離れていくのではない。受け取ったものを胸に、自分の足で歩き出そうとしているのだ。

 アグライアは、その光景を静かに見守った。かつて人々は、道を失えば彼へ集まった。彼の言葉を求め、彼の優しさに縋り、彼が差し出す手の温度で明日を確かめた。

 けれど今、彼らは少しだけ変わり始めている。ファイノンを救世主として独占するのではなく、ひとりの青年として、仲間たちのもとへ返そうとしている。

 

「え、でも……」

 

 なおも言葉を探す彼に、人々は柔らかく微笑んだ。その微笑みは、今度はあなたの番なのだと、静かに告げているようだった。

 ファイノンはしばらく言葉を失っていた。

 蒼穹の瞳を瞬かせ、去っていく人々の背を見送りながら、まだ何か言えることがあったのではないかと考えているようにも見える。けれど、人々の足取りは決して逃げるものではなかった。軽やかで、どこか晴れやかで、自分の明日を自分の腕で抱え直した者たちの歩みである。

 長い旅路を共にした仲間たち。敬愛する恩師たち。そして、ようやく再び同じ空の下で言葉を交わせるようになった大切な人々。自分たちには与えられた時間――だからこそ、人々は自然と一歩下がったのだろう。今度は彼の番だ、と。

 アグライアは、その小さな変化を見逃さなかった。

 人々がファイノンに縋ることをやめたのでも、彼を必要としなくなったのでもない。ただ、彼にもまた、誰かのもとへ帰る時間が必要なのだと、彼ら自身が気づき始めたのである。

 それは、世界が少しだけ前へ進んだ証だった。ファイノンはようやくこちらへ歩き出す。まだ少し戸惑った顔をして、それでも仲間の姿を見つけた嬉しさだけは隠しきれないまま。

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