烈日よ、さざ波を追って   作:夜鷹ケイ

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<前回のあらすじ>
 人々はファイノンに縋るのではなく、自らの足で歩き出すために、一歩ずつ彼のもとを離れていった。仲間たちのもとへ戻った青年を迎えたのは、アグライアの静かな微笑み、トリビーの明るい茶化し、そしてアナイクスの容赦ない補習である。
 食事も休息も忘れて誰かの声を拾い続ける彼に、三人は呆れながらも深い安堵を覚えていた。やがて広場に再会の歓声が響く。戻ってきた命たちを見つめるファイノンへ、アナイクスは新生を待つオンパロスの状態を語り始める。


028 記憶の輪郭を問う

 アナイクスの声は、広場のざわめきの中でも不思議とよく通った。叱りつける時のように大きく張っているわけではない。むしろ、「理性」の名に相応しいほどに抑えられている。

 だが、一つひとつの言葉が、余分な湿り気を持たずに置かれていくため、聞く者の思考へまっすぐ届く。ファイノンは自然と姿勢を正した。相談者の話を聞く時とは違う、学生として耳を傾ける時の顔だった。

 

「簡単にまとめましょう。十三人目のタイタン(彼女)が過去に留まり、鉄墓を封じ続けた後のことです。行き場を失うはずだったオンパロスの人々のために、彼女は永遠の一ページを用意した。そこにおいて人々は、肉体ではなく、記憶そのものを器として存在していた」

「記憶を、器に……」

 

 ファイノンは、ぼんやりと小さく繰り返した。自分でも知っていることのはずだった。いや、知っているどころか、その成立に深く関わった者の一人である。

 それでも改めて言葉にされると、どこか遠い理のように響いたのだろう。彼の指先が無意識に胸元の金装飾へ触れかけ、途中で止まる。そこに脈や火種を測るような仕草はなかった。けれど、何かがまだここに在るのかを確かめるような、ほんの短い動きだった。

 

「肉体ではなく記憶によって輪郭を保ち、魂に近いかたちで世界へ留まる。外宇宙の言葉を借りれば、後に開拓者たちから聞いた記憶生命体(メモキーパー)を連想する者もいるでしょう。もっとも、その名を正しく理解しているオンパロスの民は多くありません。億質という言葉も、夢境という仕組みも、彼らにとっては遠い銀河の理ですから」

「……うん。僕も、ちゃんと説明できるかは怪しいな。相棒から聞いた時も、すごいな、くらいしか最初は言えなかったし」

「でしょうね。天外ですら解き明かせていない領域でもあるようですから、研究し甲斐があります。記憶の残晶と似ているようでいて異なるとも聞きますし、検証には付き合ってもらいますよ。」

「えっ」

 

 ファイノンの困った声に、トリビーが小さく笑った。アグライアも、目元だけをわずかに緩める。けれどアナイクスの表情は大きく変わらない。黒い眼帯の下で何かを隠しているように、露わな片目だけが静かにファイノンを見ていた。

 

「話を戻しますが――人々は薄々感じていたはずです。今の自分たちは、かつて知っていた生命とは少し違う場所に立っているのだと。」

「……ええ、覚えがあります。空腹は遠く、疲労は薄く、痛みすら記憶の輪郭をなぞることがある。生きている、と実感はあるのに、以前とまったく同じではありません。」

「そこに不安が生じるのは当然でしょう。」

 

 広場の片隅で、子どもが自分の手のひらを何度も開いたり閉じたりしていた。その傍らで母親らしき女性が膝を折り、同じように手を開いて見せる。二人は顔を見合わせ、やがて笑った。笑ったあと、母親は子どもを強く抱きしめる。

 ファイノンの瞳が、その光景を追っていた。彼は何も言わない。けれど、先ほどよりも少しだけ口元が引き結ばれている。彼にとっては、世界が救われたという大きな結論よりも、そうして一人と一人が互いを確かめる小さな場面の方が、よほど胸の近くに届くのかもしれなかった。

 

「そして、メモキーパーではありませんが、少し似た例がオンパロスにも居ます。肉体ではなく記憶によって輪郭を保ち、魂そのものに近い形で世界へ留まる存在」

 

 アナイクスはそこで、視線を横へ流した。いつの間にか、少し離れた場所に一人の女性が立っていた。鹿のような勇猛な角を戴き、妙齢の姿を取りながら、その立ち姿には人の時間よりもずっと長いものが沈んでいる。

 衣の裾は風に揺れているのに、彼女自身はほとんど揺らがない。広場の光が角の稜線をなぞり、影を石畳へ落としていた。

 

「まるで、あなたのようですね。サーシス」

 

