アナイクスは、かつてファイノンへ与えた補習を語った。
救世主だから、黄金裔だから、人々が望むから手を伸ばすのか――その問いの先で、少年が示した答えは、役割ではなく自らの意思だった。誰かのために願うことをやめられなかったからこそ、彼は救世主になってしまったのだと、学者は静かに結論づける。
アグライアはその言葉に、かつて摩耗していた自らの人間性を温めた少年の姿を重ねた。そして今、人々は彼を独占せず、仲間たちのもとへ返そうとしている。
ファイノンがこちらへ歩いてくるあいだ、広場に残った人々のざわめきは、潮が引くように少しずつ遠のいていった。誰かが礼を告げ、誰かが隣人の肩を軽く叩き、まだ言葉を探している者は、胸元に手を当てたまま何度か頷いている。空は高く、薄い雲は黎明の光を含んで淡くほどけ、白い石畳の上には人影がやわらかく伸びていた。
終末を越えたばかりの世界にしては、あまりにも穏やかな午後だった。いや、穏やかであろうとしている午後、と言うべきかもしれない。人々はまだ、笑い方を思い出している途中であり、別れずに済んだ者の名を、何度も呼び直している途中でもあった。
その中を、ファイノンは少し戸惑った顔のまま戻ってくる。白い衣の裾が歩みに合わせて揺れ、青い布が一拍遅れて風を含んだ。胸元の金装飾は陽を受けるたびに小さく光り、けれどその眩しさは、王冠めいた威圧ではなく、麦畑に落ちる朝日のように静かである。
人々の前に立っていた時の彼は、どこか頼もしかった。相談者の言葉を急かさず、迷いの形が整うまで待つ青年。けれど仲間の姿を見つけた今、その蒼穹のような瞳には、まだ呼ばれればすぐ駆け出してしまいそうな少年の明るさが戻っていた。
「えっと……本当に、よかったのかな。まだ話したそうな人もいた気がするんだけど」
近くまで来てから、ファイノンはそう言った。声は穏やかで、責める調子ではない。ただ、自分の手を離れていく人々の背中を見送りながら、何かを置き忘れてきたような顔をしている。
彼にとっては、誰かが立ち止まっているだけで十分に理由になるのだろう。手を伸ばす理由。隣に座る理由。もう少しだけ話を聞こうとする理由。そういうものが彼の中では、息をすることと大して変わらない場所にあるのだと、傍からでも分かってしまう。
「ふふふ、よかったのです。あの方々は、あなたに突き放されたわけではありません。自分の足で戻って行かれたのですよ。」
アグライアが静かに答える。金髪の毛先が肩口で揺れ、髪に添えられた白い花と金の葉冠が、光を拾ってかすかに震えた。
白と金をまとったその立ち姿は、いつもなら聖都のラプティスとしての気品をまず感じさせる。けれど今は、翡翠色の瞳に宿る光の方が先に目に入った。ファイノンを叱るためではなく、急かすためでもなく、ただ彼が戻ってくる場所を、そこに整えて待っていた者の眼差しである。
「そう、なのかな……」
「ええ。少なくとも、そう見えましたよ。」
断定しすぎない言い方だった。ファイノンは少しだけ眉を下げ、それから、去っていく人々の方へもう一度目を向ける。遠ざかる背中のいくつかは、まだ時折こちらを振り返った。けれど、そこに縋るような色は薄い。名残惜しさはあっても、足取りは軽かった。
彼はその変化を測るように、しばらく黙っていた。自分が必要とされなくなったのではない。そう頭では分かっているのかもしれない。だが、誰かの痛みがそこにあるかもしれないと思った瞬間、彼の足は、まだ自然にそちらへ向かおうとする。
「……そっか。アグライアが言うなら、きっとそうだよね。」
やがて、彼は小さく息を吐いた。安堵に似ている。けれど、それだけではない。自分の手を離れていく人々を見送ることに、まだ慣れていない者の声だった。
「それなら、よかった。」
その言葉に、トリビーがふふっと笑った。赤い髪を揺らして三人分の気配を軽やかにまとめる彼女は、ファイノンの足元から頭の先までを見て、どこか満足げに頷く。
「ファイちゃん、今日はちゃんと戻ってきたね。えらいえらい、褒めてあげまちょう。」
「僕、そんなに戻ってこない人みたいに言われてる?」
「言われる心当たりは、たくさんあると思うよ?」
「……うーん、否定しきれないかもしれない。」
困ったように笑うファイノンの白銀の髪に、薄い陽が触れる。微笑むと、英雄というより、エリュシオンの畑道をそのまま歩いてきた青年の面影が濃くなる。
アグライアが胸の奥で何かを飲み込むように一度だけ瞬きをし、アナイクスはその横で、口元だけをわずかに動かした。笑みというには冷静で、皮肉というには幾分か柔らかった。
「戻ってきたこと自体は評価しましょう。ただし、彼らが一歩退いてくれなければ、あなたは今もまだ相談に乗っていたでしょうね。」
「……それは、まあ。」
「そして日が傾き、食事を逃し、誰かに叱られる。非常に見慣れた光景です。」
「先生、そこまで具体的に言わなくても」
アナイクスは肩をすくめるでもなく、薄緑の髪を風に揺らした。黒い眼帯の金装飾が光を受け、露わになった片方の瞳だけが、相手の反応を測るように細められる。
長い指先は、何かを切り分ける寸前のように宙へ置かれていた。講義で概念を分ける時も、誤った前提を摘み取る時も、彼の手はよく動く。今もまた、その手はファイノンという厄介な生徒の行動を、叱責ではなく分類しようとしているようだった。
一方で、ファイノンは返す言葉に困ったのか、わずかに視線を彷徨わせた。嘘をつくことが苦手な青年の、否定しきれない時の顔である。
本人としては悪気など一切ない。ただ、困っている人がいれば足が止まり、話を聞いているうちに時間が消え、気づけば自分の食事や休息が後回しになる。それだけのこと。それだけのことを、彼は本当に”少し予定がずれたかな”程度にしか受け取っていないように見えた。
「でもほら、今日は……もう終わっ……そういえば、朝から何も食べてなかったような?」
「まったく仕方がありませんね。ほら、ここにあるサンドウィッチを食べなさい。種類も豊富ですから、あなたの口に合うものもあるでしょう。」
「せ、先生、僕そんなに急いで食べられないよ!」
そのやり取りに、アグライアの口元がわずかに和らぐ。子供らしくて愛らしい。彼女は一歩だけファイノンへ近づき、白い衣の肩に視線を落とした。相談者たちの間を歩き回っていたせいか、肩口の布がわずかに乱れている。
金糸を扱う者らしい自然な手つきで、彼女は迷いなくそこへ指を伸ばし、乱れていた布を丁寧に整えた。アナイクスとの攻防戦を繰り広げていたファイノンが気づいて首を傾げる。
「アグライア?」
「衣服の乱れは、心の乱れ。はい、ちゃんと綺麗になりましたよ。どうですか?」
「わ、気づかなかった。ありがとう、アグライア」
「ふふ、どういたしまして。ですが、人々の声に耳を傾けるのは結構なことですが、自身の装いに気づかなくなるほど、自分を疎かにしてはいけませんよ。」
「そんなことは……」
言いかけて、ファイノンは口を閉じた。アナイクスの片目が静かにこちらを向き、トリビーがにこにこと見上げている。アグライアは何も言わない。ただ、翡翠色の瞳で穏やかに待っていた。やがてファイノンは、負けを認めたように肩を落とす。
「……ない、とは言い切れないかもしれない」
「正直でよろしい」
アナイクスが淡々と言う。
青緑の布が腰のあたりで揺れ、彼の黒と濃紺を基調とした衣装の線を柔らかく流した。冷えた学者の声でありながら、そこには、叱るためだけの冷たさはなかった。ファイノンもそれを感じ取ったのか、少しだけ気まずそうに笑うだけで、それ以上は反論しなかった。
その時、広場の向こうで小さな歓声がワァッと上がった。誰かが久しく会えなかった家族を見つけたのだろう。名を呼ぶ声が重なり、返事が返り、やがて笑い声に変わる。けれど、その笑いは長く続きすぎると、ふいに途切れた。途切れた沈黙の中で、互いの手や頬に触れ、そこにいることを確かめるような間が生まれる。
新しい世界は、まだすべての輪郭を取り戻してはいない。人々は生きている。確かにそこにいる。だが、その「いる」という事実を、何度も確かめずにはいられないほど、つい先日まで世界は終わりの側にあった。
ファイノンの視線も、自然とそちらへ向いていた。呼ばれた名に応える人々。肩を抱き合う親子。膝をついて泣き笑いする老人。そうした光景の一つひとつを、彼は静かに見つめる。蒼い瞳の奥に浮かぶものは、喜びだけではないようだった。けれど悲しみとも言い切れない。
自分の手から離れて、自分の知らない場所で、誰かが誰かのもとへ帰っていく。それを見届けることに、彼はまだ不慣れで、それでも目を逸らさなかった。
「……みんな、本当に戻ってきたんだな。」