 呼ばれた女性は、ゆっくりと目を細めた。威圧ではない。アナイクスの言葉を受け取り、その中に含まれた分類と挑発の両方を眺めているような眼差しだった。

 

「ふむ? 人間であった頃の記憶を多少取り戻した今、カリュプソーでも構わんが、そなたらにはそちらの名の方が馴染み深いか――」

 

 その声は低く、よく澄んでいた。長き歳月を見届けた者の声音であり、同時に、どこか悠然とした笑みを含んでいる。

 

「しかし、その言葉には、こう返そう。似て、非なるものであろうよ、と」

 

 先代のサーシス(理性のタイタン)――カリュプソーは、当代のサーシス(アナイクス)にそう答えた。アナイクスは否定も肯定も急がず、片目だけで彼女を見る。知識を司る者同士の間に、短い沈黙が落ちた。それは対立ではなく、互いの前提を測るための余白だった。

 

「あれ、カリュプソーもいたのか」

 

 その声でようやく彼女の存在に気づいたのだろう。ファイノンがぱちりと目を瞬かせる。彼の声には、驚きと懐かしさが混ざっていた。

 アグライア、アナイクス、トリビー、そしてカリュプソーを見て。ほんの少し遅れて、苦笑が浮かぶ。白銀の髪が頬の横で揺れ、青い布が足元で静かに落ち着いた。

 

「……どういう組み合わせだい?」

 

 集まった面々を見回すファイノンの表情は、先ほどまで人々の生存を見つめていた時よりも、いくらか軽い。けれど完全に気が抜けているわけではない。

 ここでカリュプソーの姿を見つけた瞬間、彼の中で、今の穏やかな広場と、もっと古い記憶の層が重なったのだろう。目の奥に一瞬だけ、遠いものを見る青が差した。

 

「久しいな、ケイオス(ファイノン)

「あ、……う、ん……? そう、だっけ……? この前、吟遊詩人の詩を聞きに行ったばかり――」

「数ヶ月ほども前のことだぞ。」

「ほんのちょっと前のことだろ?」

「……そなた、いや、何も言うまい。しかし、息災か……と問うのも、愚問であったか。幼気な子供のような無垢な願いを掲げ、大願を為したのだから」

 

 ファイノンは一瞬、きょとんとした。それから、少しだけ眉を寄せる。困ったような、不服そうな、けれど本気で怒るには照れが勝ってしまった顔である。

 一瞬さしかかった時間に対する不穏な認識の相違はあれど、そのやんわりとした抵抗に、アグライアの瞳がわずかに揺れ、トリビーは笑いをこらえるように口元へ手を添えた。アナイクスは何も言わない。ただ、その反応もまた観察対象に含めたように、静かに立っている。

 

「幼気って……君までそう言うのか」

 

 むっとした声音に、本気の抗議らしさはなかった。むしろ、そう呼ばれることに慣れていない者の照れ隠しに近い。カリュプソーは穏やかに笑った。角の影が、わずかに石畳の上で動く。

 

「ふふふ、すまなんだ。私は嬉しいのだよ、ケイオス――否、ファイノン、と呼ぶべきであったか」

 

 その名の言い換えに、ファイノンのまつげが小さく揺れた。ケイオス。ファイノン。名は変わり、時代も変わり、背負うものの形も変わった。

 けれど、呼ばれた青年はそこに立っている。白と青と金をまとい、英雄譚のただ中から抜け出してきたような姿でありながら、褒められれば居心地悪そうに視線を逃がす、ただ昔と変わらない青年として。

 

「どれでも構わないよ。すべて僕を示す呼称だ。」

「ああ。そなたが、我らのよく知るそなたのまま、我らの悲願を運び、成し遂げたこと。我らは誇らしく思う。」

 

 その言葉には、称賛だけではない何かがあった。長い時間を渡ってきた者だからこそ滲む安堵。失われたものを数え尽くした者が、それでも今ここに残ったものを見つめる時の、静かな重み。

 ファイノンは何か返そうとしたようだったが、言葉はすぐには出てこなかった。彼の手が、所在なく腰のあたりへ下がる。青い布の端に触れかけ、また離れた。

 人々の声は広場のあちこちにまだ満ちている。けれど、その一角だけは少しだけ時間の流れが遅くなったようだった。アグライアは彼を見つめ、トリビーは笑みを柔らかくし、アナイクスは沈黙したまま、露わな片目を細めている。誰も、彼に返答を急かさなかった。

 

「……う」

 

 ようやくファイノンが漏らした声は、英雄の返礼としてはあまりにも小さかった。けれど、それがかえってエリュシオンの少年という――彼らしかった。

 