ぽつりと零れた声は、誰かへ聞かせるためのものではなかった。風の音に紛れてしまいそうなほど小さい。だが近くにいた三人には届いた。アグライアは答えず、トリビーも茶化さなかった。アナイクスだけが、少しだけ顎を上げる。
「厳密には、戻った、という表現にも検討の余地があります。」
「先生、今その話をするのかい? ヒアンシーにまた叱られないかい?」
「今だからするのです。話が散らばる前に、先に枠組みだけ整えておきましょう。」
ファイノンは瞬きをした。それから、少し困ったように笑う。
「
「実際、補習に近いでしょうね」
「うわ、本当にそうなんだ」
「不満ですか」
「いや……先生らしいなって。久々に先生の講義をこうして聞けるの、なんだか懐かしいよ。」
「……そうですか。」
そう言うファイノンの声には、うんざりした響きよりも、どこか懐かしむような温度があった。かつて何度も問いを投げられ、答えを急ぐなと引き戻され、肩書きと自分自身を切り分けるよう促された記憶が、彼の中にも残っているのだろう。
アナイクスはその反応に何も言わなかった。ただ、長い指先を持ち上げる。まず、第一に。聞き慣れた言葉で、問いを置くための手。世界の曖昧な輪郭へ、細い線を引くための手だった。
「では、順を追って説明しましょう。まず第一に、新生を待つ現在、オンパロスの人々が肉体を持たないという点については、さまざまな見解や推論が存在しますが、これは事実です。ただし、それを『失った』と表現するのは正確ではありません。――……少なくとも、私の観測と推論に基づけば、それは喪失ではなく、一時的に切り離されている状態に近い、と言える。」
アナイクスの声は淡々としていたが、その言葉の一つひとつは確かな重みを持っていた。ファイノンは腕を組みかけて、途中でやめる。考え込むときの癖だが、今はそれをするのもためらわれるようだった。
「切り離し……か。ああ、確かに違うね。消えてしまった、って感じじゃなかったかも」
手のひらを見下ろした彼は、しばらく拳を開閉し、それからあっさりと頷く。その声音には、妙な納得があった。まるで一度、似たようなものを知っているかのような――いや、実際に知っている者のそれだった。
その一言に、空気がわずかに止まる。アナイクスの片目が細められ、トリビーの笑みが一瞬だけ固まり、アグライアの翡翠の瞳がかすかに揺れた。誰も言葉にはしない。だが、今の発言がどこから来たものなのか、三人とも理解してしまった。魂が砕け、失われる感覚――それを「違う」と、言い切れる
当の本人は、己の爆弾発言で硬直した周囲の変化に気づいた様子もなく、ただ自分の手を見つめている。とんでもない事実が明らかになったというのに、その張本人は屈託のない表情のままだ。
もうこの子は――言葉にならない感情が、三人の胸の奥で同時に膨らんだ。固まった空気を解きほぐすように、ぽつりと呟く彼に続けて、トリビーが小さく頷く。
「うんうん、なんていうか……夢の中にいるみたいだったけど、ちゃんと『自分』はそこにいた感じ?」
その言葉に、カリュプソーが静かに目を細めた。彼女は何も言わないが、肯定とも否定ともつかない沈黙が、アナイクスの説明を促しているようだった。
「第二に、生命として再誕するまでの猶予期間に、我々は亜空間へ隔離避難しているという現状について。これは、肉体の死後に漂っていたのではなく、肉体へ戻る前段階として、別の器に留め置かれていたと考えるべきでしょう。」
アグライアはその言葉を受けて、わずかに視線を落とした。白い指先が衣の端を整えるように動く。
「……避難、という表現は、少し安心できますね。無秩序に漂っているわけではなく、星としての下地が出来上がっている――そういうふうにも、とれますから。」
「ええ。少なくとも、完全な無秩序ではありません。ここには構造があり、意図があった」
「……――あっ、僕のレポート?」
「根拠は、そうです。むしろ、あなたが提出したレポートに記された彼女の性格を思えば、そう解釈するのが自然でしょう。記憶と意識の連続性が保たれていた以上、主体は断絶していない――そう結論づけるのが妥当です。」
アナイクスが締めくくると、しばしの沈黙が落ちた。誰もすぐには言葉を返さない。ただ、それぞれが自分の中で、その説明を確かめているようだった。
「理性」の視点(=アナイクス先生、カリュプソー)にしたかったのだ……おさらいも兼ねて……やろうとしたらレポートでござるか? という文章になり始めたので、ヤメマシタァ……