「そ、それで、一体なんの話をしてたんだい?」

 

 あからさまな話題の切り替えだった。あまりにも分かりやすい逃げ方に、トリビーが今度こそ小さく笑い、アグライアも目を伏せて微笑む。カリュプソーは愉快そうに喉を鳴らし、アナイクスは口元だけをわずかに動かした。

 そんなところも変わっていない。誰かがそう言ったわけではない。けれど、その場にいた者たちの沈黙には、確かにそういう温度があった。

 

「ふふふっ。話題を逸らす技術は、相変わらず未熟ですね。」

「アグライア! 今は見逃してくれてもいいだろう」

「見逃す理由がありません。」

「先生は厳しいな……」

「ファイちゃんが褒められることから逃げる限り、必要な厳ちさだと思うな!」

「トリビー先生も!?」

 

 ファイノンは返す言葉をなくし、困ったように笑った。けれど、その頬にかすかに残る赤みは、先ほどよりも少しだけ人間らしい。遠くへ行ってしまいそうな英雄ではなく、仲間の前で照れている青年の色だった。

 もっとも、彼が逃げようとした話題そのものは、彼と無関係ではない。終末を越えたオンパロスの人々が、いま何によって存在を保っているのか。肉体を持たぬまま、なお名を呼ばれれば応え、笑い、悩み、誰かを案じる。その有り様をどう理解すべきなのか。ファイノンが見つめていた人々の姿は、まさにその問いの中にあった。

 肉体はない。血も流れない。空腹は訪れず、疲労も積み重ならない。病に伏すこともなければ、老いによって衰えることもない。それでも人々は確かにそこにいた。触れ合う手があり、名を呼ぶ声があり、互いの存在を確かめる沈黙がある。呼吸も脈拍も持たぬまま、それでも生命としての輪郭を失ってはいない。少なくとも、ファイノンにはそう見えていた。

 アナイクスは、そこでようやく話を戻した。おそらく、これ以上祝福を重ねれば、目の前の生徒はいよいよ居心地を悪くして逃げ出すと判断したのだろう。あるいは、逃げ道を与えたように見せながら、別の問いへ誘導したのかもしれない。

 

「いま話していたのは、オンパロスの人々を構築する要素についてです。物質と呼ぶべきか、情報と呼ぶべきか、あるいはその中間とするべきか」

「その集まりってこと? へえ、構築する要素……」

 

 ファイノンは広場を見渡した。再会を喜ぶ人々。空へ顔を向ける者。まだ自分の手のひらを確かめている子ども。誰かの名を呼ぶ声。そのすべてが、彼の瞳の中へゆっくり映り込んでいく。

 

「レポートにも提出したことがあるけど、開拓者(相棒)が言うには、記憶の億質(ピノコニー)の原理に近い……?」

 

 言いながら、彼は自分でも自信がなくなったのか、少しだけ首を傾げた。その仕草に、先ほどまでの照れがまだ残っている。けれど瞳は真面目だった。誰かの存在を、曖昧なまま扱いたくない。そんな性質が、また彼の声の端に出ている。

 

「いや、メモキーパーの方だったかな。怪我はするけど、実際は怪我をしたんじゃなくて、怪我をしたという記憶の再現になるんだっけ。あれ、違ったかな。……確かに気になるね!」

 

 カリュプソーが静かに頷く。アグライアはファイノンの横顔を一度見てから、広場へ視線を移した。白い布が腰から流れ、金の葉冠が光を返す。彼女の横顔には、問いの答えを急がず待つ者の静けさがあった。トリビーは少し背伸びをするようにして、話の輪へ加わる。

 

「夢の国……浪漫あふれる響きですね。聖杯戦争に参加したような記憶も、ありますけれど。詳しいところは雲がかかったようで……(わたくし)も気になります。このまま聞かせていただいてもよろしいですか?」

「どうぞ。」

 

 アナイクスの片目が、すっとファイノンへ戻った。

 

「エリュシオンのファイノン。まずは落ち着きなさい。そして、開拓者の説明……夢の国ピノコニー、ですか。あなたの知る範囲で構いませんので、説明なさい。」

「あ、うん。それはもちろん!」

 

 ファイノンは頷いた。先ほどまで相談者たちに向けていた姿勢とは少し違う。今度は、自分が聞き、整理し、伝える番なのだと理解した者の顔だった。

 白い髪が風に揺れ、青い布が足元で静かに流れる。その背後では、終末を越えた人々の声が、まだ世界のあちこちで名を呼び合っていた。彼らが本当にそこにいるのか。その問いの答えを、誰もまだ完全には持っていない。けれど少なくとも、ファイノンはその答えから目を逸らさずにいようとしていた。

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